『急募:執事ごっこに付き合ってくれる方』 ーーお嬢様に憧れたわたくしと誰かの"役"になりたい俺

星乃和花

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第五話 雨やどり、軒下の余白

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〈条一変奏:急がないために、立ち止まる〉

 

 予感は、よく当たるほうだ。

 噴水の日の翌日。
 午前中から空には雲がかかり、昼過ぎには、細かな雨粒が石畳を濡らしはじめた。

「本日は中止にしますか?」

 窓の外を見ながら、俺は問いかけた。
 待ち合わせの店の二階席。ガラス窓の向こうでは、通りを行き交う人々が、慌てて傘を開いたり、軒下に駆け込んだりしている。

 向かいの席で紅茶を飲んでいたリリーは、少しだけ首をかしげた。

「……雨だからこそ、歩いてみたい気持ちもあります」

「転倒の危険が増します」

「でも、お嬢様ごっこには、“雨の日のお出かけ”も欠かせない気がしませんか?」

 真面目な顔でそう言われると、否定しづらい。
 彼女の中には、きっと「お嬢様像」がいくつもあるのだろう。晴れの日、風の日、雨の日――それぞれのシーンで丁寧に振る舞う人の姿が。

「でしたら、本日は“短距離任務”にしましょう。
 いつもより範囲を狭めて、すぐに雨やどりができる道だけを歩きます」

 工程表に、赤い線で小さく囲いをする。
 視界の中で、世界がコンパクトになるイメージ。

 

 店を出る頃には、雨は本降りになっていた。

 細い雨粒が、斜めに風に運ばれていく。
 石畳には薄い水の膜が張り、歩く人々の靴音が、いつもより柔らかく聞こえる。

「滑りやすくなっています。足元にお気をつけください」

 リリーの横に立ち、傘を傾ける。
 彼女の肩が濡れないように、少しだけ自分のほうを犠牲にする形で角度を調整した。

「アッシュが濡れてしまいますわ」

「執事は、多少濡れる役目です」

「そんな条文、ありましたか?」

「今、心のほうの契約に追加されました」

 そう答えると、リリーはくすりと笑った。
 その笑い声が、雨音の中で小さく響く。

 いつもより歩幅を小さくし、滑りやすい石を避けながら、通りを進む。
 予測していた通り、数歩歩くごとに、小さな軒先やアーケードの下で雨やどりをする人たちに出会った。

「ここまでにして、引き返しますか?」

 そう尋ねると、リリーはしばらく雨を眺めてから首を振った。

「もう少しだけ、歩いてみたいです。
 もしものときは、アッシュが“強制休憩条項”を発動させてくださいませ」

「……強制休憩条項?」

「庭園で作った“休憩条項”の、実地試験です」

 そこまで言われてしまっては、渋々でも進むしかない。
 俺は心の中で、「この任務は、お嬢様の好奇心の実験である」と注記した。

 

 数分ほど歩いたところで、雨の強さが一段階増した。

 バシャ、と音が聞こえるほどの粒になり、傘の布を叩く。
 道行く人々が、いっせいに速度を上げる。

「お嬢様。あちらに軒があります。いったん雨やどりを」

「はい」

 通りの角に、小さな古道具屋の軒先があった。
 店先には、古びた椅子やランプが並べられている。古道具の匂いと、雨の匂いが混ざって、不思議と落ち着く空気を作り出していた。

 軒下の一角に身を寄せると、傘から落ちる水滴が、石畳に小さな丸を描いていく。

「……まだ降るかな」

 リリーがぽつりと言った。
 雨を見上げる横顔は、心なしか楽しそうでもあり、不安そうでもある。

 俺は空を一瞥してから、静かに答えた。

「まだ降らせておきましょう」

「え?」

「俺たちに決定権はありませんが――
 少なくとも、この雨のあいだ、先を急がずにここに留まることは、俺たちの側の選択です」

 リリーは、目を瞬いた。

「……“降らせておく”なんて、なかなか聞かない言い方ですわね」

「以前は、天候も任務の一部でした。
 雨が降れば視界が悪くなり、足元が滑り、音が消える。
 それらをすべて『条件』として扱っていたので、どうしても“降る・止む”を決定事項のように考えてしまう」

 雨粒が傘を叩く音を聞きながら、言葉を続ける。

「でも今は、任務の成否よりも、お嬢様の体力と心のほうが重要です。
 だから、雨が降っているあいだは、無理に“急ぐ”必要はない。
 ……この軒下が、少し居心地が良いのであれば、なおさら」

