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東夷の巻
老いたる奴王
末盧国から伊都国へは、普通は舟で行く。舟ならば東南へ五百里ほどである。ただしここから先は対馬や一支とは違い、絶島ではなくて竹斯と呼ぶ巨大な島の上に数十ヶ国が存在している。陸路は険しくて歩きにくいが、張政はこの旅程で植物について記録したいと考えていた。道は曲りくねり、草木が繁茂して、前を行く人が見えない程である。その山には柟・杼・櫪・橿・楓などの木が生えている。筱は竹細工に用いられている。生薑・橘・山椒・蘘荷の様な香辛植物も自生してはいるが、調味料として使う方法は知られていない。時おり猿が赤い顔を見せ、雉がけえけえと鳴き声を響かせる。牛・馬・虎・豹・羊・鵲などは見られない。
張政は、小雷をここに連れて来て良かったと思った。この山道で馬にでも乗らなくては、倭人たちの健脚なのにとても付いて行けない。所が伊都国に近付くほどに、難斗米の足がどうしたか遅れ出した。
「斗米さん、どうかしたか」
と張政は訊いてみたが、難斗米は、うん、と曖昧な返事をする。難斗米が何を心配しているのか――それは張政には分かっている。
伊都国は、奴国の西辺の地を割いて設けられた新国で、千戸ほどの人が住んでいる。かつて倭人の盟主であった奴王は、他の諸国との間に争いを起こした。諸国は邪馬臺公を新たな盟主として推し立て、倭人の別種である狗奴国の支援を受けて奴王を破った。当時の邪馬臺公は、今の姫氏王の外祖父である。敗れた奴王は、この小国だけを領地として認められたのであった。
海路で先んじて伊都国に入った梯儁は、毎日人を遣って、往来を見させていた。それで陸路を執った張政たちが着く時を知って、郊外に迎えに出てくれた。張政は馬から下りて、無事の喜びを交わす。
「あれをどうしようか」
と梯儁は張政に問うた。伊都の邑に入るまでの道すがら、二人には互いの意見を確かめておきたい事が有った。それは難斗米の心配とも関係している。
伊都国の奴王は、敗れてなお名分としては倭人諸国を代表する地位を保った。これは奴王が〔漢倭奴国王〕の金印を有っているが故であった。この印は天子よりの賜わり物なので、覇者となった邪馬臺公にもその所有権は奪えなかった。今も奴王はこの印によって、姫氏王が帯方郡や諸韓国に遣使するに際して、その正当性を認証する権能を持っている。また、帯方郡から姫氏王に連絡が有る場合も、通常は伊都国まで来れば、奴王が受理して伝送する事になっている。難斗米は奴王の一族であり、今の奴王から見ては孫の世代に当たるのである。
「まずは姫氏王に申し上げるのが筋だろう」
我々だけでどうこうする様な事ではない、という張政の意見は、梯儁も同じく考えている。それは勿論、姫氏王に仮えられる〔親魏倭王〕の金印を、〔漢倭奴国王〕と引き換えにするという任務についてである。
「伊都国には長居はせん方がいいな」
と梯儁は言った。自分たちが今回は、常の例とは違って、姫氏王へ直に賜物を届けるという使命を帯びているという事は、奴王へは已に伝えてある。その金印を没収するという相談が進められているのだと知られれば、何かまずい事件が起こりそうな気がするのだ。恰も好し、梯儁たちの来訪を先触れする為に姫氏王の許へ行った使者も今日、奴王の所に戻ったと聞いている。梯儁は張政を伴って、伊都国の政庁へ向かった。使者が姫氏王からの「すぐに来い」との返事でも携えていれば都合が良い。難斗米は二人の後ろに着いて来て、政庁に着くと先に立って入った。倭人の文化が全て素朴であるが如く、政庁といっても簡単な小屋である。
今の奴王は、禿頭に白髭の老人であった。歳は五十ばかりだというが、それ以上に老けて見える。傍らには姫氏王の家来が、付家老としていつも控えている。奴王は、腰が曲がっても跡継ぎを選ぶ事さえ許されず、震える手でその古びた金印を握って、しょぼしょぼする目で左右を伺いながら、使節や荷物の出入りについて判子を押すという仕事だけをしている。それが奴王の手に残された権限なのであった。
奴王は難斗米が入って来るのを見るや、さっと顔に血の気を表し、杖を執って筵から立ち上がり、
「おのれ、斗米!」
と怒鳴りつけた。手足にも見違えて力が込もっている。
「おぬし、よくも氏の上であるこのわしに何も言わず、長いこと国を空けおったな!」
難斗米は床に額を付けて、畏敬の態度を示す。
「お、大叔父さま、わたくしに無礼があったなら、幾重にも膝を折ってあやまりますから……」
奴王は、おのれ、おのれ、と杖を振り上げて殴らんばかりの剣幕に、張政はあっと驚いて思わず止めに入ろうとした所が、奴王はまた急にしなしなと肩を落とし、背を縮こませて座り込んでしまった。
「ああ……それもむべなるかな。わしはこんなに老いぼれておるし、おぬしはひめおうに取り立てられて大夫の身分じゃ。我が一族でそうして出世しおるのは、おぬしだけじゃからのう」
そこへ傍らから、付家老の泄謨觚と柄渠觚という人物が、
「王よ、勅使どのの前でござるぞ」
と言って奴王を宥める。奴王はそこではっとして初めて梯儁と張政が居るのに気付いたという風を見せる。
「おお、おお……。御用向きはいかに」
