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2.理由なんて他に見当たらなかった
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マスターのニヤリとした笑みに、最奥の席に腰かけている千歳が苦笑いを浮かべて肩を竦めた。
「……なんでわかるの」
私が今日来店した理由を千歳が知っているのは百歩譲って当たり前としても、まだ「別れた」とは一言も口にしていない。それなのにマスターがその事を察しているのは意味がわからない。思わずむっと眉間に皺を寄せてカウンター内のマスターを睨みつける。
含みのある笑みを浮かべたまま、マスターはコーヒーポットからドリッパーに蒸らしのためのお湯をくるくると円を描くように投下していく。この店オリジナルのブレンドコーヒーの、華やかで上質な酸味を感じさせる香りがほわほわと漂い、ペーパー内のコーヒー豆がふっくらと膨らんだ。
「そりゃなぁ? うちに来るたびに『またフラれた』ってこぼしてりゃなぁ」
「やよさんはフラれた後じゃなきゃこの店に来ないもんねぇ」
当たり前のように横槍を入れてくる千歳をぎゅっと睨むと、彼は素知らぬ顔でコーヒーカップに口を付けていた。すっと伸びた背筋で口元にコーヒーカップを運ぶ所作は洗練された気品と優雅さを感じさせる。それが私の心の中に広がる面白くないという感情に拍車をかけているような気がする。
「……デートで来ようとすると満席なんだもの」
「お、そうなのか?」
ことり、と、マスターがコーヒーポットを置き、私が放った精一杯の強がりな一言を揶揄うように、愉し気に顎を触っている。思わずむくれたようにぷいっと明後日の方向を向いた。身に着けている長めのピアスが耳元でゆらゆらと揺れ動いていく。
「みんな女を見る目がないのよ」
「やよさんに男を見る目がないだけだと思うけど」
「……」
千歳の鋭い一言がボディブローのようにずしんと重く突き刺さった。……男を見る目がないのは、ずいぶんと昔から自覚している。
35歳になった今でさえも。私のことを、慰めの――ただの遊び相手と思っている千歳に、叶わない想いを抱いていて。
男を見る目がない――これは今も昔も、全く変わらないのだから。
「なんだ。また浮気か?」
蒸らしが終わったのか、再びコーヒーポットを手に取ったマスターが手元のドリッパーに視線を落としてポツリと私に問いかけた。
「……ううん。今回は……なんだろう」
今回付き合った彼は、優しく誠実なひとだった。けれど、結局。彼が私から離れるように――私が仕向けてしまった。罪悪感から身の置き場がなく、椅子の上でぎゅっと縮こまる。
初めて付き合ったときは、彼を信じすぎて振られた。出版社の編集部門のひとだった。約束した日に会えなくても「担当作家に急に呼び出されて」という彼の言い訳を端から信じ――裏切られていたことに気が付いたのは、フラれた翌日に綺麗な女の人と身体をくっつけて、ひどく親しげに歩いていたのを見た時、だった。
もう遊び人はこりごり。浮気をしない誠実なひとがいい、と……次は見た目も性格も優しいひとを選んだ。結婚前提、という言葉を信じた。けれどもそのひとは結婚資金にとふたりで始めた共同貯金を、全額ギャンブルに使い込んでいた。金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもので、共同貯金の残額が無くなったところでフラれた。
そのひとと別れたことを聞きつけた取引先の人から告白され、その当時もう三十路に足を踏み入れていた私は前に進もうと首を縦に振った。けれども結局相手を信じられなかった。常に疑心暗鬼の私に心を開いてなんてくれるはずもなく――案の定、彼は私の元を去っていった。今から、5年前の出来事。
「…………今回は……性格の不一致、かな」
しばらく逡巡したのち、性格の不一致で本心を濁す。真実は違うのだけれど。
「なにも結婚だけが人生じゃねぇだろう。『次』を探す前に少し頭を冷やしたらどうだ」
「……うん…」
コト、と、小さな音を立てて目の前になみなみと注がれたコーヒーカップが差し出される。目の前に置かれたそれを手に取ってそっと口をつけた。腔内に含んだ暖かい液体が喉を滑り落ちていく。こくんと飲み下せば、フローラルな甘酸っぱい香りが鼻を通り抜けていき、程よい苦味が口の中に広がっていく。やはりマスターが手がけたコーヒーは群を抜いた美味しさだという感嘆の感情と、年齢的なタイムリミットが迫っていることへの喩えようのない焦燥感と、靄がかった感情が綯い交ぜになったため息がこぼれ落ちていった。
