【霧の王太子は花の令嬢にほどける】冷徹王太子×天然令嬢:じれ甘×宮廷癒しファンタジー。

星乃和花

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第五章 霧の夜会、裾と噂と拾いもの

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 王宮大広間の扉が開くと、夜の霧は外に置いてきたはずなのに、天井のシャンデリアの光が細かい粒になって漂い、星灯によく似た灯りを作っていた。
 音楽は軽く、しかし礼法は重い。裾がうごめき、扇がさざめき、挨拶の言葉が表面張力で並んでいく。

 ミレイユは壁際の柱の陰、床の模様を眺めるふりをして、ほんの少しだけ深呼吸をした。
 “温・分・星”。
 余白を忘れない。歩幅は“一・二・三・ふわ”。

「クローバー令嬢」

 従妹エリゼが駆け寄ってきて、小声で囁く。
「裾は二指分上げて歩くの。夜会床は磨きが強くてすべるから。——それから、今日の噂、もう回ってるわ」

「噂?」

「殿下が“歌をねだった”って」

「呼吸を頼まれた、の言い間違いね」

「そう。だから“歌は呼吸の衣装”って説明したのだけれど、余計に詩的になってしまって」

 ミレイユは苦笑し、扇で自分の頬をひとあおぎした。
「詩で曇るときは、蜂蜜で拭えばいいのだけど」

「会場で蜂蜜を取り出すのはやめなさいね」

「“置くだけの防具”です。投げません」

 くす、と笑いがこぼれる。
 と、視線の先で音楽が一段上がり、正面扉の方に小さなざわめきが走った。

 王太子シリウスが入場した。礼装は夜の藍。肩からのマントは新しく金の糸で端が整えられている。彼の横顔はいつも通り静かで、目だけが夜会の温度を測るように淡い光を拾っている。

「殿下だわ」
「殿下は笑わないから安心よね」
「片眉が上がると、今日の議題が進むのよ」

 こそこそが霧のように広がり、侍従長アーノの視線ひとつで薄まっていく。宰相代理ヴァルンは外使節と何やら話し合っており、その口の端は相変わらず固い。

 ミレイユは自分の役割を思い出す。
 ——拾いもの担当。
 床に落ちた星(=誰かの気持ちや、場の余白)を拾って、テーブルの真ん中にそっと戻す。

 最初に見つけた星は、外使節の袖口から外れた銀の飾りボタンだった。彼女は人の流れを縫い、するりと拾い、最敬礼に近い角度で差し出す。

「落とされました」

 使節の男は一瞬きょとんとし、それから目尻をやわらげた。
「礼を言おう、レディ」

 銀のボタンが袖に戻ると、彼の言葉の角がひとつ丸くなった。些細な回復。けれど、場はこういう継ぎ目で持つ。

 次に見つけた星は、舞踏の輪の外れに立ちすくむ下級官吏の青年だった。靴の光り方でわかった。彼は踊りを知らない。ミレイユは笑って近づき、扇の影でそっと囁く。

「“一・二・三・ふわ”。壁に合わせて歩くだけで、踊って見えます」

「……やってみます」

 青年は輪に入り、壁沿いに歩き出した。本当に、踊って見える。苔のない床でも、歩幅は魔法だ。

「クローバー令嬢」

 背筋をすっと撫でるような低い声。
 振り向くより先に、香りで誰かわかった。洗濯部の功績。星灯みたいな清澄。

「殿下」

「裾を、二指上げろ」

「はい。努力します」

「努力ではなく実行だ」

「はい。実行します」

 彼は視線だけで広間の真ん中を示す。
 楽団が次の曲を置いたところだった。三拍子。
 彼は手を差し出さない。礼法に従えば、ここで求められるのは招きと受諾の形式だけれど、彼はただ隣を歩き出す。

「歩幅合わせの応用でいく」

「“一・二・三・ふわ”ですね」

 並ぶ。歩く。すべらないように。呼吸を衣装にして。
 輪の影を通り、柱の間を抜け、鏡台の前で軽くステップを刻む。ミレイユの足先が床の光の線を踏み、わずかにぐらついた瞬間——

