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第7話 放火魔

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◆◆◆◆◆


誰か、助けてよ。正美、ごめん。痛いよな。苦しいよな。どうしたらいい?

警察に行けばいいのか?俺は父さんの共犯になるの?捕まるのか?

正美と離れたくない。
俺は正美を犯してる。虐待してる。
逃げ出したい。全部捨てて逃げたい。
死にたい、死にたい。

母さん、どこに行ったんだよ?
助けてよ。

泣かないでくれ、正美。
どうしよう、どうしよう。

全部消してやる。灰にするんだ。
こんな現実。
死ね、死ね、死ね。


◇◇◇◇◇


「兄さん、どうして僕の顔ばっかり見てるわけ?ケーキが食べにくい~」

正美の言葉で俺ははっとして、過去から聞こえる自分自身の声から解放された。じわりと背中に嫌な汗が流れる。

コーヒーショップで、弟は本日お勧めケーキを食べている。その視線が俺に向けられていた。正美の唇には、僅かに生クリームがついている。

「クリームが口に付いているぞ。ガキだな、正美は・・」

俺がそう指摘すると、正美は真っ赤になってナプキンで口元を拭く。俺は軽く笑って、コーヒーを口に運ぶ。そして呟いていた。

「今日は、悪かったな。嫌な思いをさせて。すまない、正美」

「なんだ、まだ気にしているの?僕は女じゃないし、別に男にキスされたからって平気だって言っただろ?ゲームだし・・減るものじゃないし」

お前は嘘つきだな、正美。
男から奪って抱きしめた時、お前は震えていたじゃないか。全身に鳥肌が立って、唇が青ざめていた。

「まあ、完全に酔っ払って・・ちょっと行き過ぎの感じはあったけど、相手の人はちゃんと謝ってくれたし問題ないよ。それより、あの騒動のおかげで姉さんの希望には添えなかったね」

「はるかの希望?」

「僕に彼女を作るっていう計画。まあ、僕にその気がないから、元々無茶な計画だけどね」

俺は正美を見つめて口を開く。

「まったくその気がないのか?」

俺の言葉に正美が僅かに眉を寄せる。

「兄さんも、僕に彼女を作って欲しいの?どうして?僕、鬱陶しい?」

「・・鬱陶しい?どうしてそうなるんだよ、正美?」

「僕は兄さんのコバンザメ状態で行動する事も多いし、鬱陶しいのかなと思って・・」

俺は呆れて正美を見た。

「そんなわけないだろ?それに最近は・・俺と一緒に行動する事なんて少ないじゃないか。藤村先生だったか?その人と一緒に行動する比率が多いだろ?ちょっと寂しいくらいだよ」

俺がそう言うと、正美は目を見開いて俺を見つめた。

「寂しい?」
「ああ、寂しいな・・」

正美がひどく嬉しそうに笑ったので、俺は面食らった。だが、すぐに笑顔を浮かべて言葉を続ける。

「なあ、俺が正美に彼女を作ってもらいたい理由は、俺の経験も関係しているんだ」

「経験?」

「そうだ。俺は・・はるかに出会うまで、結婚したいとも家族を作りたいとも思わなかった。むしろ、人間不信というか・・人と肌を触れ合わすのも嫌だったくらいだ。弟のお前は別だ。だけど、他人は信用できなかった」

「兄さん・・」

「きっと、過去の事が関係しているんだろうな。俺は・・あんな無茶苦茶な父親になりたくもなかった。父親になる可能性のある結婚なんて頭にもなかった。でも、はるかに出逢えた」

何故か、正美が寂しげに目を伏せる。

「兄さんにとって、はるかさんは特別なんだね」

「そうだな。わがままで嫉妬深いし、扱いにくいけどな。でも、肌をあわせて、明るい性格に接して、俺の考えも変わったんだ。彼女となら結婚してもいいってね。そう思ったら、彼女を逃して堪るかって気になってさ。『でき婚』でもないのに、早々に結婚してしまった」

