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第9話:新たなる脅威
しおりを挟む魔知の谷に戻ったアーサーとガルザスを待っていたのは、緊迫した様子の魔知種たちだった。
「族長!」竜人のドラコが報告した。「魔境の外周部で人間の兵士たちが結界を突破しました。先遣隊と思われます」
ガルザスは杖を握りしめ、低く唸った。「予想より早い。まだ三日はあるはずだったが...」
「状況は?」アーサーは冷静に尋ねた。
「西部外周から少数の精鋭部隊が侵入」ドラコが説明した。「人数は50名ほど。通常の兵士ではなく、聖印を帯びた者たちだ」
「聖騎士団...」アーサーは顔を引き締めた。「王国最強の精鋭部隊だ」
魔知種たちが集う評議の間では、緊急対策が話し合われていた。アーサーは魔境の立体地図を見つめながら、侵入者の動きを分析していた。
「彼らは調査班だ」彼は冷静に分析した。「本隊に先駆けて、魔境の抵抗力を測り、進軍ルートを確保しようとしている」
「どう対応すべきか?」蛇女のセルピアが尋ねた。
アーサーはしばらく考え込んだ。彼はこれまで魔境で生き抜き、魔物たちと行動してきたが、かつての同胞と直接戦うのは初めてだった。心の片隅に躊躇いがあることは否めない。
しかし、彼の記憶に王国の軍記が蘇った。侵攻作戦では、先遣隊が地域の「浄化」を行うのが常だった。つまり...
「急ぐべきだ」アーサーは決然と言った。「先遣隊の目的は通過点となる集落の殲滅だ。外周部の魔物たちが危険にさらされている」
ガルザスは杖で床を叩いた。「では戦闘準備だ。だがアーサー、お前は黒の王冠を守るため、この場に留まるべきだ」
「いや」アーサーは首を振った。「私が行く。彼らは私の知る敵だ。戦術も武器も理解している」
「しかし...」
「それに」アーサーは静かに続けた。「私はまだ彼らの前で自分の立場を示していない。今こそその時だ」
部屋に静寂が広がった。やがてガルザスが深くため息をついた。
「わかった。だが無謀な行動は慎め。お前はただの戦士ではない。魔境の希望だ」
アーサーは頷き、モンスターイーターを握りしめた。
「ドラコ、セルピア、私と共に行動してほしい」彼は二人の魔知種に声をかけた。「三手に分かれ、先遣隊を足止めし、外周部の住民を避難させる」
「承知した」ドラコが力強く応じた。「私の翼部隊を率いる」
「私の部族も協力しましょう」セルピアも優雅に頭を下げた。「毒と癒しの力が役立つでしょう」
アーサーは魔知の谷の戦士たちに向かって声を上げた。
「今日から、我々は受け身ではなく、攻めに出る。外部からの脅威に対し、毅然と立ち向かう。これは魔境の歴史の転換点となるだろう」
魔知種たちから士気高まる唸り声が上がった。彼らは千年もの間、結界の内側で人間を避けて生きてきた。だが今、彼らは前に踏み出す決意を固めたのだ。
---
西部外周の森では、聖騎士団の先遣隊が進軍していた。
白銀の鎧に身を包んだ騎士たちは、整然と隊列を組み、魔境の森を進んでいく。その武具には聖印が刻まれ、剣や槍には聖水が塗られていた——全て魔物に対抗するための特殊装備だ。
「隊長、前方に魔物の集落を発見」先頭を行く斥候が報告した。
聖騎士団副団長のシルヴィアは無表情で頷いた。彼女は氷のように冷たい青い瞳を持つ女性で、その腰には「聖粛正の剣」と呼ばれる銀の大剣を下げていた。
「作戦通り、浄化を実行する」彼女は淡々と命じた。「生き残りは一匹も残さぬよう」
「はっ!」
騎士たちは命令に応じ、集落へと向かった。それは比較的知性の低い小型魔物——「コボルト」と呼ばれる狼人のような種族の集落だった。彼らは農耕や狩猟をする平和な種族だったが、聖騎士団の目には全て「浄化すべき魔」としか映らなかった。
「神の名において、魔を粛清せよ!」
シルヴィアの号令とともに、騎士団が集落に襲いかかった。コボルトたちは驚き、恐怖に慄いたが、抵抗する術もなく次々と斬り伏せられていく。
魔物の悲鳴が森に響き渡った。火が放たれ、簡素な住居が燃え上がる。逃げ惑う者を容赦なく追いつめる騎士たち。それは戦闘ではなく、一方的な虐殺だった。
