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16話
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カレンダーに引かれた斜線の数が増えるたび、この静かすぎるはずだった隠居所には、確実に「生活」という名の騒がしさが根付いていった。
三ヶ月という契約期間。当初、ガンツにとっては永遠にも等しい苦行に思えたその月日は、気づけば残りわずか十日を切っていた。
あの「微熱の一夜」を越えてからというもの、家の中の空気は劇的に変化した。ガンツが朝の台所に立てば、ルカが当然のように背後から抱きついてくる。以前なら即座に首根っこを掴んで放り投げていたところだが、今のガンツは「邪魔だ」と口では毒づきながらも、その温もりを拒絶しきれずにいた。
「おい、あんたは皿を並べるか、パンを焼くか、どっちかにしろ。俺の腰にしがみついて左右に揺れるのは仕事じゃねえ」
ガンツはフライパンを振り、厚切りのベーコンを絶妙な焼き加減で仕上げていく。
「えへへ。これも大事な仕事ですよ、ガンツ様。あなたの筋肉の柔軟性を確認し、僕への愛が全身に巡っているかを見守るという、国家的な重要任務です!」
「意味の分からねえことを言ってねえで、さっさと座れ。焦げたのが食いたきゃ、そのまま遊んでろ」
「あだっ!またエプロンの紐が椅子に……!ガンツ様、助けてください!」
案の定、何もない場所で足を滑らせたルカが、派手な音を立てて床に転がった。ガンツは深いため息を吐き、焼きたての朝食をテーブルに並べると、床でじたばたしている王子の襟首を掴んで椅子に座らせた。
そんな騒がしくも穏やかな朝の空気を切り裂くように、庭先から見覚えのある馬車の車輪の音が聞こえてきた。
現れたのは、案の定、顔色をさらに土気色に変えた宰相レオンだった。彼は馬車から降りるなり、手にした分厚い書類を抱え、今にも倒れそうな足取りで玄関へと近づいてくる。
「――ガンツ殿。失礼します。あぁ、胃が、胃が悲鳴を上げています。なぜ殿下は毎日、王宮へ『ガンツ様と添い遂げるための予算案』などという怪文書を送りつけるのですか」
レオンは室内に入るなり、挨拶もそこそこにテーブルに突っ伏した。
「予算案だぁ?おい、ルカ。あんた、また勝手な真似をしたのか」
ガンツが低い声で問い詰めると、ルカはパンを口に含んだまま、およそ王子らしからぬ気まずそうな顔で視線を泳がせた。
「だ、だって、ガンツ様。この家をもっと広くして、ジャムの工場も作って、あなたが一生働かなくて済むようなパラダイスを築くには、国家予算の三分の一は必要だと思いまして。僕はただ、あなたの老後を安泰にしたいという一心で!」
「あんた、国を滅ぼす気か!それ以前に、俺はまだ老後って歳じゃねえ!」
「殿下の暴挙を止めるのに必死で、私の髪がまた数本犠牲になりました。陛下も『息子が山賊のような男に狂わされた』と嘆いておられます。さて、ガンツ殿。本題です。契約終了まであと少し。殿下を王宮へお戻しする準備はよろしいですか?」
レオンの言葉に、室内の温度がわずかに下がった。
ガンツは窓の外に広がる、ルカが不器用に植え直した野花の群生を見つめた。
以前の自分なら、迷わず「さっさと連れて行け」と吐き捨てていただろう。一人に戻れば、誰にも邪魔されず、静かに刺繍をして、静かにジャムを煮て、静かに眠ることができる。それが自分の望んだ、血生臭い過去から逃れるための隠居生活だったはずだ。
だが、今のガンツの脳裏に浮かぶのは、静寂ではなく、隣でうるさいほどに笑い、転び、自分を英雄と呼ぶ王子の姿だった。
あの、手のひらに伝わってきた金色の髪の感触。あの真っ直ぐな青い瞳。
それらを失った後の静寂を想像した瞬間、ガンツの胸の奥に、かつての戦場で取り残された時のような、鋭い孤独が突き刺さった。
「――レオン。一つ、聞きたいことがある」
ガンツは腕を組み、重苦しい沈黙を破った。
「何でしょうか。まさか、さらに予算を上げろと?」
「違う。この契約、延長、あるいは『終身雇用』に切り替えることは可能なのか」
その言葉が発せられた瞬間、レオンは持っていた胃薬の瓶を床に落として砕き、ルカは持っていたパンを口から零した。
「ガンツ様?今、なんて言いましたか?僕、また幻聴を?」
「一度しか言わねえぞ。あんたみたいな世話の焼けるガキを一人で王宮に帰したら、今度はどこの馬の骨に騙されるか分かったもんじゃねえ。三ヶ月じゃ、あんたをマシな人間に育てるにゃ短すぎたってだけだ」
