【夜を恐れる青年侯爵】 婚約から始まる恋

星乃和花

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第二話 夜の歩幅

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朝の食堂は、陽の匂いがした。
窓辺に白いクロス、銀器の縁は水面のように光り、焼きたてのパンが籠で湯気を立てている。
席に着いたカイル様は背筋を正し、淡々とした口調で屋敷の日課を告げた。

「午前は執務。午後に視察。君は侍女と館内に慣れるといい。必要があれば何でも言ってくれ」

短い言葉に、余分な飾りはない。
けれど、パンの籠をこちらへ押しやる指先が、ごく自然に“温かさ”を添えていた。
わたしは「ありがとうございます」とパンを取る。
昨夜、月明かりの廊下で見た震えが、ふと胸の奥で疼いたが、顔には出さないと決めた。

「お茶は、お好みはありますか?」
「渋さの残るものがいい。甘すぎないほうが落ち着く」
「承知しました」

他愛ない会話。
それだけで十分だった。
彼が日中は“当主”として完璧に振る舞えるのなら、わたしはその時間を邪魔しない。
夜が来るまでに、出来る支度をしておけばいい。

***

日が傾くと、屋敷の空気はゆっくりと表情を変える。
磨き込まれた床に灯りの粒が増え、壁の肖像画の瞳が柔らかさを帯びる。
夕餉の席でも、彼は必要なことだけを話し、必要なだけ微笑んだ。
完璧だ、とわたしは思う。
そして、完璧なものほど壊れやすいことも。

夜半。
扉の向こうを、一定ではない足音が通り過ぎた。
――来た。
わたしはそっと寝着の上に薄手のガウンを羽織り、扉を開ける。
月光の筋に影が差し、彼が振り返る。

「……エリーナ?」
「起こしてしまいましたか」
「いいえ。こちらこそ、足音が騒がしかった」

謝ろうとする気配に、わたしは首を振る。
「もしよろしければ……小サロンにお茶を用意しました。眠れない夜に、少しだけ」

彼は言葉を探しているようだった。
断るための、礼儀正しい言い回しを。
けれど、わたしの手の中のランプの灯りが彼の瞳に映ると、その探す動きは止まった。

「……助かる」

***

小サロンは客間の並びの角にあり、夜でも冷えすぎない。
暖炉の火は落として、代わりに卓上のランプに芯を細く立てた。
光は強すぎないほうがいい。影が深くなると余計な想像を呼ぶから。

「渋めと仰っていましたから、今日はウヴァにしました」
カップに琥珀が満ち、湯気の筋がほどけていく。
彼は椅子に腰をおろし、香りを確かめるように目を細めた。

「……落ち着くな」
「嬉しいです」

わたしも向かいに座り、カップを持つ。
しばらくは、茶器の触れ合う微かな音だけが部屋に漂った。
やがて、彼がぽつりと口を開く。

「夜は、音が消える。私は、その無音が苦手だ」
「……はい」
「人の気配が遠のくほど、昔の出来事の輪郭が濃くなる。だから歩く。足音で、今を確かめる」

語尾は短い。必要以上の説明はしない。
それでも“今”という言葉に、わたしは小さく頷いた。
今に、彼を留めておくこと。
それが、わたしにできる最初の仕事だ。

「では、音を置いていきましょう」
「音?」
「はい。温かな、おだやかな音です」

わたしは控えの机から、薄い本を一冊持ってくる。
子どもの頃、祖母が子守歌の代わりに読んでくれた、短い寓話集。
難しくないこと。夜でも意味が追えること。
何より、章末に必ず“救い”があること。

「少しだけ、読んでもよろしいですか」
彼はわずかに驚いたように目を瞬き、それから頷いた。
「君の声は……静かでいい」

ページが鳴る。
言葉の粒が、ランプの光の中に落ちていく。
勇気を忘れた旅人が、森で小さな灯りに出会う話。
灯りは旅人に道を教えるのではなく、ただ隣で揺れ続けるだけ――という、短い話。

一節読んで顔を上げると、彼はカップを空にして、指先を軽く組んでいた。
緊張の癖なのだろう。組んだ指が、くすんだ月光の中で微かに震える。
わたしはもう一節、声を落として読む。
息を吸うタイミングを、彼の呼吸に合わせて。
呼気の音が重なると、不思議と部屋の温度が変わる。

「……ここで終わります。続きは、また明日」
「途中で止めるのか?」
「はい。終わりがあると、夜も“終わってしまう”気がして……少し寂しいですから」

自分でも少し照れくさい理屈だった。
けれど彼は否定せず、むしろ目を伏せた。
「……そうだな。続きがあるなら、夜も途切れずに繋がる」

長い沈黙。
わたしは空になったポットを持ち上げて立ち上がる。
椅子が床を擦る音さえ、今は“音楽”のように思えた。

「お休みの前に、ひとつだけお願いしてもいいでしょうか」
「何だ」
「歩く時は、どうか、ゆっくり。……わたしと同じ歩幅で」

廊下へ出る。
二人で小サロンを後にして、客間の並ぶ静かな回廊を進む。
並木の影が床に伸び、月がその境い目を優しく塗り替える。
彼は最初、いつもの速さで二歩進み、はっとして足を止めた。
それから、わたしの一歩を見て、もう一度、合わせる。

靴底が石を打つ音が、ほんの少しだけ遅くなる。
呼吸も、それに合わせて深くなる。
夜に、わたしたちの“今”という音が置かれていく。

自室の前にたどり着いた時、彼は低く囁いた。
「ありがとう」
「いいえ。……おやすみなさい、カイル様」

扉が閉まる直前、彼の横顔が柔らかくほどけるのが見えた。
それは、夜に負けないほど小さく確かな、始まりの表情。

部屋に戻ると、わたしは机の上にさきほどの寓話集を置き、栞を挟む。
次の夜のための、印。
灯りを落とすと、窓辺のレースが月にひらひら揺れた。

――歩幅が合えば、夜は少し短くなる。
胸の内で小さくつぶやき、目を閉じた。
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