9 / 14
第8話 広報官の「ありがとう」練習帳
しおりを挟む
翌朝の星飴測候庁は、いつもより少しだけ、空気が柔らかく感じられた。
――特に、一階ロビーの一角。
“星飴おしゃべり席”のまわりは、早くも庁舎の新名所になりかけている。
「今日も“おしゃべり席”開いてるんだねぇ」
「昨日、友だちがここで話したら、すっきりしたって言ってたよ」
そんな声が、ちらほら聞こえてくる。
(なんだか……嬉しいな)
ミレイユは、星模様のクロスの皺を指先で伸ばしながら、
こっそり頬が緩むのを感じていた。
昨日の最後に、ユリウスに「一緒にいてくれて、ありがとう」と言われたこと。
その言葉が、まだ胸の奥で、星飴みたいにゆっくり溶け続けている。
(“ありがとう”って、あんなふうに言われると、反則です……)
思い出しただけで、少し心臓が忙しくなる。
と――。
「おはようございます、“おしゃべり席”ご担当のシュガールさん」
受付カウンターの向こうから、いつもの落ち着いた声がした。
「おはようございます、ユリウスさん」
振り向くと、
飾り眼鏡をかけた広報官が、手に書類の束を抱えて立っていた。
いつも通りのきちんとした制服。
けれど、どこか――ほんの少しだけ、雰囲気が違う気がする。
「受付の皆さん、昨日は案内をありがとうございました」
ユリウスは、ロビー全体に聞こえる声で、はっきりと言った。
「星飴おしゃべり席への誘導がスムーズだったおかげで、
初日として十分な観測ができました。助かりました」
「えっ」
受付の女性が、目を丸くする。
「わ、わざわざ広報官さんからお礼なんて、珍しい……いえ、ありがたいです!」
「……“珍しい”は聞かなかったことにしておきます」
そう言いながらも、ユリウスの口元は、どこか楽しそうだった。
(あ、“ありがとう”……)
ミレイユは、胸の中で小さく復唱する。
たぶん、今の一言も、
例の包み紙――
『本当は、“ありがとう”をもっと言いたい』
が効いているのだろう。
その包み紙は、今日もユリウスの胸ポケットに、
きちんと折りたたまれて入っているらしい。
*
午前中は、ユリウスが“おしゃべり席”第一担当の日だった。
ミレイユは少し離れたサブカウンターで、
星飴調整課から回ってくる資料を整理しながら、
時々ロビーの様子に目をやる。
今日も、さまざまな人が「おしゃべり席」を訪れていた。
・“本当は、子どもみたいに甘えたい”と出てしまった若い父親。
・“本当は、後輩をもう少し信用したい”と書かれて困っている上司。
・“本当は、好きな作家のサイン会に行きたい”のに、
「年齢的に恥ずかしい」と躊躇っている図書館司書さん。
ユリウスは、それぞれの包み紙に、
きちんと耳を傾けていた。
(……あ)
ふと、気がつく。
彼は、話し終えた人たちに、
さりげなく「ありがとう」を織り交ぜているのだ。
「お話ししてくださって、ありがとうございます」
「その本音を見せてくださって、光栄です」
「聞かせていただいたおかげで、新しい観測項目が増えました」
相手が驚いて笑って、
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」と返していく。
(ユリウスさんの“ありがとう”、
なんだか、星飴と似てる……)
さりげなく差し出される一粒の甘さ。
受け取った人の顔が、
ふわりとほどけていく。
見ているこちらの胸まで、
じんわり温かくなってしまうのだから、反則だ。
*
「……ミレイユさん」
昼前、サブカウンターで書類をまとめていたところに、
予報課の青年が、慌てた様子で駆け込んできた。
「ど、どうしましたか?」
「その、広報官さんに出す予定だった“夕方の空模様レポート”、
一部、星飴調整課に紛れちゃってて……
工房の方に回っちゃったかもしれないんです」
「工房に……!」
それは、星飴の配合調整にも関わる大事な資料だ。
「わたし、見てきます! すぐ戻りますね」
ミレイユは、書類を置いて、ぱたぱたと工房へ走った。
星飴調整課の工房は、
甘い匂いと、瓶の音と、魔法式天秤の微かな揺れに満ちている。
「課長、どこかに予報課のレポートが紛れ込んでませんか?」
「あー、これかな?」
ポルカ課長が、砂糖袋の山の上から一枚のファイルをひょいと掲げた。
「さっき、“なんだか塩分が足りないレシピだなぁ”って思ってたところ。
