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1章 謎の聖女は最強です!

執事、懇願する!

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「お願いです、ディル様! 清らかなる聖女様に夜伽を命じるのだけはお止めください!! どうか、どうか……」

 広い書斎のシミ一つないカーペットの上に跪き、土下座せんばかりに頼み込むセバスチャンに、ディルはぶ厚い本をめくりながら冷たい視線を向けた。

「先ほどコミュニケーションが不足していると言ったのはお前だろう、セバスチャン」
「わたくしめが間違っておりましたッ! お二人はお茶の時間だけで十分に仲が深まっていますゆえ、どうか、どうか、共寝だけは……ッ!」
「何を大げさな。人は何かとつけて身体を重ねる行為をロマンチックに仕立てようとするが、しょせん快楽を伴う身体の接触だ。昔はどうであれ、今の時代において婚約者同士の肉体交渉くらい普通だろう。どうせ結婚後に子を成すために必ずしなければいけない作業の一つでもある。早めに行って慣れるべきではないのか?」
「うわあ、人として最低の発言をなさる……」

 人として最低の発言だが、ディルはいたって大真面目だった。いや、サンクトハノーシュ王国一の天才は、いつだって大真面目なのである。少なくとも、軽々しく冗談を言うタイプではない。
 セバスチャンは、だんだん頭痛がしてきた。なんで良い年をした成人男性に対して、「結婚とは」「恋愛とは」「そもそも人付き合いとは」という話をしなければならないのだ。

(何と申せば分かっていただけるだろうか……)

 セバスチャンは青い顔をして唸る。この分からず屋の主人を早めにどうにかせねばならないのに、まるで説得できる気がしない。

 そもそも、ディルが天才である理由の一つは、ひとえに常に学ぶことを怠らない姿勢にあった。「書史を師とし、思索を友とする」という思想を完璧に体現する男である。彼は常に貪欲に知識を求め、さらにその知識を発展させるべく日々ペンを走らせる。王に請われれば、存分にその知識を活用して国家運営に活かしてきた。

 天才は、常に努力を怠らなかったのだ。

 しかし、知識人として多忙な日々を送り続けた結果として、残念ながらディルは一般的な人間関係を全く築いてこなかった。友達と呼べる人間は、ただの一人もいない。当然、人付き合い――とりわけ、恋愛に関しての知識――は、彼の頭からまるっと抜け落ちてしまった。

 その結果、「男女の付き合いにおいても、常に合理性を重視する」という、なんとも残念な男が出来上がってしまったという次第である。

 セバスチャンは頭を抱えた。

(ああ、人間関係についての知識をディル様にお教えした方は過去にいなかったのか……)

 いなかったのである。

 動かしがたい真実に一瞬気が遠くなった気もしないでもないが、ここで諦めてしまってはダメだとセバスチャンはなんとか踏みとどまる。

「ディル様、婚約期間と言えば、お互いの気持ちを探り合い、甘い言葉を囁き、贈り物を送る。そんな、一番楽しい時期ですぞ。そのような時期をみすみす逃すなんて、人生においては大いなる損失です」
「はあ、全くもってどこが楽しいのか分からん。そんな効率の悪いことをしていては、時間の無駄だ。馬鹿らしい」
「恋愛なんて馬鹿にならないとできませんよ! 第一、おふたりは、せ、せ、接吻もまだでしょう!」
「おい、なぜ赤の他人であるはずのお前が、顔を赤らめている? 全く理解ができない……。そもそも、婚儀も近々行う予定なのだ。我々には時間がない」
「しかし、ですなあ。お二人の結婚式自体も、めでたいこととはいえ、急ぎすぎているのではないでしょうか? お互いを知る時間を十分に取りませぬことには……」
「婚儀までに必要最低限を済ませればいいだろう。そんなことより、モタモタしているうちに聖女に逃げられる方がまずい」
「逃げられないように努力をしてくださいませ! それだから三人の貴族令嬢たちに婚約破棄をされるのです! いいですか、ディル様。一般的に、女人は何においても『初めて』を重視するものです。ですから、もっとシチュエーションを大事にですな……」
「……フン。聖女には婚約者がいたんだぞ。別に、初めてでもなかろうに」

