【夜を恐れる青年侯爵】 婚約から始まる恋

星乃和花

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第三話 眠りのおまじない

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翌朝、鏡の前で髪を結いながら、わたしは昨夜の歩幅を思い出していた。
彼の速度に、わたしの一歩が重なっていく感覚。
たったそれだけのことで、夜は少しだけ静かになった。

朝食の席のカイル様は、やはり完璧だった。
けれど、瞼の陰が昨夜より薄い。
「よく眠れましたか」と尋ねる代わりに、ポットを傾けてお茶を注ぐ。
彼は一瞬だけ視線を落とし、「あぁ」と短く答えた。

言葉よりも、指先の力の抜け方が雄弁だった。
――なら、今夜はもう一歩。

***

黄昏が、屋敷の輪郭をやわらげていく。
わたしは昼のうちに侍女に頼んで、乾かした香草を少し分けてもらっていた。
薄い布に、ラベンダに似た香りの葉をひとつまみ。
さらに蜂蜜で軽く煮た柑果の皮を細かく刻んで混ぜ、小さな袋に縫いとめる。
手に載せると、あたたかい匂いが立った。

「何を作っておられるのです?」
控えていた侍女が首を傾げる。
「眠りのおまじない、です。……香りを借りただけの、ささやかなもの」

夜半、小サロンの扉を開けると、昨夜と同じ椅子に彼がいた。
灯りの高さも、テーブルの位置も、変えない。
変わらない景色は、夜の揺らぎを少し鈍らせる。

「今夜は、もう一品お持ちしました」
わたしは小さな袋を卓上へ置く。
「枕元に置くだけの、ささやかな香りです。強くありません」

彼は指先で布越しに触れ、鼻先へ寄せた。
瞳の色が、ほんの少しだけ和らぐ。
「……子どもの頃、祖母が似た香りの袋を押し入れに吊していた」
「まあ」
「ねずみ除けだと笑っていたが、私はそれがある夜だけよく眠れた」

その言葉に、わたしは胸の奥でそっと安堵した。
香りは記憶の扉を静かに開ける。
ならば、よい扉を開けたい。

「では、また一章だけ」
わたしは昨日の寓話集を開き、栞の少し前から読みはじめた。
声は小さく、息は深く。
言葉の切れ目で、湯気が落ち着くのを待つ。

旅人は森の灯りに「名前」を尋ねる。
灯りは答えない。
けれど旅人が眠っているあいだ、燃え尽きないように、小さく小さく自分を分け与える――そんな章だ。

読みながら、わたしはもうひとつ、ささやかな“手順”を用意する。
合図になりすぎてしまわぬよう、形は曖昧なまま。

「カイル様」
「……あぁ」
「カップを、両手で包んでくださいませ。重さが、指の先まで行き渡るように」
彼は言われた通りにする。
「次に、灯りの芯を見つめてください。ゆらぎを数えるのではなく、ゆらぎに数を教えてもらうように。……吸って、吐いて。わたしが読む速さと同じくらいで」

子どもじみて聞こえないように、言葉を選ぶ。
彼は黙って従い、肩からゆっくりと力をほどいた。
呼吸が、頁の音と重なる。
部屋に、一定の波が生まれる。

「続きは……」
「また明日だな」
彼が先に言った。
わたしは微笑み、栞を挟む。
閉じた本の上に、小さな香り袋を置いた。

少しの沈黙。
彼は視線を落とし、机の角に指で整然と並んだ木目をなぞる。
ふいに、押し込めたような声で言った。

「灯りが落ちる音が、今でも苦手だ」
「……はい」
「昔、音で気づいた。……もう、いない、と。だから、音が消えるのが怖い」

問えばほどけてしまいそうで、わたしは問わない。
彼が今、ここに語ってくれたことだけを受け取る。
「では、消えない音を置いて帰ります」

「消えない音?」
「はい。ここに、文字の束を」
わたしは小さく笑い、テーブルの端の紙片に短い文を記す。
“夜は器、光は水。こぼれず満ちる”
子守歌の代わりの、短いひとこと。
紙を折り、香り袋にそっと忍ばせる。

「……ありがとう」
彼は低く言い、袋へ触れてから立ち上がった。
「今夜は、歩かないでみる」

自室へ戻る途中、彼の足音は聞こえなかった。
わたしは廊下をゆっくり歩きながら、レースの影が床で揺れるのを見送る。
扉を閉める前に、遠くのどこかで、乾いた木のきしむ音がひとつ。
それはたぶん、寝台に身を預けた音だ。

***

夜の半ば、目が覚めた。
静けさは深く、窓の外はすっかり群青に沈んでいる。
耳を澄ましても、廊下の足音はない。
わたしは靴を履き、ランプを持たずに廊下へ出た。
暗闇に目が慣れるまで、その場で呼吸を整える。

扉の前まで行ってしまうのは、きっと行き過ぎだ。
わたしは昨夜の小サロンにだけ立ち寄り、テーブルの上を確かめた。
本の上に、香り袋。
そして、その横に――

折り畳まれた紙が一枚、置かれていた。
“灯りはここにいる”
そこには拙い筆致の短い文。
同じ紙の片隅に、彼の名を表す小さな頭文字が添えてあった。

わたしは胸の前で紙をそっと握る。
手のひらにあたたかさが集まり、暗闇の輪郭がやわらいだ。

***

翌朝、彼はいつもより遅く席に現れた。
遅いといっても、正時を一つ過ぎただけ。
それでも執事が驚いたように眉を上げ、「お加減は」と口にしかける。

「よく眠れた」
カイル様はそれだけ言って、湯気の立つスープにスプーンを入れた。
その横顔は、夜の影を少しだけ手放している。

食後、立ち上がる彼の袖が、わたしの指先をかすめた。
思わず見上げると、彼は視線を逸らしぎみに、小さく囁く。

「……今夜も、同じでいいか」
「もちろんです」
「君の読む速度で、息をする」
「はい。わたしも、カイル様の眠りの速度で」

言葉にした途端、胸の奥に小さな灯りがともる。
合図ではない。約束でもない。
ただ“同じ速度でいる”という、やわらかな選択だ。

わたしはポケットの中で、昨夜の紙片を握りしめる。
“灯りはここにいる”
そう、ここに――。
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