食べなくてよかったねぇ」
「本当に食べなくてよかったです……! ありがとうございます!」
ミレイユは、ホッとして胸をなでおろす。
「ユリウスさん、これ待ってますよね。急いで届けます!」
「よろしく頼むよ~」
工房を飛び出し、
書類を抱えてロビーに戻ると――。
ちょうど星飴おしゃべり席がひと段落したタイミングだった。
「ユリウスさん!」
思わず、少し大きな声で呼んでしまう。
視線がぱっとこちらを向いた。
「夕方の空模様レポート、工房に紛れてました。
予報課の方から預かってきました」
「……助かりました」
ユリウスは、ほっとしたように息を吐いた。
「このレポートがないと、“夕暮れ星飴”の配合配分を決められないところでした」
「よかった……」
「シュガールさん、ありがとうございます」
真正面から、まっすぐに告げられる。
「あなたが動いてくれなければ、
この“ありがとう”は、今日言えなかったところでした」
「……っ、い、いえ……!」
頭では“ただの業務連携”だとわかっているのに、
心臓がさっきから落ち着いてくれない。
(“ありがとう”の一言で、こんなに……)
胸の奥で、
小瓶に入れたピンクの星飴が、
ころん、と鳴った気がした。
*
午後の星飴おしゃべり席は、
ミレイユが第一担当だった。
最初の訪問者は、
庁内でも顔なじみの、記録課のおじさんだった。
「やぁ、若いの。ここで“本音を話すと楽になる”って聞いてねぇ」
「いらっしゃいませ。どうぞ、おかけください」
記録課のおじさんは、よっこいしょと椅子に腰掛け、
包み紙を取り出して見せた。
「昨日の晩、うっかり晩酌の前に星飴を舐めちゃってね。
出たのが、これさ」
包み紙には、丸っこい字で一行が残っていた。
『本当は、もっと素直に「ありがとう」って言いたい』
「……!」
ミレイユの胸が、小さく跳ねる。
どこかで見た一行だ。
「家でもさ、つい“これぐらい当たり前だろう”なんて思っちゃってね。
洗い物してくれたり、弁当作ってくれたりしてるのに、
なんか照れくさくて、“ありがとう”って言いそびれるんだよ」
「わかる気がします……」
ミレイユは、こくりとうなずいた。
「でも、星飴にこんなふうに書かれちゃってさ。
“言えないでいるの、自分でも気づいてたんだなぁ”って。
それで、どうしたもんかと思いましてね」
「……“ありがとう”、言ってみたいですか?」
「そりゃ、言えたらいいなぁとは思うよ。
でも、今さら、“いつもありがとう”って、
急に言ったら、変に思われないかなって」
その不安も、よくわかる。
(ユリウスさんだって、
きっと今まで、こういうふうに迷ってたんだ)
昨夜の包み紙を思い出しながら、
胸の中でひとつ、言葉を選ぶ。
「……“今さら”の“ありがとう”って、
案外、すごく効くんじゃないかなって、わたしは思います」
「効く?」
「“昔からずっと思ってたけど、言えてなかったんだよね”の“ありがとう”って、
たぶん、その分だけ、あったかさが溜まってると思うんです」
言いながら、自分でも照れくさくなってしまう。
「たとえば、“昨日の洗い物ありがとう”でもいいし、
“今朝のお弁当ありがとう”でもいいし。
“最近ちょっと元気になってきたの、あなたのおかげだよ”でも」
「……」
「包み紙が、“言った方がいいかもしれないよ”って教えてくれたなら。
その中から、自分で選んだ“ひとつ”だけでも、
どこかのタイミングで、渡してみるのはどうでしょう」
「“渡す”ねぇ」
記録課のおじさんは、腕を組んで考え込む。
「そうか、“ありがとう”って言葉も、
星飴みたいに、“ひと粒ずつ渡す”もんかもしれないねぇ」
「はい。
一気に袋ごと渡そうとすると、
重たくなっちゃうかもしれないので」
ふたりで、くすりと笑い合った。
「じゃあさ、今日帰ったら、
“帰ってきたときにご飯があったことへのありがとう”ぐらいは、言ってみようかな」
「きっと、喜んでくれると思います」
「照れくさくて、顔見て言えなかったら?」
「そのときは、星飴を一粒添えて、包み紙に書いちゃうのもありです」
「なるほど。飴職人らしい提案だねぇ」
記録課のおじさんは、席を立ちながら笑った。
「よし、やってみるよ。
“ありがとう”の練習ってやつをね」
その背中を見送っていたら――。
「……今の話、いいですね」
隣の空いた椅子から、低い声がした。
