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第10話 潔さより、正直を(私)
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夕餉のあと、廊下で彼女とすれ違った。
白すぎない白のレース、生成りの結び目。灯の下で、指輪が短く光る。
「明日の朝、風が軽かったら——」
彼女はそこで言葉を一度畳み、微笑んだ。
「少しだけ、お願いします」
「少しだけ、で行こう」
そう答えてから、私は視線を窓の外へ逃がす。庭の闇は柔らかく、噴水の音が夜の形に変わっていた。行く/行かないを風に預けるのはいい。だが、言う/言わないは、風に預けられない。そこに、私の番がある。
執務室に戻り、机の上の小さな手帳を開いた。
——第一月:暮らしの安心。
——第二月:一緒の時間の密度。
——第三月:言葉で求める。彼女の意思で選んでもらう。
線を引いた私は、さらに細い字で付け加える。
——潔さだけで隠れない。正直で立つ。
潔さは盾になる。だが、盾の陰は影になる。影の濃さに、彼女が迷うのは望まない。
私は便箋を一枚抜き、ペン先を置く。求婚ではない。告白でもない。——願いの形だけを、前に出す。
君が笑う方へ、私は歩幅を合わせ続けたい。
独り占めではなく、隣で全部を見たい。
それでも君が“いいよ”と言わないあいだは、私の手は“支える”で止める。
だが、私は君に惹かれている。君の“はい”を、願っている。
書き終えた手紙を、封もしないまま机の端に置く。
明日、言えるなら口で。言えなければ、一行だけ渡す。
整えすぎない。風の通り道を狭めない。
「旦那様」
ノックとともに家令。
「丘道は、朝までに砂の補修を。礼拝堂は管理人より“いつも通り”とのこと」
「ありがとう。——過度の準備はいらない。扉の前の階段だけ、濡れを拭いておいてくれ」
「畏まりました」
メイド長にも短く告げる。
「彼女のショールは薄灰を。香りは控えめに。……ローズマリーは枝を一本、置かない。今日は“匂いの記憶”に頼る」
「承知いたしました」
窓を開ける。夜気が紙の縁を撫でる。
私は彼女の横顔を思い出す。雨の朝、私が俺になった一秒。支える腕の、離し方。
——俺は焦っている。
口の中だけで認める。
——だが、焦りを押しつけない。
言葉にして、呼吸の底に沈める。
机上の便箋に視線を戻したとき、扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
彼女だ。白いレースが灯を柔らかく返す。指輪はそこにある。
「明日、もし風が“だめ”と言ったら、わたし、庭のベンチでもいいです」
「ベンチでも、いい」
「……それと、さっき考えていました。祈りの言葉を用意するの、やめます。“ここにいます”だけにするって」
「いい選択だ」
言いながら、私は迷う。今、言うか。明日、言うか。
彼女の呼吸は深い。今夜は眠れる顔をしている。
——眠りを軽くする言葉だけ、今は渡す。
「君が“ここにいます”を置くとき、私は“隣にいます”を置く。……それだけは、先に言っておく」
彼女は目を瞬き、それから笑った。
「安心しました。おやすみなさい」
「おやすみ」
扉が閉まる。私は椅子に腰を下ろし、便箋を裏返した。明日、口で言える。
言葉の原型は、胸の中でほどけない。独り占めではなく、隣で全部を見たい。——だから、選んでほしい。俺を。
最後の一語で俺が顔を出し、私は苦笑して息を整える。
私で言う。
君が選ぶなら、私は生涯、君の“真ん中”に合わせ続ける。
灯を落とす前に、手帳の第三月に小さく丸をつけた。
——明朝:風が軽ければ、扉の前で“正直”を。
——言い過ぎない。だが、足りなくもしない。
寝室へ移る。窓を少し開けると、濡れた庭の匂いが薄く入る。噴水の音、遠い台所の食器の触れ合う音。
目を閉じる。
扉が開く夢は見ない。風が通る夢を見たい。彼女が「ここにいます」を置く音と、私の「隣にいます」が重なる静けさだけを、先に知っておきたい。
——潔さは、引き際を美しくする。
——正直は、寄り添い方を美しくする。
明日は、後者を選ぶ。
風の速さに、私の声を削らせないために。
彼女の呼吸と同じ速さで、私は言う。
君の幸せが一番だ。——そして、俺が君をいちばん幸せにできると、思っている。
