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東夷の巻
颱風の季節
伊都国のすぐ北には斯馬国が有る。伊都国と斯馬国の間の低地には海が入り込んでいて、底の浅い舟でなら西から東へ通り抜けられる。牛馬の無い倭地で多くの荷物を運ぶには、舟が最も便利な運輸の手段である。
「急ぐとも緩りとするとも、勅使どのの御随意になされて参られよ」
との姫氏王の言葉を、梯儁は泄謨觚から得た。奴王は、倭人の用いる記号で通行を意味する図形を記した木片に、〔漢倭奴国王〕の印を押して差し出した。梯儁は時を置かずに伊都国を発つ事にする。一行にはいつでも出られる様に予め準備をさせていた。この哥々の手回しの良さに張政は少しばかり驚いた。地位が人を作るというのでもあろうか。
伊都国から東南へ百里ほどで奴国に至る。奴国には二万戸余りの人が住んでいる。この辺りまで来ると、今までと違ってやや平野が開けてはいるが、それも大陸を観た目からすると、こじんまりとしていかにも島らしい地形だと感じられる。湾の奥へ進む舟の上から陸を眺めると、丘陵から煙りが昇っているのは、鍛冶をする集落である。銅器は鋳造だが、鉄器は鍛造を得意としている。鉄材は専ら弁韓からの輸入に頼っているので、その獲得に有利な位置を占めるこの国が、かつては倭人諸国を制したのであった。
又東へ百里して不弥国に至る。不弥国の人口は千戸ほどで、かつては奴王の領地であった。奴王が争いに敗れると、その国の力を弱める為に、西辺を割いて伊都国とした時、東部を分けて立てられたのが不弥国である。ここで舟は川に入り、流れに棹を差して遡る。海上での距離の測り方が使えなくなったので、張政は道程の里数を記録するのを止めた。川を挟んだ平地には水田が営まれ、稲の穂が頭を垂らしている。腰を屈めて雑草を刈っている農民たちの服装は単純質朴で、色は渋染めをしているのか泥に塗れているのかよく分からない。果下馬の小雷が舟に乗っているのを見ると、農民たちは作業の手を休めて岸に寄り、
「あれは何だな、鹿のできそくないかな」
「いやあれが噂に聞くむまとかいうのじゃろう」
などと話しをしていたが、舟の列が過ぎる内に難斗米の姿を認めると、へへえと後ずさりして草むらに入り、跪いて額を土に着けてしまう。この地方の庶民たちにとって、奴王こそは今でも貴い王者なのであった。そして難斗米は奴王の跡継ぎになるのだと人々は思っている。
「若様のお通りじゃ。これ頭を下げなさい」
と言って、農夫は幼児にも同じ姿勢をさせる。庶民たちには、貴い人はその姿を見るべからざる存在であった。姿が見えない物とは神であり、姿を見ない事で神の如くに感じようとこの人々はする。難斗米は、農民たちが川岸に蹲まっているのを見ると、恥ずかしそうに頭を低くして座り込んでしまう。
ここの所よく晴れて暑い日が続いていたが、この日の夕方、太陽が西に傾くのを望んで、都市牛利は張政と梯儁に、
「颱風が来る。荒れそうだ」
と告げた。その予兆は張政には全く分からない。穏やかに日は暮れかけて見える。宿を取る予定にしていた小さい邑に入り、倉庫を借りて荷物を全て収める。邑の政庁でもあり集会所でもある広い室に張政たちは泊る。梯儁はこういう場合に奴王の手形を使うはずであったが、実際には全てが難斗米と都市牛利の顔で通る。食べる物にも寝る所にも、贅沢さえ言わなければ困る事は無い。
早朝、張政はかすかに雨の落ちる音を聞いた気がして目が覚めた。外に出てみると、雨は降っていない。風は強くはないとはいえ、普段とは違う動きの大きさを感じる。都市牛利が先に起きていて、風を手に掬う様な仕草をしている。
「十日くらいはここで休むつもりでいてくれ」
と都市牛利は言う。もし酷い雨になるなら、その前に小雷の為に草を刈り集めておきたい。倭人の邑に秣の備えなど無論有りはしない。小雷を連れて、貸してくれる鎌が無いか民家を尋ねに出ると、住民たちが物珍しさに集まって来て、草が要るなら手伝ってやるぞという話しになった。お陰で草は十分に採れた。空家になっていた室を馬小屋に当てがって、倭人の一人に餌の世話を頼む。こうして倭人たちも馬を飼う事を知れば良い。それは倭人たちにとって幸せな事であるはずだ。張政はそう思った。一日目の雨は時々ぱらぱらと降る程度であった。
二日目の未明から、強い風と共に雨がだだだだと音を鳴らして土を叩き始めた。倭人の室は地面を掘り下げて床を作り、木の柱を立てて藁の屋根を被せている。余り雨が降ると中に水が溜まりはしないかと心配になるが、周囲には土を盛って流入を防ぐ構造になっている。倉庫の方は床の高い建築だが、強風に揺られても壊れない。木材の用い方が良いのであろう。
