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第8話:王国の闇
しおりを挟むブリアンティア王国の王都——壮麗な白亜の城壁に囲まれた都市は、夕陽に照らされて黄金色に輝いていた。
城の中央に聳える大聖堂では、豪奢な儀式が行われようとしていた。白と金で飾られた大広間に、王族や貴族、騎士団長たちが集まっている。その壇上には、第一王子ルシウス・レド・ルミエルの姿があった。
「神の名において、汝に祝福を与えん」
大聖堂の長—最高司祭アルディスが、ルシウスの頭上に金の聖水を注いだ。王子の顔に満足の笑みが浮かぶ。本来ならば、国王の死後に行われるべき儀式だったが、彼は父王の存命中に「継承認定式」という形で自らの地位を確固たるものにしようとしていた。
「我が民よ、王神の意思により、次期国王として我が名を掲げよう」
ルシウスの声が大聖堂に響き渡った。彼は30歳を過ぎた壮年の男性で、端正な顔立ちと鍛え上げられた体格を持つ。金髪を短く刈り上げ、鋭い青い瞳を持つその姿は、確かに王の風格があった。
集まった貴族たちは拍手を送り、彼に敬意を示す。しかし、その表情の奥には恐怖の色も見え隠れしていた。
儀式が終わり、来賓たちが去った後、大聖堂の奥にある「聖なる評議室」に数人の人物が集まった。ルシウス、アルディス最高司祭、そして数名の高位聖職者と王国軍幹部だ。
「順調に進んでいるな」ルシウスは満足げに言った。「父上は弱っておられる。もうすぐ王位は私のものだ」
「神の祝福のおかげです」アルディスは静かに答えた。彼は60代の痩せた老人だが、その目は若者のように鋭く、内側に冷たい炎を宿しているようだった。「ですが、本題に入りましょう。"聖域崩壊"の準備の進捗は?」
「計画通りです」王国軍筆頭騎士団長のヴァレンティンが報告した。彼は重厚な鎧に身を包んだ中年の男性で、その体には数多の戦場を潜り抜けた証である傷跡が刻まれていた。「東部国境に聖騎士団と三個師団の兵を集結させました。また、"聖なるランス"の準備も整いつつあります」
「良し」アルディスは満足げに頷いた。「魔境の外縁に結界が弱まっている地点を見つけた。そこから突破口を開き、"黒の王冠"を破壊する」
部屋の中央にあるテーブルには、魔境の地図が広げられていた。その中心部には赤い印が付けられている——"魔王の玉座"の位置だ。
「一つ気になることがある」ルシウスが眉をひそめた。「弟のアーサーだ。彼が本当に死んだという確証はない」
部屋の空気が重くなった。第三王子アーサーの名前は、ルシウスにとって不快な記憶を呼び起こす。彼を追放してから数週間が経つが、その死亡を確認する報告はなかった。
「心配には及びません」アルディスは冷たく言った。「魔境に放り出された人間が生き延びた例はありません。たとえ奇跡的に生きていたとしても、野獣と変わらぬ狂人になっているでしょう」
「それでも...」
ルシウスは言葉を切った。彼は弟を甘く見てはいけないと本能的に感じていた。アーサーは幼少の頃から鋭い洞察力と適応能力を持ち、軍事的才能も示していた。それが彼がアーサーを恐れ、追放しようと決意した理由の一つでもあった。
「いずれにせよ、弟は死んだも同然だ」彼は自分に言い聞かせるように言った。「今は"聖域崩壊"に集中すべきだろう」
「その通りです」アルディスは微笑んだ。「この聖なる事業を成し遂げれば、王国は神の加護をより強く受けることでしょう。そして、ルシウス様は"魔を滅ぼした王"として、歴史に名を残すことになる」
ルシウスの瞳が野心の炎で輝いた。彼が力を求める理由の一つは、まさにその不滅の名声だった。
「では、あとどれくらいで作戦を開始できる?」
「あと三日です」ヴァレンティンが答えた。「"聖なるランス"の最終調整と、聖騎士団の準備が整い次第、魔境への侵攻を開始します」
「良し」ルシウスは満足げに頷いた。「私も前線に赴く。魔物どもを討ち滅ぼす瞬間を、この目で見届けたい」
アルディスは不思議な光を瞳に浮かべながら頷いた。その表情からは、何か別の思惑が垣間見えた。
