看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

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10:おやすみ

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翌日。

リィナは、朝の台所で鍋を見守りながら、何度も“考えます”という自分の返事を反芻していた。

考えるふりをしているだけだ。
昨夜の「明日も来て」というお願いが、胸の奥で小さく燃え続けている。

(今日も……行くんだろうな)

自分に呆れそうになるのに、足は止まらない。

鍋の中で野菜が柔らかく煮える匂い。
それを嗅ぐと、心が落ち着く。……はずだった。
今日は違う。匂いの奥に、あの部屋の灯りが混じっている気がする。

「リィナ」

侍女長の声で、リィナは背筋を伸ばした。

「……はい」

侍女長は、リィナの顔色を見て、少しだけ眉を寄せた。

「眠れた?」

「……はい。昨夜は……帰れました」

“帰れた”。
その言い方が、もうおかしい。

侍女長はため息をついた。

「当主は?」

「眠られました。……私が帰る前に」

侍女長は頷いた。
しかし、その目が鋭くなる。

「で、今夜は?」

リィナは言葉に詰まった。
答えは決まっている。言えば終わる。
言わなくても終わる。結局、行く。

侍女長はリィナの迷いを見て、静かに言った。

「行くなら、条件を守りなさい。あなたが書いた条件よ」

リィナは小さく頷いた。

「はい」

「それから……」

侍女長は声を落とした。

「当主は、回復している。だから、これからが厄介よ」

執事と同じ言い方。
リィナの喉が鳴る。

「理性が戻るほど、設計が上手くなる。……あなたの“逃げ道”も、上手に塞ぐ」

リィナは苦笑した。

「……昨日、白紙の紙で枠を作りました」

「それが守られるかどうかは、当主の“努力”次第ね」

侍女長の言葉は厳しい。
でも、優しい。

リィナは鍋の火を落とし、布で手を拭いた。

(私は、どうしたいんだろう)

考えたくない。
考えたら、仕事じゃなくなる。
でも、もう仕事だけではない。



昼過ぎ、当主の部屋へ呼ばれた。

執事に案内される廊下で、リィナは胸を押さえた。
昼に呼ばれるのは初めてではないが、今日は妙に緊張する。

扉が開く。

当主は、ベッドではなく椅子に座っていた。
窓からの光が頬に当たり、顔色が良い。
机の上には紙——昨日の白紙の条件メモが置かれている。

(……見えてる)

当主はリィナを見るなり、淡々と告げた。

「昨夜、眠れた」

胸が跳ねた。

「……よかったです」

当主は頷き、続ける。

「眠れたから、考えた」

やめて。
“考えた”は怖い。
合理の設計が始まる。

当主は、紙を指で軽く叩いた。

「条件は守る。……その上で、追加したい」

リィナは息を呑んだ。

「追加、ですか」

「お前の条件では足りない」

当主は淡々と言う。

「俺が眠るためだけなら、昨夜で十分だった」

リィナの指先が冷える。

「……では、何が」

当主は一瞬だけ黙り、視線を逸らした。
珍しい。言葉を選ぶ仕草。

そして、低く言った。

「お前が帰ったあと、部屋が冷える」

リィナは言葉を失った。

冷える。
空気の温度ではない。分かる。
“痕跡”が消える冷え。

当主は続ける。

「灯りは残っている。温度も整っている。……それでも冷える」

リィナは胸が痛くなる。

「……それは、気のせいです」

弱い抵抗。
当主は首を振った。

「気のせいではない。……俺の感覚だ」

言い切る。
その感覚が、彼の世界の真実になってしまう。

当主は紙を差し出した。
今度は白紙ではなく、短い一文だけ。

追加条件:夜は“帰る前に”必ず、当主に一言残すこと。

リィナは目を瞬いた。

「……一言、ですか」

「そうだ」

当主の声は淡々としているのに、耳が熱くなる。

「お前が消える時に、何も残らないのが嫌だ」

正直すぎる。

リィナは唇を噛み、必死に冷静を装った。

「……それなら、職務報告として。“本日は異常なし”など」

当主の目が細くなる。

「それは嫌だ」

即答。
リィナは肩を落とした。

「では、何と」

当主は一瞬だけ黙り、低く言った。

「……“おやすみ”」

リィナの頬が熱くなる。

「当主に“おやすみ”なんて……」

「当主だから言われたい」

当主は淡々と言い切った。
言い切れるのが強い。ずるい。

「命令ではない。……お願いだ」

また、お願い。
逃げにくい言葉。

リィナは紙を見つめ、震える息で答えた。

「……分かりました。おやすみ、と言います」

当主の目が、わずかに柔らかくなる。

「それでいい」

そして、当主は続けた。

「今夜も来い」

今度は命令ではなく、当然のように。
リィナは頷くしかなかった。



夜。

リィナはまた寝室へ向かった。
今日は白湯に加えて、少し甘い蜂蜜湯も用意した。喉の調子がまだ完全ではない。

扉を開けると、当主は既にランプを灯していた。
弱い灯り。リィナが整えた位置と同じ。

(……覚えたんだ)

彼は、自分で整え始めている。
彼女の痕跡を真似て。

当主はリィナを見る。

「来たな」

「はい」

リィナは白湯を渡し、蜂蜜湯も勧めた。
当主は素直に飲む。飲み終えると、短く言った。

「……甘い」

嫌そうではない。
むしろ、少しだけ口元が緩む。

リィナは小さく笑いそうになって、堪えた。

会話は短く。
指先は重ねるだけ。
鍵は閉めない。
——昨夜と同じ。

当主の呼吸は、すぐに深くなる。
本当に、彼女は“睡眠補助”になってしまっている。

やがて当主が眠りに落ちる。

リィナは静かに指を抜き、立ち上がった。
盆を持ち、扉へ向かう。

条件。追加条件。
“帰る前に一言”。

リィナは立ち止まり、振り返った。

眠っている当主の顔は穏やかだ。
でも、少しだけ眉が寄っている。
夢の中で、まだ何かを探しているみたいに。

リィナは胸が締めつけられて、小さな声を落とした。

「……おやすみなさい、アレクシス様」

その瞬間、当主の眉がふっとほどけた。

——効いた。
言葉が、効いた。

リィナは息を呑み、扉をそっと閉めた。

廊下へ出ると、執事が立っていた。
いつもの無表情。けれど、目だけが少しだけ柔らかい。

「……今の言葉で、当主の呼吸が落ち着きました」

リィナは頬を赤くし、俯いた。

「……職務です」

「ええ」

執事は頷いた。

「当主にとっては、救いです」

救い。
その言葉が、重すぎる。

リィナは歩き出した。
廊下の冷えが頬を撫でる。

手の上の熱は、まだ消えない。

そして、リィナは気づかない。

当主が回復して“眠れる”ようになった時、
彼の次の欲が、必ず生まれることを。

——眠るためだけでは、足りなくなる。
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