「ひゃっ」
「人を見て驚かないでください」
いつの間にか、
ユリウスが星飴おしゃべり席に腰を下ろしていた。
「ユリウスさん、いつのまに……」
「“午後の観測メモ”を提出しに来ただけだったのですが、
つい、横で聞き入ってしまいました」
彼は、手に持っていた書類を、
卓子の端にそっと置いた。
「“今さらのありがとうほど、効く”……
いい表現ですね。参考にさせていただきます」
「さ、参考……」
さっきの自分の言葉が、
自分の耳に還ってくるのは、非常に気恥ずかしい。
「――たとえば、そうですね」
ユリウスは、少し視線を落として考えるふりをしたあと、
ふっとミレイユを見る。
「“暴風の日に一緒に走ってくれてありがとう”とか」
「……!」
「“星飴相談窓口を、やってみたいと言ってくれてありがとう”とか」
「……っ」
「“黄昏交差点を、一人で見なくてよくなってありがとう”とか」
ひとつ、ひとつ。
星を皿に並べるみたいに、
丁寧に“ありがとう”を並べていく。
ミレイユの顔は、とうに真っ赤だった。
「ゆ、ユリウスさん、それは……」
「“今さら”ですが、効いていますか?」
「効きすぎです……!」
胸の中で、“ありがとう”が一気にぶわっと溢れて、
どこから返せばいいのかわからなくなる。
(こんな、“ありがとう”の練習帳みたいな会話、反則です……)
それでも。
ミレイユは、深呼吸をひとつして、
自分の言葉も、ひと粒ずつ並べてみることにした。
「……わたしからも、“今さらのありがとう”、言ってもいいですか」
「どうぞ」
「“最初に、飴職人として話しかけてくれて、ありがとうございました”。
“本当は、ひとりで頑張るのがこわいって気持ちに、
ちゃんと気づかせてくれて、ありがとうございました”。
それから――」
顔が熱くても、視線だけはそらさないようにする。
「“星飴を、“こわいもの”じゃなくて、“一緒に使えるもの”にしてくれて、
本当に、ありがとうございます”」
ユリウスのまつげが、ふるりと震えた。
それは、いつも人の本音を受け止めている広報官が、
自分に向けられた本音を受け取ったときの、小さな揺れ。
「……なるほど」
彼は、胸ポケットの包み紙に、そっと指先を触れた。
「“ありがとう練習帳”は、
なかなか書き応えがありますね」
「はい……」
「ですが――」
ふと、ユリウスの目が、
くすりと笑うように細められる。
「“今さら”を言い切ってしまうと、
また新しい“ありがとう”を探さなければならなくなるのが、難点です」
「それは……たしかに」
「ですので、しばらくは、
お互いに“続きが書けそうな余白”を残しておきましょう」
ミレイユは、その言い方が嬉しくて、
思わず笑ってしまった。
「余白、ですね」
「ええ、“星飴の余白”です」
そこには、まだ名前のついていない、
たくさんの“ありがとう”と“好き”と“頼ってもいいよ”が、
こっそり出番待ちをしているのだろう。
*
夕方。
星飴おしゃべり席の本日の札をひっくり返し、
ロビーの照明が少し落とされる頃。
ユリウスは、自分のデスクで、
ひとつだけ小さなメモを取り出した。
『本日の観測結果:
言えたありがとう 七つ
言いそびれたありがとう 少なくとも三つ
——明日の空模様:続きが書けそうな余白多め』
そのメモを見て、
彼は静かに微笑んだ。
机の端には、昨夜と同じ包み紙が置かれている。
『本当は、“ありがとう”をもっと言いたい』
「……少しは、観測値を更新できましたかね」
独り言を言ってから、
彼はそっと包み紙に指先で線を引いた。
新しい一行を増やしたわけではない。
ただ、“もっと”という言葉の下に、
小さく星印をつけただけ。
――この星印の分だけ、
今日も、誰かの胸の中に、
星飴のような“ありがとう”が降ったのだと思えば。
それだけで、
黄昏の空模様は、少しだけ明るく見えた。
*
まだ小瓶の中の恋加速飴は、
静かにそのときを待っている。
けれど、“ありがとう”を交わすたびに、
その星がほんの少しずつ、
舐めやすい高さまで降りてきていることに、ふたりはまだ気づいていなかった。
――特に、一階ロビーの一角。
“星飴おしゃべり席”のまわりは、早くも庁舎の新名所になりかけている。
「今日も“おしゃべり席”開いてるんだねぇ」
「昨日、友だちがここで話したら、すっきりしたって言ってたよ」