「こちらA隊、第一集落の浄化完了」シルヴィアは冷たく報告した。「次の目標に移動する」
彼女の剣は魔物の血で濡れていたが、その表情に一切の感情はなかった。これは使命であり、神聖な義務だと信じていた。
「隊長!」突然、一人の騎士が叫んだ。「空から何かが来ます!」
シルヴィアが空を見上げると、複数の影が急降下してくるのが見えた。竜のような姿をした魔物たちだ。そしてその先頭には、黒い翼を持つ人間の姿があった。
「なに...?」
彼女が驚きの声を上げる間もなく、アーサー率いる竜人部隊が騎士団に襲いかかった。
「人間どもめ!」ドラコが怒りの咆哮を上げた。「同族を虐殺した報いを受けよ!」
炎の息が吐き出され、騎士団の一部が焼かれた。しかし、聖印の加護により、致命的なダメージを与えることはできない。騎士たちは即座に陣形を整え、対空態勢に入った。
アーサーは単独で地上に降り立ち、シルヴィアと対峙した。彼の姿を見た騎士団の面々から驚きの声が上がった。
「あれは...第三王子?」
「不可能だ...魔境で生き延びるはずがない」
「あの翼は...魔物のものか!?」
シルヴィアは冷静さを失わず、剣を構えた。「貴様が何者であれ、魔に与した者は浄化の対象だ」
アーサーは一歩前に出た。その姿は以前の王子の面影を残しつつも、明らかに変化していた。紫の瞳、わずかに青みがかった黒髪、そして背に生やした黒い翼。
「私はアーサー・レド・ルミエル」彼は落ち着いた声で名乗った。「かつてはブリアンティア王国の第三王子。今は魔境に生きる者だ」
その言葉に、騎士団の中に動揺が広がった。アーサーは彼らの様子を見て、何人かの顔を認識した。彼が軍を指揮していた頃の部下たちだ。
「王子様...本当に...」一人の若い騎士が呟いた。
「黙れ!」シルヴィアが厳しく命じた。「目の前にいるのは人間ではない。魔物と同化した堕落者だ。神の教えに従い、浄化せよ!」
彼女の言葉で騎士たちは我に返り、再び冷酷な表情になった。アーサーはため息をついた。
「話し合いの余地はないようだな」彼はモンスターイーターを抜いた。「だが、これ以上の虐殺は許さない」
「その剣は...」シルヴィアの目が剣に釘付けになった。「モンスターイーター...伝説の魔剣!なぜ魔を滅する剣が、魔に与した者の手に?」
「皮肉だろう?」アーサーは微笑んだ。「だが、全ては定められていたのかもしれない」
彼は剣を掲げると、その刃が紫の光を放った。同時に、彼の全身から魔力が溢れ出す。魔境と繋がった力が、彼の中で高まっていくのを感じた。
「来るぞ!」シルヴィアは部下たちに警告した。
アーサーは一瞬で姿を消し、次の瞬間には聖騎士団の中央に現れていた。剣が閃き、三人の騎士が倒れる。それは人間離れした速度だった。
「囲め!」シルヴィアの命令で、騎士たちがアーサーを取り囲んだ。
彼らの聖剣が一斉にアーサーに向けられた。しかし、彼は動じなかった。むしろ、挑むような微笑みさえ浮かべていた。
「私が王国にいた頃、聖騎士団の弱点について研究していたことを忘れたのか?」
彼は地面に剣を突き立て、魔力を解き放った。紫の波動が地面を伝わり、騎士たちの足元から聖印を侵食し始める。
「不可能だ!」シルヴィアが驚愕の声を上げた。「聖印は魔を寄せ付けない...!」
「通常の魔力なら、そうだろう」アーサーは冷静に答えた。「だが、魔境の核心と繋がった力は別だ」
彼は剣を引き抜くと、円を描くように振るった。紫の軌跡が空間に残り、それが膨張して騎士たちを吹き飛ばした。
上空では、ドラコ率いる竜人部隊が残りの騎士たちと戦っていた。魔法と炎が飛び交い、森は戦場と化していた。
シルヴィアは剣を構え、単身アーサーに挑んだ。「王子様とはいえ、魔に身を落とした者に容赦はしない!」
彼女の剣技は見事だった。王国最強と謳われる聖騎士団の実力は伊達ではない。アーサーは彼女の攻撃をかわしながらも、その技量に感心した。
「シルヴィア、お前は優秀な騎士だ」彼は言った。「だが、お前は欺かれている。聖教会の真の目的を知らないのだろう?」
「黙れ!」彼女は怒りを込めて斬りかかった。「異端の言葉など聞くものか!」
二人の剣がぶつかり合う度に、青と紫の火花が散った。力と技の真っ向勝負だったが、次第にアーサーが優勢になっていく。彼の体内には魔境の力が満ちており、それは聖騎士の加護をも上回る力となっていた。
