【霧の王太子は花の令嬢にほどける】冷徹王太子×天然令嬢:じれ甘×宮廷癒しファンタジー。

星乃和花

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第四章 手帳と星印の取り替えっこ

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 昼の霧は薄く、王宮の窓硝子にやわらかな白を残していた。
 執務室の扉を叩く小さな音。返事より早く、黒白の猫ルクが隙間からするりと入り、机の上に跳びのった。少し遅れて、蜂蜜色の髪の令嬢。

「失礼いたします。星印の、捺し方講座をお願いに参りました」

「講座?」

「わたし、真ん中に綺麗に押せません。殿下のは、いつも凛としていて」

 シリウスは万年筆を置き、引き出しから紋章入りの朱印と試し紙を出した。
「紙を置く角度を決め、息を止める。腕ではなく、肩で——」

 ぱちん。

 ミレイユの手元に、小さな星が震えながら浮いた。少しだけ右に寄っている。
 彼女は困ったように笑って、もう一度。二度目の星は、逆に左へ寄った。

「真ん中に宇宙があるはずなのに、わたしの宇宙はよく迷子です」

「宇宙を持ち歩くな」

「はい。肩で押す、ですね。……殿下、ちょっと試してもいいですか?」

 彼女は自分の小さな手帳を取り出した。革は柔らかく、角が丸い。開けば、星の小さなスタンプと、可笑しな走り書き。

〈ご機嫌の作法:温・分・星〉
〈今日の“ふわ”は大きめに〉
〈苔が笑った——気がする〉

 彼女は深呼吸をし、肩を落とし、三度目の星を押した。
 今度は、真ん中に凛と光る。

「できました!」

「偶然だ」

「偶然は味方です」

 ルクが机上で丸くなり、尾で“成功”を三回揺らした。
 彼女は胸に手帳を抱え、それから、ふと思いついたように顔を上げた。

「殿下。実験しませんか?」

「断る」

「内容をまだ言っていません」

「どうせ厄介だ」

「“手帳の取り替えっこ”です。砂時計ひとつ分だけ。殿下はわたしの“余白の多い宇宙”を、わたしは殿下の“線の多い宇宙”を持ち歩く。観察の一種です」

 彼は数秒だけ沈黙した。机の上の自分の手帳に視線を落とす。
 それは、幼いころから変わらぬ均一の罫線で、今日という頁にも、ぎっしりと予定が並んでいる。

「規定は三つ」彼は言った。「一、記入は鉛筆。二、勝手に削除するな。三、戻すとき、頁を折るな」

「承知しました。ではこちらも規定を——一、余白を怖がらない。二、星印をひとつ増やす。三、迷子になったら、立ち止まって“ふわ”」

「最後のは規定ではない」

「心得、です」

 彼は渋々と手帳を差し出した。ミレイユも自分の手帳を差し出す。
 取り替えた瞬間、ふしぎな感覚が走った。硬質な紙の重みと、柔らかな革のぬくもり。二つの宇宙の温度差。

「砂時計、ひとつ」

 アーノが気配も音もなく現れ、砂時計を棚から外した。
「殿下。工房組合との面談まで四分の一。……その前に、文官の質問が三件」

「聞く」

 シリウスはミレイユの手帳を片手に立ち上がる。
 片方の頁には、〈“防具を置く勇気”〉と手書き。もう片方には、星形の小さな紙片が貼られ、〈“またやろう”〉の文字。

 彼はそれらを一瞥し、扉へ向かった。

「……殿下」ミレイユが呼ぶ。「もし歩幅が乱れたら、手帳の星を見てください。呼吸の真ん中に、目印を」

「子ども扱いするな」

「子ども扱いはしません。でも、迷子扱いはします」

 彼は半眼になったが、それ以上は言わなかった。



 回廊。
 シリウスは歩きながら、ミレイユの手帳をぱらぱらとめくる。
 星、星、星。余白に短い言葉たち。

〈蜂蜜菓子は防具(投げない)〉
〈歌は呼吸の衣装〉
〈“冷徹”は重石。持ち方の工夫で軽くなる〉

 文字は踊るようだが、無秩序ではない。彼女なりの規則が、柔らかく頁を支えている。
 “余白を怖がらない”。
 見慣れない命題に、彼は目を細めた。

「殿下、質問が三件」

 文官が追いつき、報告と確認。いつもの刈り込み、いつもの決裁。その合間に彼は、知らぬ間に左親指で頁の星をなぞっている自分に気づき、内心で舌打ちをした。
 砂時計ひとつ。
 その短い時間を使って、自分の呼吸に衣装を着せる。くだらない。だが——有効だ。



 一方そのころ、ミレイユは王太子の手帳を両手で持ち、そっと頁を開いた。
 罫線は整い、字は端正。余白は少ない。
 彼女は鉛筆を取り、今日の最後の欄の隅に、小さく書いた。

