『急募:執事ごっこに付き合ってくれる方』 ーーお嬢様に憧れたわたくしと誰かの"役"になりたい俺

星乃和花

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第六話 美術館の静寂、額縁の外の声

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〈条三補:対等は“外の評価”より、内側の息を優先する〉

 

 長期休暇の工程表の端に、アッシュが小さく書き込んだ文字がある。

『美術館視察(契約終盤)』

 その括弧書きが、じわじわと現実味を帯びてきていた。

 ――契約の期限まで、あと数日。

 紙の上では簡単な事実なのに、胸の奥でそれをうまく飲み込めずにいる。

「本日は、美術鑑賞任務です、お嬢様」

 待ち合わせ場所に現れたアッシュは、いつもの執事服のまま、穏やかに告げた。

「任務、ですのね」

「ええ。“優雅に”と“楽しく”を両立させる、難易度の高い任務です」

 美術館行きのチケットを二枚取り出し、わたくしに一枚差し出す。
 厚紙の感触が、指先にしっとりと馴染んだ。

 

 王都の美術館は、白い石造りの建物だった。

 高すぎない階段、太い柱、静かなガラス戸。
 中に入ると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。

「人の少ない時間帯を選びました」

 アッシュは、周囲を一瞥して小声で言った。

「混雑していると、お嬢様のペースで歩けませんから」

「そういうところまで……」

 いつも通りの配慮に、嬉しさと、少しの痛みが同時に芽生える。
 この丁寧さに慣れてしまうことが、少し怖い。

 

 展示室の中は、静かだった。

 壁に掛けられた絵画、ガラスケースに収められた彫刻や工芸品。
 床を踏むたび、靴音が柔らかく響く。

「どのあたりからご覧になりますか?」

 アッシュの問いに、わたくしは少し迷った。

「……順路通りに、端から順に、でも良いのですけれど」

「お嬢様は、最初の一枚に影響されやすい傾向がありますから」

「そんな傾向、ありましたか?」

「はい。市場では、最初に見たパン屋が基準になっていましたし、庭園でも、最初に座ったベンチの距離感を基準にされていた」

 観察されすぎていて、少し恥ずかしくなる。

「でしたら、最初の一枚はお嬢様に選んでいただきましょう。
 “なんとなく気になる”で構いません」

「なんとなく、で?」

「はい。それが、今日の任務の第一条です」

 任務の条文が、またひとつ増えた気がした。

 

 少し歩いたところで、一枚の絵に目が止まった。

 広い窓辺に腰掛ける人物が描かれた絵。
 背景は淡くぼかされ、窓の外には、少しだけ街並みが見える。

「……この絵、好きかもしれません」

 わたくしが呟くと、アッシュが隣に立った。

「理由をお聞きしても?」

「理由……」

 言葉を探して、少し黙り込む。

「窓の向こうに、ちゃんと街があるのが、好きです。
 お城の高い塔から見下ろしている感じではなくて、すこし手を伸ばせば届きそうな高さで」

「塔ではなく、二階か三階くらい?」

「そうですわね。
 完全に“特別な場所”ではなくて、でも、少しだけ高いところから、日常を眺めている感じが」

 話しながら、自分の中にある感覚を確かめていることに気づく。
 アッシュは、静かに頷いた。

「お嬢様らしい理由ですね」

「らしい?」

「完全に世界から離れたいわけではなくて、でも少しだけ距離を取って眺めていたい。
 “お嬢様ごっこ”も、たぶんそういう願いから来ているのだろうと」

 胸の奥が、きゅ、と鳴った。

 ――そこまで読み取られていたのか、と戸惑う反面。
 理解されていたことへの、安堵にも似た感情が、じんわりと広がる。

 

 展示室を移動しながら、わたくしたちはいくつもの絵や彫刻の前で足を止めた。

「この絵は、構図が面白いですね」

 人々が集まって談笑している絵の前で、アッシュが言った。

「一見、皆が同じ方向を向いているようでいて、実は視線の先がバラバラだ」

「本当ですわ」

「それでも“和やかな会話”に見えるように描かれている。
 ――現実の会議や討論では、なかなかこうはいきません」

 さらりと冗談を混ぜる口調に、思わず笑ってしまう。
 そのたび、アッシュは帳面に「笑い:◯」と小さく記録していた。

 静かな展示室の中で、二人の会話だけが、薄い膜の内側で響いているような気がする。

 ――ここはきっと、現実と“ごっこ”のあいだ。

 そんな曖昧な空間だった。

 

