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28.遠い春が夢に遊ぶ
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マウスを手にしたままPCのディスプレイに表示された文章を眺め、ほうと小さく息を吐いた。自然と漏れ出てくるあくびを噛み殺し、『097_Ryu・最終稿』『098_景元証券・最終稿』とタイトルをつけたそれぞれのファイルの上書き保存をして左耳に着けたイヤホンを外す。
私の場合、いつもであれば編集長に記事の初稿を上げてから改稿、最終稿の提出まで3週間はかけている。けれど、今回の千歳の案件に関しては2週間で最終案までたどり着いた。いや、強引にたどり着かせた、というのが正しいかもしれない。理由はいくつかあるけれど、一番の理由は先々週に接触してきた景元千耀への腹いせだ。自らの子どものことを失敗作扱いし、自分の人生と同一化させ、あまつさえレールを敷いてやらねばと考えているあの人に目にものをみせてやるという反骨精神がこの2週間の私の原動力だった。普段は使わない仮眠室を使用して通勤時間を削って没頭するように原稿を書いていた。
とはいうものの、期間が短いからといってクオリティとクオンティティを妥協したつもりは毛頭ない。手を抜いたりをするつもりは元からさらさらなかった。納得のいく形までしっかりと持っていけた自信はある。最終稿に編集長のGOサインを貰い、取材対象者へ内容の齟齬がないかの最終確認を行えば原稿は私の手を離れる。その後は紙面デザインを担当する大石先輩に作業が渡り、色校やその他の作業に移っていく。ひとまず一段落終えたと心の中で呟きながら肩を回していると、デスクの上に放置していたスマートフォンが鈍く震えた。ディスプレイに表示されているのは、今日の相棒であるカメラマン・三浦の電話番号だった。
(あ……そっか、時間、だ!)
プライベートで様々な出来事が起ころうと、時間は等しく正しく過ぎていく。川の水がただただ海へと流れていくように、当たり前に過ぎていく。Ryuさん、そして千歳のインタビューから一月が経過した。今日は、かねてから約束していたマスターのお店の取材日なのだ。
慌てて席を立ち脇机から鞄を引っ張り出す。手元に広げていた手帳を乱暴に閉じて鞄に押し込み、PCに繋いでいたケーブルの先のボイスレコーダーを手に取ってそれも鞄に詰め込んだ。震え続けるスマートフォンの画面をタップして肩に挟む。
「遅くなってごめん! 今から降りる!」
『ごめん鷹城!』
三浦はフリーランスのカメラマン。彼女と組むの取材の時はこのオフィスビル1階の出入り口で待ち合わせるのが常だった。きっと彼女はいつものように待っているだろうからこれから下に向かうと開口一番に口にしたものの、三浦も同じタイミングで言葉を被せた。思わぬ展開に荷物を纏める手をぴたりと止めて目を瞬かせる。
『鷹城、本当にごめん。旦那側の親戚が危篤って連絡が入って。今日の撮影、無理っぽい……』
苦しそうに言葉を紡ぐ電話口の向こう側でガタガタと荷物を纏めているような音、そして遠くに子どもの声が僅かに聞こえてくる。急な連絡に三浦自身も慌ててているのだろうと察した。
身内の危篤なら仕方がない、というよりもそちらの方を優先してほしい。人道的にもその選択しかないだろう。私だけでなくほかのライターだって同じ答えにたどり着くはずだ。
「ううん、大丈夫。そっちを優先して。正直、今日の取材は店内の写真しか撮影許可出てないうえに、その人と知り合いなのよ。写真撮影だけだったら後日でも受けてくれると思う。今日は気にしないで!」
マスターは確かに性格に癖がある。けれど、他人に対しては本当に優しいのだ。私と千歳が言い争いをしていた時のように、常連客同士の揉め事を仲介しようとするくらいにはお人好しでもある。だから今回の急な変更に関してもきっと理解してくれるだろう。