そんな声が、ちらほら聞こえてくる。
(なんだか……嬉しいな)
ミレイユは、星模様のクロスの皺を指先で伸ばしながら、
こっそり頬が緩むのを感じていた。
昨日の最後に、ユリウスに「一緒にいてくれて、ありがとう」と言われたこと。
その言葉が、まだ胸の奥で、星飴みたいにゆっくり溶け続けている。
(“ありがとう”って、あんなふうに言われると、反則です……)
思い出しただけで、少し心臓が忙しくなる。
と――。
「おはようございます、“おしゃべり席”ご担当のシュガールさん」
受付カウンターの向こうから、いつもの落ち着いた声がした。
「おはようございます、ユリウスさん」
振り向くと、
飾り眼鏡をかけた広報官が、手に書類の束を抱えて立っていた。
いつも通りのきちんとした制服。
けれど、どこか――ほんの少しだけ、雰囲気が違う気がする。
「受付の皆さん、昨日は案内をありがとうございました」
ユリウスは、ロビー全体に聞こえる声で、はっきりと言った。
「星飴おしゃべり席への誘導がスムーズだったおかげで、
初日として十分な観測ができました。助かりました」
「えっ」
受付の女性が、目を丸くする。
「わ、わざわざ広報官さんからお礼なんて、珍しい……いえ、ありがたいです!」
「……“珍しい”は聞かなかったことにしておきます」
そう言いながらも、ユリウスの口元は、どこか楽しそうだった。
(あ、“ありがとう”……)
ミレイユは、胸の中で小さく復唱する。
たぶん、今の一言も、
例の包み紙――
『本当は、“ありがとう”をもっと言いたい』
が効いているのだろう。
その包み紙は、今日もユリウスの胸ポケットに、
きちんと折りたたまれて入っているらしい。
*
午前中は、ユリウスが“おしゃべり席”第一担当の日だった。
ミレイユは少し離れたサブカウンターで、
星飴調整課から回ってくる資料を整理しながら、
時々ロビーの様子に目をやる。
今日も、さまざまな人が「おしゃべり席」を訪れていた。
・“本当は、子どもみたいに甘えたい”と出てしまった若い父親。
・“本当は、後輩をもう少し信用したい”と書かれて困っている上司。
・“本当は、好きな作家のサイン会に行きたい”のに、
「年齢的に恥ずかしい」と躊躇っている図書館司書さん。
ユリウスは、それぞれの包み紙に、
きちんと耳を傾けていた。
(……あ)
ふと、気がつく。
彼は、話し終えた人たちに、
さりげなく「ありがとう」を織り交ぜているのだ。
「お話ししてくださって、ありがとうございます」
「その本音を見せてくださって、光栄です」
「聞かせていただいたおかげで、新しい観測項目が増えました」
相手が驚いて笑って、
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」と返していく。
(ユリウスさんの“ありがとう”、
なんだか、星飴と似てる……)
さりげなく差し出される一粒の甘さ。
受け取った人の顔が、
ふわりとほどけていく。
見ているこちらの胸まで、
じんわり温かくなってしまうのだから、反則だ。
*
「……ミレイユさん」
昼前、サブカウンターで書類をまとめていたところに、
予報課の青年が、慌てた様子で駆け込んできた。
「ど、どうしましたか?」
「その、広報官さんに出す予定だった“夕方の空模様レポート”、
一部、星飴調整課に紛れちゃってて……
工房の方に回っちゃったかもしれないんです」
「工房に……!」
それは、星飴の配合調整にも関わる大事な資料だ。
「わたし、見てきます! すぐ戻りますね」
ミレイユは、書類を置いて、ぱたぱたと工房へ走った。
星飴調整課の工房は、
甘い匂いと、瓶の音と、魔法式天秤の微かな揺れに満ちている。
「課長、どこかに予報課のレポートが紛れ込んでませんか?」
「あー、これかな?」
ポルカ課長が、砂糖袋の山の上から一枚のファイルをひょいと掲げた。
「さっき、“なんだか塩分が足りないレシピだなぁ”って思ってたところ。
食べなくてよかったねぇ」
「本当に食べなくてよかったです……! ありがとうございます!」
ミレイユは、ホッとして胸をなでおろす。
「ユリウスさん、これ待ってますよね。急いで届けます!」
「よろしく頼むよ~」
工房を飛び出し、
書類を抱えてロビーに戻ると――。
ちょうど星飴おしゃべり席がひと段落したタイミングだった。
