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第二章 魔塔の魔法使い
帰ってきた第二王子
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ポタポタと髪やドレスから水が滴っていて、令嬢が先ほど掴んだバケツの中身は、今は空になっている。
汚れて黒ずんだ水を浴びたためか、彼女たちはあちこち汚れているし、周囲には汚れた雑巾のような嫌な臭いが漂っていた。
……どうなっているの? まさか、私にかけようとしたバケツの水を、彼女たちが浴びてしまったの? でも、いくらなんでも前にかけようとした水が全部後ろにいくなんてこと、あるわけないわよね?
「い、一体何が……」
「やだ、何この臭い!」
「あ、あなたこそ!」
彼女たちも何が起こったのかわからないようで、困惑した様子で騒ぎ始めた。
そんな時、聞き覚えのない低い声が場に響いた。
「何をしているんだ?」
怒りの籠ったその声は、その場にいた者全員の視線をそちらへ向けさせた。そしてそこには、見たこともないほど美しい青年が立っていた。
つかつかと近づいてくる美青年以外、誰も動こうとする者はいなかった。動ける者がいなかった、という方が正しいかもしれない。それほど、怒りを全身に纏わせた彼は迫力があった。
輝かんばかりに艶やかな淡い金髪に、キリッとした印象を与える、オレンジがかった赤い目。素晴らしく整った顔立ち。知らない人のはずなのに、私はなんだか見覚えがある気がした。
なぜか私の近くまで来た彼を見上げる。
かなり背が高い。私が小柄なこともあるけれど、ずっと顔を見ていると首が疲れそうだった。
……見覚えがあるなんて、気のせいよね?
彼は、魔法使いが身につける黒地に金糸の刺繍が入ったローブを着ていたが、その風格は明らかに高位貴族のものだった。これほど美しい貴族男性ならば、きっと一目見れば忘れることなどないに違いない。
それなのに、なぜか彼は私を背に庇うような体勢をとると、ギロリと令嬢たちを睨みつけた。
「彼女にバケツの水をかけようとしていたな。彼女が一体何をしたというんだ?」
私を庇う様子を見て、令嬢たちはこの不可解な現状が、この男の仕業だと察した。
「なんですの、あなた。王宮魔法使いなのかしら? こんなことをして、許されると思っ……」
「質問に答えろ」
彼は、ただ静かに言葉を発しただけだった。
それなのに、あまりの威圧感に彼女たちは体を強張らせ、何も言えなくなってしまった。
「答えろと、言っている」
「わ、わたくしたちは……彼女の身の程知らずではしたない行いを、戒めようと……っ」
ぶるぶると手を震わせながら、令嬢が必死に言葉を紡いだ。だが、彼はそれを一蹴した。
「はしたない? 戒める? お前たちが彼女の何を知っているんだ。何も知らないくせに、確たる証拠もなく人を罰する権利がお前たちにあるのか? お前たちこそが、身の程知らずで恥知らずじゃないか。これ以上恥を晒したくなければ、今すぐ消えろ」
「……っ」
強い言葉で真正面から非難された彼女たちは、顔を真っ赤にして走り去っていった。
バタバタという足音が完全に聞こえなくなると、青年の雰囲気は豹変した。さっきまでの冷たい眼差しや言動が嘘のように慈しみの籠った、心配そうな表情を、なぜか私へ向けてきたのだ。
私はずっとそばで見ていたにも関わらず、思わず先ほどの威圧的な人物と本当に同じ人なのかと疑ってしまった。
……彼は一体誰なのかしら?
味方をしてくれたのはありがたかったものの、見知らぬ人がなぜこんなふうに自分を庇ってくれるのかと、私は戸惑いを隠せなかった。
彼は、優しい声で私に問いかけた。
「リーシャ、大丈夫だった?」
「えっ……」
どうして、私の名前を知っているのですか?
そう言いかけたが、私はようやく、彼がある人物の面影を持っていることに気づいた。
私が尊敬する、愛らしい姿のかつての主。
目の前の人と同じ、淡い金髪に赤い目をした、魔塔へと消えた第二王子。
背は見上げるほどに伸びているし、柔らかそうだった丸い頬はすっきりとして、愛らしさではなくスマートさが際立ってはいるけれど。
「ノ、ノラード様……?」
「うん、僕だよ。ただいま、リーシャ」
私の呟くような呼びかけに、とびきりの美青年となった彼はそう言って、以前のような満面の笑みで頷いたのだった。
汚れて黒ずんだ水を浴びたためか、彼女たちはあちこち汚れているし、周囲には汚れた雑巾のような嫌な臭いが漂っていた。
……どうなっているの? まさか、私にかけようとしたバケツの水を、彼女たちが浴びてしまったの? でも、いくらなんでも前にかけようとした水が全部後ろにいくなんてこと、あるわけないわよね?