(……結局、あの時。どんな話を千歳にしたんだろ)
あの夜からしばらく経ったけれど、相変わらず千歳からもマスターからも音沙汰なしの状態だ。マスターは本当に、千歳にどんな話をしたのだろう。ここまで連絡がないということは、千歳はもう、私とのことは無かったことにしているのだろうか。今日はせっかくマスターに会うのだからその話をしたいけれど、あくまでも今日は星霜出版社の鷹城として池野和宏に会いにいくのだ。そういったプライベートの話は出来ないだろうし、しないほうが賢明だろう。そんなことを頭の片隅で考えつつ、琥珀色の瞳を脳裏に思い浮かべながら電話の向こうでごめんと繰り返す三浦に罪悪感を持たせぬようカラッと明るく言葉を返した。
***
マスターのお店へ向かうためにオフィスビルに近いバス停に足を運ぶ。あの夜――千歳との間に割って入ってくれていたマスターも言っていたが、この道はまっすぐ行くとマスターの喫茶店がある名港区に繋がっている。近くには御三家と呼ばれる大きなホテルもあるため人の往来が多く、日中はバスの本数も多い。それゆえに私は普段電車移動だけれども今日はバスを選択した。
「あ」
バス停につくと短めの黒髪で高身長の見知った顔が視界の端に映り込む。彼も私の姿を確認したのか驚いたように目を瞠らせた。
「亀ちゃん。お疲れ」
「お……っ、ス」
言い淀んだように声を返した亀ちゃんが私に近づき、肩にかけたカメラの紐に手を置いた。困ったように、それでも言いづらそうに視線を彷徨わせている様子に私が首を傾げていると。
「その。辞めるって……マジ、なんスか」
私から視線を外したまま、彼は眉を下げやるせなさそうに呟いた。思わずその言葉に小さく息を飲む。
退職願を出したのは、あの人が接触してきた翌日のことだった。私はあの時、あの人が要求した全てを拒んだ。去り際に放たれた言葉から、もしかすると景元千耀から星霜出版社に本当に圧力がかかるかもしれないと考えたからだ。
もちろん、編集長には本当の理由なんて言えなかった。というより、言わないことを選択した。フリーライターになりたい――退職の理由をそう告げた。立ち止まって燻ぶってばかりいた私にとっていい機会だ、と思ったからだ。
「うん、今月末で辞めるよ。これから行く取材が、星霜出版社の鷹城としては最後になるかな」
そう口にしながら、ふっと脳裏に先ほど上書き保存した原稿データのタイトルが浮かぶ。Ryuさんは97、千歳が98。Aliceさんが99で――マスターが100。これは私がデータを探しやすくするために振っていた連番。入社してライターとして仕事を始めて、インタビューした人数が100人を超えるとは思ってもみなかった。重なった数字がずいぶんと感慨深く感じる。
「……その。理由。聞いても……いい、ッスか」
「独立しようと思って。平たく言うとフリーライターになろうと思ってるの。ま、上手いこといくかはわからないけどね~」
肩を竦めながら軽い口調で亀ちゃんには言葉を返したが、これは嘘だ。正直に言ってフリーランスになるつもりはない。私はもう文筆業から身を引こうと思っている。
景元グループは日本中の誰もが名前を知っている大きなグループだ。千歳の祖父、景元グループの創始者である景元千也が今もグループのトップに立っているとはいえ、その息子である景元千耀本人にどれくらいの力があるのかはわからない。けれど、私の名前で寄稿した先の出版社に景元千耀から圧力がかかれば目も当てられない。
こんな事情を誰かに正直に話す気にはなれなかった。要は退職の理由もでっち上げだ。それでも、今の私にはもうこうするしかない気がしている。
隣に立って苦しそうに口を引き結んだままの亀ちゃんから弱々しく力のない声が返ってくる。
「そう……っ、ス、か」
「うん。あ、でも、退職しても亀ちゃんのことは応援してるから。入選したら連絡してよ? 絶対だから……ね……?」
