『急募:執事ごっこに付き合ってくれる方』 ーーお嬢様に憧れたわたくしと誰かの"役"になりたい俺

星乃和花

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第八話 最終日の茶会、ありがとうの行き先

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〈条終案:契約終了は、関係の終わりと限らない〉

 

 契約最終日は、朝から、やけに静かだった。

 窓の外では、いつも通り荷車の音も、人の声もしているのに。
 机の上の工程表に書かれた「最終日」の文字だけが、じん、と浮き上がって見える。

「……今日で、終わり」

 声に出してみても、現実味は薄い。
 けれど、長期休暇の終わりと同時に、この「お嬢様ごっこ」の契約も一度区切りを迎えることは、紙の上でははっきりしている。

 両親には、すでに話してある。

『長期休暇のあいだ、自分のしたいことに全力を尽くす』

 そう宣言して許可をもぎ取ったのだから、約束は守らなければならない。
 ――その約束を守り切った今、次は、別の約束が待っている。

 街のため、国のため。
 教授の言葉が、まだ胸の片隅に残っている。

「……行きましょう」

 わたくしは深呼吸をひとつしてから、クローゼットを開けた。
 仕立て屋で誂えたドレスを取り出す。アッシュが提案してくれた灰青が少しだけ混じった淡いクリーム色。けれど、数週間のあいだに、袖を通す手の震えは少なくなっていた。

 

 待ち合わせ場所は、最初の日と同じ広場の一角。

 石畳の中央から少し離れた、静かな喫茶室。
 大きな街路樹の木陰に隠れるようにして、扉がある。

 扉を押し開けると、ベルの音と、コーヒーの香りが出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ」

 店主が軽く会釈する。
 視線を巡らせると、窓際の席に、すでにアッシュの姿があった。

 いつもの執事服。
 背筋を伸ばして座り、カップの縁に指を添えている。

「お待たせいたしました」

 わたくしが近づくと、アッシュはすっと立ち上がった。

「本日も、時間通りです。……お嬢様」

 初めの頃と同じ呼びかけ。
 けれど、その声音には、ほんの少しだけ、柔らかさが混じっている気がした。

「席をご用意しております」

 彼が椅子を引き、わたくしはスカートの裾を整えて腰掛ける。
 テーブルの上には、白いカップと小さな花瓶。花瓶には、薄紫色の花が一本だけ挿してある。

「今日は、特別にこちらを」

 アッシュがメニューを閉じる。

「前回と同じブレンドに、お嬢様のお好きな焼き菓子を合わせていただくよう、お願いしました」

「……最初の、打ち合わせの、ですわね」

「はい。円の始まりと終わりを、同じ場所に揃えると、工程表が見やすくなりますので」

「アッシュらしい理由ですこと」

 くすりと笑うと、アッシュも微かに口元を緩めた。

 やがて、湯気を立てた紅茶と、薄いレモンケーキが運ばれてくる。
 金色の縁どりのカップに、琥珀色の液体が揺れた。

 

