【霧の王太子は花の令嬢にほどける】冷徹王太子×天然令嬢:じれ甘×宮廷癒しファンタジー。

星乃和花

文字の大きさ
11 / 15

第十一章 鎮霧礼(ちんむれい)——律と小歌の重ね

しおりを挟む
 その夜、王都の地図のいちばん奥——白く塗りつぶされていた区域に、人が入った。
 名は霧蔵(きりぐら)。国土の悲しみを貯め、星灯へと運び直すための古い貯槽(ちょそう)。
 扉の縁には、先王の律紋、さらに幾重にも継ぎ足された時代ごとの線。金継ぎの粉が、古いひびに穏やかに光る。

「形は守る。境いの印はこの白線。越えるのは——殿下と、わたくし。そして鐘守(かねもり)と侍従長」

 アーノが淡々と確認し、鐘守の老婆がうなずいた。彼女の掌には小さな鐘が二つ——三拍と余白を告げるためのもの。
 遠巻きに宰相代理ヴァルン。眉間に刃はない。視線だけが鋭い。

 シリウスが一歩、前に出る。
 藍のマントの胸元に、見えない星がひとつ(ミレイユが押した凹み)。手の甲の律紋が、静かに起動を待っている。

「行く。クローバー令嬢」

「はい。……呼吸は衣装、先に着ました」

 扉が開く。
 中は霧ではなく白い潮——音を吸うほど静かな、冷たい湿り気。石床の目地に星灯の苔がうっすらと張り付き、脈が合えば灯る、その直前の脈動で止まっている。

 鐘守が小さな鐘を一打。
 とん・とん・とん、ふわ。
 アーノが背後の境いに砂時計を置く。「一つ分。延長は殿下の判断で」

 シリウスは右手を霧蔵の中へ差し入れ、律の初期紋を展開する。幾何の線が空中に薄く灯り、管のような路が霧蔵の奥へ引かれていく。
 同時に、ミレイユは声を使わず、胸の奥でひとつ拍を置いた。呼吸の衣装——無声の小歌。曲線が、彼の線に寄り添う。

 苔が、ひかりを一つ。
 灯りは走る——はずだった。
 だがその瞬間、霧蔵の底から古い涙の匂いが立ちのぼり、律紋が一度、鋭く暴れた。
 シリウスの肩がきつく張る。指先の線が、ほんの少し、封ずる角度へ傾く。

「殿下、持ち手です」

 ミレイユは一歩踏み込み、彼の肘の少し下——筋の張るところに自分の掌を添えた(礼法ぎりぎりの“補助”)。
「重石は落とさず、持ち手を広く。わたしが“ふわ”を支えます」

 彼は短く目を閉じ、うなずく代わりに息を吐いた。
 うるさい。——だが、続けろ。

 彼の線が角を失い、運ぶ角度へ戻る。
 ミレイユの無声の小歌が、曲線でその線を包む。
 線と曲線が重なるところに、苔の脈がひとつ、ふたつ——

 灯りが、やわらかく走った。

 鐘守がふた打、三打、そしてふわ。
 背後の境いでは、アーノが短く頷き、合図の旗をふる。門外の回廊、さらに市中へ。
 広場ではパン屋の老女が列を整え、書記官の青年が通達の写しを掲げる。「温・分・星——歌は要らない。歩幅を、呼吸を」
 町の呼吸が揃い、霧蔵の内部の灯りがそれに呼応する。

 奥の槽がうなり、悲しみが気圧のように押し返してくる。
 幼いすすり泣き、別れの息、言えなかった「ありがとう」。
 ミレイユの胸の雨雲が一瞬だけ膨らむ。

「泣くな。命令だ」

 彼の声は低く、真ん中に落ちた。
 命令は防具だ。——投げない。置くだけ。
 ミレイユは目を閉じ、“了解”の息で返す。涙の代わりに、余白を、胸の内側に貼る。

「アーノ」シリウスが短く呼ぶ。「結び目、第二点」

「御意」

 侍従長は古い機構の紐を引き、油を差し、持ち手を増やす。
 律の路が二本に分かれ、霧蔵の両側壁へ。
 ミレイユがその間で、**“あわせ”**の息を置く。三拍と余白。余白は——君が置いた。