「もう十分だ」
アーサーは一瞬の隙を突き、シルヴィアの剣を弾き飛ばした。彼女は膝をつき、覚悟の表情で彼を見上げた。
「とどめを刺せ。私は聖騎士として誇りを持って死ぬ」
しかし、アーサーは剣を収めた。
「私は殺しに来たのではない。警告に来たのだ」
彼は彼女を見下ろし、厳しくも落ち着いた声で言った。
「王国に伝えろ。魔境への侵攻を止めなければ、次は容赦しない。"聖域崩壊"の儀式を進めれば、世界のバランスが崩れる。それは人間界にも破滅をもたらす」
シルヴィアは憎悪の眼差しを向けたが、アーサーの言葉に真実の響きを感じ取ったのか、わずかに表情が揺らいだ。
「なぜ...私たちを生かす?」
「私はかつて王国の王子だった」アーサーは静かに答えた。「無意味な殺戮は望まない。だが、今日の虐殺は許されることではない」
彼は周囲を見回した。コボルトの集落は灰燼に帰し、多くの命が失われていた。その光景に胸が痛んだが、これが現実だ。
「撤退せよ。生き残った者たちを連れて」彼は命じた。「そして王子と聖教会に伝えろ。魔境には新たな守護者がいると」
シルヴィアは屈辱に満ちた表情で立ち上がり、剣を拾った。周囲では戦いが終わりつつあった。竜人部隊の前に、聖騎士団は半数以上を失っていた。
「撤退する」彼女は残った部下たちに命じた。「傷ついた者を優先して運べ」
騎士たちは混乱しながらも従い、負傷者を抱えて退却し始めた。シルヴィアは最後にアーサーを振り返った。
「我々は必ず戻る。それも、より強大な力と共に」
「その時は私も待っている」アーサーは静かに答えた。
聖騎士団が森から退却すると、アーサーはようやく緊張の糸が切れたように膝をついた。初めて人間と戦った緊張と、かつての同胞を傷つけた後悔が彼を襲った。
ドラコが地上に降り立ち、彼の肩に手を置いた。
「よくやった、アーサー。お前がいなければ、もっと多くの同族が犠牲になっていただろう」
アーサーは顔を上げ、燃え盛る集落を見つめた。彼らが到着する前に、多くのコボルトが命を落としていた。彼らの小さな体は地面に転がり、中には子供の姿もあった。
「遅すぎた...」彼は呟いた。「もっと早く来るべきだった」
セルピアの部隊も合流し、負傷した魔物たちの治療を始めた。彼女はアーサーの前に膝をつき、彼の顔を見つめた。
「自分を責めないで」彼女は優しく言った。「あなたがいなければ、全滅していたわ」
アーサーは立ち上がり、決意の表情を浮かべた。
「これが始まりに過ぎないことは分かっている。王国は本格的な侵攻を準備している。それも、三日以内に」
「我々も準備を整えねばならない」ドラコが力強く言った。
アーサーは頷き、モンスターイーターを鞘に収めた。剣は彼の決意に応えるように、微かに震えた。
「生き残ったコボルトたちを魔知の谷に避難させよう」彼は言った。「そして、外周部に残る全ての魔物たちにも警告を送る必要がある」
「それだけではないわ」セルピアが言った。「"黒の王冠"のもとへの旅も急がなければ。王国が"聖域崩壊"の儀式を完成させれば、全てが終わる」
アーサーは黙って頷いた。今、彼の中で何かが変わった。これまでの彼は、追放された王子として魔境で生き延びるために力を求めてきた。復讐心と生存本能が彼を動かしていた。
しかし今、彼の目的は変わった。魔境と、そこに生きる者たちを守るために戦う。王国と魔境、両方の世界を知る彼だからこそできる使命だった。
「ガルザスの元に戻ろう」彼は決意を固めた。「魔境の全勢力を結集させる時が来た」
彼らが集落を後にする頃、月が雲間から姿を現した。二つの月——青い大月と紫の小月が、彼らの行く手を照らしていた。
アーサーは月を見上げ、決意を新たにした。
「もう後には引けない」
彼は背中から翼を広げ、空へと舞い上がった。残された時間はわずかだった。彼は王国軍の本隊が来る前に、魔境の防衛を固め、そして"黒の王冠"の力を解放する必要があった。
それが、魔物の王としての、彼の使命だった。
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