いろはにほへとちりぬるを……

とうるくん

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十手目◇投了はするべきではない

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「なぁ、倫子や。
 二人の思い出も将棋の棋譜のように記録できる方法があれば良いのにな……

 お前は余と一緒になると言うことで式を挙げた時、一体何を考えておったのだ?
 嬉しかったとか嬉しくなかったとか、そう言うことを聞いているのではないぞ。
 そういった気持ち的な面は言わずとも分かるものだからな。
 と言うのもな、倫子。
 余の方は、お前と挙げた式には実に不思議な感覚を覚えていたのだ。
 結婚と言うのは、ある日を境に一緒になることを言うのだと思う。
 それは身分の高い低いなどということは関係なく、誰にとっても同じことであるはずだ。

 余とお前は宝暦4年の師走、実に多くの者が見守る中で余らは夫婦となることを誓いあったな。 
 あの時、空には雪が降っていたのを覚えておるか?
 とは言っても、式が執り行われたのは師走。
 かなりの寒さに見舞われる時期だけに、それは仕方がないことだと思う。
 現に御入輿御行列として周囲を取り巻いていた者の中には、それどころではないと言う態度を示しておった者も少なからずおったからのう。
 だからと言って今更、その者達をどうこうしようなどとは微塵も考えてはいない。
 では何故、そんなことを言い出したのかと言うとな…
 実は、あの時、余は寒さなど全く感じていなかったのだ。
 何故なのかは分からんが、あの時寒さを感じていなかったという感覚は今でもはっきりと覚えておる。
 だから倫子。
 もしかすると、あの感覚というのは余だけではなく、お前もまた一緒だったのではないだろうかと思うんだ。
 それに、お前があの日に見せてくれた顔は寒さなどとは無縁の素晴らしい顔を余に見せておったぞ。
 
 と同時に……
 なぁ、倫子や。
 余は今になって、あの日の自分という存在を激しく軽蔑しておる。

 本来であれば、あの日の情景。
 人の姿形・気持ち・行動、など全てを記録として残しておかねばならない。

 だが、余はそれをしなかった……
 その理由は、やり始める前から
 出来ないと思ってしまったからだ……

 あの時は、それで仕方がないと思ってはいたのだが、
 今となっては何故、記録できなかったのか
 本当にできなかったのか?
 という己の無力さで余の心は埋め尽くされておる。

 人の心や記憶と将棋の棋譜が全く違うものなんて言う事は誰に言われるまでもない。
 最初から分かりきっておる事実なのだ。
 
 だが……
 だからと言って……
 何故、あの時諦めてしまったのだろうか……
 
 勝負を始める前に投了をする阿呆だったとはな……
 余は何と愚かな人物なのだろうか。」
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