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9話
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騎士団が一時撤退してから数時間、家の中には重苦しい沈黙が流れていた。
ガンツは壊れかけた扉を不器用な手つきで補強し、ルカは部屋の隅で膝を抱えて小さくなっている。あの時、軍隊に向かって啖呵を切った勇気はどこへやら、今の彼は完全に「怒られるのを待つ仔犬」の状態だった。
「ルカ。あんた、さっきの言葉、本気か?」
ガンツが低く問いかけると、ルカはびくんと肩を揺らし、恐る恐る顔を上げた。
「……本気です。僕は、何があってもガンツ様の隣にいたいんです。たとえ王族の地位を捨ててでも、あなたと一緒に……」
「馬鹿を言うな。地位を捨てた王子なんて、路頭に迷うだけだろうが。あんた、一人じゃジャムの瓶も開けられないんだぞ」
ガンツはわざと呆れたように鼻を鳴らした。だが、その胸のうちは複雑だった。自分を「英雄」と呼び、命がけで庇おうとした王子の熱が、まだ残っている。
翌朝。
まだ夜が明けきらぬ頃、再び家の前で馬のいななきが聞こえた。
ガンツは眉間に深い皺を刻み、戸口へ向かった。昨日のような殺気はない。代わりに漂ってきたのは、強烈な胃薬の匂いと、疲弊しきった人間の重い溜息だった。
「……またあんたか、宰相」
扉を開けると、そこには昨日よりもさらに顔色の悪いレオンが立っていた。彼は部下の騎士を遠くに待機させ、一人で家の前に立っている。手には国王の印章が押された、仰々しい書簡が握られていた。
「……ガンツ殿。話し合いに来ました。いえ、正確には懇願しに来たのです。どうか、私の胃にこれ以上の穴を開けないでいただきたい」
レオンは震える手で眼鏡を掛け直し、重い口を開いた。
「これは国王陛下からの正式な通達です。殿下は、どうあっても貴殿の傍を離れないと号泣し、抗議されました。その執念に、陛下も折れざるを得なかった」
ガンツは背後で「えへへ……」と力なく笑うルカに、射殺さんばかりの視線を送った。
「条件は三ヶ月です。殿下を無理に連れ戻せば、また逃げ出されるのは明白。そこで、貴殿を『王宮直属の特別騎士』として期間限定で雇用したい。名目は、殿下の監視および護衛。……これが陛下が提示した、唯一にして最終的な妥協案です」
「騎士だぁ?俺は引退したんだ。今更、国に縛られるのは御免だね」
「分かっております!ですが、これを拒否すれば、殿下は直ちに強制連行されます。そうなれば殿下はまた死ぬ物狂いで脱走し、貴殿は永遠に『王子誘拐犯』として王国軍に追われ続けることになる。そんな隠居生活、望んでいないでしょう?」
レオンの言葉は、鋭い針のようにガンツの急所を突いた。
確かに、逃亡生活を送りながら刺繍をしたりジャムを作ったりするのは、不可能に近い。平穏を守るためには、一時的に「公職」という鎖に繋がれるしかないのだ。
「ガンツ様……。お願いします。僕、ちゃんと大人しくしてますから!三ヶ月だけ、僕を守る騎士になってください!」
ルカが横から飛び出してきて、ガンツの太い腕をぎゅっと握りしめた。その青い瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。今までの時と同じ、あの卑怯なまでの「泣き虫攻撃」だった。これを出されると、ガンツの頑なな心も脆く崩れてしまう。
「…………チッ。分かったよ、三ヶ月だけだ」
「本当ですか!?やったぁ!!」
ルカは歓喜の声を上げ、ガンツの巨躯に抱きついた。衝撃でガンツの背中が壁に叩きつけられる。
「おい、離せ!暑苦しいんだよ!」
