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2巻
2-2
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今年は、千佳と桜田が秘書室に配属になって以来、初めて新入社員が入ってきた。新入社員は四人。千佳と桜田に、やっと後輩ができたことになる。後輩といっても大卒者ばかりなので、結局は千佳より年上になる。そのせいか、千佳の方が先輩といっても、彼女たちを後輩として見ることは難しかった。
それに、彼女たちも千佳を先輩とは見ず、見下しているような雰囲気がある。それは、教育係でもある先輩がそういう態度を取っているからだろう。
秘書室での自分の位置というものを、千佳は既に理解していた。そういうドロドロした人間関係に捕われたくない千佳は、後輩たちの態度を気にせずに目の前の資料へと視線を落とした。
「どうぞ」
コーヒーカップが千佳の机に置かれる。驚いて顔を上げると、男らしい笑みがそこにあった。秘書室に配属された新入社員唯一の男性である永長英雄だった。
そして新入社員研修の時、「男が秘書になりたいと思うのはいけませんか?」と千佳に質問してきた人物。
「まあ! こんなこといいのに」
永長は何でもないことのように頭を振るが、素早く同期たちに非難の目を向けるのを忘れなかった。
「あいつら、秘書という仕事を勘違いしている。それに、先輩に対してあの態度!」
「いいのよ。先輩といってもわたしは年下だし。それは、永長さんにも言えることね」
千佳は、永長の腕をポンポンッと叩いた。
「さっ、永長さんは未来の室長に……ううん、それ以上に出世するかもしれないんだから、今から頑張って秘書業務を覚えていってくださいね」
永長の机にある未ファイリングの書類の山を指し、仕事に戻るよう永長を促した。彼が素直に席へ向かうのを微笑ましく見ていたが、千佳もすぐに仕事に戻ろうとペンを手に取る。
その時、マナーモードにしたまま机の上に置いてあった携帯が着信の振動で震えた。手に持っていたペンを置くと、千佳はすぐに携帯を取った。
「はい、秘書室の鈴木です」
『鈴木さん? 俺、茂庭です! システム開発部技術課の! ……あの、約束を覚えてますか?』
千佳は、昨日の出来事を一瞬で思い出した。彼がその時に言った言葉どおり電話をしてきたのだとわかると、急に千佳の躯が火照り始めた。
「え、ええ……はい」
『十二時に、正面玄関の外で待ってますから』
「えっ? 外で? 社員食堂ではないんですか?」
茂庭と話しながら、千佳はペンを持って意味不明な模様をメモ用紙に書き連ねていた。
『社食では、ちょっと……』
「そう、ですか……」
『俺待ってますから。それではまた後で』
「あの!」
何を訊きたいのかわからないまま呼び止めたが、既に通話は切れていた。まだドキドキしている鼓動と火照った頬を気にしながら、千佳は携帯を置いた。
「誰なのかな~?」
「えっ!」
隣の席の桜田が、椅子を滑らせて千佳の側へ近寄る。
「電話の相手」
「あの……、システム開発部技術課配属になった茂庭さんって人です」
不思議そうに千佳の言葉に何度も頷くが、桜田はすぐに困惑したように唇を尖らせた。
「で、彼はいったい何の用事だったの?」
「今日のお昼を一緒にする約束していて。あっ! ごめんなさい、今日は一緒に食べられないです」
「……そう」
ただそれだけ言うと、桜田は椅子に座ったまま床を蹴って自分の席へ戻った。
千佳は、桜田の反応の薄さに小首を傾げた。
(いつもの桜田さんなら、絶対問い質してくるのに。どうしたのかしら?)
心配するほどのことではないだろうという結論に至ると、千佳は仕事に戻った。
十一時五十分になると、千佳はいつもの余裕がなくなってしまった。
バッグを手に更衣室へ行き、いつもは気にしない口紅を塗り直して髪を整えると、鏡に映る自分を見つめた。そこには、頬をほんのりと染めた見慣れぬ女性がいた。
しかも、先程までつけていたオーソドックスな一粒の石のピアスが、今は少し洒落たドロップ型の揺れるタイプに変わっている。
それは出張用として更衣室に置いてあったものだ。わざわざつけ替える必要はない。わかっているのに、千佳は自然とそれを取り出してつけ替えていた。
どうしてここまで綺麗に装うとするのかわからず、千佳は戸惑いを覚えた。
だが、そのことについて深く考えないように気持ちを切り替えると、千佳は足早にロビーへ向かった。
このことが発端となり……優貴との間に亀裂が生じることになるなんて、千佳は想像すらしていなかった。
ロビーに下りると、外へ出ようとしている茂庭が目に入った。視線を感じたのか、茂庭がいきなり振り返った。千佳を見つけた瞬間、周囲の目を気にもせずに破顔し、こちらへ近寄ってこようとする。千佳はその行為を押し止めるように、慌てて茂庭へと走り寄った。
「すみません、待たせてしまいました?」
窺うように彼を見上げると、茂庭は嬉しそうに目を輝かせながら頭を振った。
「いいえ。俺が……その、待ちきれなくて」
照れたように俯くその姿が、何故か千佳の胸をときめかせた。
(こんなにドキドキするなんて、わたし本当に変。男の人のこういう姿を初めて見るから?)