「本日は、“契約最終日のお茶会”です」

 アッシュが静かに告げる。

「これまでの条文を振り返り、必要であれば修正し、
 そして――一区切りをつけるための時間でもあります」

「一区切り」

 口にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

 ――そう、今日は“終わらせる日”でもあるのだ。

 紅茶を一口含む。
 香りと温度に、少しだけ心がほぐれる。

「アッシュ」

「はい」

「まず、条文の振り返りをお願いしてもよろしいでしょうか」

「承知しました」

 アッシュは、いつものように帳面を取り出した。
 そこには、ぎっしりと文字が並んでいる。

「条一。『優雅に』。
 身支度は“間に合う優雅さ”で。歩く速度は、街の喧騒に飲まれない程度に。
 休憩条項により、無理な予定は立てない」

 読み上げられるたび、過ごしてきた日々の光景が頭に浮かぶ。

「条二。『楽しく』。
 笑いは零す。作らない。
 そして、追加した条二補。『楽しみは、互いに共有すること』」

 噴水の水音が、耳の奥に蘇る。

「条三。『対等で』。
 手は貸す、委ねも許す。役は“役”に留める。
 物理距離の標準は、肩先が触れるか触れないか。状況により変動可」

 庭園のベンチ。砂時計の砂。

「条零。『ご要望未定』。
 お嬢様がご自身の望みをまだ言語化できない場合、その状態を“未完成”ではなく“途中”として扱うこと」

 そして――

「暫定条。
 執事は、お嬢様が迷子であることを恥とせず、現在地を共に確認する地図係であること」

 読み終えると、店内の静けさが、少し重たく感じられた。

「……たくさん、作ってしまいましたわね」

「はい。ごっこ遊びの条文にしては、やや多めです」

「でも、どれも、わたくしには必要な条文でした」

 そう言って、わたくしはカップをソーサーに戻す。

「アッシュ。
 わたくしからも、一つ、条文の評価をしてもよろしいでしょうか」

「評価?」

「はい。……総評です」

 胸の奥で、何度も練習した言葉を、ひとつずつ取り出していく。

「条一、『優雅に』。
 あなたのおかげで、わたくしは、自分の歩幅を知ることができました」

 市場の人混み、庭園の小道、雨やどりの軒下。
 どれも、ひとりでは気づかなかった段差や滑りやすい石たち。

「条二、『楽しく』。
 あなたが笑いを数えてくださったおかげで、“楽しい”が数字ではなく、記憶として刻まれるのだと知りました」

 パン屋の試食、葡萄の粒。噴水の水しぶき。

「条三、『対等で』。
 あなたが距離を測ってくださったおかげで、“甘えること”と“頼りすぎること”のあいだにある細い線を、少しだけ感じ取れました」

 庭園のベンチで決めた距離。
 雨やどりの軒下で、ほんの少しだけ近づいた肩。

「条零と、暫定条。
 それらがあったおかげで、“わからないまま”でも、ここに座っていられます」

 そう言って、自分の両手を見つめる。
 指先は、少し震えていた。

「……アッシュ」

「はい」

「わたくしの夢に付き合ってくれて、ありがとうございました。
 楽しかったです」

 言った瞬間、喉の奥が熱くなった。

 ――これを言うために、今日まで来た。

 そう思っていたはずなのに。
 実際に口にすると、終わりを宣告してしまったようで、胸が痛む。

 アッシュは黙って、わたくしの言葉を受け止めていた。
 数秒の沈黙のあと、ゆっくりと頷く。

「お嬢様のご要望に添えたのであれば、光栄です」

「十分すぎるほど、でした」

 沈黙が、テーブルの上に降り積もる。
 カップの縁を指でなぞりながら、わたくしは続けた。

「長期休暇が終われば、わたくしはまた学院に戻ります。
 教授がおっしゃったように、“街のため、国のため”の道を考えなければならないでしょう」

「はい」

「そのときには、きっと――」

 言葉が喉の奥で絡まった。
 “きっと、あなたのことを思い出します”と言いたいのに、違う言葉になって出てきてしまいそうで。

「――きっと?」

 促され、深呼吸をひとつする。

「きっと、“ごっこ遊び”は終わったものとして扱われるでしょう。
 わたくしの周りの世界では、そういうふうに整理されるはずです」

 紙の上の実績と同じように、
 この時間も、きっと説明される。

 ――『長期休暇中の、短い寄り道』として。

 アッシュは、少しだけ目を細めた。

「お嬢様の周囲の世界では、そうかもしれません」

「はい。だからこそ――」

 わたくしは、テーブルの上に置いていた鞄から、小さな封筒を取り出した。

「こちらを、受け取っていただけますか」

「……これは?」

「契約満了に伴う、最終報酬です」

 封筒には、所定の金額と、簡単な謝辞の文をしたためてある。
 事前に何度も計算し、何度も書き直し、ようやく形にしたものだ。

「わたくしの側の条文は、これでいったん、締めくくられます」

 アッシュは、封筒をじっと見つめていた。
 視線は真面目で、その奥に何かを押しとどめている。

「受け取る前に、一つだけ」

 そう言って、彼はゆっくりと鞄を開いた。

「本日の茶会には、俺のほうからの議題もございます」

「アッシュの……議題?」

「はい。
 お嬢様の“お礼”を正式に受理する前に、ひとつ書類を提示させていただきたい」

 彼は、封筒ではなく、一枚の厚紙を取り出した。
 それをテーブルの上に置く。

 書類は、最初にわたくしが掲げていた看板よりも小さく、手元サイズに整えられている。
 表面には、まだ文字が見えないよう裏返しにされていた。

「これは……?」

「新規案件です」

 アッシュは、深く息を吸った。
 その仕草が、いつもよりわずかにぎこちない。

「『急募:執事ごっこに付き合ってくれる方』」

 厚紙が、くるりと表を向く。

 そこには、丁寧な筆致で、そう書かれていた。

 

 文字を認識した瞬間、視界が、かすんだ。

「……アッシュ?」

 声が震える。
 喉の奥が熱く、目の奥がじんじんする。

「それは――」

 言葉を探しているあいだにも、涙がじわりと湧いてくる。
 堪えようとしても、うまくいかない。

 ぽろ、ぽろ、と。
 白いテーブルクロスの上に、透明な滴が落ちた。

「それはわたくしにとって、都合が良すぎます」

 ようやく絞り出した声は、かすれていた。

「だって、それでは、終われません」

 契約最終日のはずなのに。
 ここできちんと「ありがとうございました」と言って、封筒を渡して、区切りをつけるはずなのに。

 アッシュは、じっとこちらを見ていた。
 その顔が、うっすらと赤いことに気づく。

 彼は、真剣だった。
 あまりにも真面目で、あまりにも不器用なほどに。

 ――だから、余計に、“都合が良すぎる”のだ。

 わたくしは涙を拭おうとして、うまくいかず。
 指の甲で、頬を乱雑にこすった。

「……ずるい人ですわ、アッシュ」

 笑いながら、泣いていた。

 終わらせようとした手前で、差し出された新しい看板。
 世界が平和になって余ったはずの「役割」を、今度は自分の夢のために使おうとする人。

 胸の奥に、痛いほどの愛しさが広がっていく。

 最終日の茶会は、静かに、しかし確実に、「終わり」から少しずれはじめていた。
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