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東夷の巻
丘の上の陣
天子より姫氏王に授けられる品々には、錦や絹の生地が含まれている。それは正式に引き渡された後で、王たる者に相応しい着物に仕立てる事になっているが、勅使一行にはその為に帯方郡から従って来た職人が含まれている。王碧はその中の一人である。王碧の家は、漢の武帝が楽浪郡を置いた頃、中国から移り住み、代々郡の官吏を輩出した。在地の官人層としては地位が高い方であった。しかし公孫氏の時、父が失脚して刑死させられ、それから母は服を縫って碧を育てた。碧も幼い頃から母の仕事を手伝ったので、まだ若いのに腕の良い職人に成った。その家柄から教養も有り、良家の女子らしい気品も備えている。
難斗米が奴王の金印を徴収するのを待つ間、採寸でもしておけば後が滞りなくて良かろうと、張政は投馬国に留まっている一行から、王碧を不弥国に呼び寄せた。張政の父母は零落した王氏を哀れに思って、よく服の仕立てなどを頼んでいたので、張政と王碧も昔から知った仲に為っている。王碧が倭人の漕ぐ川舟に乗って来るのを、張政は迎えに出た。
「王服の形式には女物というのがございませんが、こちらの女王さまには男物の王服の形でよろしいのでしょうか、それともお妃さまのようにするのでしょうか」
不弥の邑へ向かう道で、王碧はそんな事を言った。張政はそれを今まで思いもしなかった。言われてみれば確かにそれは一つの問題かも知れない。王碧は、女性が男物を着るのも不都合だし、かといって王たる者が「お妃さま」の格好をするのもおかしいし、と考えている訳だ。しかしそれは張政にしてみれば、そう案ずる程の事でも無かろうと思われる。
「妳はまだ姫氏王の姿を見ていない。会えば自ずと見通しが立つでしょう」
張政はそう答えた。道を行けば、田で落ち穂拾いをしている倭人の姿が目に入る。倭人の服装には男女で着こなしの違いは有っても、形式そのものには変わる所が無い。と、道を向こうから歩いてきた農夫が、張政を見ると草叢に逡巡して蹲る。女王の側に何度も招かれる内に、どうも随分と身分の高い人として認識されてしまっている。張政はそういう庶民の態度には知らぬ素振りをして歩く。
「賜りものの生地で失敗をしてはいけませんから、もしこちらの織物を与えていただけましたら、それで試製をさせていただきとうございます」
王碧は姫氏王に引見されると、そう頼み事をした。姫氏王はそれを聴した。王碧は女王の傍に出入りする許しを得た。倭人の言葉をよく話せない王碧の為に、いつも張政が会話を仲介する。しかし張政が入れない所へは、王碧が一人で行く。悧発な王碧はそれを上手くこなして、短い間に女王の気に入られたらしい。王碧は張政が知らない様な女王の消息を伝えてくれる。
「女王はこのところあまりよくお眠りにならないご様子。それで臺与さまも何か不安がっておられるのが可哀想です」
姫氏王に会って休息を勧めてくれる様に、と王碧は張政に頼んだ。難斗米が今般の命令を受け、女王が不弥の邑に入ってから、已に半月程が過ぎている。ここ数日、姫氏王は朝から郊外に出て、不弥国の兵士を指揮し演習をさせている事が多い。なだらかな丘の上に幕を張って本陣としている。張政が入って行くと、姫氏王は火鉢を背にして剣を杖き、北側の幕をわずかに開いて外を眺めている。北には遠く海を望み、冷たい風が吹き寄せる。張政は声を掛ける。
「こんな日は、兵の訓練などお休みなれてはいかがでしょう」
女王は背を向けたまま、
「汝は狗奴国の巴琊斗を知らないか」
と返す。狗奴国は、邪馬臺国より南に在り、大きな勢力を持つ。巴琊斗とは、勇猛を以て鳴らす狗奴王の近衛兵で、常に八十人を備え、欠員が出れば勇士を競わせて補充すると聞く。張政は狗奴国までは行った事が無い。
「巴琊斗どもは、寒ければ寒いほど鍛錬に精を出すぞ」
と言った女王の声には、心なしか疲れが感じられる。張政は思い切って単刀直入に言う。
「王がよくお眠りにならないのではないかと気遣う声を聞きました」
姫氏王は、は、と息を吐いて呟く。
「どうせ、好い夢は観られぬからな」
びゅうとまた冷たい風が空を吹いて往く。
「泄謨觚どののお着きぃ――」
と外で番兵が声を上げる。
「御免っ」
泄謨觚は息を切らせ、急いだ様子で姿を現す。
「動いたか」
と呟きながら姫氏王は向き直る。
「奴王が逃げました。鍛治村の年寄りどもが連れ出したらしく見えます」
姫氏王は落ち着いている。
「斗米はどうした」
「抜かりなく追っ手を差し向けております」
「よし」
と姫氏王は側近を呼び寄せて、出発の準備を命じる。そこへ、
「御注進!」
と第二報を持った使者が駆け込む。
「奴王は斯迦ノ島へ逃げ込んだ由にございます」
その島は伊都国から舟を出してそう遠くなく、奴国の北に在る。
「包囲はどうだ」
「難斗米さまの命令で舟を出して、島を取り囲んでおります」