〈休息の約束:星灯温室(随時)〉

 消せるように薄く。
 さらに小さな星を一つだけ、息を止めて、肩で——

 ぱちん。

 真ん中に凛と。
 うれしくなって、しかしそこで手を止める。殿下の宇宙に、あまり多くを書き込むべきではない。

「……鉛筆だから、怒られたら消しましょうね」

 ルクが机の下からにゃあと応える。
 彼女は扉の外の霧を眺め、立ち上がった。

「ルク。約束の時間になったら、殿下に知らせに行ってね。砂時計が落ちきったら、です」

 猫は尻尾を高く掲げ、王太子の執務室の方角へと悠々と歩き出した。



 砂が落ちきる少し前。
 宰相代理ヴァルンが、訝しげな目で執務室へ顔を出した。

「王太子殿下。工房組合は待たせるな。情は——」

「害、でしょう?」
 ミレイユは微笑み、テーブルの端に“置くだけの防具”をそっと置いた。包み紙に御用達の印。

「またそれか」ヴァルンは鼻で笑う。「王政に菓子は要らぬ。ましてや、薄っぺらな星印も」

「星印は薄くても、灯りは点きます」

「言葉遊びは、王を甘くする」

 ヴァルンが去ろうとしたとき、砂時計が静かに終わりを告げた。
 ほぼ同時に、ルクが軽やかに扉をくぐる。鈴が、ちり、と鳴る。

「殿下、砂が終わりました」

 回廊の向こうから、低い声。「わかっている」

 シリウスが戻ってきた。手にはミレイユの手帳。
 ミレイユは彼に、彼の手帳を返した。彼は受け取り、何気なく今日の頁を開き——止まる。

 頁の隅に、小さく鉛筆で記された文字。
〈休息の約束:星灯温室(随時)〉
 そして、真ん中に凛と光る小さな星。

「……鉛筆です。怒られたら消します」

 ミレイユは先回りして言った。
 彼は返事をしない。代わりに、引き出しから朱印を取り出す。

 ぱちり。

 鉛筆の小さな星の隣、王太子の星印が静かに重なった。二つの星が、重ねて輝く。

「消すな。責任は俺が負う」

 彼の声は、硬くも柔らかくもない。真ん中に落ちる声。
 ミレイユは胸の前でそっと手を重ね、小さくうなずいた。

「では、休息の約束を履行しましょう。星灯温室へ」

「十分だけだ」

「砂時計ひとつ分ですね。了解です」



 温室。
 苔が昼の余熱を保ち、薄く息をしている。ミレイユはポットに湯を落とし、ミルクを温めた。
「今日は“半分こ”にしましょう。殿下の重石と、わたしの余白」

「抽象は要らない」

「では具体。殿下は十口、わたしは七口。残りの三口は、ルク」

 猫が得意げに鳴き、苔がふっと明るむ。
 短い静けさ。湯気の向こうで、彼の肩の線が少しだけ緩む。
 彼女は小さく唄い、“あわせ”の旋律を低く短く置いた。彼の呼吸がそれに重なり、ほどなく静かに凪いでゆく。

「……うるさい」

「だが続けろ、ですか?」

 答えはない。だが、彼の沈黙の形は、昨日よりも優しい。

 ミレイユはポケットから封筒を取り出した。
「殿下、今宵の夜会のご案内が来ていました。外交使節団を迎える舞踏会。わたしのところにも。裾を踏まない自信がありません」

「自信がないことは、しないのか」

「します。やってから反省します」

「それは最悪だ」

「では、今から練習します」

 彼女はドレスの裾を両手でつまみ、ほんの少しだけ持ち上げた。
「“とん・とん・とん、ふわ”。歩幅合わせの応用で、ワルツの練習。殿下、お付き合いを」

「ここで踊るな」

「歩くのです。音楽のない四重奏——殿下とわたしと、苔とルク」

 彼は肩で息をつき、無言で手を差し出した。ミレイユはその手にそっと自分の手を重ねる。
 “とん・とん・とん、ふわ”。
 温室の中を、歩く。すべらないように、息を合わせて。
 角を曲がる瞬間、ミレイユの足が苔の脇にひっかかり、ふらり、と体が傾いた。

 彼の腕が、反射で彼女の腰を支える。

「——倒れるな。命令だ」

「はい。殿下の腕の中では」

 彼は彼女をまっすぐに立たせ、手を離した。
 ミレイユは赤くなった指先を胸元に戻し、こくりと頷く。

「夜会では、殿下はお忙しいでしょうから。わたし、隅っこで“苔の見回り”をしています」

「舞踏会に苔はない」

「床にも星が落ちているはずです。拾いもの担当を自任します」

「裾を踏むな」

「努力します。……その、もし、また倒れそうになったら」

 彼は短く言う。「受け止める」

 それ以上、言葉はいらなかった。
 砂時計は、温室の棚で静かにまた始まっている。
 “休息の約束”は履行された。頁の隅で、二つの星が重なって、霧の昼を照らしている。



 夕刻。
 ミレイユは部屋に戻り、夜会の準備に取りかかった。靴の底を磨き、裾の長さをほんの少しだけ調整する。ポケットには、小さな蜂蜜菓子と、薄いハンカチ。
 鏡に向かって、彼女は小さく唱える。

「温・分・星。……“ふわ”を忘れない」

 回廊の遠い方で、音楽の試し弾きがひとふしだけ聞こえた。
 霧は今夜、少し薄いかもしれない。夜会の灯りは、星灯とよく似ている。
 彼女は扉に手をかけ、深呼吸を一つ。胸の中の小さな雨雲は、今日はおとなしい。

 王太子の手帳には、もう一つ、細い文字が増えていた。

〈夜会——“あわせ”の可能〉

 それを書いたのが誰か、彼女は知らない。
 けれど、知っているような気もした。

 ——星印。
 今夜、もう一つ増やせるだろうか。
 ミレイユは笑い、扉を開けた。霧の国に、音楽の灯がひとつ、またひとつ灯る。
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