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第四話 噴水の返答、楽しんでいる宣言
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〈条二補:楽しみは“共有”して初めて増える〉
庭園で「休憩条項」が追加されてから、わたくしたちの工程表には、小さな印が増えた。
市場の日、庭園の日、美術館予定日の横に、アッシュが小さな砂時計の印を描き込む。
それを見るたびに、「休むこと」までが計画に含まれているのだ、と実感させられる。
――遊びのはずなのに、どうしてこんなに本気なのだろう。
そんな疑問が、最近、胸の片隅から離れない。
その日も、快晴だった。
花壇の手入れが行き届いた庭園を後にして、わたくしたちは、庭園の出口近くにある噴水のほとりへと向かった。
白い石で作られた噴水の中央には、小さな天使の像。
その足元から水が流れ落ち、涼しげな音を立てている。
「今日は少し歩きましたから、ここでもう一度休憩にしましょう」
アッシュがそう提案すると、わたくしは思わず口を尖らせた。
「また休憩ですか? さっきもベンチで」
「条文は守らなければなりませんので」
きっぱりと言い切られてしまうと、反論しづらい。
けれど、その厳密さが、少しだけおかしくて、頼もしくもある。
噴水の縁に腰掛けると、石の冷たさがスカート越しに伝わってきた。
アッシュは隣に座る。その距離は、肩先がかすかに触れるか触れないか――条三で定めた“対等距離”そのままだ。
水の音が、言葉の代わりに耳を満たす。
しばらくのあいだ、わたくしたちは黙って噴水を眺めていた。
子どもたちが走り回る声も、遠くに聞こえる。
ふと、胸の内側にたまっていた言葉が、浮かび上がる。
「……アッシュ」
「はい」
「その。休憩条項を作ってくださったことは、とてもありがたく思っています。
でも、最近、少しだけ…気になっていることがあって」
アッシュは水面から視線を外し、わたくしを見る。
わたくしは、視線を噴水の中に落としたまま、続けた。
「わたくし、アッシュに甘えすぎているのではないでしょうか」
「また、その話ですか」
「“また”ということは、それだけ気にしているということです」
自分でも、少し呆れてしまう。
でも、胸の奥にあるざわざわを、見て見ぬふりはできなかった。
「市場でも、庭園でも。
アッシュはいつも、わたくしの歩幅を見て、段差を見て、疲れ具合を見て。
契約書では“ごっこ遊び”だとわかっているのに、わたくしのために、きちんと仕事をしてくださっている」
そこまで言って、唇をぎゅっと噛んだ。
「……世界が平和になって、お仕事が減って。
アッシュが“役割”を求めていることも、なんとなく察しています。
だからこそ、なおさら。わたくしがあなたを利用しているのではないかと、考えてしまうのです」
水音が、少しだけ大きく聞こえた気がした。
それは、沈黙に耐えかねた心のせいかもしれない。
アッシュはすぐに言葉を返してこなかった。
噴水の水面に映る光を眺めながら、なにかを咀嚼するように黙り込む。
不安が、じわりと広がっていく。
――言わなければよかっただろうか。
今さら思い返しても遅い。吐き出した言葉は、もう戻らない。
「……お嬢様」
ようやく返ってきた声は、水音に紛れそうなくらい静かだった。
「一つ、確認したいことがあります」
「はい」
「お嬢様は、“ごっこ遊び”を楽しんでいらっしゃいますか」
思ってもみなかった問いだった。
わたくしは思わず彼の顔を見上げる。
「楽しくなければ、ここまで本気にはなっていません。
市場も、庭園も、仕立て屋さんも。すべて、とても大切な時間です」
「そうですか」
「……疑っていらっしゃいました?」
「いえ。ただ、明確な言葉として聞いたことがなかったので」