胸の中でだけ、はっきりと。
夜の闇は薄く、朝は近い。
白すぎない白のレース、生成りの結び目。灯の下で、指輪が短く光る。
「明日の朝、風が軽かったら——」
彼女はそこで言葉を一度畳み、微笑んだ。
「少しだけ、お願いします」
「少しだけ、で行こう」
そう答えてから、私は視線を窓の外へ逃がす。庭の闇は柔らかく、噴水の音が夜の形に変わっていた。行く/行かないを風に預けるのはいい。だが、言う/言わないは、風に預けられない。そこに、私の番がある。
執務室に戻り、机の上の小さな手帳を開いた。
——第一月:暮らしの安心。
——第二月:一緒の時間の密度。
——第三月:言葉で求める。彼女の意思で選んでもらう。
線を引いた私は、さらに細い字で付け加える。
——潔さだけで隠れない。正直で立つ。
潔さは盾になる。だが、盾の陰は影になる。影の濃さに、彼女が迷うのは望まない。
私は便箋を一枚抜き、ペン先を置く。求婚ではない。告白でもない。——願いの形だけを、前に出す。
君が笑う方へ、私は歩幅を合わせ続けたい。
独り占めではなく、隣で全部を見たい。
それでも君が“いいよ”と言わないあいだは、私の手は“支える”で止める。
だが、私は君に惹かれている。君の“はい”を、願っている。
書き終えた手紙を、封もしないまま机の端に置く。
明日、言えるなら口で。言えなければ、一行だけ渡す。
整えすぎない。風の通り道を狭めない。
「旦那様」
ノックとともに家令。
「丘道は、朝までに砂の補修を。礼拝堂は管理人より“いつも通り”とのこと」
「ありがとう。——過度の準備はいらない。扉の前の階段だけ、濡れを拭いておいてくれ」
「畏まりました」
メイド長にも短く告げる。
「彼女のショールは薄灰を。香りは控えめに。……ローズマリーは枝を一本、置かない。今日は“匂いの記憶”に頼る」
「承知いたしました」
窓を開ける。夜気が紙の縁を撫でる。
私は彼女の横顔を思い出す。雨の朝、私が俺になった一秒。支える腕の、離し方。
——俺は焦っている。
口の中だけで認める。
——だが、焦りを押しつけない。
言葉にして、呼吸の底に沈める。
机上の便箋に視線を戻したとき、扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
彼女だ。白いレースが灯を柔らかく返す。指輪はそこにある。
「明日、もし風が“だめ”と言ったら、わたし、庭のベンチでもいいです」
「ベンチでも、いい」
「……それと、さっき考えていました。祈りの言葉を用意するの、やめます。“ここにいます”だけにするって」
「いい選択だ」
言いながら、私は迷う。今、言うか。明日、言うか。
彼女の呼吸は深い。今夜は眠れる顔をしている。
——眠りを軽くする言葉だけ、今は渡す。
「君が“ここにいます”を置くとき、私は“隣にいます”を置く。……それだけは、先に言っておく」
彼女は目を瞬き、それから笑った。
「安心しました。おやすみなさい」
「おやすみ」
扉が閉まる。私は椅子に腰を下ろし、便箋を裏返した。明日、口で言える。
言葉の原型は、胸の中でほどけない。独り占めではなく、隣で全部を見たい。——だから、選んでほしい。俺を。
最後の一語で俺が顔を出し、私は苦笑して息を整える。
私で言う。
君が選ぶなら、私は生涯、君の“真ん中”に合わせ続ける。
灯を落とす前に、手帳の第三月に小さく丸をつけた。
——明朝:風が軽ければ、扉の前で“正直”を。
——言い過ぎない。だが、足りなくもしない。
寝室へ移る。窓を少し開けると、濡れた庭の匂いが薄く入る。噴水の音、遠い台所の食器の触れ合う音。
目を閉じる。
扉が開く夢は見ない。風が通る夢を見たい。彼女が「ここにいます」を置く音と、私の「隣にいます」が重なる静けさだけを、先に知っておきたい。
——潔さは、引き際を美しくする。
——正直は、寄り添い方を美しくする。
明日は、後者を選ぶ。
風の速さに、私の声を削らせないために。
彼女の呼吸と同じ速さで、私は言う。
君の幸せが一番だ。——そして、俺が君をいちばん幸せにできると、思っている。
胸の中でだけ、はっきりと。
夜の闇は薄く、朝は近い。
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