正美が笑う。

「そうだったね!結婚を決めたのがあまりに早かったから心配したよ。でも、仲良くやってるみたいで・・安心したよ」

「ああ。尻に敷かれるのが、夫婦長続きの秘訣だ」

俺も笑う。

「だから、正美にもそういう人と出逢ってもらいたいんだよ。いろんな人に会って、触れ合って、探してもらいたいんだ。アニメの女じゃ、そんなふれあいはできないだろ?まあ、俺の勝手な希望だけどな」

俺の言葉を聞いて、少し俯いていた正美が、不意に顔をあげて俺を見つめる。躊躇しながらも、口が開かれる。

「・・僕は、今ね、片想いをしているんだよ、兄さん」

「片思い?本当か?」

「本当だよ。でも、成就しそうもない一方的な感情なんだ。相手は結婚しているしね。だけど、きっとその恋からは、いつか解放されると思う。そうしたら、本当の恋ができるとおもう。僕は兄さんほど、人間不信には陥っていないしね」

そう言って、正美が笑顔を浮かべた。
その笑顔が酷く切なく思えて、正美の手を握り締めようと手を伸ばす。だが、正美がびくりと震えて、テーブルから手を膝に引っ込める。

「正美?」

正美は動揺を隠すように、ぎこちない笑顔を見せる。

「だから、兄さん。そう僕をせっつかないでよ。僕は、僕なりに、恋を乗り越えていくんだから」

俺は正美のぎこちない笑顔から、視線を逸らせた。

「悪かった、正美。余計なお世話って奴だな。でも、行き詰ったら相談ぐらいはしてくれよ?」

相変わらずぎこちない笑顔で頷く正美に、切ない思いが募った。

人間不信じゃない?

人に触れられる事に、こんなに抵抗を感じているのに?それとも、俺だから嫌なのか?俺だから、触られたくないのか?

俺がお前を穢したから。
何度も、何度も。

自分自身の手が穢れているような気がして、指先が冷えていく感じがした。

それにしても、正美が恋に苦しんでいるとは意外だった。それも相手は、既婚者?それでは、正美の性格から考えると、成就しそうもない。結婚相手から無理やり奪うようなことは、弟にはできないだろうから。

複雑な気分でコーヒーを口に運ぶと、酷く苦く感じた。正美がケーキを食べ終えると、俺たちはコーヒーショップを出た。正美は、いらないと断ったが、俺は無理やり弟のアパートまで送る事を納得させた。

「兄さんは心配性だなぁ!女じゃないから、襲われる危険もないのに」

「まあ、警察官の護衛をただで受けられるんだから感謝しろよ」

弟がにやりと笑う。

「経理担当の警察官じゃ、頼りになるかどうか疑問だね?」

俺は正美の頭を小突いた。

「これでも柔道は黒帯だぞ!」
「分かったよ。頼りにしています」

正美がちらりと舌を出して、俺を見つめた。何時もの正美の様子に、俺はホッとして連れ立って歩き出す。

電車に揺られ、弟のアパートの最寄り駅につく頃には酔いも冷め体も冷えだしていた。冬の夜空を見上げると、綺麗に星が輝いていた。吐き出す息が、白く曇り夜空に消えていく。二人とも、言葉少なにアパートに向かう。

だが、アパートにたどり着くと、俺はその異変に気が付いた。

なんだ・・この臭いは?



◇◇◇◇◇



「灯油・・臭いね。兄さん、そう思わない?」

僕が兄さんに声を掛けると、兄さんも怪訝な顔をして頷いた。冬場だし、誰かがストーブに灯油を入れ替えているのかもしれないけど。

その時、アパート脇の駐輪場から物音が聞こえ、僕はびくりと震えた。照明器具のないそこは、闇に包まれていた。兄さんが眉を寄せて、その暗がりに近づく。僕もあとに続く。僕と兄さんが駐輪場を覗き込んだとき、ゆらりと揺らめく光が見えた。

ライターの火?