アッシュは、少しだけ口元を和らげた。
「俺も、一つ申し上げてよいでしょうか」
「どうぞ」
胸の奥がざわつく。
否定か、肯定か。どちらに転ぶかわからない一瞬。
アッシュは、噴水の水面に視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「俺も、楽しんでいます」
「……え?」
あまりにも簡潔すぎて、聞き返してしまう。
「市場でパンを選ぶのも、庭園で距離を測るのも。
条文を増やすのも、工程表を作るのも。
全部、“仕事”だと思っていましたが――たぶん、違うのだと思います」
彼はそこで一度言葉を切り、噴水の水しぶきが飛ぶあたりをじっと見つめた。
「必要とされることは、たしかに俺にとって重要です。
でも、今やっているのは、“必要とされるための最短経路を探す仕事”とは、少し違う」
わたくしは、沈黙のまま耳を傾ける。
「お嬢様の条文は、効率が悪い。
『優雅に』『楽しく』『対等で』――仕事の現場なら、真っ先に削られる項目です」
「……ひどい評価ですわね?」
つい口を挟むと、アッシュは小さく笑った。
「でも、だからこそ。今の俺には、それが必要なんだろうと思うのです」
水音が一瞬だけ遠のいたように感じた。
「俺は、“役割”を失って少し困っていましたが。
お嬢様は、“願い方”がわからなくなっていた。
その二つがたまたま出会った結果が、この“ごっこ遊び”です」
そう言われて、胸がきゅっと締めつけられる。
――願い方が、わからなくなっていた。
たしかに、ずっとそうだった。
成果や数字でなら説明できても、「こうしたい」と、真っ直ぐに言う勇気は、いつも喉のどこかで固まっていた。
「だから、これは、互いの都合の良さで成り立っている契約です。
お嬢様だけが甘えているわけではありません」
アッシュは、そこでようやくわたくしのほうを向いた。
目元は相変わらず落ち着いているのに、その奥には、やわらかな熱が見え隠れしている。
「俺の要望は、“期待に添える働きがしたい”でしたが――
もう一つ、非公式の要望を追加してもよろしいでしょうか」
「非公式……?」
「“期限まで、楽しませてほしい”」
噴水の水音が、急に近くなった気がした。
胸の奥で、何かが跳ねる。
「このごっこ遊びには、長期休暇の終わりという期限があります。
その日まで、俺はできるだけお嬢様を楽しませたい。
そして、できることなら――俺自身も、その時間を楽しみたい」
言葉がゆっくりと沈んでいく。
水の中に小石を落としたときのように、静かな波紋が心に広がった。
「……アッシュ」
「はい」
「それは、わたくしにとっても……都合の良い要望です」
気づけば、笑っていた。
肩の力が、ふっと抜けていく。
「わたくし、これまで“楽しませてもらう”ことに罪悪感がありました。
成果で許可を取って、数字で免罪符を用意して。
でも、あなたが“楽しんでいる”と言ってくださるのなら――」
言葉を探しながら、噴水の縁に置いた自分の手の上に、そっともう片方の手を重ねた。
「同じだけ、楽しんでいいのだと思えます」
アッシュの表情が、かすかに揺らいだ。
「では、契約書の備考欄に、書き足しておきましょうか」
「何を、です?」
「『条二補:楽しみは、互いに共有すること』」
彼が少し冗談めかして言うと、わたくしは頷いた。
「良い条文ですわ。……ただし、ひとつだけ条件を追加させてください」
「条件?」
「もし、アッシュのほうが先に疲れてしまったときは。
そのときは、“楽しませる義務”からいったん降りて、“一緒に休む義務”に切り替えること」
アッシュは目を細め、噴水の水面を見た。
「それもまた、都合の良い条文ですね」
「お互い様ですわ」
水しぶきが、頬に一粒だけ飛んできた。
それを指先で拭いながら、ふと空を見上げる。