 いつも冷静な主人らしくない拗ねたような口調が返ってきた。セバスチャンが呆気にとられた顔をする。まるで、聖女の元婚約者である第一王子に嫉妬しているような口ぶりだ。

「ディル様が、人間らしいことを言っている気がしたのですが……」
「なんだその言い草は! まるで私が人の心を持っていないような口ぶりだな」
「ひっ、ひぃいいい!」

 セバスチャンの失言で一気に気まずい雰囲気になった書斎に軽やかなノックの音が響いた。ディルが短く「入れ」と命じる。

 ティーワゴンとともに騒々しくエミが部屋に入ってきた。

「はいはいはーい! エミたそがおやつ持ってきたよぉ! 今日はマドレーヌでぇ、……ってどうしたの? 二人とも顔がなんか怖くない?」
「え、エミ様……。実は今、ご主人様と少々込み入った話をしておりまして……」
「あ、そーなの? 出直したほうが良い感じ?」
「で、できれば――……」

 お願いします、とセバスチャンが言い切る前に、ディルが口を開く。

「聖女よ、問おう。私との夜伽を命じたところで、お前は応じるか?」
「でぃ、ディル様ッ!」

 あまりに単刀直入でぶしつけな質問に、セバスチャンは泣きそうになった。
 「婚約破棄」、「離職者急増」、「仕事倍増」、という嫌な言葉が次々とセバスチャンの脳裏に浮かんでは消えていく。

(ああ、この一言でエミ様のディル様に対しての好感度は地の底に……。天使のごとく優しい聖女様のいるこの生活も、これで終わってしまう……。嗚呼、これから先どうやってこの屋敷を盛り立てていけばいいのだ……)

 しかし、エミはしばらくポカンとした後、ニカッと笑った。

「あ、りょでーす!」

 存外に軽い返事だった。セバスチャンは己の耳を疑い、エミの顔を凝視したものの、彼女はいつも通り明るく微笑んでいる。――少なくとも、セバスチャンにはそう見えた。

 ディルは当然のように、鷹揚に頷く。

「ふむ。それでは、今夜は私の寝室に来るように」
「おけまる~~! あっ、そんでねえ、今日のおやつはキーくん特製のマドレーヌなんだけど、クッキーも焼いてくれたんだって! ヤバくなあい?」
「なにがヤバいのだ? そのキーくんとやらに、お前は不満があるのか?」
「あ、えーっとね、このヤバいは最&高って意味のヤバい、だから。お菓子が2種類も出てきて超嬉しいってこと」
「なるほど。お前の言う『ヤバい』は、文脈から判断する必要があるんだな」
「よくわかんないけどそんな感じ。あっ、待って待って、お茶出すから座ってて~~! 今日はミルクティーなんだよ! タピオカはいってないやつ!」
「た、ぴおか……?」
「ん-っとね、タピオカはなんかモチモチした卵っぽいヤツなんだけどお……。なんか、魚系の……」
「モチモチした、魚卵……? 異世界は変わった食べ物があるんだな」

 意外なほどあっさりと日常の会話が繰り広げられていく。先ほどディルから発せられた異常な命令など、まるでなかったかのように。

 セバスチャンはぽかん、と口を開いた。

(絶対にエミ様は夜伽などを命じられれば嫌がられると思っていたのに、あんなにもあっさり頷かれるなんて……。もしかして、異世界は性に奔放なのか? それならば、文化の違い……? いや、しかしエミ様は意外と常識はあるお方のような……)

 セバスチャンが混乱している間にも、エミとディルはいつも通りだった。エミが楽しそうに異世界についての話をしているのを、ディルは無表情のまま淡々と頷き、時々何の面白みもない質問する。

 そして、拍子抜けするほどにあっさりとおやつの時間は定時に終了した。

◇◆

 夕食を済ませたあと、エミはいつも通り、厨房に行って料理人たちと雑談をしながら後片付けをして、部屋に戻った。

 ちょうど部屋にはベッドメイクをしていたメイド長のメアリーがいて、部屋に帰ってきたエミにこやかに丁寧な礼を取った。

「あら、エミ様。おかえりなさいませ」
「あっ、メアちん! 今日は夜伽の日だってハクシャクに言われたんだけど、どうしたらいいかなあ。とりあえずお風呂入るべき?」

 エミの言葉を聞いた瞬間、穏やかな笑みを浮かべていたメアリーの顔がいきなり凍り付く。
 ガシュバイフェンに、嵐の予感をはらんだ冷たい風が吹き荒れた。
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