「い、一体何が……」
「やだ、何この臭い!」
「あ、あなたこそ!」
彼女たちも何が起こったのかわからないようで、困惑した様子で騒ぎ始めた。
そんな時、聞き覚えのない低い声が場に響いた。
「何をしているんだ?」
怒りの籠ったその声は、その場にいた者全員の視線をそちらへ向けさせた。そしてそこには、見たこともないほど美しい青年が立っていた。
つかつかと近づいてくる美青年以外、誰も動こうとする者はいなかった。動ける者がいなかった、という方が正しいかもしれない。それほど、怒りを全身に纏わせた彼は迫力があった。
輝かんばかりに艶やかな淡い金髪に、キリッとした印象を与える、オレンジがかった赤い目。素晴らしく整った顔立ち。知らない人のはずなのに、私はなんだか見覚えがある気がした。
なぜか私の近くまで来た彼を見上げる。
かなり背が高い。私が小柄なこともあるけれど、ずっと顔を見ていると首が疲れそうだった。
……見覚えがあるなんて、気のせいよね?
彼は、魔法使いが身につける黒地に金糸の刺繍が入ったローブを着ていたが、その風格は明らかに高位貴族のものだった。これほど美しい貴族男性ならば、きっと一目見れば忘れることなどないに違いない。
それなのに、なぜか彼は私を背に庇うような体勢をとると、ギロリと令嬢たちを睨みつけた。
「彼女にバケツの水をかけようとしていたな。彼女が一体何をしたというんだ?」
私を庇う様子を見て、令嬢たちはこの不可解な現状が、この男の仕業だと察した。
「なんですの、あなた。王宮魔法使いなのかしら? こんなことをして、許されると思っ……」
「質問に答えろ」
彼は、ただ静かに言葉を発しただけだった。
それなのに、あまりの威圧感に彼女たちは体を強張らせ、何も言えなくなってしまった。
「答えろと、言っている」
「わ、わたくしたちは……彼女の身の程知らずではしたない行いを、戒めようと……っ」
ぶるぶると手を震わせながら、令嬢が必死に言葉を紡いだ。だが、彼はそれを一蹴した。
「はしたない? 戒める? お前たちが彼女の何を知っているんだ。何も知らないくせに、確たる証拠もなく人を罰する権利がお前たちにあるのか? お前たちこそが、身の程知らずで恥知らずじゃないか。これ以上恥を晒したくなければ、今すぐ消えろ」
「……っ」
強い言葉で真正面から非難された彼女たちは、顔を真っ赤にして走り去っていった。
バタバタという足音が完全に聞こえなくなると、青年の雰囲気は豹変した。さっきまでの冷たい眼差しや言動が嘘のように慈しみの籠った、心配そうな表情を、なぜか私へ向けてきたのだ。
私はずっとそばで見ていたにも関わらず、思わず先ほどの威圧的な人物と本当に同じ人なのかと疑ってしまった。
……彼は一体誰なのかしら?
味方をしてくれたのはありがたかったものの、見知らぬ人がなぜこんなふうに自分を庇ってくれるのかと、私は戸惑いを隠せなかった。
彼は、優しい声で私に問いかけた。
「リーシャ、大丈夫だった?」
「えっ……」
どうして、私の名前を知っているのですか?
そう言いかけたが、私はようやく、彼がある人物の面影を持っていることに気づいた。
私が尊敬する、愛らしい姿のかつての主。
目の前の人と同じ、淡い金髪に赤い目をした、魔塔へと消えた第二王子。
背は見上げるほどに伸びているし、柔らかそうだった丸い頬はすっきりとして、愛らしさではなくスマートさが際立ってはいるけれど。
「ノ、ノラード様……?」
「うん、僕だよ。ただいま、リーシャ」
私の呟くような呼びかけに、とびきりの美青年となった彼はそう言って、以前のような満面の笑みで頷いたのだった。
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