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第一話 婚約者の影
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侯爵家の紋章が金糸で刺繍された天蓋の下、馬車は石畳の轍に合わせて静かに揺れた。
カーテンの隙間から覗く空は、夕暮れをすでに手放し、群青がじわりと滲み始めている。
わたし――エリーナ・ローレンスは手袋の端を指先で整え、胸の奥の鼓動を数えた。
政略の婚約。言葉にすればそれだけのことだ。
けれど、その内側に人の暮らしと気持ちがあることを、わたしは知っている。
婚家と実家、領民と家臣、そして何より、見知らぬ婚約者の一日一日。
うまくやれるだろうか。いいえ、やりたい。
わたしは深く息を吸い、視線を窓の外へと戻した。
門は想像していたよりも質素で、けれど揺るぎない。
鉄製の唐草模様を月が撫で、屋敷へ続く並木道に小さな光の粒が落ちた。
馬車が中庭に止まる。扉が開き、冷えた夜気が頬に触れる。
「お待ちしておりました、ローレンス嬢」
出迎えの老執事は背筋が真っ直ぐで、声に無駄がない。
その背後には整然と並ぶ従者とメイドたち。
彼らの礼に会釈を返しつつ、わたしは中へ案内される。
磨き込まれた床、壁にかかる油彩、真鍮の燭台。
すべてが格式を語りながら、不思議と冷たくはなかった。
「当主がお待ちでございます」
二階の回廊を渡り、客間に通されると、そこに彼はいた。
若くして爵位を継いだという青年侯爵、カイル・フォン・アルディーニ。
噂に聞いた通り、均整の取れた姿。
黒に近い深い青の礼服が肩幅の広さを強調し、視線は、まっすぐ――。
「ようこそ。我が家へ」
低い声だった。冷たさはないのに、どこか湖面のように静かで波を立てない。
わたしは膝を折り、礼をとる。
「お招きに感謝いたします。エリーナ・ローレンスと申します。これから、どうぞよろしく」
顔を上げると、彼の睫毛がわずかに震えた。
それが微笑の前触れだと知るのに、数拍かかった。
誰かに向け慣れていない、ぎこちない笑み。けれど、その不器用さが誠実に見えた。
「長旅で疲れただろう。部屋を整えてある。まずは休むといい」
そう言って差し出された手は、温かかった。
噂にある“冷徹”という言葉が、少しだけ遠のく。
***
案内された部屋は、南側の庭に面していた。
窓辺にはレースのカーテン、壁には小さな野花の油彩。
執事が退出すると、静けさだけが残る。
荷をほどき、夜着に着替え、わたしは窓辺に立った。
庭園の向こう、東の空にまあるい月。
その光は、屋敷の長い廊下に斑の模様をおとしている。
遠くで、一つ、また一つ、時計が時を告げた。
――眠れない。緊張のせいだろうか。
水でももらおうと扉に手をかけ、そっと廊下へ。
足音を殺して歩くと、ふいに気配を感じた。
回廊の端。窓に切り取られた夜の青。
そこに立つ背の高い影が、月を見上げている。
肩がわずかに上下し、手すりを掴む指に力がこもっている。
呼吸が乱れている――。
「……夜は、長い」
囁きは、自分に言い聞かせるようで、そして滲むように脆かった。
その横顔が月にさらされる。
強く結ばれた唇。張り詰めた喉。
整った面差しのどこかが、震えている。
わたしは息を呑んだ。
青年侯爵――カイル様だ。
当主の肩に宿る重さを知る人の、どうしようもない無力の瞬き。
見てはいけないものを見てしまった気持ちと、どうしても目を逸らせない衝動が胸の中でぶつかる。
声をかけるべき? でも、彼はきっと、それを望まない。
秘密の形は、時に触れただけで崩れてしまうから。
踵を返そうとして、床板がかすかに鳴った。
影がこちらを向く。
月明かりが瞳に落ち、灰色の光が揺れる。
「……誰だ」
「失礼を。……わたしです。エリーナです。お休みの挨拶をと思い、でも……」
言い訳はそこでほどけた。
彼は一瞬、何かを飲み込み、それからいつもの――多分、人前のそれ――を取り戻す。
「こんな時間に歩かせてすまない。執事を呼ぼう」
「いいえ。わたしが勝手に……。ただ、夜風が綺麗で」
自分でも驚くほど、自然に言葉が落ちた。
月光が床に薄い道を作る。
わたしはその道のぎりぎりのところで足を止め、礼をする。
「おやすみなさいませ、カイル様」
彼は少しだけ目を伏せ、短く頷いた。
その仕草が、救われた人のそれに見えたのは、気のせいだろうか。
廊下を離れ、扉を閉じる。
背に木材の温度を感じながら、わたしは胸の前で手を組んだ。
――夜を、恐れている。
あの人はきっと、長いあいだひとりで夜をやり過ごしてきた。
ならば、わたしにできることはあるだろうか。
手袋の内側で指先が熱を持つ。
婚約は紙に記された取り決めだけれど、同時に、誰かのそばに立つ約束でもある。
わたしは小さく頷いた。
「急がないでいい。けれど、逃げないでいよう」
寝台に身を横たえ、目を閉じる。
廊下を渡ってきた月光が、カーテン越しに薄く揺れた。
わたしはその揺れを数えながら、知らないうちに眠りへ落ちていった。
そしてその夜の終わりに、心のどこかで確かに思ったのだ。