そう僕が思った時には、兄さんが暗がりに向かって声を掛けていた。

「何をしている!!」

その声にびくりと震える影があった。途端にライターの火が消えて、暗がりの中に、人影が消えようとしていた。

兄さんが俊敏に駆け出す。

暗闇の駐輪場で人が絡み合い、揉み合う気配を感じた。だが、それもすぐに収まる。兄さんが人影を暗闇から表の通りに引きずり出す。

若い男だった。

「あ・・」

その人物を見て、僕は声をあげていた。兄さんが僕に視線を送り、口を開く。

「正美、知っている人間か?」

「多分、同じアパートに住む住人だよ。確か、中学生だったと思う。小林だったかな?」

「中学生?この・・放火魔が?」

放火魔?
じゃあ、さっきの灯油の臭いは、放火するための燃焼剤のつもりだったのか。少年をよく観察すると、手にはライターが握り締められていた。僕は、ぞっとして少年の顔に見入る。

「どうして、自分の住むアパートに放火なんて・・」

放火は重罪だ。それも、人が住んでいる建物に火をつければ、死刑すらありうるんじゃなかったっけ?兄さんにがっちりと押さえ込まれた少年が呟く。

「全部・・灰にするんだ」
「え・・?」
「親父ごと、燃えればいいんだ。こんな、アパート・・」

兄さんがぎくりと震えたのが、僕にも分かった。兄さんも僕と同様に、過去の記憶が蘇ったのかもしれない。

赤い炎に包まれたアパート。
焼死した父親。

でも、あれは父さんの寝たばこが原因だった。でも、少年がしようとしたことは犯罪だ。放火なんだから。

「兄さん、警察に知らせないと」
「正美、待て」
「兄さん?」

僕の言葉を無視して、兄さんが少年の顔をじっと見つめ口を開く。

「どうして、父親を燃やしたいんだ?何故、殺したいと・・思ったんだ?」

兄さんの声が、酷く苦しげだった。僕は怪訝に思って、兄さんの顔を覗き込む。兄さんの顔は酷く青ざめていた。

少年は答えない。

ますます兄さんの顔は青ざめていく。少年を捉える腕が震えているように見えた。堪らなくなって、僕は答えを導き出す。

「・・アパートの大家さんから、以前に聞いたことがある。父子家庭で登校拒否になっている少年がいるって。もしかすると、父親から暴力を受けているかもしれないって」

兄さんが僕を見つめ口を開く。

「・・それ、本当か?それなのに正美は、お前は、何もしなかったのか?その大家も・・何もせずにいたのか?」

兄さんの怒りが伝わり、僕はびくりと震えた。

「・・確証がなかったから」

「お前なら分かるだろ?父親からの暴力が、どれだけ精神を蝕むか。なのに何もしないで傍観していたのか、正美?放っておいたのか、中学生を?」

「兄さん・・僕は・・」

兄さんが僕から目を逸らし、少年に視線をやる。

「暴力を受けているのか?だから放火して、殺したいと思ったのか?」

少年は黙っていたが、やがて肩を震わせ泣き出した。嗚咽の中、か細い声が響く。

「・・もう嫌だから。殴られるのも、触られるのも・・嫌ぁ・・」

ほっそりとした少年の首筋に、僕はあるものを見つけてびくりと震えた。殴られた痕じゃない。誰かに唇でつけられた痕。兄さんが静かに呟く。

「性的虐待を受けているのか?」

少年は頷くと、そのまま地面に座り込んでしまった。兄さんは僅かに思案顔をすると、僕に視線を送った。

「正美、放火未遂のことは警察には黙っていろ。いいな?」

「兄さん!」

警察官の兄さんが、見逃すと言うの?放火は、重罪なのに。

「この子は・・今日はどこか、ホテルで宿泊させる。明日、児童相談所に連れて行くよ、正美」

「放火の事は伏せて、虐待の件だけを告げるの?」

「そうする方がいいだろ、正美?人目に付くとまずいから、俺はもう行く。おい、お前も立て。父親に見つかりたくないだろ?」

兄さんが少年に声を掛ける。

なんだか、嫌な予感がした。兄さんが初めて会った人間に、ひどく肩入れしている。兄さんの様子が酷く不安定に見えた。

「兄さん!僕も一緒に行くよ」

「いや、お前はこなくていい。こいつの父親に何か聞かれても、黙っているんだ・・いいな?」

兄さんが、そっと少年の肩を抱き寄せる。胸に痛みが走った。遠ざかっていく兄さんと少年の後姿を、僕はただ不安を抱えて見つめ続けた。



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