視界の端に映るのは、入り口付近に設置してある薄いビニールシートが被せてある銀の光を湛えた大きな焙煎機。この機材が大きく場所を占めていてカウンターの他には席がなく、本当にこぢんまりとした店。それもそのはず、マスターの本業は周辺のレストランに卸すために行っている自家焙煎のコーヒー豆の販売で、日中開いているこの喫茶店はあくまでもそちらの顧客に繋げるためのオプションにすぎない、らしい。マスターの好みなのか通常の焙煎店よりも焙煎具合が深めのフルシティロースト、フレンチロースト、場合によってはイタリアンローストまで取り扱っている。
こうやって個人客にコーヒーを提供し豆の販売をしている傍ら、人生相談のようなことも請け負ってくれている。それもこれも、気さくで常に穏やかなマスターの人柄が為せる技。彼の人当たりのソフトさと気安さで、誰もが初対面でも知り合いのような口調で話す事が出来る。マスターはそんなことを意識してはいないのだろうけれど、彼は他人の本音を引き出せる不思議な力を持っているのだ。
そんなマスターは時折、おどけたように「この際、コーヒー屋から人生相談所に鞍替えするかと思うくらいだ」と零している。
マスターが『池野 和宏』という人間だからこそ――この店に集まる人たちは一様に。彼だけには、心の奥底に鍵をかけて隠していた本音が話せてしまう。
「まぁ、さっきみたいなのを見ちまえばな。……今のお前には酷な光景だったろう」
マスターが困ったように思いっきり苦笑いを浮かべ、小さなお皿を私の目の前に置いた。そして、カウンターの内側から腕を伸ばし、ぽんぽん、と私の頭を優しく叩いていく。じん、と……心の奥に広がる、あたたかい温石のような何か。
私がこうして落ち込んで来店すると必ず出してくれる――慰めのチョコレート。白いお皿の上に載せられた一口サイズのそれを指先で摘まみ、ゆっくりと口の中に放り込む。舌の上で外側のチョコレートがとろりと溶け、食むとザクザクとした食感が伝わってくる。ビスケットとピーナッツが混ざったそれは芳ばしい風味がしっかりと感じられ、淹れたてのブレンドコーヒーの味に奥行きをもたらしている。
マスターが口にした『さっきみたいなの』という言葉が指すものは、紛れもなく理香ちゃんと父親と思しき男性のことだ。
現代の日本社会においては、テレビやオンライン動画共有サイトのCMで描かれるような『倖せな家庭像』というものが確固としてあり、「女性は結婚して子どもを産み育てるのが当たり前」という考え方が遍く根づいている。「古き良き伝統的な家族観」が、当たり前にそこにある。
私がこうして恋愛方面に躍起になっていることを、マスターはそう解釈している。早く家庭を持ちたい、だから付き合っては別れてを繰り返している、と。その解釈は間違い、ともいえるけれど、あながち正面から真っ直ぐに否定することはできない。
「……やっぱり私、子どもが欲しい」
はらりと落ちていく、心。自覚してしまった、自分の中の素直な感情。先ほど目にした、幸せの証。だからこそ――私が繰り返している不毛な行為は終わらせなければいけない。先ほどはそれを痛いほど感じさせられる時間だった。
20代の頃は子どもが欲しいなんて思ったこともなかった。自分が子どもを持つことがどうしてもイメージできなかった。今この手にある自由を手放したくない、自由に羽ばたいて広げていける自分の『可能性』を潰したくない。自分の子どもだからといって無条件に愛せるかどうかわからない。何より――精神的に幼い私に、子どもを育て正しく導いていく自信がない。
けれども30代に入ると妊娠・出産のリスクをリアルに感じるようになった。陣痛を伴う出産、そのあと待ち受ける育児には体力が必要だし、何より35歳以上の高齢出産には母体に対しても産まれてくる子どもに対してもリスクが発生する。
「どんどん悪くなっていく一方のこの現代に可愛い我が子を産み落とすなんて、僕はそんな残酷なことはできないけどね」
ずくん、と。千歳のその一言が大きく感情を揺らす。ピキリ、と。何かに罅が入ったかのように胸の奥が軋んだ。
(……わかってる。千歳とは相容れない、って)
そう。わかっている、のだ。年齢も釣り合っていない、価値観も合っていない。なにより想いが通じ合っていない彼と私は、絶対的に相容れない存在である――と。