 腰に確かな手。

「——倒れるな。命令だ」

「はい。殿下の腕の中では」

 支える腕がほどけ、手が離れる。他の誰にも気づかれない時間で、彼は横顔のまま、低くつぶやいた。

「見事なステップだ」

「わたし、踏みました」

「だから言った」

「……褒め言葉ですか?」

「指摘だ」

「うれしい指摘です」

 不意に、空気が少し変わった。
 ヴァルンが外使節とともに近づいてくる。使節は先ほどの男だ。袖口には銀のボタンが戻っているが、その目は厳しい。

「王太子殿下」使節が言う。「御国の“律”について伺いたい。噂に聞く。王族の感情が紋を震わせ、灯りが揺らぐと」

 ヴァルンが冷ややかに続ける。「情は害。殿下はご承知のはず」

 ミレイユの背筋がすっと伸びる。場の空気が乾く音がする。
 シリウスは一拍だけ置き、静かに答えた。

「律は秩序だ。秩序は感情を封じるためでなく、運ぶためにある」

 使節の眉がわずかに動いた。
 ヴァルンは僅かに鼻で笑い、言葉に刃を足す。「しかし、歌で苔が光ると囁かれている。政に詩は要らぬ」

 ミレイユは一歩、半歩、前へ。扇を閉じて、礼法ぎりぎりの位置に立つ。
「詩は要りません。呼吸が要ります。苔は歌で光るのではなく、呼吸が整うと光ります」

 彼女は足先で床の模様の円を示した。
「この輪の歩幅が揃うと、誰もぶつかりません。苔も同じで、巡視と湿度が合うと落ち着く。——“情は害”という言葉も、使い方次第で防具になります」

 使節が目を細めた。「どういうことか」

「怒りに情を足すと害になる。でも、思いやりに情を足すと、場を持たせる力になります。蜂蜜みたいに」

 ヴァルンの口角がわずかに引きつる。
 シリウスは横目で彼女を制し——制しきらない。視線の端に、かすかな許しがあった。

「試してみるといい」シリウスが静かに言う。「先ほどの袖の礼に、使節殿に“置くだけの防具”を」

 アーノがほぼ無音で現れ、小さな皿を差し出す。王宮御用達の蜂蜜菓子が一つだけ。
 使節は皿を見つめ、そして、意外なほど穏やかに笑った。

「礼には礼を。殿下、そしてレディ。——情は、害ではなく、味だ」

 ヴァルンの睫毛がぴくりと動いた。
 使節が去ると、周囲の空気の角がひとつ溶けた。
 ミレイユは胸のあたりで小さく手を重ね、“よし”と自分に頷く。

「……うるさい」

 横でシリウスが言う。
「だが続けろ」

「はい」

 音楽が緩み、輪が解ける。
 ミレイユは柱の陰に退きかけて、ふと、靴紐の具合を確かめるために屈んだ。
 その時、背後から裾を軽く踏まれた。わざと、ではない——と思いたい。だが、踏んだのはきっと、彼女の“ズレ”に慣れていない誰かだ。

 布が引かれ、身体が後ろへ持っていかれる。
 反射で振り向くより早く、腕が腰をさらう。

「——倒れるな。命令だ」

 二度目の命令は、少しだけ甘い。
 ミレイユは吸い込んだ息をそのまま抱きしめ、うなずいた。

「殿下。今の、星印にしましょう」

「どこに捺す」

「ここに」

 彼女は扇の内側、骨の根元を示した。
 シリウスは、わずかな笑みを唇の奥で押し殺すように、扇を受け取る。
 朱印はない。代わりに、金の栞の角で小さく星形の押し跡をそっと——外からは絶対に見えないところに——残す。

「——またやろう」

「はい」

 扇を畳むと、星は消える。けれど、触れた指先は覚えている。
 彼女は扇を胸元に返し、深く深呼吸をして、笑った。

「殿下、裾、二指分」

「忘れるな」

「はい。忘れません」

 音楽が変わり、外使節と宰相代理が再び議論を始める。言葉はさっきより角が少ない。
 アーノが遠目に頷き、エリゼが親指を小さく立てる。
 ミレイユは拾いもの担当として、床の小さな“星”をもう一つ——落ちた花飾りを台座に戻しながら、ふと天井を見上げた。

 シャンデリアの光が揺れ、夜会の霧がやさしく光る。
 星灯温室の苔の灯りと、同じ呼吸で揺れている気がした。



 夜会がおわり、回廊に静けさが戻る。
 ミレイユは自室へ向かう途中、人気のない窓辺で足を止めた。ガラスに、霧が薄く指を受けとめる。

 彼女は指先で小さな星を一つ描いた。すぐに消える、儚い星。
 その背後で、低い声。

「余白は確保できたか」

 振り向くと、シリウスが立っていた。肩の線が夜会の喧騒を降ろし終えた形をしている。

「はい。殿下は?」

「十分ではないが、足りる」

「なら、半分こにしましょう。——“一・二・三・ふわ”の残り」

 彼はわずかに目を細め、窓ガラスに触れない距離で寄る。
「今夜は寄り道を許す。俺の腕の中で」

 扉の外では、遠くで鈴が一つ。ルクがどこかで見回りをしているのだろう。
 ミレイユはうなずき、彼の腕の内側に、ほんのひととき身を収める。礼法に触れない、夜会の終わりの寄り道。

 抱擁は短く、けれど“星印”としては十分だった。
 彼が離れ、低く言う。

「——またやろう」

「はい。殿下。次は、温室で」

「裾を忘れるな」

「二指分、です」

 二人は別々の回廊へ歩き出す。歩幅は“一・二・三・ふわ”。
 霧はもう薄かった。星灯の灯りが、床に細かい星を落としている。
 拾いもの担当は、今夜も任務を達成した。

 手帳の今日の頁の隅には、見えない星がひとつ、確かに増えている。
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