 苔が、今度は面(おもて)で灯った。
 白い潮が、ゆっくり運ばれはじめる。
 押し返す古い涙はまだ強い。が、その勢いは、運ばれる路を見つけて素直に流れを変える。

 境いの外で、ヴァルンが無意識に蜂蜜菓子へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。……捨てない。
 「条件は守られている」と彼は低く言い、誰にともなく頷く。歌唱の強制なし。集いの上限内。報告は記録中。

 砂時計の砂が最後の細い流れになるころ。
 霧蔵の底のひび割れに、金継ぎの光がすっと通った。
 最後の抵抗。痛みの残り香が、ミレイユの喉まで上がってくる。

「殿下、“ふわ”が足りません」

 彼は迷わず片手を差し出す。「俺のをやる」
 指先が触れる。礼法のぎりぎりの補助。
 彼の余白が、彼女の胸の内へ移る。
 ミレイユはそこで初めて、声にしないままひとしずくだけ高い息を置いた——無声の小歌の頂(いただき)。

 苔が満ち、静まる。
 霧蔵が、呼吸を思い出す。
 灯りは封じられず、運ばれ、王都の星灯へ薄金の筋を渡していった。

 鐘守が最後の一打を置き、ふわで締める。
 アーノが砂時計を倒し、終了。境いの星印が一つ、静かに灯った。

「——完了」
 シリウスの声は硬くも柔らかくもない、真ん中。
 彼は律紋を収め、深くひとつ息を吐いた。胸の内側のふわは、もう探さなくても見つかる。

 ミレイユは扇を胸に戻し、笑って、膝が少し抜けた。
 すぐに、腰を支える確かな手。

「倒れるな。命令だ」

「はい。殿下の腕の中では」

 支えがほどける。
 彼女は小さく会釈し、金の栞を取り出した。栞の角で、霧蔵の扉の内側——誰にも見えないところに、ごく小さな星の凹みを一つ。
「返却期限:またやろう」

「規定外だ」

「でも、灯ります」

 彼は半眼になり、しかし否定はしない。
 境いの外では、ヴァルンが短く肩を落とし、「星灯守(常置)……賛成に回る条件に、今のを加える」とだけ告げた。
 アーノが深く一礼する。「御意」

 ルクが霧蔵の前で鈴を鳴らし、「成功」を一度だけ尾で描いた。



 外へ出ると、王都の灯りはやわらかかった。
 市場の棚、回廊の柱、温室のガラス。あらゆる苔が息を揃えている。
 人々は歌わない。ただ、歩幅と呼吸で礼を伝える。
 “とん・とん・とん、ふわ”。

 ミレイユは空を見上げた。霧の切れ間に星。
 シリウスが隣に立つ。礼法を守る距離で、しかし寄り道の匂いがする距離。

「殿下。重石は——」

「落としていない。持ち手を広くした」

「合格です。星印を」

 彼は懐から朱印を出し、彼女の手帳の“今日”に三つ——間をゆったりと空けて、押す。
 ぱちり。ぱちり。ぱちり。

「三つ?」

「一つ目は“運んだ”。二つ目は“持ち手”。三つ目は——君」

 胸の奥の雨雲が、虹の予感に変わる。
 ミレイユは笑いを堪えられず、しかし礼法を守って小さな声だけで言う。

「殿下。今夜は——」

「寄り道を許す。……俺の腕の中で」

 扉の影、誰にも見えない角。
 抱擁は短い。けれど、星印としては十分だ。

 離れると、彼は低く言った。
「——またやろう」

「はい。次は“公(おおやけ)の星印”を」

「わかっている」

 アーノが遠巻きに頷き、ヴァルンが鼻を鳴らして視線を逸らす。捨てなかった蜂蜜菓子が、彼の指でそっと半分に割られた。



 その夜遅く。
 王太子執務室の机上、決裁印の横に一枚の布。
 星灯守(常置)設置令——「律は封じず運ぶ。作法は煽らず揃える。」の条。
 欄外に、小さな星。
 朱印を打つ前に、彼はふと窓に星を描き、指で拭う。——誰も見ない星。だが、確かに灯った。