「あぁ、ガンツ様!僕を守るための特別な騎士様!なんて素敵な響きなんでしょう!」
レオンはその光景を見ながら、これでもかとばかりに深い溜息を吐き、懐から取り出した薬を水もなしに飲み下した。
「……交渉成立ですね。では、ガンツ殿。今日から三ヶ月、貴殿を正式に『殿下付特別騎士』として認めます。殿下の安全と、その……情緒の安定をお願いします。三ヶ月後、殿下が満足して王宮に戻るよう、上手く誘導してください」
「期待するな。俺にできるのは、このバカ王子を死なせないことくらいだ」
「それでも構いません。殿下が無事であれば、我々の苦労も報われます……」
レオンは幽霊のような足取りで、ふらふらと去っていった。
家の中に戻ると、ルカは既に「特別騎士就任」を祝うための準備を始めていた。といっても、彼ができるのはテーブルの上に野花を並べることくらいだが、その顔はこれまでにないほど輝いている。
「ガンツ様!僕、今日からあなたの『守られ対象』として、精一杯あなたに愛でられます!」
「愛でるんじゃなくて、監視だ。勘違いするな。あと、俺は騎士になったとはいえ、やることは昨日までと変わらねえ。家の手伝いもしてもらうし、俺の指示には絶対服従だ。いいな?」
「はい!もちろんです!あなたの騎士としての初仕事は、僕を寝台まで運んでくださることですか?」
「……歩け、バカ王子。自分の足があるだろうが」
ガンツは呆れ果て、台所へと向かった。
静かに暮らしたいという夢は、三ヶ月先へと遠のいた。
だが、自分の背後を楽しそうに付いてくるルカの足音と、彼を公的に守れるようになったという妙な安心感は、存外に悪くないものだった。
「(三ヶ月、か。……さて、どうしたものか)」
ガンツは不敵な笑みを古傷だらけの顔に浮かべ、ジャム用の大きな鍋を火にかけた。
伝説の元傭兵と、彼を「英雄」と崇めるヘタレ王子の、公認の「期間限定共同生活」が、こうして本格的に幕を開けたのだった。
ガンツは壊れかけた扉を不器用な手つきで補強し、ルカは部屋の隅で膝を抱えて小さくなっている。あの時、軍隊に向かって啖呵を切った勇気はどこへやら、今の彼は完全に「怒られるのを待つ仔犬」の状態だった。
「ルカ。あんた、さっきの言葉、本気か?」
ガンツが低く問いかけると、ルカはびくんと肩を揺らし、恐る恐る顔を上げた。
「……本気です。僕は、何があってもガンツ様の隣にいたいんです。たとえ王族の地位を捨ててでも、あなたと一緒に……」
「馬鹿を言うな。地位を捨てた王子なんて、路頭に迷うだけだろうが。あんた、一人じゃジャムの瓶も開けられないんだぞ」
ガンツはわざと呆れたように鼻を鳴らした。だが、その胸のうちは複雑だった。自分を「英雄」と呼び、命がけで庇おうとした王子の熱が、まだ残っている。
翌朝。
まだ夜が明けきらぬ頃、再び家の前で馬のいななきが聞こえた。
ガンツは眉間に深い皺を刻み、戸口へ向かった。昨日のような殺気はない。代わりに漂ってきたのは、強烈な胃薬の匂いと、疲弊しきった人間の重い溜息だった。
「……またあんたか、宰相」
扉を開けると、そこには昨日よりもさらに顔色の悪いレオンが立っていた。彼は部下の騎士を遠くに待機させ、一人で家の前に立っている。手には国王の印章が押された、仰々しい書簡が握られていた。
「……ガンツ殿。話し合いに来ました。いえ、正確には懇願しに来たのです。どうか、私の胃にこれ以上の穴を開けないでいただきたい」
レオンは震える手で眼鏡を掛け直し、重い口を開いた。
「これは国王陛下からの正式な通達です。殿下は、どうあっても貴殿の傍を離れないと号泣し、抗議されました。その執念に、陛下も折れざるを得なかった」