茂庭の側にいるだけで心臓が激しく高鳴る。その鼓動を無視するように、千佳は彼のネクタイに視線を落とした。
「時間がないから、早く行きましょうか?」
「あわわっ! すみません! では、行きましょう!」
茂庭が社外を指すと千佳は頷き、そのまま二人揃って外へ出た。彼が案内するまま肩を並べて、歩道を進んでいく。数分歩いたあと交差点で曲がり、そのままビルとビルの間にある狭い道路に入った。どこまで歩くのだろうと思っていると、茂庭がすぐ横の商業ビルを指した。
「こっちです」
飲食店の看板が出ているのを横目で確認し、茂庭の後ろから地下へと続く階段を下りた。
のれんをくぐり、店内に入る。時間が少し早いからか、それともあまり知られていないからか、店内はまだ空席が目立った。
「いらっしゃいませ! お二人様ですか?」
店員に席まで案内されると、二人はすぐに注文を終えた。店員がテーブルから去った途端、茂庭が背筋を伸ばしてペコリと頭を下げた。
「今日は、俺のためにありがとうございます!」
居たたまれずに思わず視線をテーブルに落としたが、千佳は思い切って顔を上げると、改めて彼を見つめた。
(わたし……こうやってよく知らない人と一緒にご飯を食べるのなんて初めてなんだわ)
千佳が初めて男性と二人っきりで食事をした相手は優貴だが、それは出会ってから数ヶ月経ってからだった。
優貴の視線に気付き、ファーストキスを奪われ、何度も誘いを受けるようになって……
あの時は承諾するまであんなにも時間をかけたのに、どうして茂庭に対しては一日で食事の誘いを受けてしまったのだろうか?
優貴の目に留まった時の千佳と比べて、今の千佳は心が成長している。そのことに気付かないまま、千佳は探るように茂庭を見つめ続けた。
千佳の視線に気付くと、茂庭は照れくさそうに笑みを浮かべながらネクタイを少し緩めた。
「すみません、こんなところまで歩いていただいて。でも、会社の近くでは嫌だったんです」
「いえ……」
「しかも……蕎麦屋なんて。デートらしくありませんよね?」
「えっ!」
(これって……デ、デートなの!? わたしが、茂庭さんと?)
茂庭を意識した途端、千佳の躯がまた火照り出した。彼の言葉にどう答えようか狼狽えていると、注文した蕎麦がテーブルに運ばれてきた。
妙な雰囲気になりそうだった場の空気を断ち切れたことに、千佳は思わずホッとした。茂庭の言葉を聞かなかったことすると、千佳は箸を手に持った。
「……わたし、お蕎麦は好きですから」
「そう言ってもらえて、本当に良かった」
茂庭はホッとしたように微笑むと、千佳と同じように箸を持った。二人は同時に食べ始めたが、千佳は茂庭に何度もチラチラと視線を向けた。
優貴とは、雰囲気が丸っきり違っている。物の考え方や感じ方も、真逆と言っていいかもしれない。それに、優貴と一緒の時には全く感じない……朗らかな雰囲気が彼から漂ってくる。それが妙に心地いい。
この感じ、高校の同級生で美容師を目指している中里と一緒にいた時と似ているかもしれない。
だが、あの時とは全く違う。千佳の心臓が、こんなにもドキドキしている。
「昨日は詳しく言えなかったけど、新入社員研修で見かけてから鈴木さんのことばかり考えてしまって……。あのっ! 鈴木さんの方が先輩ですが、俺と……付き合ってもらえませんか?」
突然の告白に、千佳は思わず咽せた。
「大丈夫ですか!」
茂庭の心配そうな声を聞きながら、千佳は水が入ってるグラスに手を伸ばして急いで飲んだ。
「……ゴホッ、だ、大丈夫です」
口を拭って視線を上げると、茂庭はホッと安心したように息を吐き出した。
しかし、千佳の返事を聞こうとすぐに背筋を伸ばす。
「俺と付き合うこと、真剣に考えてみてくれませんか? 少しでもいいからチャンスを……」
茂庭の強烈な眼差しに、千佳の心は揺れ出した。なぜなら、優貴にはないものを茂庭が持っているからだ。茂庭は相手の気持ちを優先させ、無理強いをしてこない。
優貴とは、男女の関係から始まった。優貴は、一切千佳の気持ちを省みようとしなかった。
だが、茂庭は違う。付き合って欲しいと告白し、千佳から良い返事が返されるのを辛抱強く待っている。
(わたしは……こういう告白を夢見ていた。気持ちをストレートに出し、それでいて通い合うまでジッと耐えてくれるような男性から愛の告白をされるのを)
正直、茂庭の告白は唐突だったが、それでも千佳の心を激しく高鳴らしてくれた。
もし優貴と出会う前、もしくは優貴を愛していると気付く前なら、茂庭にイエスと答えていただろう。自然と茂庭を意識してしまうのだから。
まるで、恋に落ちたように……
(えっ? 恋? ……わたしは茂庭さんに、恋しちゃったの? まさか、そんな!)
