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第47話 過去の記憶

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◆◆◆◆◆

(過去の記憶・・弘樹・・)
     (アパート火災2日前)


◇◇◇◇◇


がさがさがさ・・・

「・・?」

耳障りな音で俺は目が覚めた。

夜中のはずなのに、電気が付いている。目覚めたばかりの目には、光が眩しくて目を細めた。時計を確認すると午前4時だった。

「・・??」

布団から身を起こすと、俺は反射的に正美が眠る布団に視線を向けた。

「正美・・?」

正美がいない。

からっぽの布団に嫌な予感を覚えて、俺は隣の父親の部屋に目を向けた。

どうやら、あいつは帰っていないようだ。何時も敷かれたままの万年布団に父親の姿はない。俺はほっと息を付く。多分、父親は女の所だろう。

まさかとは思うが、あいつが正美を襲う可能性だってある。だから、視線を向けてしまった。こんなことを考えなければならない境遇に俺はうんざりした。

がさがさがさ、がさがさがさ・・・

「何の音だ?」

また聞こえた。紙を擦り合わせるような音が部屋に響く。俺はその音源を求めて立ち上がる。音は台所から響いていた。小さな台所のその隅っこからその音が響く。その正体に気がつき、俺はぎくりと身を震わせた。

正美が俺に背を向け蹲っている。

「正美?何しているんだ、お前?」

台所の隅に蹲って何かしている正美に、俺は声を掛けた。すると、正美が声に反応してゆっくりと振り返る。

電気に照らされた正美は、薄っすらと笑みを浮かべていた。

「兄さん?ごめん・・起こした?」

「お前、キッチンの床で何しているんだよ?しかも、まだ夜だよ?」

正美がそっと笑う。

「あのね、宿題をね、忘れてたの」
「宿題?」

「うん。図画工作の宿題でね、家族の絵を描かないと駄目なんだ」

俺は思わず首を傾げていた。

「・・その宿題なら、三日前に仕上げてなかったっけ?俺はお前に完成した絵を見せてもらったぞ。上手く描けていたから、俺は正美を褒めただろ?」

俺と正美と父さんが描かれた『家族の絵』。すでに完成していた筈なのに。

正美がこくりと頷いて口を開く。

「あのね、描いたけどね・・余計なものまで描いちゃったの思い出して。先生に怒られちゃうから消しているの。でも、消えないんだ。いらないのに消えないんだ」

正美の手には、消しゴムが握られている。床には水彩絵の具で描かれた家族の絵が置かれていた。その絵の上には、消しゴムのカスが大量にたまっていた。

「正美」
「全然ね、消えないの。消えない、消えない、消えない」

正美が消しゴムを画用紙に走らせる。紙に描かれた父親の顔に、正美は消しゴムを走らせる。増える消しゴムのカス。それでも、父親の顔は消えない。

がさがさがさがさ・・・

「正美、やめろよ。消しゴムじゃ絵の具は消えないよ。それぐらい分かるだろ、正美?紙が破れるから。正美。やめろって、正美」

「消えない。消えない・・消えないよ、要らないのに消えない」

がさがさがさがさ・・・・・

正美は必死になって、消しゴムを画用紙に走らせる。父親の顔が薄っすらと色を落としていたが、完全には消えそうにない。その前に、紙が破れてしまう。俺は正美の腕を掴んでいた。

「正美!」

正美がゆっくりと画用紙から顔をあげる。正美の目は血走っているのに、その口には笑みが浮かんでいた。

普通じゃない。
普通じゃないよ・・正美。

「やめろ!やめろって!!」

背筋に冷たい汗を感じながら、俺は正美にしがみ付いていた。

「やだ、消して!要らないの、消して。やだ、やだ!消すから!絶対に消すの!!」

正美の消しゴムを掴む手はがたがたと震えていた。正美がおかしくなっていく。正美が・・。

「大丈夫!俺が消してあげるから、正美。落ち着いて・・頼むから」

「兄さん・・」
「消えるから」
「でも、ぜんぜん消えないよ。ほら」

正美が指差す先には、本物とは似つかない笑顔の父親が描きこまれていた。

嘘の父さん。

正美の理想の父親像。理想の家族が三人、仲良く手を繋いでいる。

ありえないのに。
ありえないだろ・・こんなの。

消したいんだな?こんな嘘の存在。正美は、消してしまいたいんだな?