「よろしい。張政よ」
と言った女王の声には、元の力強さが戻っている。
「奴国まで出るぞ。予も後方より圧をかけるであろう」
張政は、難斗米が貸し与えられた重い太刀、伊声耆が持たされた塩詰めの手桶を瞼に描いた。あの哀れな老人に許された長い猶予は、今終わろうとしている。
難斗米が奴王の金印を徴収するのを待つ間、採寸でもしておけば後が滞りなくて良かろうと、張政は投馬国に留まっている一行から、王碧を不弥国に呼び寄せた。張政の父母は零落した王氏を哀れに思って、よく服の仕立てなどを頼んでいたので、張政と王碧も昔から知った仲に為っている。王碧が倭人の漕ぐ川舟に乗って来るのを、張政は迎えに出た。
「王服の形式には女物というのがございませんが、こちらの女王さまには男物の王服の形でよろしいのでしょうか、それともお妃さまのようにするのでしょうか」
不弥の邑へ向かう道で、王碧はそんな事を言った。張政はそれを今まで思いもしなかった。言われてみれば確かにそれは一つの問題かも知れない。王碧は、女性が男物を着るのも不都合だし、かといって王たる者が「お妃さま」の格好をするのもおかしいし、と考えている訳だ。しかしそれは張政にしてみれば、そう案ずる程の事でも無かろうと思われる。
「妳はまだ姫氏王の姿を見ていない。会えば自ずと見通しが立つでしょう」
張政はそう答えた。道を行けば、田で落ち穂拾いをしている倭人の姿が目に入る。倭人の服装には男女で着こなしの違いは有っても、形式そのものには変わる所が無い。と、道を向こうから歩いてきた農夫が、張政を見ると草叢に逡巡して蹲る。女王の側に何度も招かれる内に、どうも随分と身分の高い人として認識されてしまっている。張政はそういう庶民の態度には知らぬ素振りをして歩く。
「賜りものの生地で失敗をしてはいけませんから、もしこちらの織物を与えていただけましたら、それで試製をさせていただきとうございます」
王碧は姫氏王に引見されると、そう頼み事をした。姫氏王はそれを聴した。王碧は女王の傍に出入りする許しを得た。倭人の言葉をよく話せない王碧の為に、いつも張政が会話を仲介する。しかし張政が入れない所へは、王碧が一人で行く。悧発な王碧はそれを上手くこなして、短い間に女王の気に入られたらしい。王碧は張政が知らない様な女王の消息を伝えてくれる。
「女王はこのところあまりよくお眠りにならないご様子。それで臺与さまも何か不安がっておられるのが可哀想です」
姫氏王に会って休息を勧めてくれる様に、と王碧は張政に頼んだ。難斗米が今般の命令を受け、女王が不弥の邑に入ってから、已に半月程が過ぎている。ここ数日、姫氏王は朝から郊外に出て、不弥国の兵士を指揮し演習をさせている事が多い。なだらかな丘の上に幕を張って本陣としている。張政が入って行くと、姫氏王は火鉢を背にして剣を杖き、北側の幕をわずかに開いて外を眺めている。北には遠く海を望み、冷たい風が吹き寄せる。張政は声を掛ける。
「こんな日は、兵の訓練などお休みなれてはいかがでしょう」
女王は背を向けたまま、
「汝は狗奴国の巴琊斗を知らないか」
と返す。狗奴国は、邪馬臺国より南に在り、大きな勢力を持つ。巴琊斗とは、勇猛を以て鳴らす狗奴王の近衛兵で、常に八十人を備え、欠員が出れば勇士を競わせて補充すると聞く。張政は狗奴国までは行った事が無い。
「巴琊斗どもは、寒ければ寒いほど鍛錬に精を出すぞ」
と言った女王の声には、心なしか疲れが感じられる。張政は思い切って単刀直入に言う。
「王がよくお眠りにならないのではないかと気遣う声を聞きました」
姫氏王は、は、と息を吐いて呟く。
「どうせ、好い夢は観られぬからな」
びゅうとまた冷たい風が空を吹いて往く。
「泄謨觚どののお着きぃ――」
と外で番兵が声を上げる。
「御免っ」
泄謨觚は息を切らせ、急いだ様子で姿を現す。
「動いたか」
と呟きながら姫氏王は向き直る。
「奴王が逃げました。鍛治村の年寄りどもが連れ出したらしく見えます」
姫氏王は落ち着いている。
「斗米はどうした」
「抜かりなく追っ手を差し向けております」
「よし」
と姫氏王は側近を呼び寄せて、出発の準備を命じる。そこへ、
「御注進!」
と第二報を持った使者が駆け込む。
「奴王は斯迦ノ島へ逃げ込んだ由にございます」
その島は伊都国から舟を出してそう遠くなく、奴国の北に在る。
「包囲はどうだ」
「難斗米さまの命令で舟を出して、島を取り囲んでおります」
「よろしい。張政よ」
と言った女王の声には、元の力強さが戻っている。
「奴国まで出るぞ。予も後方より圧をかけるであろう」
張政は、難斗米が貸し与えられた重い太刀、伊声耆が持たされた塩詰めの手桶を瞼に描いた。あの哀れな老人に許された長い猶予は、今終わろうとしている。
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