「ユリウスさん!」
思わず、少し大きな声で呼んでしまう。
視線がぱっとこちらを向いた。
「夕方の空模様レポート、工房に紛れてました。
予報課の方から預かってきました」
「……助かりました」
ユリウスは、ほっとしたように息を吐いた。
「このレポートがないと、“夕暮れ星飴”の配合配分を決められないところでした」
「よかった……」
「シュガールさん、ありがとうございます」
真正面から、まっすぐに告げられる。
「あなたが動いてくれなければ、
この“ありがとう”は、今日言えなかったところでした」
「……っ、い、いえ……!」
頭では“ただの業務連携”だとわかっているのに、
心臓がさっきから落ち着いてくれない。
(“ありがとう”の一言で、こんなに……)
胸の奥で、
小瓶に入れたピンクの星飴が、
ころん、と鳴った気がした。
*
午後の星飴おしゃべり席は、
ミレイユが第一担当だった。
最初の訪問者は、
庁内でも顔なじみの、記録課のおじさんだった。
「やぁ、若いの。ここで“本音を話すと楽になる”って聞いてねぇ」
「いらっしゃいませ。どうぞ、おかけください」
記録課のおじさんは、よっこいしょと椅子に腰掛け、
包み紙を取り出して見せた。
「昨日の晩、うっかり晩酌の前に星飴を舐めちゃってね。
出たのが、これさ」
包み紙には、丸っこい字で一行が残っていた。
『本当は、もっと素直に「ありがとう」って言いたい』
「……!」
ミレイユの胸が、小さく跳ねる。
どこかで見た一行だ。
「家でもさ、つい“これぐらい当たり前だろう”なんて思っちゃってね。
洗い物してくれたり、弁当作ってくれたりしてるのに、
なんか照れくさくて、“ありがとう”って言いそびれるんだよ」
「わかる気がします……」
ミレイユは、こくりとうなずいた。
「でも、星飴にこんなふうに書かれちゃってさ。
“言えないでいるの、自分でも気づいてたんだなぁ”って。
それで、どうしたもんかと思いましてね」
「……“ありがとう”、言ってみたいですか?」
「そりゃ、言えたらいいなぁとは思うよ。
でも、今さら、“いつもありがとう”って、
急に言ったら、変に思われないかなって」
その不安も、よくわかる。
(ユリウスさんだって、
きっと今まで、こういうふうに迷ってたんだ)
昨夜の包み紙を思い出しながら、
胸の中でひとつ、言葉を選ぶ。
「……“今さら”の“ありがとう”って、
案外、すごく効くんじゃないかなって、わたしは思います」
「効く?」
「“昔からずっと思ってたけど、言えてなかったんだよね”の“ありがとう”って、
たぶん、その分だけ、あったかさが溜まってると思うんです」
言いながら、自分でも照れくさくなってしまう。
「たとえば、“昨日の洗い物ありがとう”でもいいし、
“今朝のお弁当ありがとう”でもいいし。
“最近ちょっと元気になってきたの、あなたのおかげだよ”でも」
「……」
「包み紙が、“言った方がいいかもしれないよ”って教えてくれたなら。
その中から、自分で選んだ“ひとつ”だけでも、
どこかのタイミングで、渡してみるのはどうでしょう」
「“渡す”ねぇ」
記録課のおじさんは、腕を組んで考え込む。
「そうか、“ありがとう”って言葉も、
星飴みたいに、“ひと粒ずつ渡す”もんかもしれないねぇ」
「はい。
一気に袋ごと渡そうとすると、
重たくなっちゃうかもしれないので」
ふたりで、くすりと笑い合った。
「じゃあさ、今日帰ったら、
“帰ってきたときにご飯があったことへのありがとう”ぐらいは、言ってみようかな」
「きっと、喜んでくれると思います」
「照れくさくて、顔見て言えなかったら?」
「そのときは、星飴を一粒添えて、包み紙に書いちゃうのもありです」
「なるほど。飴職人らしい提案だねぇ」
記録課のおじさんは、席を立ちながら笑った。
「よし、やってみるよ。
“ありがとう”の練習ってやつをね」
その背中を見送っていたら――。
「……今の話、いいですね」
隣の空いた椅子から、低い声がした。
「ひゃっ」
「人を見て驚かないでください」
いつの間にか、
ユリウスが星飴おしゃべり席に腰を下ろしていた。
「ユリウスさん、いつのまに……」
「“午後の観測メモ”を提出しに来ただけだったのですが、
つい、横で聞き入ってしまいました」
彼は、手に持っていた書類を、
卓子の端にそっと置いた。
「“今さらのありがとうほど、効く”……