ガンツは背後で「えへへ……」と力なく笑うルカに、射殺さんばかりの視線を送った。
「条件は三ヶ月です。殿下を無理に連れ戻せば、また逃げ出されるのは明白。そこで、貴殿を『王宮直属の特別騎士』として期間限定で雇用したい。名目は、殿下の監視および護衛。……これが陛下が提示した、唯一にして最終的な妥協案です」
「騎士だぁ?俺は引退したんだ。今更、国に縛られるのは御免だね」
「分かっております!ですが、これを拒否すれば、殿下は直ちに強制連行されます。そうなれば殿下はまた死ぬ物狂いで脱走し、貴殿は永遠に『王子誘拐犯』として王国軍に追われ続けることになる。そんな隠居生活、望んでいないでしょう?」
レオンの言葉は、鋭い針のようにガンツの急所を突いた。
確かに、逃亡生活を送りながら刺繍をしたりジャムを作ったりするのは、不可能に近い。平穏を守るためには、一時的に「公職」という鎖に繋がれるしかないのだ。
「ガンツ様……。お願いします。僕、ちゃんと大人しくしてますから!三ヶ月だけ、僕を守る騎士になってください!」
ルカが横から飛び出してきて、ガンツの太い腕をぎゅっと握りしめた。その青い瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。今までの時と同じ、あの卑怯なまでの「泣き虫攻撃」だった。これを出されると、ガンツの頑なな心も脆く崩れてしまう。
「…………チッ。分かったよ、三ヶ月だけだ」
「本当ですか!?やったぁ!!」
ルカは歓喜の声を上げ、ガンツの巨躯に抱きついた。衝撃でガンツの背中が壁に叩きつけられる。
「おい、離せ!暑苦しいんだよ!」
「あぁ、ガンツ様!僕を守るための特別な騎士様!なんて素敵な響きなんでしょう!」
レオンはその光景を見ながら、これでもかとばかりに深い溜息を吐き、懐から取り出した薬を水もなしに飲み下した。
「……交渉成立ですね。では、ガンツ殿。今日から三ヶ月、貴殿を正式に『殿下付特別騎士』として認めます。殿下の安全と、その……情緒の安定をお願いします。三ヶ月後、殿下が満足して王宮に戻るよう、上手く誘導してください」
「期待するな。俺にできるのは、このバカ王子を死なせないことくらいだ」
「それでも構いません。殿下が無事であれば、我々の苦労も報われます……」
レオンは幽霊のような足取りで、ふらふらと去っていった。
家の中に戻ると、ルカは既に「特別騎士就任」を祝うための準備を始めていた。といっても、彼ができるのはテーブルの上に野花を並べることくらいだが、その顔はこれまでにないほど輝いている。
「ガンツ様!僕、今日からあなたの『守られ対象』として、精一杯あなたに愛でられます!」
「愛でるんじゃなくて、監視だ。勘違いするな。あと、俺は騎士になったとはいえ、やることは昨日までと変わらねえ。家の手伝いもしてもらうし、俺の指示には絶対服従だ。いいな?」
「はい!もちろんです!あなたの騎士としての初仕事は、僕を寝台まで運んでくださることですか?」
「……歩け、バカ王子。自分の足があるだろうが」
ガンツは呆れ果て、台所へと向かった。
静かに暮らしたいという夢は、三ヶ月先へと遠のいた。
だが、自分の背後を楽しそうに付いてくるルカの足音と、彼を公的に守れるようになったという妙な安心感は、存外に悪くないものだった。
「(三ヶ月、か。……さて、どうしたものか)」
ガンツは不敵な笑みを古傷だらけの顔に浮かべ、ジャム用の大きな鍋を火にかけた。
伝説の元傭兵と、彼を「英雄」と崇めるヘタレ王子の、公認の「期間限定共同生活」が、こうして本格的に幕を開けたのだった。
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