亀ちゃんにそう言葉を返しながら、私は道路を隔てた向こうの光景に視線が釘付けになってしまった。
豪華絢爛なホテルの正面玄関に踊る、艶やかな朱色の振袖。その隣に立つ――――千歳の、横顔に。
私の場合、いつもであれば編集長に記事の初稿を上げてから改稿、最終稿の提出まで3週間はかけている。けれど、今回の千歳の案件に関しては2週間で最終案までたどり着いた。いや、強引にたどり着かせた、というのが正しいかもしれない。理由はいくつかあるけれど、一番の理由は先々週に接触してきた景元千耀への腹いせだ。自らの子どものことを失敗作扱いし、自分の人生と同一化させ、あまつさえレールを敷いてやらねばと考えているあの人に目にものをみせてやるという反骨精神がこの2週間の私の原動力だった。普段は使わない仮眠室を使用して通勤時間を削って没頭するように原稿を書いていた。
とはいうものの、期間が短いからといってクオリティとクオンティティを妥協したつもりは毛頭ない。手を抜いたりをするつもりは元からさらさらなかった。納得のいく形までしっかりと持っていけた自信はある。最終稿に編集長のGOサインを貰い、取材対象者へ内容の齟齬がないかの最終確認を行えば原稿は私の手を離れる。その後は紙面デザインを担当する大石先輩に作業が渡り、色校やその他の作業に移っていく。ひとまず一段落終えたと心の中で呟きながら肩を回していると、デスクの上に放置していたスマートフォンが鈍く震えた。ディスプレイに表示されているのは、今日の相棒であるカメラマン・三浦の電話番号だった。
(あ……そっか、時間、だ!)
プライベートで様々な出来事が起ころうと、時間は等しく正しく過ぎていく。川の水がただただ海へと流れていくように、当たり前に過ぎていく。Ryuさん、そして千歳のインタビューから一月が経過した。今日は、かねてから約束していたマスターのお店の取材日なのだ。
慌てて席を立ち脇机から鞄を引っ張り出す。手元に広げていた手帳を乱暴に閉じて鞄に押し込み、PCに繋いでいたケーブルの先のボイスレコーダーを手に取ってそれも鞄に詰め込んだ。震え続けるスマートフォンの画面をタップして肩に挟む。
「遅くなってごめん! 今から降りる!」
『ごめん鷹城!』
三浦はフリーランスのカメラマン。彼女と組むの取材の時はこのオフィスビル1階の出入り口で待ち合わせるのが常だった。きっと彼女はいつものように待っているだろうからこれから下に向かうと開口一番に口にしたものの、三浦も同じタイミングで言葉を被せた。思わぬ展開に荷物を纏める手をぴたりと止めて目を瞬かせる。
『鷹城、本当にごめん。旦那側の親戚が危篤って連絡が入って。今日の撮影、無理っぽい……』
苦しそうに言葉を紡ぐ電話口の向こう側でガタガタと荷物を纏めているような音、そして遠くに子どもの声が僅かに聞こえてくる。急な連絡に三浦自身も慌ててているのだろうと察した。
身内の危篤なら仕方がない、というよりもそちらの方を優先してほしい。人道的にもその選択しかないだろう。私だけでなくほかのライターだって同じ答えにたどり着くはずだ。
「ううん、大丈夫。そっちを優先して。正直、今日の取材は店内の写真しか撮影許可出てないうえに、その人と知り合いなのよ。写真撮影だけだったら後日でも受けてくれると思う。今日は気にしないで!」
マスターは確かに性格に癖がある。けれど、他人に対しては本当に優しいのだ。私と千歳が言い争いをしていた時のように、常連客同士の揉め事を仲介しようとするくらいにはお人好しでもある。だから今回の急な変更に関してもきっと理解してくれるだろう。
(……結局、あの時。どんな話を千歳にしたんだろ)