緩慢な動作で千歳を見遣れば、彼は心底つまらなさそうな表情を精悍な顔に浮かべゆっくりと腕を組んだ。
「……なんでわかるの」
私が今日来店した理由を千歳が知っているのは百歩譲って当たり前としても、まだ「別れた」とは一言も口にしていない。それなのにマスターがその事を察しているのは意味がわからない。思わずむっと眉間に皺を寄せてカウンター内のマスターを睨みつける。
含みのある笑みを浮かべたまま、マスターはコーヒーポットからドリッパーに蒸らしのためのお湯をくるくると円を描くように投下していく。この店オリジナルのブレンドコーヒーの、華やかで上質な酸味を感じさせる香りがほわほわと漂い、ペーパー内のコーヒー豆がふっくらと膨らんだ。
「そりゃなぁ? うちに来るたびに『またフラれた』ってこぼしてりゃなぁ」
「やよさんはフラれた後じゃなきゃこの店に来ないもんねぇ」
当たり前のように横槍を入れてくる千歳をぎゅっと睨むと、彼は素知らぬ顔でコーヒーカップに口を付けていた。すっと伸びた背筋で口元にコーヒーカップを運ぶ所作は洗練された気品と優雅さを感じさせる。それが私の心の中に広がる面白くないという感情に拍車をかけているような気がする。
「……デートで来ようとすると満席なんだもの」
「お、そうなのか?」
ことり、と、マスターがコーヒーポットを置き、私が放った精一杯の強がりな一言を揶揄うように、愉し気に顎を触っている。思わずむくれたようにぷいっと明後日の方向を向いた。身に着けている長めのピアスが耳元でゆらゆらと揺れ動いていく。
「みんな女を見る目がないのよ」
「やよさんに男を見る目がないだけだと思うけど」
「……」
千歳の鋭い一言がボディブローのようにずしんと重く突き刺さった。……男を見る目がないのは、ずいぶんと昔から自覚している。
35歳になった今でさえも。私のことを、慰めの――ただの遊び相手と思っている千歳に、叶わない想いを抱いていて。
男を見る目がない――これは今も昔も、全く変わらないのだから。
「なんだ。また浮気か?」
蒸らしが終わったのか、再びコーヒーポットを手に取ったマスターが手元のドリッパーに視線を落としてポツリと私に問いかけた。
「……ううん。今回は……なんだろう」
今回付き合った彼は、優しく誠実なひとだった。けれど、結局。彼が私から離れるように――私が仕向けてしまった。罪悪感から身の置き場がなく、椅子の上でぎゅっと縮こまる。
初めて付き合ったときは、彼を信じすぎて振られた。出版社の編集部門のひとだった。約束した日に会えなくても「担当作家に急に呼び出されて」という彼の言い訳を端から信じ――裏切られていたことに気が付いたのは、フラれた翌日に綺麗な女の人と身体をくっつけて、ひどく親しげに歩いていたのを見た時、だった。
もう遊び人はこりごり。浮気をしない誠実なひとがいい、と……次は見た目も性格も優しいひとを選んだ。結婚前提、という言葉を信じた。けれどもそのひとは結婚資金にとふたりで始めた共同貯金を、全額ギャンブルに使い込んでいた。金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもので、共同貯金の残額が無くなったところでフラれた。
そのひとと別れたことを聞きつけた取引先の人から告白され、その当時もう三十路に足を踏み入れていた私は前に進もうと首を縦に振った。けれども結局相手を信じられなかった。常に疑心暗鬼の私に心を開いてなんてくれるはずもなく――案の定、彼は私の元を去っていった。今から、5年前の出来事。
「…………今回は……性格の不一致、かな」
しばらく逡巡したのち、性格の不一致で本心を濁す。真実は違うのだけれど。
「なにも結婚だけが人生じゃねぇだろう。『次』を探す前に少し頭を冷やしたらどうだ」
「……うん…」
コト、と、小さな音を立てて目の前になみなみと注がれたコーヒーカップが差し出される。目の前に置かれたそれを手に取ってそっと口をつけた。腔内に含んだ暖かい液体が喉を滑り落ちていく。こくんと飲み下せば、フローラルな甘酸っぱい香りが鼻を通り抜けていき、程よい苦味が口の中に広がっていく。やはりマスターが手がけたコーヒーは群を抜いた美味しさだという感嘆の感情と、年齢的なタイムリミットが迫っていることへの喩えようのない焦燥感と、靄がかった感情が綯い交ぜになったため息がこぼれ落ちていった。