「正美、消しゴムじゃ消えないよ。分かるだろ?そうだな・・上から絵の具を重ねたら、消えると思うよ?俺と一緒に消すか?」

俺の言葉に正美が嬉しそうに微笑む。

「うん!消す!」
俺は正美を抱き寄せると、キッチンから連れ出した。そして、居間のテーブルの前に座らせる。俺は急いで絵の具の用意を始めた。

テーブルに道具を並べると、俺は大人しく待っていた正美に尋ねた。

「何色で消す?多分、濃い色の方がいいと思うけど?」

「赤色がいい」

正美はそう言うと、赤色の絵の具を取り出しパレットに絞り出す。器用に水で薄めると、正美は満足そうに笑った。そして、真っ赤に染まった筆先を画用紙に走らせる。何時もの正美の繊細な筆先とはまったく違う、大胆なタッチだった。

父親の笑顔が赤く染まり消えていく。消える。

「消えた!!兄さん、消えたよ!!」

大胆に塗り込まれる赤色の絵の具が、炎のように広がっていく。炎の中に父さんが消えていく。

「消えて、要らないの。消えろ、消えろ、消えろ!!」

正美の口から吐き出される言葉は、俺の心を激しく叩き続ける。苦しくなって喉が痛くなり、涙が溢れ出した。

真っ赤な絵の具が、さらに画用紙を埋め尽くしていく。そして、正美の握った筆先が、父さんの隣の俺の顔まで赤く染めようとした。

俺は慌てて正美の腕を掴み、弟を抱きしめていた。

「正美、やめろ!俺を消すな。兄さんを消すなよ!!」

「あ、ああ・・」

正美はびっくりしたように俺を見つめた。正美の手からぽろりと筆が落ちる。

「もういいだろ、正美?ほら、要らないものは・・消えただろ?」

正美は父親の姿が消え去った画用紙をぼんやりと見つめていた。

そして、微笑む。
満足そうに。

不意に正美は欠伸をした。目がとろりとなる。急激な変化だった。俺は慌てて正美の顔を覗き込む。

「眠いのか?」
「眠い・・・」

異常に興奮した正美の体が、ぐったりと力なく崩れ落ちる。俺は正美を引きずるように運び、布団に横たえた。すると、弟はあっさりと寝息をたてて眠った。

俺は正美に布団を掛けて、ため息を付いた。寝ぼけていたのか、正美は?

俺は正美が描いた絵に、再び目を向けた。寝ぼけた正美の剥き出しの願望が現れたのだろうか?

父親が赤色の絵の具で掻き消されていた。赤い絵の具が、炎となって父さんを焼き尽くしている。俺はふと父親のいない万年布団に視線を向けた。

一瞬、炎が見えた気がした。

赤い絵の具が父さんの部屋にじわじわ広がっていく。そんな錯覚に眩暈がした。

「正美・・俺は・・」

『消えて、要らないの。消えろ、消えろ、消えろ!!』

正美の声が、耳の奥にこびり付き離れない。眩暈がした。頭痛がした。吐き気がした。

正美・・俺は、俺は・・・


◇◇◇◇◇


(弘樹・・現在・・)

「兄さん、兄さんってば」
「・・?」

「兄さん、起きてよ。もうすぐ、函館空港だよ!」

「・・??」
「兄さん!」
「あっ・・」

俺は弟の声で目を覚ます。どこだ、ここ?ああ・・そうだ。

飛行機の機内だった。俺は隣に座る正美に目を向けた。

「もうすぐ着くよ?兄さん」
「もう、着くのか?早いな」

「別に早くないよ。兄さんは飛行機に乗ったら、すぐに寝ちゃったもの。兄さんは早く感じただろうけど・・僕は暇だったよ」

正美は不満げに呟く。

「悪かったよ。夜勤明けだったから」

ゴールデンウイークを避けて、急に休みを会社に届け出たものだから、シフトの組みなおしが結構大変だった。お陰で、旅行の直前まで仕事になってしまった。

「少しは疲れ取れた?」

正美が心配そうに俺の顔を覗くので笑って安心させた。

「ああ、大丈夫だ。北海道の空気を吸えば完全復活だな」

俺の言葉に正美も微笑む。飛行機が着陸態勢に入っていた。

「ねえ、兄さん」
「なんだ?」

「寝言で『消しゴム』って呟いていたけど・・どんな夢を見てたの?」

「ああ・・」
俺はそっと笑って正美を見つめた。

「巨大な消しゴムに襲われたんだ」
「なにそれ!?」

「食べられそうだった。やばかった」

正美が俺の言葉にくすくす笑い出す。

「消しゴムに食べられるの?」

正美が穏やかに笑っている。

よかった。

異常な笑顔で消しゴムを掴んでいた正美が、今は穏やかに笑っている。確実に時は流れている。

よかった。

俺は声を出して笑い出していた。

「気持ち悪いな!兄さん、なんだよその笑いは?」

「色々だ。笑いたいことがあるんだよ、俺には・・色々とな」

飛行機が空港に着陸した。
俺たちは、北海道に到着していた。




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