---
評議室を出たルシウスは、王城の廊下を一人で歩いていた。夕暮れの光が窓から差し込み、彼の影を長く伸ばしている。
「殿下」
突然の声に振り返ると、そこには第二王子の補佐官だったマーカス・カスティルの姿があった。彼は40代の痩せた男性で、王国の歴史と文化に精通した学者でもあった。
「マーカス?何か用か?」ルシウスは冷たく尋ねた。マーカスは第二王子エドガーの側近だったが、エドガーは三年前に病で亡くなっていた。
「申し上げにくいことですが...」マーカスは周囲を見回し、声を潜めた。「"聖域崩壊"について、懸念があります」
ルシウスの表情が硬くなった。「何を言っている?神聖な任務に疑問を持つとは、不敬ではないか」
「殿下」マーカスは必死に言った。「古文書館で見つけた記録によれば、魔境の結界が崩壊すれば、単に魔物が死滅するだけではなく、この世界のバランスそのものが崩れる可能性があります」
「戯言を」ルシウスは苛立ちを隠さず言った。「そのような話は聞いたことがない」
「それは聖教会が隠してきたからです」マーカスは真剣な表情で続けた。「かつて人間と魔物は共存していました。魔境の力は、この世界の均衡を保つために必要なのです」
ルシウスは一瞬、言葉を失った。マーカスの言うことが仮に真実だとしても、今さら計画を中止するわけにはいかない。彼の地位と名声、そして聖教会との約束がかかっていた。
「黙れ」彼は低い声で命じた。「そのような異端思想を口にすれば、お前の命はないぞ」
マーカスは怯まなかった。「殿下、どうか一度立ち止まってお考えください。先王様——あなたの祖父も、魔境との全面戦争を避けてきたのには理由があるのです」
「マーカス...」ルシウスの声が危険な調子を帯びた。「私はお前を尊敬してきた。だからこそ警告する。この話は忘れろ。もし誰かにこの話をすれば、お前だけでなく、お前の家族も危険に晒されることになる」
マーカスの顔から血の気が引いた。彼には妻と幼い娘がいることをルシウスは知っていた。
「...承知しました」彼は渋々、頭を下げた。
「賢明な判断だ」ルシウスは冷たく言った。「二度とこの件には触れるな」
マーカスは静かに立ち去り、ルシウスは再び一人になった。彼は窓の外を見つめ、心の奥で小さな疑念が芽生えるのを感じた。しかし、すぐにそれを押し殺した。彼には戻れない道があった。
「魔境を滅ぼし、この国を救う」彼は自分に言い聞かせた。「それが王たる者の責務だ」
---
王城から離れた場所——王都の南東に位置する「聖教会総本山」では、もう一つの会議が行われていた。
地下深くにある秘密の間で、アルディス最高司祭と数名の高位聖職者が集まっていた。そこには通常の聖職者の白装束ではなく、黒い法衣を纏った者たちの姿もあった。
「ルシウス王子は順調に操れていますか?」黒装束の一人が尋ねた。
「ええ」アルディスは淡々と答えた。「彼は野心と名誉欲に目が眩み、我々の真の目的に気づいていない」
「"聖域崩壊"の準備はどうですか?」別の黒装束が質問した。
「計画通りです」アルディスは微笑んだ。「"聖なるランス"は完成に近づいている。魔境の結界を破る力を持つ、千年に一度の兵器だ」
部屋の中央には、奇妙な祭壇が設置されていた。そこには古代文字で描かれた魔法陣と、中央に置かれた白銀の槍——"聖なるランス"の原型があった。
「しかし、問題が一つ」アルディスは表情を曇らせた。「魔境に変化が生じている。何者かが"黒の王冠"に近づいているようだ」
「まさか...」黒装束の一人が息を呑んだ。「"魔物の王"の予言が...?」
「可能性は否定できない」アルディスは重々しく言った。「感知魔術によれば、魔境の中心部で異常な魔力の波動が検出されている」
「では、計画を早めるべきでは?」
「いいえ」アルディスは首を振った。「焦れば失敗する。予定通り、三日後に実行する。その前に、もう一つの準備を整えねばならない」
彼は祭壇に近づき、"聖なるランス"に手を置いた。槍が微かに光を放ち、彼の手の下で脈動しているかのようだった。