ガンツは精一杯の強面で凄んでみせた。だが、その頬が微かに赤らんでいるのは、隠しきれるものではなかった。
ルカは一瞬、呆然と固まっていたが、やがてその大きな青い瞳から、大粒の涙を溢れさせた。
「ガンツ様ぁぁぁ!!それって、僕と一緒にいたいってことですよね!?僕の愛が、伝説のSSSランクの心を射抜いたってことですよね!?」
「勘違いするな!あんたのジャムの煮方がまだ甘いから、指導が必要だって言ってるんだ!」
「いいえ、愛です!これは紛れもない、史上最強の傭兵による愛の降伏です!レオン、今すぐ国王陛下に伝えてください!『ガンツ様が僕を終身雇用、つまり結婚したいと言っています』と!」
「待て、そんな言い方はしてねえ!」
ルカは椅子を蹴り飛ばしてガンツに飛びつき、その太い首筋に全力でしがみついた。今度は避けることもせず、ガンツは溜息を吐きながら、その細い背中に大きな手を添えた。
レオンは、散らばった胃薬の破片を虚ろな目で見つめながら、天を仰いだ。
「あぁ、陛下。どうやら私は、当分の間、この辺境の地と王都を往復する羽目になりそうです。ですが、殿下のあんなに幸せそうな顔は、王宮のどの広間でも見たことがありませんよ」
レオンは諦めたように笑い、新しい契約書――今度は白紙の、二人の未来を書き込める書類をテーブルに置いた。
ガンツは、腕の中で泣きじゃくるルカを乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
静かに暮らしたいという願いは、完全に敗北した。
目の前のこの騒がしくて、愛おしくて、最高に邪魔な王子に、自分の人生をまるごと明け渡してしまったのだ。
SSSランクの傭兵、ガンツ。
その生涯で初めての「敗北」は、どんな勝利よりも誇らしく、そして煮詰まったジャムのように甘い、幸福な味がした。
「おい、泣きすぎて俺の服を濡らすな。晩飯は、あんたの好きなシチューにしてやるから、さっさと離れろ」
「一生離れません!シチューを食べても、刺繍をしても、寝る時もずっと、あなたの騎士として隣にいます!」
「……限度を考えろ、バカ王子」
毒づきながらも、ガンツの口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
辺境の隠居所。
そこはもう、孤独を癒やすための場所ではない。
二人の、終わることのない賑やかな初恋が続いていく、世界で一番騒がしく、そして一番温かい家へと変わっていた。
三ヶ月という契約期間。当初、ガンツにとっては永遠にも等しい苦行に思えたその月日は、気づけば残りわずか十日を切っていた。
あの「微熱の一夜」を越えてからというもの、家の中の空気は劇的に変化した。ガンツが朝の台所に立てば、ルカが当然のように背後から抱きついてくる。以前なら即座に首根っこを掴んで放り投げていたところだが、今のガンツは「邪魔だ」と口では毒づきながらも、その温もりを拒絶しきれずにいた。
「おい、あんたは皿を並べるか、パンを焼くか、どっちかにしろ。俺の腰にしがみついて左右に揺れるのは仕事じゃねえ」
ガンツはフライパンを振り、厚切りのベーコンを絶妙な焼き加減で仕上げていく。
「えへへ。これも大事な仕事ですよ、ガンツ様。あなたの筋肉の柔軟性を確認し、僕への愛が全身に巡っているかを見守るという、国家的な重要任務です!」
「意味の分からねえことを言ってねえで、さっさと座れ。焦げたのが食いたきゃ、そのまま遊んでろ」
「あだっ!またエプロンの紐が椅子に……!ガンツ様、助けてください!」
案の定、何もない場所で足を滑らせたルカが、派手な音を立てて床に転がった。ガンツは深いため息を吐き、焼きたての朝食をテーブルに並べると、床でじたばたしている王子の襟首を掴んで椅子に座らせた。
そんな騒がしくも穏やかな朝の空気を切り裂くように、庭先から見覚えのある馬車の車輪の音が聞こえてきた。
現れたのは、案の定、顔色をさらに土気色に変えた宰相レオンだった。彼は馬車から降りるなり、手にした分厚い書類を抱え、今にも倒れそうな足取りで玄関へと近づいてくる。
「――ガンツ殿。失礼します。あぁ、胃が、胃が悲鳴を上げています。なぜ殿下は毎日、王宮へ『ガンツ様と添い遂げるための予算案』などという怪文書を送りつけるのですか」
レオンは室内に入るなり、挨拶もそこそこにテーブルに突っ伏した。
「予算案だぁ?おい、ルカ。あんた、また勝手な真似をしたのか」
ガンツが低い声で問い詰めると、ルカはパンを口に含んだまま、およそ王子らしからぬ気まずそうな顔で視線を泳がせた。