 ミレイユの部屋。
 手帳の“今日”の欄には、三つの星。その下に短い三行。

〈一、重石は落とさない。持ち手を広く。
 二、呼吸は衣装。先に着る。
 三、“またやろう”を目印に。〉

 彼女は手帳を胸に当て、猫の鈴に「了解」を預けた。
 星灯温室の苔が、遠くでふいに明滅し、すぐ安定する。

 ——次の頁は、公(おおやけ)の約束。
 霧は薄く、夜はやさしい。
 線と曲線の重なりに、金が一筋、増えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました

星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎ 王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝―― 路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。 熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。 「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」 甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。 よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、 気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて―― しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!? 「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」 年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。 ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。

『階段対策会議(※恋愛)――年上騎士団長の健康管理が過剰です』

星乃和花
恋愛
【完結済:全9話】 経理兼給仕のクラリスは、騎士団で働くただの事務員――のはずだった。 なのに、年上で情緒に欠ける騎士団長グラントにある日突然こう言われる。 「君は転倒する可能性がある。――健康管理対象にする」 階段対策会議、動線の変更、手をつなぐのは転倒防止、ストール支給は防寒対策。 全部合理的、全部正しい。……正しいはずなのに! 「頬が赤い。必要だ」 「君を、大事にしたい」 真顔で“強い言葉”を投下してくる団長に、乙女心を隠すクラリスの心拍数は業務超過。 さらに副団長ローレンは胃薬片手に「恋は会議にするな!!」と絶叫中!? これは健康管理?それとも恋愛? ――答え合わせの前に、まず“階段(概念)“をご確認ください。

冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件

水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」 結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。 出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。 愛を期待されないのなら、失望させることもない。 契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。 ただ「役に立ちたい」という一心だった。 ――その瞬間。 冷酷騎士の情緒が崩壊した。 「君は、自分の価値を分かっていない」 開始一分で愛さない宣言は撤回。 無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。 以後、 寝室は強制統合 常時抱っこ移動 一秒ごとに更新される溺愛 妻を傷つける者には容赦なし宣言 甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。 さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――? 自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。 溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

暴君幼なじみは逃がしてくれない~囚われ愛は深く濃く

なかな悠桃
恋愛
暴君な溺愛幼なじみに振り回される女の子のお話。 ※誤字脱字はご了承くださいm(__)m

好きすぎます!※殿下ではなく、殿下の騎獣が

和島逆
恋愛
「ずっと……お慕い申し上げておりました」 エヴェリーナは伯爵令嬢でありながら、飛空騎士団の騎獣世話係を目指す。たとえ思いが叶わずとも、大好きな相手の側にいるために。 けれど騎士団長であり王弟でもあるジェラルドは、自他ともに認める女嫌い。エヴェリーナの告白を冷たく切り捨てる。 「エヴェリーナ嬢。あいにくだが」 「心よりお慕いしております。大好きなのです。殿下の騎獣──……ライオネル様のことが!」 ──エヴェリーナのお目当ては、ジェラルドではなく獅子の騎獣ライオネルだったのだ。

ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました

大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――

義姉の身代わりで変態侯爵に嫁ぐはずが囚われました〜助けた人は騎士団長で溺愛してきます〜

涙乃(るの)
恋愛
「お姉さまが死んだ……?」 「なくなったというのがきこえなかったのか!お前は耳までグズだな!」 母が亡くなり、後妻としてやってきたメアリー夫人と連れ子のステラによって、執拗に嫌がらせをされて育ったルーナ。 ある日ハワード伯爵は、もうすぐ50になる嗜虐趣味のあるイエール侯爵にステラの身代わりにルーナを嫁がせようとしていた。 結婚が嫌で逃亡したステラのことを誤魔化すように、なくなったと伝えるようにと強要して。 足枷をされていて逃げることのできないルーナは、嫁ぐことを決意する。 最後の日に行き倒れている老人を助けたのだが、その人物はじつは……。 不遇なルーナが溺愛さるまで ゆるっとサクッとショートストーリー ムーンライトノベルズ様にも投稿しています

処理中です...