 リリーは、ゆっくりと周囲を見回した。

 古い椅子、錆びかけたランプ、色あせた看板。
それらを背景に、雨が静かに降り続ける。

「たしかに……居心地、悪くないですわね」

 控えめにそう認めてから、彼女は傘の縁から滴り落ちる水を見つめる。

「雨が降っているあいだは、何もしなくていい時間、でしょうか」

「何もしない、でもいいし。何かしてもいい時間です」

「どちらでも、いい?」

「はい。選択肢が複数あるということが、余白の証拠です」

 自分で言いながら、少し笑ってしまう。
 戦時中の自分に聞かせたら、きっと呆れ返るだろう。

「……アッシュ」

「はい」

「わたくし、今回の“お嬢様ごっこ”のために、たくさん努力をしました。
 大会で結果を出して、親を説得して、計画書を書いて。
 言ってしまえば、“幸せになる権利”を、自分で買い取ったつもりでした」

 リリーの声には、わずかに震えが混ざっていた。

「でも、こうして雨やどりをしていると……
 わたくしが差し出した努力以上の時間を、いただいている気がして。戸惑うのです」

「差し出した努力以上の時間?」

「はい。
 お金と、時間と、成績。そういうもので測れる以上の“何か”が、今ここにあって。
 それを、どう受け取っていいのか、よくわからなくて」

 言葉にされると、その戸惑いがはっきり伝わってくる。
 俺は少し考えてから、傘の柄を握る手に力を込めた。

「……お嬢様」

「はい」

「お嬢様が差し出したものと、今ここにあるものは、同じ単位では測れません」

「同じ、単位では?」

「大会で得た賞金は、数字で測れる価値です。
 でも、この雨やどりの時間は、数字では測れない。
 誰かの“気配”や、“一緒にいること”そのものの価値は、別の尺度が必要です」

 リリーは、黙って聞いている。
 雨音が、一定のリズムで軒先を叩き続ける。

「俺は、お嬢様から、この“役割”を受け取りました。
 『執事として、お嬢様ごっこに付き合う』という仕事です」

 言いながら、自分の胸の内を確認する。

「それはたしかに、報酬によって成り立っている部分もあります。
 でも同時に、俺はその役割を通して、自分自身も救われている」

 静かな真実だった。
 これまで言語化してこなかったけれど、噴水で「楽しんでいる」と告げたときから、少しずつ形になってきた感覚。

「ですから――もしお嬢様が“差し出した以上のもの”を受け取っていると感じているのであれば。
 それは、俺のほうも同じです」

「アッシュも?」

「はい。
 お嬢様がわざわざ看板を掲げてくれなければ、俺のこの余った役割は、きっとどこかで埃をかぶっていたでしょう」

 軒下の古道具たちをちらりと見やる。

「こうして、雨やどりをしながら、その埃を払う機会をもらった。
 ……それを、“差し出した以上”と呼ぶなら、お互い様です」

 リリーは、目を伏せたまま、しばらく黙っていた。

 雨音だけが、二人のあいだに降り注ぐ。

「……お互い様、ですか」

「はい」

「それなら、少し安心しました」

 顔を上げた彼女の瞳には、まだ不安の余韻が残っている。
 けれど、その奥には、ほっとした光も宿っていた。

「アッシュ」

「はい」

「もう少しだけ、この雨を“降らせておきましょうか”」

 彼女の口から、自分の言い回しが返ってきて、思わず笑ってしまう。

「お嬢様のご要望とあらば」

 帳面を開き、小さくメモを書く。

『雨やどり任務:延長(お嬢様申告による)』

「……そんなところまで記録しなくても」

「重要です。
 “急がないために立ち止まる”決定は、今の俺たちにとって、とても価値がある」

「そう、でしょうか」

「はい。以前なら、雨が降れば最短距離で目的地に走っていたはずです」

 リリーは少し考え、それから静かに頷いた。

「たしかに……以前のわたくしも、そうしていたと思います。
 “やらなければならないこと”を優先して、雨を避けて、最短で帰る」

「でも今は、雨に濡れない範囲で、少しだけ寄り道ができる」

 俺は軒から一歩だけ踏み出し、手のひらを雨の中に差し出した。
 ひやりとした感触が、指先に広がる。

「この一歩ぶんだけは、任務外でも許される。
 お嬢様がそう決めてくださったので」

 リリーが、微かに笑った。

「では、その一歩ぶんの雨も、わたくしが責任を持って“楽しむ”ことにしますわ」

「承知しました」

 傘の下、狭い軒の陰で、肩と肩が少しだけ近づく。
 触れるか触れないか――庭園で決めた標準距離より、ほんのわずかだけ近い。

 けれど、そのことには、お互い、何も触れなかった。

 雨は、しばらく止む気配を見せなかった。
 それでいい、と二人とも思っていた。

 ――たぶん、この時間そのものが、“条文には書けない余白”なのだろう。

 雨音に紛れて、そんな考えが胸の奥に浮かんでは、静かに沈んでいった。
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