視界の端に映るのは、入り口付近に設置してある薄いビニールシートが被せてある銀の光を湛えた大きな焙煎機。この機材が大きく場所を占めていてカウンターの他には席がなく、本当にこぢんまりとした店。それもそのはず、マスターの本業は周辺のレストランに卸すために行っている自家焙煎のコーヒー豆の販売で、日中開いているこの喫茶店はあくまでもそちらの顧客に繋げるためのオプションにすぎない、らしい。マスターの好みなのか通常の焙煎店よりも焙煎具合が深めのフルシティロースト、フレンチロースト、場合によってはイタリアンローストまで取り扱っている。
こうやって個人客にコーヒーを提供し豆の販売をしている傍ら、人生相談のようなことも請け負ってくれている。それもこれも、気さくで常に穏やかなマスターの人柄が為せる技。彼の人当たりのソフトさと気安さで、誰もが初対面でも知り合いのような口調で話す事が出来る。マスターはそんなことを意識してはいないのだろうけれど、彼は他人の本音を引き出せる不思議な力を持っているのだ。
そんなマスターは時折、おどけたように「この際、コーヒー屋から人生相談所に鞍替えするかと思うくらいだ」と零している。
マスターが『池野 和宏』という人間だからこそ――この店に集まる人たちは一様に。彼だけには、心の奥底に鍵をかけて隠していた本音が話せてしまう。
「まぁ、さっきみたいなのを見ちまえばな。……今のお前には酷な光景だったろう」
マスターが困ったように思いっきり苦笑いを浮かべ、小さなお皿を私の目の前に置いた。そして、カウンターの内側から腕を伸ばし、ぽんぽん、と私の頭を優しく叩いていく。じん、と……心の奥に広がる、あたたかい温石のような何か。
私がこうして落ち込んで来店すると必ず出してくれる――慰めのチョコレート。白いお皿の上に載せられた一口サイズのそれを指先で摘まみ、ゆっくりと口の中に放り込む。舌の上で外側のチョコレートがとろりと溶け、食むとザクザクとした食感が伝わってくる。ビスケットとピーナッツが混ざったそれは芳ばしい風味がしっかりと感じられ、淹れたてのブレンドコーヒーの味に奥行きをもたらしている。
マスターが口にした『さっきみたいなの』という言葉が指すものは、紛れもなく理香ちゃんと父親と思しき男性のことだ。
現代の日本社会においては、テレビやオンライン動画共有サイトのCMで描かれるような『倖せな家庭像』というものが確固としてあり、「女性は結婚して子どもを産み育てるのが当たり前」という考え方が遍く根づいている。「古き良き伝統的な家族観」が、当たり前にそこにある。
私がこうして恋愛方面に躍起になっていることを、マスターはそう解釈している。早く家庭を持ちたい、だから付き合っては別れてを繰り返している、と。その解釈は間違い、ともいえるけれど、あながち正面から真っ直ぐに否定することはできない。
「……やっぱり私、子どもが欲しい」
はらりと落ちていく、心。自覚してしまった、自分の中の素直な感情。先ほど目にした、幸せの証。だからこそ――私が繰り返している不毛な行為は終わらせなければいけない。先ほどはそれを痛いほど感じさせられる時間だった。
20代の頃は子どもが欲しいなんて思ったこともなかった。自分が子どもを持つことがどうしてもイメージできなかった。今この手にある自由を手放したくない、自由に羽ばたいて広げていける自分の『可能性』を潰したくない。自分の子どもだからといって無条件に愛せるかどうかわからない。何より――精神的に幼い私に、子どもを育て正しく導いていく自信がない。
けれども30代に入ると妊娠・出産のリスクをリアルに感じるようになった。陣痛を伴う出産、そのあと待ち受ける育児には体力が必要だし、何より35歳以上の高齢出産には母体に対しても産まれてくる子どもに対してもリスクが発生する。
「どんどん悪くなっていく一方のこの現代に可愛い我が子を産み落とすなんて、僕はそんな残酷なことはできないけどね」
ずくん、と。千歳のその一言が大きく感情を揺らす。ピキリ、と。何かに罅が入ったかのように胸の奥が軋んだ。
(……わかってる。千歳とは相容れない、って)
そう。わかっている、のだ。年齢も釣り合っていない、価値観も合っていない。なにより想いが通じ合っていない彼と私は、絶対的に相容れない存在である――と。
緩慢な動作で千歳を見遣れば、彼は心底つまらなさそうな表情を精悍な顔に浮かべゆっくりと腕を組んだ。
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