 企画展の一角に、ひときわ人の集まっているコーナーがあった。

 壁に貼られた説明文には、「若き才媛たちの成果展」と書かれている。
 討論大会や学術発表会の記録をまとめた展示らしい。

「ここは……」

 足を止めた瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。

 見覚えのある文字が、説明文の中に紛れている。

『昨年、王立学院討論大会において優秀賞を受賞したクロフォード嬢は――』

「お嬢様?」

 アッシュの声が、遠くに聞こえる。
 視線は、ガラスケースの中の賞状に釘付けになっていた。

 丁寧な文字で書かれた賞状。
 自分の名前が、そこにある。

「……わたくしの、ですね」

「はい。存じ上げています」

 アッシュの返事は落ち着いていた。
 驚かれていないことに、少しだけ驚く。

「最初に契約書を拝見したとき、経歴書に記載されていましたので」

「そう、でしたわね」

 自分で書いたのに、すっかり忘れていた。
 “成果”を盾に両親を説得した、その具体的な証拠が、こうしてガラスの向こうに飾られている。

 そのとき。

「おや――クロフォード嬢?」

 背後から、聞き覚えのある声がした。
 振り返ると、学院で何度か顔を合わせたことのある教授が立っていた。白髪交じりの髪、丸い眼鏡。討論大会の審査員の一人でもあった人だ。

「本当に、クロフォード嬢ではありませんか」

 教授は嬉しそうに目を細めた。

「今日はお一人で?」

「いえ、こちらの――」

 言いかけて、言葉に詰まる。
 執事、とは説明しづらい。ごっこ遊びの最中です、とはもっと言いづらい。

 アッシュが一歩前に出て、軽く会釈をした。

「アッシュ・グレイと申します。クロフォード嬢の、同行者です」

 執事とも友人とも言わない、その絶妙な言い回しに、内心で感謝する。

「同行者、ですか。いや、頼もしいことです」

 教授は頷き、それから改めてわたくしを見た。

「君の討論は、忘れておりませんよ。
 昨年、最終弁論で見せた構成力と、要点のまとめ方。実に見事だった」

「……恐縮です」

 久しぶりに聞く褒め言葉に、身体がこわばる。
 嬉しさと同時に、妙な居心地の悪さが胸に広がる。

「珠算大会のほうも拝見しました。あれだけの計算力があれば、将来、どんな分野にも進める。
 せっかくの才能なのですから、ぜひ有効に使いなさい」

 教授は善意そのものの表情で、そう言った。

「有効に、ですか」

「そうです。
 今は長期休暇中だと聞きましたが――、次の学期が始まる前に進路のことも考えなさい。
 研究の道に進むも良し、官僚になるも良し。
 君のような人材が、街のため、国のために働いてくれることを期待しています」

 言葉の一つひとつが、真っ直ぐに飛んでくる。
 それが善意であることは、痛いほどわかっている。

「はい。検討いたします」

 礼儀正しく、そう答えた。
 教授は満足げに頷く。

「うむ。期待していますよ、クロフォード嬢」

 そう言い残して、教授は次の展示へと歩き去っていった。

 

 静寂が戻る。

 ガラスケースの中で、自分の名前が、変わらずに光っている。

「……お嬢様」

 アッシュが、そっと声をかけてきた。

「大丈夫ですか」

「ええ。大丈夫、です」

 声が少しだけ上ずったのを、自分でも感じた。
 でも、ここで取り繕わないことのほうが、もっと難しい。

「教授のおっしゃることは、正しいと思います。
 せっかくの才能なのだから、有効に使うべきだと――わたくしも、頭では理解しています」

「頭では」

 アッシュの声が、柔らかく反復する。

「はい。……ただ」

 言葉が、喉の手前で詰まる。

「“有効に使う”という言葉の中に、“わたくし自身”がどれくらい含まれているのか、わからなくて」

「お嬢様自身、とは?」

「街のため、国のため。
 そういう枠組みの中に、自分の願いが溶けてしまいそうで。
 どこまでが“他人の期待”で、どこからが“自分の望み”なのか、境目が曖昧なのです」

 ガラスの向こうの賞状は、たしかに輝いている。
 でも、その光を見ている自分の心は、少しだけ曇っている。

 ――教授のおっしゃることは、きっと正しい。

 でも、正しさと、心地よさは、必ずしも同じではない。

「……今日は、このあたりで帰りましょうか」

 アッシュの声が、さりげなく退路を差し出してくれる。

「まだ全部、見終わっていませんわ」

「美術館は逃げません。
 お嬢様の心が、展示品に押し潰されないうちに、一度外の空気を吸ったほうがいい」

 その判断に、救われる気がした。

「……では、そうしましょうか」

 展示室を出る前に、もう一度、ガラスケースの中の賞状を振り返る。
 そこに書かれた文字は変わらない。変わらないけれど、それを見つめる自分の感情は、少しだけ変わってしまったような気がした。

 

 美術館の出口を出ると、午後の光が広場を照らしていた。

 アッシュは、わたくしの歩幅に合わせてゆっくり歩く。
 しばらくのあいだ、二人とも何も言わなかった。

 契約の期限が近づいていることが、いつもより強く意識される。
 この“ごっこ遊び”が終わったあと、わたくしは、どこへ向かうのだろう。

 ――街のため、国のため。

 その言葉が、妙に遠く、そして重く響いていた。
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