青空はまだ穏やかだけれど、遠くのほうに、薄い雲が集まりはじめていた。
――明日は、雨が降るかもしれない。
そんな予感が、なぜか少し楽しみに思えた。
庭園で「休憩条項」が追加されてから、わたくしたちの工程表には、小さな印が増えた。
市場の日、庭園の日、美術館予定日の横に、アッシュが小さな砂時計の印を描き込む。
それを見るたびに、「休むこと」までが計画に含まれているのだ、と実感させられる。
――遊びのはずなのに、どうしてこんなに本気なのだろう。
そんな疑問が、最近、胸の片隅から離れない。
その日も、快晴だった。
花壇の手入れが行き届いた庭園を後にして、わたくしたちは、庭園の出口近くにある噴水のほとりへと向かった。
白い石で作られた噴水の中央には、小さな天使の像。
その足元から水が流れ落ち、涼しげな音を立てている。
「今日は少し歩きましたから、ここでもう一度休憩にしましょう」
アッシュがそう提案すると、わたくしは思わず口を尖らせた。
「また休憩ですか? さっきもベンチで」
「条文は守らなければなりませんので」
きっぱりと言い切られてしまうと、反論しづらい。
けれど、その厳密さが、少しだけおかしくて、頼もしくもある。
噴水の縁に腰掛けると、石の冷たさがスカート越しに伝わってきた。
アッシュは隣に座る。その距離は、肩先がかすかに触れるか触れないか――条三で定めた“対等距離”そのままだ。
水の音が、言葉の代わりに耳を満たす。
しばらくのあいだ、わたくしたちは黙って噴水を眺めていた。
子どもたちが走り回る声も、遠くに聞こえる。
ふと、胸の内側にたまっていた言葉が、浮かび上がる。
「……アッシュ」
「はい」
「その。休憩条項を作ってくださったことは、とてもありがたく思っています。
でも、最近、少しだけ…気になっていることがあって」
アッシュは水面から視線を外し、わたくしを見る。
わたくしは、視線を噴水の中に落としたまま、続けた。
「わたくし、アッシュに甘えすぎているのではないでしょうか」
「また、その話ですか」
「“また”ということは、それだけ気にしているということです」
自分でも、少し呆れてしまう。
でも、胸の奥にあるざわざわを、見て見ぬふりはできなかった。
「市場でも、庭園でも。
アッシュはいつも、わたくしの歩幅を見て、段差を見て、疲れ具合を見て。
契約書では“ごっこ遊び”だとわかっているのに、わたくしのために、きちんと仕事をしてくださっている」
そこまで言って、唇をぎゅっと噛んだ。
「……世界が平和になって、お仕事が減って。
アッシュが“役割”を求めていることも、なんとなく察しています。
だからこそ、なおさら。わたくしがあなたを利用しているのではないかと、考えてしまうのです」
水音が、少しだけ大きく聞こえた気がした。
それは、沈黙に耐えかねた心のせいかもしれない。
アッシュはすぐに言葉を返してこなかった。
噴水の水面に映る光を眺めながら、なにかを咀嚼するように黙り込む。
不安が、じわりと広がっていく。
――言わなければよかっただろうか。
今さら思い返しても遅い。吐き出した言葉は、もう戻らない。
「……お嬢様」
ようやく返ってきた声は、水音に紛れそうなくらい静かだった。
「一つ、確認したいことがあります」
「はい」
「お嬢様は、“ごっこ遊び”を楽しんでいらっしゃいますか」
思ってもみなかった問いだった。
わたくしは思わず彼の顔を見上げる。
「楽しくなければ、ここまで本気にはなっていません。
市場も、庭園も、仕立て屋さんも。すべて、とても大切な時間です」
「そうですか」
「……疑っていらっしゃいました?」
「いえ。ただ、明確な言葉として聞いたことがなかったので」
アッシュは、少しだけ口元を和らげた。
「俺も、一つ申し上げてよいでしょうか」
「どうぞ」
胸の奥がざわつく。
否定か、肯定か。どちらに転ぶかわからない一瞬。