あの夜からしばらく経ったけれど、相変わらず千歳からもマスターからも音沙汰なしの状態だ。マスターは本当に、千歳にどんな話をしたのだろう。ここまで連絡がないということは、千歳はもう、私とのことは無かったことにしているのだろうか。今日はせっかくマスターに会うのだからその話をしたいけれど、あくまでも今日は星霜出版社の鷹城として池野和宏に会いにいくのだ。そういったプライベートの話は出来ないだろうし、しないほうが賢明だろう。そんなことを頭の片隅で考えつつ、琥珀色の瞳を脳裏に思い浮かべながら電話の向こうでごめんと繰り返す三浦に罪悪感を持たせぬようカラッと明るく言葉を返した。
***
マスターのお店へ向かうためにオフィスビルに近いバス停に足を運ぶ。あの夜――千歳との間に割って入ってくれていたマスターも言っていたが、この道はまっすぐ行くとマスターの喫茶店がある名港区に繋がっている。近くには御三家と呼ばれる大きなホテルもあるため人の往来が多く、日中はバスの本数も多い。それゆえに私は普段電車移動だけれども今日はバスを選択した。
「あ」
バス停につくと短めの黒髪で高身長の見知った顔が視界の端に映り込む。彼も私の姿を確認したのか驚いたように目を瞠らせた。
「亀ちゃん。お疲れ」
「お……っ、ス」
言い淀んだように声を返した亀ちゃんが私に近づき、肩にかけたカメラの紐に手を置いた。困ったように、それでも言いづらそうに視線を彷徨わせている様子に私が首を傾げていると。
「その。辞めるって……マジ、なんスか」
私から視線を外したまま、彼は眉を下げやるせなさそうに呟いた。思わずその言葉に小さく息を飲む。
退職願を出したのは、あの人が接触してきた翌日のことだった。私はあの時、あの人が要求した全てを拒んだ。去り際に放たれた言葉から、もしかすると景元千耀から星霜出版社に本当に圧力がかかるかもしれないと考えたからだ。
もちろん、編集長には本当の理由なんて言えなかった。というより、言わないことを選択した。フリーライターになりたい――退職の理由をそう告げた。立ち止まって燻ぶってばかりいた私にとっていい機会だ、と思ったからだ。
「うん、今月末で辞めるよ。これから行く取材が、星霜出版社の鷹城としては最後になるかな」
そう口にしながら、ふっと脳裏に先ほど上書き保存した原稿データのタイトルが浮かぶ。Ryuさんは97、千歳が98。Aliceさんが99で――マスターが100。これは私がデータを探しやすくするために振っていた連番。入社してライターとして仕事を始めて、インタビューした人数が100人を超えるとは思ってもみなかった。重なった数字がずいぶんと感慨深く感じる。
「……その。理由。聞いても……いい、ッスか」
「独立しようと思って。平たく言うとフリーライターになろうと思ってるの。ま、上手いこといくかはわからないけどね~」
肩を竦めながら軽い口調で亀ちゃんには言葉を返したが、これは嘘だ。正直に言ってフリーランスになるつもりはない。私はもう文筆業から身を引こうと思っている。
景元グループは日本中の誰もが名前を知っている大きなグループだ。千歳の祖父、景元グループの創始者である景元千也が今もグループのトップに立っているとはいえ、その息子である景元千耀本人にどれくらいの力があるのかはわからない。けれど、私の名前で寄稿した先の出版社に景元千耀から圧力がかかれば目も当てられない。
こんな事情を誰かに正直に話す気にはなれなかった。要は退職の理由もでっち上げだ。それでも、今の私にはもうこうするしかない気がしている。
隣に立って苦しそうに口を引き結んだままの亀ちゃんから弱々しく力のない声が返ってくる。
「そう……っ、ス、か」
「うん。あ、でも、退職しても亀ちゃんのことは応援してるから。入選したら連絡してよ? 絶対だから……ね……?」
亀ちゃんにそう言葉を返しながら、私は道路を隔てた向こうの光景に視線が釘付けになってしまった。
豪華絢爛なホテルの正面玄関に踊る、艶やかな朱色の振袖。その隣に立つ――――千歳の、横顔に。
応援ありがとうございます!
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