ハッと息を呑み目を大きく見開くと、千佳は茂庭に視線を向けた。出会ってまだ二日目なのに、茂庭に恋? 千佳は、心の中で何度も頭を振った。
(違うわ! わたしは優貴を愛している。……わたしには優貴がいる!)
「ごめんなさい、わたし、」
慌てて拒否の言葉を口にしようとした。
だが、それを止めるように茂庭が身を乗り出してくる。
「今、返事はしないで! 頼むよ。少しは、期待させて欲しいんだ」
千佳は頭を振った。
「期待しないで欲しいの。ごめんなさい……わたし、付き合ってる人がいるから」
その言葉に、茂庭の顔から血の気が失せた。
「そう、なんですか?」
明るく語りかけてくる茂庭の表情を曇らせたのが千佳だと思うと、胸がチクッと痛んだ。
だが、真実を隠しておく方がよっぽど酷い。
「その彼って社内の人ですか? 鈴木さんと付き合ってる幸運な人は、いったい誰なんですか?」
「えっ? それは……」
千佳は、言葉を濁した。付き合っている彼が、社長の息子である水嶋優貴だと話せるわけがない。さらに、二人の付き合いは社内で噂にならないよう秘密にしているので、簡単に人には言えない。
「もしかして、俺を諦めさせるためについた嘘じゃありませんよね?」
「違うわ! わたし、嘘なんか……」
「本当に付き合っているのなら、相手が誰なのか教えてください。決して口外はしませんから!」
「言えません。言いたくありません!」
千佳は、絶対口にしないと伝えるように激しく頭を振った。茂庭は力なく椅子の背に凭れ、下を向いたが、すぐに面を上げて千佳を射貫くように見つめてきた。
「そんな風に言われたら……きつく問い質すことなんかできないじゃないですか。でも、きちんと言ってくれないと、俺は鈴木さんのことを諦められません。俺に諦めて欲しくないから彼の名を言わないのだと……思ってしまいますよ? いいんですか?」
いくら訊ねられても、優貴の名を出すことは決してできない。不用意なことをして、優貴と千佳の間に亀裂を作りたくはなかった。千佳は、力なく立ち上がった。
「もう行きましょう。午後も忙しいですし」
「鈴木さん!」
この押しの強さはどこから出てくるのだろう?
千佳は不思議に思いながら、後に続くように立ち上がった茂庭を見上げた。
「茂庭さんの告白は、本当に嬉しかったです。でも……ごめんなさい」
「……そんな辛そうな表情しないでください。俺は……そういう顔をさせたくて告白したんじゃないんですから」
千佳は、初めて自分が苦しそうに顔を歪めていることに気付いた。
「ごめんなさい」
「最後に一つだけ! 鈴木さんの彼氏は……社内の人ですか?」
千佳は、ハッと息を呑んだ。
(これぐらいはいいわよね? わたしの彼が、優貴だとはわからないんだから)
「……はい、そうです」
茂庭の目に強い光が宿ったが、千佳は全く気付かなかった。自分でも理解できない苦しみから逃れるように、一瞬目を瞑って俯いたからだ。
告白を断ったことで気まずい雰囲気が流れるかと思ったが、それは不要な心配だった。
社会経験は確かに千佳の方があるが、年齢もあまり変わらないからだろう。会社へ戻る道中、茂庭は気さくにいろいろな話をしてくれた。茂庭の話に耳を傾けるうちに肩から余分な力が抜け、千佳は自然と笑みを浮かべていた。
「実家を出ずに素敵な大学生活を過ごせたのはいい思い出だと思うわ。わたしも親元を離れたのは、つい最近のことなの」
「……そうなんだ。少し寂しかったりする?」
「部屋がシーンとしてたら特にね。妹は家族の中でお日様みたいな存在だから、時々その笑い声が懐かしかったり」
千佳は、青い空を見上げた。同時に、ピアスが軽やかに揺れる。
(実佳、元気にしてるかな? メールでは新しい学校にも馴染んで楽しく過ごしてるって書いてあったけど、こっちと大阪では違うこともいろいろあるから……きっとわたしには言えない大変な思いもしてるよね?)