アッシュは、噴水の水面に視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「俺も、楽しんでいます」
「……え?」
あまりにも簡潔すぎて、聞き返してしまう。
「市場でパンを選ぶのも、庭園で距離を測るのも。
条文を増やすのも、工程表を作るのも。
全部、“仕事”だと思っていましたが――たぶん、違うのだと思います」
彼はそこで一度言葉を切り、噴水の水しぶきが飛ぶあたりをじっと見つめた。
「必要とされることは、たしかに俺にとって重要です。
でも、今やっているのは、“必要とされるための最短経路を探す仕事”とは、少し違う」
わたくしは、沈黙のまま耳を傾ける。
「お嬢様の条文は、効率が悪い。
『優雅に』『楽しく』『対等で』――仕事の現場なら、真っ先に削られる項目です」
「……ひどい評価ですわね?」
つい口を挟むと、アッシュは小さく笑った。
「でも、だからこそ。今の俺には、それが必要なんだろうと思うのです」
水音が一瞬だけ遠のいたように感じた。
「俺は、“役割”を失って少し困っていましたが。
お嬢様は、“願い方”がわからなくなっていた。
その二つがたまたま出会った結果が、この“ごっこ遊び”です」
そう言われて、胸がきゅっと締めつけられる。
――願い方が、わからなくなっていた。
たしかに、ずっとそうだった。
成果や数字でなら説明できても、「こうしたい」と、真っ直ぐに言う勇気は、いつも喉のどこかで固まっていた。
「だから、これは、互いの都合の良さで成り立っている契約です。
お嬢様だけが甘えているわけではありません」
アッシュは、そこでようやくわたくしのほうを向いた。
目元は相変わらず落ち着いているのに、その奥には、やわらかな熱が見え隠れしている。
「俺の要望は、“期待に添える働きがしたい”でしたが――
もう一つ、非公式の要望を追加してもよろしいでしょうか」
「非公式……?」
「“期限まで、楽しませてほしい”」
噴水の水音が、急に近くなった気がした。
胸の奥で、何かが跳ねる。
「このごっこ遊びには、長期休暇の終わりという期限があります。
その日まで、俺はできるだけお嬢様を楽しませたい。
そして、できることなら――俺自身も、その時間を楽しみたい」
言葉がゆっくりと沈んでいく。
水の中に小石を落としたときのように、静かな波紋が心に広がった。
「……アッシュ」
「はい」
「それは、わたくしにとっても……都合の良い要望です」
気づけば、笑っていた。
肩の力が、ふっと抜けていく。
「わたくし、これまで“楽しませてもらう”ことに罪悪感がありました。
成果で許可を取って、数字で免罪符を用意して。
でも、あなたが“楽しんでいる”と言ってくださるのなら――」
言葉を探しながら、噴水の縁に置いた自分の手の上に、そっともう片方の手を重ねた。
「同じだけ、楽しんでいいのだと思えます」
アッシュの表情が、かすかに揺らいだ。
「では、契約書の備考欄に、書き足しておきましょうか」
「何を、です?」
「『条二補:楽しみは、互いに共有すること』」
彼が少し冗談めかして言うと、わたくしは頷いた。
「良い条文ですわ。……ただし、ひとつだけ条件を追加させてください」
「条件?」
「もし、アッシュのほうが先に疲れてしまったときは。
そのときは、“楽しませる義務”からいったん降りて、“一緒に休む義務”に切り替えること」
アッシュは目を細め、噴水の水面を見た。
「それもまた、都合の良い条文ですね」
「お互い様ですわ」
水しぶきが、頬に一粒だけ飛んできた。
それを指先で拭いながら、ふと空を見上げる。
青空はまだ穏やかだけれど、遠くのほうに、薄い雲が集まりはじめていた。
――明日は、雨が降るかもしれない。
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