梯儁は天子の使いという名目だから、立ったまま胸の前で手を合わせるだけの挨拶をして、それで謙譲の態度を示す。
「されば、別の道を執った者がたった今合流いたしたによって、すぐにここを発ちたいと思うが、いかに」
えへん、と梯儁は似合わぬ威厳を繕って問う。奴王は、例の如く目をしばたたかせて左右を伺っている。
張政は、小雷をここに連れて来て良かったと思った。この山道で馬にでも乗らなくては、倭人たちの健脚なのにとても付いて行けない。所が伊都国に近付くほどに、難斗米の足がどうしたか遅れ出した。
「斗米さん、どうかしたか」
と張政は訊いてみたが、難斗米は、うん、と曖昧な返事をする。難斗米が何を心配しているのか――それは張政には分かっている。
伊都国は、奴国の西辺の地を割いて設けられた新国で、千戸ほどの人が住んでいる。かつて倭人の盟主であった奴王は、他の諸国との間に争いを起こした。諸国は邪馬臺公を新たな盟主として推し立て、倭人の別種である狗奴国の支援を受けて奴王を破った。当時の邪馬臺公は、今の姫氏王の外祖父である。敗れた奴王は、この小国だけを領地として認められたのであった。
海路で先んじて伊都国に入った梯儁は、毎日人を遣って、往来を見させていた。それで陸路を執った張政たちが着く時を知って、郊外に迎えに出てくれた。張政は馬から下りて、無事の喜びを交わす。
「あれをどうしようか」
と梯儁は張政に問うた。伊都の邑に入るまでの道すがら、二人には互いの意見を確かめておきたい事が有った。それは難斗米の心配とも関係している。
伊都国の奴王は、敗れてなお名分としては倭人諸国を代表する地位を保った。これは奴王が〔漢倭奴国王〕の金印を有っているが故であった。この印は天子よりの賜わり物なので、覇者となった邪馬臺公にもその所有権は奪えなかった。今も奴王はこの印によって、姫氏王が帯方郡や諸韓国に遣使するに際して、その正当性を認証する権能を持っている。また、帯方郡から姫氏王に連絡が有る場合も、通常は伊都国まで来れば、奴王が受理して伝送する事になっている。難斗米は奴王の一族であり、今の奴王から見ては孫の世代に当たるのである。
「まずは姫氏王に申し上げるのが筋だろう」
我々だけでどうこうする様な事ではない、という張政の意見は、梯儁も同じく考えている。それは勿論、姫氏王に仮えられる〔親魏倭王〕の金印を、〔漢倭奴国王〕と引き換えにするという任務についてである。
「伊都国には長居はせん方がいいな」
と梯儁は言った。自分たちが今回は、常の例とは違って、姫氏王へ直に賜物を届けるという使命を帯びているという事は、奴王へは已に伝えてある。その金印を没収するという相談が進められているのだと知られれば、何かまずい事件が起こりそうな気がするのだ。恰も好し、梯儁たちの来訪を先触れする為に姫氏王の許へ行った使者も今日、奴王の所に戻ったと聞いている。梯儁は張政を伴って、伊都国の政庁へ向かった。使者が姫氏王からの「すぐに来い」との返事でも携えていれば都合が良い。難斗米は二人の後ろに着いて来て、政庁に着くと先に立って入った。倭人の文化が全て素朴であるが如く、政庁といっても簡単な小屋である。
今の奴王は、禿頭に白髭の老人であった。歳は五十ばかりだというが、それ以上に老けて見える。傍らには姫氏王の家来が、付家老としていつも控えている。奴王は、腰が曲がっても跡継ぎを選ぶ事さえ許されず、震える手でその古びた金印を握って、しょぼしょぼする目で左右を伺いながら、使節や荷物の出入りについて判子を押すという仕事だけをしている。それが奴王の手に残された権限なのであった。
奴王は難斗米が入って来るのを見るや、さっと顔に血の気を表し、杖を執って筵から立ち上がり、
「おのれ、斗米!」
と怒鳴りつけた。手足にも見違えて力が込もっている。
「おぬし、よくも氏の上であるこのわしに何も言わず、長いこと国を空けおったな!」
難斗米は床に額を付けて、畏敬の態度を示す。
「お、大叔父さま、わたくしに無礼があったなら、幾重にも膝を折ってあやまりますから……」
奴王は、おのれ、おのれ、と杖を振り上げて殴らんばかりの剣幕に、張政はあっと驚いて思わず止めに入ろうとした所が、奴王はまた急にしなしなと肩を落とし、背を縮こませて座り込んでしまった。
「ああ……それもむべなるかな。わしはこんなに老いぼれておるし、おぬしはひめおうに取り立てられて大夫の身分じゃ。我が一族でそうして出世しおるのは、おぬしだけじゃからのう」
そこへ傍らから、付家老の泄謨觚と柄渠觚という人物が、
「王よ、勅使どのの前でござるぞ」
と言って奴王を宥める。奴王はそこではっとして初めて梯儁と張政が居るのに気付いたという風を見せる。
「おお、おお……。御用向きはいかに」
梯儁は天子の使いという名目だから、立ったまま胸の前で手を合わせるだけの挨拶をして、それで謙譲の態度を示す。
「されば、別の道を執った者がたった今合流いたしたによって、すぐにここを発ちたいと思うが、いかに」
えへん、と梯儁は似合わぬ威厳を繕って問う。奴王は、例の如く目をしばたたかせて左右を伺っている。
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