いい表現ですね。参考にさせていただきます」
「さ、参考……」
さっきの自分の言葉が、
自分の耳に還ってくるのは、非常に気恥ずかしい。
「――たとえば、そうですね」
ユリウスは、少し視線を落として考えるふりをしたあと、
ふっとミレイユを見る。
「“暴風の日に一緒に走ってくれてありがとう”とか」
「……!」
「“星飴相談窓口を、やってみたいと言ってくれてありがとう”とか」
「……っ」
「“黄昏交差点を、一人で見なくてよくなってありがとう”とか」
ひとつ、ひとつ。
星を皿に並べるみたいに、
丁寧に“ありがとう”を並べていく。
ミレイユの顔は、とうに真っ赤だった。
「ゆ、ユリウスさん、それは……」
「“今さら”ですが、効いていますか?」
「効きすぎです……!」
胸の中で、“ありがとう”が一気にぶわっと溢れて、
どこから返せばいいのかわからなくなる。
(こんな、“ありがとう”の練習帳みたいな会話、反則です……)
それでも。
ミレイユは、深呼吸をひとつして、
自分の言葉も、ひと粒ずつ並べてみることにした。
「……わたしからも、“今さらのありがとう”、言ってもいいですか」
「どうぞ」
「“最初に、飴職人として話しかけてくれて、ありがとうございました”。
“本当は、ひとりで頑張るのがこわいって気持ちに、
ちゃんと気づかせてくれて、ありがとうございました”。
それから――」
顔が熱くても、視線だけはそらさないようにする。
「“星飴を、“こわいもの”じゃなくて、“一緒に使えるもの”にしてくれて、
本当に、ありがとうございます”」
ユリウスのまつげが、ふるりと震えた。
それは、いつも人の本音を受け止めている広報官が、
自分に向けられた本音を受け取ったときの、小さな揺れ。
「……なるほど」
彼は、胸ポケットの包み紙に、そっと指先を触れた。
「“ありがとう練習帳”は、
なかなか書き応えがありますね」
「はい……」
「ですが――」
ふと、ユリウスの目が、
くすりと笑うように細められる。
「“今さら”を言い切ってしまうと、
また新しい“ありがとう”を探さなければならなくなるのが、難点です」
「それは……たしかに」
「ですので、しばらくは、
お互いに“続きが書けそうな余白”を残しておきましょう」
ミレイユは、その言い方が嬉しくて、
思わず笑ってしまった。
「余白、ですね」
「ええ、“星飴の余白”です」
そこには、まだ名前のついていない、
たくさんの“ありがとう”と“好き”と“頼ってもいいよ”が、
こっそり出番待ちをしているのだろう。
*
夕方。
星飴おしゃべり席の本日の札をひっくり返し、
ロビーの照明が少し落とされる頃。
ユリウスは、自分のデスクで、
ひとつだけ小さなメモを取り出した。
『本日の観測結果:
言えたありがとう 七つ
言いそびれたありがとう 少なくとも三つ
——明日の空模様:続きが書けそうな余白多め』
そのメモを見て、
彼は静かに微笑んだ。
机の端には、昨夜と同じ包み紙が置かれている。
『本当は、“ありがとう”をもっと言いたい』
「……少しは、観測値を更新できましたかね」
独り言を言ってから、
彼はそっと包み紙に指先で線を引いた。
新しい一行を増やしたわけではない。
ただ、“もっと”という言葉の下に、
小さく星印をつけただけ。
――この星印の分だけ、
今日も、誰かの胸の中に、
星飴のような“ありがとう”が降ったのだと思えば。
それだけで、
黄昏の空模様は、少しだけ明るく見えた。
*
まだ小瓶の中の恋加速飴は、
静かにそのときを待っている。
けれど、“ありがとう”を交わすたびに、
その星がほんの少しずつ、
舐めやすい高さまで降りてきていることに、ふたりはまだ気づいていなかった。
0
あなたにおすすめの小説
『召喚されたのは勇者じゃなくて“企画担当”でした。』
星乃和花
恋愛
【全12話+@:火木土21:00更新】
勇者召喚――のはずが、呼ばれたのは天然ボケの一般人ミオ。
相手は“闇の演出”で民の心を折る魔王軍。剣も魔法もない彼女の武器は、なぜか人の呼吸を取り戻す「言葉」と「企画」だった。
ツッコミ役兼・後始末(本人は“運用”と言い張る)のクール参謀レイヴァンは、暴走しがちなミオの企画力を“武器化”するルールを作り、国を守るために淡々と実現していく。
やがて最終決戦は――まさかのライブ配信で公開決戦!