「だ、だって、ガンツ様。この家をもっと広くして、ジャムの工場も作って、あなたが一生働かなくて済むようなパラダイスを築くには、国家予算の三分の一は必要だと思いまして。僕はただ、あなたの老後を安泰にしたいという一心で!」
「あんた、国を滅ぼす気か!それ以前に、俺はまだ老後って歳じゃねえ!」
「殿下の暴挙を止めるのに必死で、私の髪がまた数本犠牲になりました。陛下も『息子が山賊のような男に狂わされた』と嘆いておられます。さて、ガンツ殿。本題です。契約終了まであと少し。殿下を王宮へお戻しする準備はよろしいですか?」
レオンの言葉に、室内の温度がわずかに下がった。
ガンツは窓の外に広がる、ルカが不器用に植え直した野花の群生を見つめた。
以前の自分なら、迷わず「さっさと連れて行け」と吐き捨てていただろう。一人に戻れば、誰にも邪魔されず、静かに刺繍をして、静かにジャムを煮て、静かに眠ることができる。それが自分の望んだ、血生臭い過去から逃れるための隠居生活だったはずだ。
だが、今のガンツの脳裏に浮かぶのは、静寂ではなく、隣でうるさいほどに笑い、転び、自分を英雄と呼ぶ王子の姿だった。
あの、手のひらに伝わってきた金色の髪の感触。あの真っ直ぐな青い瞳。
それらを失った後の静寂を想像した瞬間、ガンツの胸の奥に、かつての戦場で取り残された時のような、鋭い孤独が突き刺さった。
「――レオン。一つ、聞きたいことがある」
ガンツは腕を組み、重苦しい沈黙を破った。
「何でしょうか。まさか、さらに予算を上げろと?」
「違う。この契約、延長、あるいは『終身雇用』に切り替えることは可能なのか」
その言葉が発せられた瞬間、レオンは持っていた胃薬の瓶を床に落として砕き、ルカは持っていたパンを口から零した。
「ガンツ様?今、なんて言いましたか?僕、また幻聴を?」
「一度しか言わねえぞ。あんたみたいな世話の焼けるガキを一人で王宮に帰したら、今度はどこの馬の骨に騙されるか分かったもんじゃねえ。三ヶ月じゃ、あんたをマシな人間に育てるにゃ短すぎたってだけだ」
ガンツは精一杯の強面で凄んでみせた。だが、その頬が微かに赤らんでいるのは、隠しきれるものではなかった。
ルカは一瞬、呆然と固まっていたが、やがてその大きな青い瞳から、大粒の涙を溢れさせた。
「ガンツ様ぁぁぁ!!それって、僕と一緒にいたいってことですよね!?僕の愛が、伝説のSSSランクの心を射抜いたってことですよね!?」
「勘違いするな!あんたのジャムの煮方がまだ甘いから、指導が必要だって言ってるんだ!」
「いいえ、愛です!これは紛れもない、史上最強の傭兵による愛の降伏です!レオン、今すぐ国王陛下に伝えてください!『ガンツ様が僕を終身雇用、つまり結婚したいと言っています』と!」
「待て、そんな言い方はしてねえ!」
ルカは椅子を蹴り飛ばしてガンツに飛びつき、その太い首筋に全力でしがみついた。今度は避けることもせず、ガンツは溜息を吐きながら、その細い背中に大きな手を添えた。
レオンは、散らばった胃薬の破片を虚ろな目で見つめながら、天を仰いだ。
「あぁ、陛下。どうやら私は、当分の間、この辺境の地と王都を往復する羽目になりそうです。ですが、殿下のあんなに幸せそうな顔は、王宮のどの広間でも見たことがありませんよ」
レオンは諦めたように笑い、新しい契約書――今度は白紙の、二人の未来を書き込める書類をテーブルに置いた。
ガンツは、腕の中で泣きじゃくるルカを乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
静かに暮らしたいという願いは、完全に敗北した。
目の前のこの騒がしくて、愛おしくて、最高に邪魔な王子に、自分の人生をまるごと明け渡してしまったのだ。
SSSランクの傭兵、ガンツ。
その生涯で初めての「敗北」は、どんな勝利よりも誇らしく、そして煮詰まったジャムのように甘い、幸福な味がした。
「おい、泣きすぎて俺の服を濡らすな。晩飯は、あんたの好きなシチューにしてやるから、さっさと離れろ」
「一生離れません!シチューを食べても、刺繍をしても、寝る時もずっと、あなたの騎士として隣にいます!」
「……限度を考えろ、バカ王子」
毒づきながらも、ガンツの口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
辺境の隠居所。
そこはもう、孤独を癒やすための場所ではない。
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