三日目から四日目にかけて風雨はなお強まったが、五日目にはすっかり変わって澄んだ晴天となった。ただ清らかだった川は、土色に濁って岸を浸しており、都市牛利によると数日は舟を出せないという。
「急ぐとも緩りとするとも、勅使どのの御随意になされて参られよ」
との姫氏王の言葉を、梯儁は泄謨觚から得た。奴王は、倭人の用いる記号で通行を意味する図形を記した木片に、〔漢倭奴国王〕の印を押して差し出した。梯儁は時を置かずに伊都国を発つ事にする。一行にはいつでも出られる様に予め準備をさせていた。この哥々の手回しの良さに張政は少しばかり驚いた。地位が人を作るというのでもあろうか。
伊都国から東南へ百里ほどで奴国に至る。奴国には二万戸余りの人が住んでいる。この辺りまで来ると、今までと違ってやや平野が開けてはいるが、それも大陸を観た目からすると、こじんまりとしていかにも島らしい地形だと感じられる。湾の奥へ進む舟の上から陸を眺めると、丘陵から煙りが昇っているのは、鍛冶をする集落である。銅器は鋳造だが、鉄器は鍛造を得意としている。鉄材は専ら弁韓からの輸入に頼っているので、その獲得に有利な位置を占めるこの国が、かつては倭人諸国を制したのであった。
又東へ百里して不弥国に至る。不弥国の人口は千戸ほどで、かつては奴王の領地であった。奴王が争いに敗れると、その国の力を弱める為に、西辺を割いて伊都国とした時、東部を分けて立てられたのが不弥国である。ここで舟は川に入り、流れに棹を差して遡る。海上での距離の測り方が使えなくなったので、張政は道程の里数を記録するのを止めた。川を挟んだ平地には水田が営まれ、稲の穂が頭を垂らしている。腰を屈めて雑草を刈っている農民たちの服装は単純質朴で、色は渋染めをしているのか泥に塗れているのかよく分からない。果下馬の小雷が舟に乗っているのを見ると、農民たちは作業の手を休めて岸に寄り、
「あれは何だな、鹿のできそくないかな」
「いやあれが噂に聞くむまとかいうのじゃろう」
などと話しをしていたが、舟の列が過ぎる内に難斗米の姿を認めると、へへえと後ずさりして草むらに入り、跪いて額を土に着けてしまう。この地方の庶民たちにとって、奴王こそは今でも貴い王者なのであった。そして難斗米は奴王の跡継ぎになるのだと人々は思っている。
「若様のお通りじゃ。これ頭を下げなさい」
と言って、農夫は幼児にも同じ姿勢をさせる。庶民たちには、貴い人はその姿を見るべからざる存在であった。姿が見えない物とは神であり、姿を見ない事で神の如くに感じようとこの人々はする。難斗米は、農民たちが川岸に蹲まっているのを見ると、恥ずかしそうに頭を低くして座り込んでしまう。
ここの所よく晴れて暑い日が続いていたが、この日の夕方、太陽が西に傾くのを望んで、都市牛利は張政と梯儁に、
「颱風が来る。荒れそうだ」
と告げた。その予兆は張政には全く分からない。穏やかに日は暮れかけて見える。宿を取る予定にしていた小さい邑に入り、倉庫を借りて荷物を全て収める。邑の政庁でもあり集会所でもある広い室に張政たちは泊る。梯儁はこういう場合に奴王の手形を使うはずであったが、実際には全てが難斗米と都市牛利の顔で通る。食べる物にも寝る所にも、贅沢さえ言わなければ困る事は無い。
早朝、張政はかすかに雨の落ちる音を聞いた気がして目が覚めた。外に出てみると、雨は降っていない。風は強くはないとはいえ、普段とは違う動きの大きさを感じる。都市牛利が先に起きていて、風を手に掬う様な仕草をしている。
「十日くらいはここで休むつもりでいてくれ」
と都市牛利は言う。もし酷い雨になるなら、その前に小雷の為に草を刈り集めておきたい。倭人の邑に秣の備えなど無論有りはしない。小雷を連れて、貸してくれる鎌が無いか民家を尋ねに出ると、住民たちが物珍しさに集まって来て、草が要るなら手伝ってやるぞという話しになった。お陰で草は十分に採れた。空家になっていた室を馬小屋に当てがって、倭人の一人に餌の世話を頼む。こうして倭人たちも馬を飼う事を知れば良い。それは倭人たちにとって幸せな事であるはずだ。張政はそう思った。一日目の雨は時々ぱらぱらと降る程度であった。
二日目の未明から、強い風と共に雨がだだだだと音を鳴らして土を叩き始めた。倭人の室は地面を掘り下げて床を作り、木の柱を立てて藁の屋根を被せている。余り雨が降ると中に水が溜まりはしないかと心配になるが、周囲には土を盛って流入を防ぐ構造になっている。倉庫の方は床の高い建築だが、強風に揺られても壊れない。木材の用い方が良いのであろう。
三日目から四日目にかけて風雨はなお強まったが、五日目にはすっかり変わって澄んだ晴天となった。ただ清らかだった川は、土色に濁って岸を浸しており、都市牛利によると数日は舟を出せないという。
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