誰も傷つけない勝利条件で、戦を終わらせることはできるのか。
素直に恋が扱えない参謀と、天然で明るいヒロイン。
悪役として完璧に負ける魔王。大号泣しながら次企画を考える広報長。
笑って呼吸して、気づけば恋が進む、スピード感ラブコメファンタジー!
おすすめポイント
・シーン転換が早くて読みやすい。
・言葉・導線・ルール設計で戦う。全体的に「呼吸が戻る」テーマが優しく沁みる。
・企画大好き広報長の大号泣&暴走が、シリアスを重くしすぎず、でも最後はちゃんと泣かせに来る。
・恋の進み方が“じわ甘”で参謀の行動の印象が変わっていく。
『借景の婚約者 ― 学院長代理の計算違い』
星乃和花
恋愛
【全9話+@:月金21:00更新】
学院長が病気療養中で、若き策士紳士セドリックが「学院長代理」に就任。
ある有力貴族が「学院長代理が独身なのは不安材料だ」と寄付を渋り始め、
セドリックは評判回復のために「(仮の)婚約者を立てる」ことを思いつくが――
そこで拾ってしまったのが、家政学科の天然少女リラ。
「……君だ。君に頼みたい」
リラは学園のためになれるならと、喜んで引き受ける。
学園のために寄付金を安定させたい目的だったのに、ふたりの日常に募り始める"恋"はおおきくてーー
少しの緊迫感(6話と8話)も添えた、糖度高めの日常ラブコメです。
皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる
若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ!
数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。
跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。
両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。
――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう!
エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。
彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。
――結婚の約束、しただろう?
昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。
(わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?)
記憶がない。記憶にない。
姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない!
都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。
若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。
後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。
(そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?)
ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。
エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。
だから。
この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し?
弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに?
ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。
踏み台(王女)にも事情はある
mios
恋愛
戒律の厳しい修道院に王女が送られた。
聖女ビアンカに魔物をけしかけた罪で投獄され、処刑を免れた結果のことだ。
王女が居なくなって平和になった筈、なのだがそれから何故か原因不明の不調が蔓延し始めて……原因究明の為、王女の元婚約者が調査に乗り出した。
『猫の手も借りたいのです!〜王宮御用達和菓子屋の恋菓祭繁忙記〜』
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編12話+後日談1話⭐︎
平和になった王都で、空前の和菓子ブーム到来。
王宮御用達・老舗和菓子屋《鶴の屋》王都支店を切り盛りする支店長ユズは、口ぐせみたいに笑う――「和菓子は幸せを運ぶのです」。
ある日、仕事を失ってやつれた元武器職人カイを拾い(招き入れ)、「今、猫の手も借りたい忙しさなのです」と厨房へ迎え入れた。
無口で、視線だけが雄弁な彼は、いつしか立派な和菓子職人に。
恋菓祭が近づくほど、箱に詰めるのは菓子だけじゃなくて――言えない本音、帰る場所、そして「ここで、ずっと」。
甘い湯気の中、支店長の“支店長命令”は通じなくなっていく。
無口な彼の言葉が増えるたび、彼女の毎日も少しずつ変わっていく。
ふわふわ甘い溺愛と、静かな救いを、和菓子に包んでどうぞ。
拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました
星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝――
路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、
気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる