『急募:執事ごっこに付き合ってくれる方』 ーーお嬢様に憧れたわたくしと誰かの"役"になりたい俺

星乃和花

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第七話 帰り道の問い、ご要望不明

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〈条零・ご要望未定:わからないときは、「わからない」と言ってよい〉

 

 美術館を出たあとも、しばらくのあいだ、お嬢様――リリーは黙っていた。

 俺はその沈黙を、あえて破らなかった。

 何か言えば、彼女はきっとそれに応えようとしてしまう。
 教授の言葉を聞いた直後の脳内で、すでに処理しきれないほどの“期待”が渦巻いているだろうから。

 王都の大通りから少し外れた、小さな並木道に差しかかったところで、ようやく口を開く。

「ベンチに、座りましょうか」

 並木道の途中にある、小さな木製のベンチ。
 以前、工程表を作るときに「休憩ポイント候補」として心の中にメモしておいた場所だ。

「……はい」

 リリーは素直に頷いた。
 その声には、疲れと、少しの迷いが混ざっている。

 

 ベンチに腰掛けると、木漏れ日が足元に落ちた。

 街路樹の葉が、風に揺れている。
 車輪や人の足音が、遠くで混じり合う。

「お嬢様」

「はい」

「一つ、お訊きしてもよろしいでしょうか」

 リリーは、視線を足元に落としたまま、小さく頷いた。

「どうぞ」

「――お嬢様の、ご要望は?」

 言葉にすると、空気が少しだけ張り詰めた。

 契約書に最初に記した「お嬢様ごっこにおける要望」は、たしかに三つだった。
 『優雅に』『楽しく』『対等で』。

 けれど今訊きたいのは、そのもう少し先のことだ。

「教授のお言葉を受けて、街のため、国のため、といった大きな枠組みではなく。
 お嬢様ご自身は、何を望んでいらっしゃるのか――」

 言いながら、自分でも少し酷な問いだと思う。

「答えが出ていないことは、承知しています。
 それでも、今の時点で、俺にできることを考えたいので」

 沈黙が、少し長く続いた。

 風の音と、葉擦れの音だけが間を埋める。

 やがて、リリーが小さく息を吐いた。

「……わからない、です」

 かすれた声だった。
 でも、その一言には、妙な強さがあった。

「わからなくて、ごめんなさい」

「謝る必要はありません」

 即座に否定する。
 彼女が謝る相手は、俺ではない。

「“わからない”と、おっしゃってくださってありがとうございます」

 リリーが、少し戸惑ったように顔を上げた。

「……ありがとうございます、とは?」

「お嬢様は、何でも“正解”を探そうとされるので。
 今日の教授のお言葉のように、外側から“正解らしきもの”を突きつけられると、自分の気持ちを後回しにしてしまう」

 それは、短期間の観察から得た、俺なりの結論だった。

「ですから今、“わからない”と口にされたことは――
 お嬢様が、ご自身の気持ちを他人の正解よりも優先した証拠です」

「そんなふうに、考えられるもの、でしょうか」

「はい」

 リリーは一度、視線を空へやった。
 木の枝の隙間から、洗い流されたような青空が覗いている。

「……正直に申し上げると」

 そう前置きして、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。

「長期休暇が始まる前までは、“街のため”“国のため”という方向に進むのが、当然だと思っていました。
 両親も、先生方も、それを期待してくださっていましたし。
 数字で結果を出せば出すほど、みんなが喜ぶ顔が、わたくし自身の喜びにもなっていました」

「はい」

「だから、“お嬢様ごっこ”も、そのための一時的な息抜きのつもりでした。
 長期休暇のあいだだけ、自分のわがままを許してもらって、また元の道に戻るのだと」

 そこで、一度言葉を切る。

「でも、今は……どれが“元の道”なのか、わからなくなってしまって」

 風が、彼女の髪をかすかに揺らした。

「アッシュと市場を歩いて、庭園で距離を測って、噴水で“楽しんでいる”と言ってもらって。
 雨やどりの軒下で、“差し出した以上のもの”を受け取ってもいいのだと知って」

 ひとつひとつ、指で数えるように、日々の出来事を並べていく。

「どれも、わたくしの人生の一部になってしまって。
 そこから、“正しい進路”だけを選ぶのが、急に怖くなりました」

「怖い」

「はい。
 街のため、国のための道を進めば、“ごっこ遊び”は“遊び”として終わらせなければならない気がして。
 でも、だからといって、このまま“お嬢様でいたいです”と言い続ける勇気もない」

 自嘲気味に笑ってから、続けた。

「わたくし、何を望んでいるのでしょうね」

 その問いを、自分自身に向けるように。

 

 しばらく考えたあとで、俺は口を開いた。

「――条零を、作りませんか」

「条零?」

「条一は『優雅に』、条二は『楽しく』、条三は『対等で』でしたね」

「はい」

「その前に、ひとつ。
 “ご要望がまだわからないときは、『わからない』と言ってよい”という条文を、置いておきましょう」

 リリーが、目を瞬いた。

「そんな条文、許されますか?」

「俺たちの契約書ですから、許されます。
 これは、外側の期待には見せない、内側の条文にしましょう」

 ポケットから契約書の写しを取り出し、余白に小さく書き込む。

『条零・ご要望未定:
 お嬢様がご自身の望みをまだ言語化できない場合、
 その状態を“未完成”ではなく“途中”として扱うこと。
 執事は、無理に結論を急がせてはならない』

 書き終えてから、リリーに見せる。

「……途中」

 彼女は、その言葉を繰り返した。

「“未完成”ではなく、“途中”」

「はい。
 未完成だと、“早く完成させなければ”と焦ってしまいますから。
 でも、“途中”なら――その時間にも意味があります」

 自分でも、少しばかり甘い理屈だと思う。
 それでも、今はこの甘さが必要だと感じていた。

「教授のおっしゃった“街のため、国のため”という道も、お嬢様の中にある選択肢の一つです。
 でも、それだけが“正解”ではありません」

「……そう、なのでしょうか」

「俺から見れば、お嬢様は“街のため、国のため”の前に、まず、目の前の誰かのために動く人です」

「目の前の、誰か」

「家族や友人や――今で言えば、“ごっこ遊びの執事”のために。
 そういう小さな範囲の“誰か”のために動くことも、立派な“有効な使い方”だと思います」

 リリーは、小さく笑った。

「アッシュは、そうやって何でも優しく解釈してしまう人ですね」

「職業病です」

「以前の職場にも、そうやって“優しい条文”を作って差し上げていましたか?」

「いいえ。
 以前は、“期限までに結果を出す条文”ばかりでした」

 言葉にしてみて、少し苦い気持ちになる。

「だから今は、少しだけバランスを取りたいのかもしれません。
 お嬢様と一緒に、“途中でいてもいい条文”を増やしていきたい」

 リリーは、しばらく黙っていた。
 その沈黙は、先ほどまでの重さとは、少しだけ違っている。

「……アッシュ」

「はい」

「契約が終わるまでに、わたくしのご要望がはっきりしなかったとしても。
 それでも、傍にいてくださいますか」

 その問いには、迷う余地はなかった。

「もちろんです」

 即答すると、リリーが目を見開く。

「“期待に添える働き”をしたいという俺の要望は、まだ途中ですから」

「途中」

「はい。
 お嬢様のご要望が“未定”のままでいることも、俺の任務の一部です」

 少しだけ冗談めかして言うと、リリーはふっと笑った。

「そういうふうに言われると……わたくし、“わからないまま”でも許される気がしてきます」

「許されます」

「では、今のご要望は、“わからない”ということで」

 そう宣言してから、彼女は少しだけ肩の力を抜いた。

「でも――」

「はい」

「一つだけ、暫定のご要望を追加しても、よろしいでしょうか」

「暫定?」

「契約が終わるまでのあいだ。
 アッシュには、“ごっこ遊びの執事”としてだけでなく、“わたくしの迷子の地図係”でいてほしいです」

 意外な言葉だった。
 その表現に、思わず笑ってしまう。

「迷子の地図係」

「はい。
 わたくしが、“どこへ向かいたいのかまだわからない”ときに。
 “ここにいるよ”と、地図の端に印をつけておいてくれる人、という意味です」

 それは、執事の職務範囲を少し越えているかもしれない。
 だが、“アッシュ・グレイ個人”としては――心から望んでいる役割だった。

「承知しました、お嬢様」

 俺は、契約書の余白にそっと書き足す。

『暫定条:
 執事は、お嬢様が迷子であることを恥とせず、
 現在地を共に確認する地図係であること』

「……なんだか、心強い条文ですね」

 リリーが穏やかに笑う。

 木漏れ日が、彼女の頬をやわらかく照らしていた。
 契約の期限は、たしかに近づいている。

 だが、“ご要望がまだわからない時間”もまた、この契約の一部だ。

 ――この「途中」の時間を、どうか悔やむことのないように。

 そう願いながら、俺はそっとベンチから立ち上がり、リリーに手を差し伸べた。

「そろそろ参りましょうか、お嬢様。
 途中の道のりも、今日の任務のうちですから」

「はい。……迷子の地図係さん」

 そう呼ばれて、少しだけ耳が熱くなるのを感じた。
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