これは始まりだ、と。
彼の“欠け”を抱きしめるための、長く、やさしい物語の。
カーテンの隙間から覗く空は、夕暮れをすでに手放し、群青がじわりと滲み始めている。
わたし――エリーナ・ローレンスは手袋の端を指先で整え、胸の奥の鼓動を数えた。
政略の婚約。言葉にすればそれだけのことだ。
けれど、その内側に人の暮らしと気持ちがあることを、わたしは知っている。
婚家と実家、領民と家臣、そして何より、見知らぬ婚約者の一日一日。
うまくやれるだろうか。いいえ、やりたい。
わたしは深く息を吸い、視線を窓の外へと戻した。
門は想像していたよりも質素で、けれど揺るぎない。
鉄製の唐草模様を月が撫で、屋敷へ続く並木道に小さな光の粒が落ちた。
馬車が中庭に止まる。扉が開き、冷えた夜気が頬に触れる。
「お待ちしておりました、ローレンス嬢」
出迎えの老執事は背筋が真っ直ぐで、声に無駄がない。
その背後には整然と並ぶ従者とメイドたち。
彼らの礼に会釈を返しつつ、わたしは中へ案内される。
磨き込まれた床、壁にかかる油彩、真鍮の燭台。
すべてが格式を語りながら、不思議と冷たくはなかった。
「当主がお待ちでございます」
二階の回廊を渡り、客間に通されると、そこに彼はいた。
若くして爵位を継いだという青年侯爵、カイル・フォン・アルディーニ。
噂に聞いた通り、均整の取れた姿。
黒に近い深い青の礼服が肩幅の広さを強調し、視線は、まっすぐ――。
「ようこそ。我が家へ」
低い声だった。冷たさはないのに、どこか湖面のように静かで波を立てない。
わたしは膝を折り、礼をとる。
「お招きに感謝いたします。エリーナ・ローレンスと申します。これから、どうぞよろしく」
顔を上げると、彼の睫毛がわずかに震えた。
それが微笑の前触れだと知るのに、数拍かかった。
誰かに向け慣れていない、ぎこちない笑み。けれど、その不器用さが誠実に見えた。
「長旅で疲れただろう。部屋を整えてある。まずは休むといい」
そう言って差し出された手は、温かかった。
噂にある“冷徹”という言葉が、少しだけ遠のく。
***
案内された部屋は、南側の庭に面していた。
窓辺にはレースのカーテン、壁には小さな野花の油彩。
執事が退出すると、静けさだけが残る。
荷をほどき、夜着に着替え、わたしは窓辺に立った。
庭園の向こう、東の空にまあるい月。
その光は、屋敷の長い廊下に斑の模様をおとしている。
遠くで、一つ、また一つ、時計が時を告げた。
――眠れない。緊張のせいだろうか。
水でももらおうと扉に手をかけ、そっと廊下へ。
足音を殺して歩くと、ふいに気配を感じた。
回廊の端。窓に切り取られた夜の青。
そこに立つ背の高い影が、月を見上げている。
肩がわずかに上下し、手すりを掴む指に力がこもっている。
呼吸が乱れている――。
「……夜は、長い」
囁きは、自分に言い聞かせるようで、そして滲むように脆かった。
その横顔が月にさらされる。
強く結ばれた唇。張り詰めた喉。
整った面差しのどこかが、震えている。
わたしは息を呑んだ。
青年侯爵――カイル様だ。
当主の肩に宿る重さを知る人の、どうしようもない無力の瞬き。
見てはいけないものを見てしまった気持ちと、どうしても目を逸らせない衝動が胸の中でぶつかる。
声をかけるべき? でも、彼はきっと、それを望まない。
秘密の形は、時に触れただけで崩れてしまうから。
踵を返そうとして、床板がかすかに鳴った。
影がこちらを向く。
月明かりが瞳に落ち、灰色の光が揺れる。
「……誰だ」
「失礼を。……わたしです。エリーナです。お休みの挨拶をと思い、でも……」
言い訳はそこでほどけた。
彼は一瞬、何かを飲み込み、それからいつもの――多分、人前のそれ――を取り戻す。
「こんな時間に歩かせてすまない。執事を呼ぼう」
「いいえ。わたしが勝手に……。ただ、夜風が綺麗で」
自分でも驚くほど、自然に言葉が落ちた。
月光が床に薄い道を作る。
わたしはその道のぎりぎりのところで足を止め、礼をする。
「おやすみなさいませ、カイル様」
彼は少しだけ目を伏せ、短く頷いた。
その仕草が、救われた人のそれに見えたのは、気のせいだろうか。
廊下を離れ、扉を閉じる。
背に木材の温度を感じながら、わたしは胸の前で手を組んだ。
――夜を、恐れている。
あの人はきっと、長いあいだひとりで夜をやり過ごしてきた。
ならば、わたしにできることはあるだろうか。
手袋の内側で指先が熱を持つ。
婚約は紙に記された取り決めだけれど、同時に、誰かのそばに立つ約束でもある。
わたしは小さく頷いた。
「急がないでいい。けれど、逃げないでいよう」
寝台に身を横たえ、目を閉じる。
廊下を渡ってきた月光が、カーテン越しに薄く揺れた。
わたしはその揺れを数えながら、知らないうちに眠りへ落ちていった。
そしてその夜の終わりに、心のどこかで確かに思ったのだ。
これは始まりだ、と。
彼の“欠け”を抱きしめるための、長く、やさしい物語の。
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