「この槍には、特別な力が必要だ」彼は静かに言った。「純粋な魂のエネルギー...」
黒装束たちは互いに視線を交わし、理解したように頷いた。彼らが何を意味しているのか、言葉にする必要はなかった。
「"聖域崩壊"が成功すれば、我々の真の目的が達成される」アルディスの目が異様な光を放った。「魔境の力を吸収し、この世界に新たな秩序をもたらすのだ」
祭壇の周りの魔法陣が微かに光り始め、部屋全体に不気味な雰囲気が漂った。彼らの計画は、単なる魔境征服を超えた何かだった。
---
その夜、ルシウスは自室で一人、窓の外を見つめていた。夜空に浮かぶ二つの月——青い大月と紫の小月が、雲間から姿を現している。
彼の心は複雑な思いで満ちていた。確かに彼は野心家だったが、王国の安泰を願う気持ちもあった。幼い頃から、魔物の脅威について教えられてきた。魔境は常に王国を脅かす存在として描かれ、その消滅こそが永遠の平和をもたらすと信じていた。
「本当に正しいことをしているのか...?」
彼はマーカスの言葉を思い出した。魔境が世界のバランスを保っているという話——それが真実だとしたら?しかし、あまりにも長く聖教会の教えを信じてきた。今さら方向転換はできない。
「いや、迷いは捨てよう」彼は自分を奮い立たせた。「私は王国のために戦う。それが第一王子としての務めだ」
しかし、夜が更けるにつれ、彼の心に別の思いが浮かんだ。弟アーサーのことだ。彼を追放したのは、単に王位継承の邪魔だったからだけではない。アーサーには常に彼にはない何かがあった——人々からの自然な信頼と、正義への純粋な情熱だ。
「アーサー...」彼は呟いた。「お前は本当に死んだのか?」
その問いに答えるように、小さな紫の月が雲に隠れ、部屋に暗闇が広がった。
---
同じ時間、王国軍の駐屯地では、聖騎士団が最終的な準備を進めていた。
中庭で白銀の鎧に身を包んだ騎士たちが訓練を行い、倉庫では魔境侵攻のための特殊装備が用意されていた。魔物の毒に耐える薬、結界を突破するための聖印、そして魔物を効率的に倒すための聖なる武具だ。
聖騎士団長のヴァレンティンは、一人きりになった執務室で、古い地図を見つめていた。それは彼の父から受け継いだ、魔境の詳細な地図だった。
「魔境...」彼は呟いた。「本当に全てが邪悪なのか?」
彼の父は魔境探索隊の一員として、若い頃に魔境の外縁部を調査していた。そして死の間際、息子に不思議な言葉を残していた。
「魔境には、我々の知らない真実がある...」
ヴァレンティンはその言葉の意味を理解できなかったが、心のどこかで引っかかりを感じていた。彼は忠実な騎士として、命令に従って魔境侵攻の準備を進めていた。しかし、心の奥では小さな疑問が燻っていた。
「三日後...全てが決まる」
彼は地図を巻き、再び鎧を身に着けた。騎士としての義務を果たすのみ——それが彼の決断だった。
---
魔境の入口近く、王国と魔境の境界にある監視塔では、二人の兵士が見張りに立っていた。
「おい、あれを見ろ」一人が指差した。
遠くの空に、黒い影が飛んでいる。それは鳥にしては大きすぎた。
「なんだ?魔物か?」もう一人が緊張した面持ちで尋ねた。
「いや...人間のようだ...」
彼らは監視塔の望遠鏡で見つめた。遠くに見えるのは、黒い翼を持つ人間の姿だった。紫の瞳が夜闇の中で輝いている。
「あれは...人間なのか魔物なのか...?」
兵士たちは恐怖に震えながらも、緊急信号を上げた。魔境の異変を王国に知らせるための狼煙だ。
その煙が夜空に立ち昇る頃、アーサーは既に魔境の深部へと戻っていた。彼には確信があった——王国は大規模な侵攻を準備している。時間がないことも。
「守るべきものが見えた」彼は飛びながら呟いた。「これは単なる復讐ではない。世界の均衡のための戦いだ」
魔境を包む夜の闇の中、運命の歯車が回り始めていた。
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