「そのピアス……」
「えっ?」
千佳が意識を戻すと、茂庭が手を伸ばしてピアスに触れてきた。
その時、微かだが彼の手が千佳の頬を優しく撫でたような気がした。突然素肌に触れられた千佳は、咄嗟に顔を下に向けた。
頬が熱く火照っていく。両手を頬に当てて、その火照りを冷ましたいぐらいだ。
「その……とても似合ってます」
「……あり、がとう」
(しっかりしなさい! わたしがこんな態度を取っていたら、茂庭さんが変に思ってしまう!)
会社が目前だったので、千佳は突然湧き起こった動揺を振り払うように深呼吸をした。何事もなかったようにポケットから社員証のプレートを出すと、首にかける。茂庭も同じように首にかけた。
二人で並びながら表玄関の手前に辿り着いた時、ちょうど黒塗りの車が車道からロータリーに入ってきた。周囲にいた社員たちの視線は、自ずとそちらへ向く。千佳も同様に、車から出てくる人物へと視線を向けた。
助手席のドアが開くと、先輩秘書が現れた。彼女がドアを閉めると同時に後部座席のドアが開き、まだ若い男性が出てきた。
その人が誰だかわかると、千佳はハッと息を呑んだ。同時に足がガクガク震え出し、その場から動けなくなってしまった。
ドアを両手で支えて車から降りる人物を待っているのは、いつも優貴に付き従うアシスタントの柳原。彼がそこにいるということは、つまり優貴が車に乗っているということになる。
いつもの千佳なら、優貴を見ただけで過剰に狼狽えたりしない。
だが、優貴とは違う男性と二人っきりで食事をしてしまったことで、千佳は妙な後ろめたさを感じていた。さらに、茂庭から告白されたことも重なって、やましい気持ちも抱き始めている。
「さすが経営本部の人は違うね。……鈴木さん?」
千佳が何も答えないので不思議に思ったのだろう。千佳の顔を覗き込むように、茂庭が顔を寄せてくる。
その時、優貴が車から出てきた。
優貴は柳原に軽く頷き、その後ろにいる秘書から鞄を受け取る。千佳に背を向ける形で社内に入ろうとしていた優貴だったが、その瞬間、動きを止めて勢いよく振り返った。
千佳に見られていると気付いたのだろうか?
優貴の視線に射貫かれたその時、茂庭がいきなり千佳の頬に触れてきた。
「どうかした? 何か怖いものでも見た?」
一部始終を見ていた優貴が、一瞬で顔を強ばらせる。優貴の気持ちが、千佳には手に取るようにわかった。優貴は、千佳がこんな風に他の男性に触れられるのをとても嫌ってる。自分だけを見つめて欲しいと、いつも強く願っている。
(自分の兄弟にすら嫉妬するぐらいなのよ? なのに、わたしが他の男性と一緒にいて、簡単に肌を触られているのを見たら……どんなことになるか!)
「や、やめて……」
茂庭の手を振り払おうとすると、彼はその手を下ろして千佳の二の腕を強く掴んだ。
「鈴木さん? いったいどうしたんだ?」
茂庭が話しかけているのに、千佳は優貴から目を逸らすことができなかった。どんどん優貴の目が細められ顎が強ばっていくのが見て取れるのに、どうして彼から目を逸らせるだろうか。
これ以上優貴を怒らせないために、必死になって茂庭の手を振り払おうとするが、彼はさらに強く握り締めて放そうとしない。
過去の経験から、優貴が千佳へ近寄り、何らかの口実を使って優貴のもとに来るように言うだろうと思った。そうなると、確信していたと言っていい。
でも、優貴は千佳の方へ来ようとしなかった。何かを告げるような視線を投げてくることも一切しなかった。ただ、そこには誰もいないというように……千佳の存在を無視した。真っ直ぐ前だけを向いて、ガラスドアの内側へと消えていった。
(嘘……どうして? どうしてわたしに何も言わないの? 優貴!)
今まで〝会社では仕事上の付き合いにしたい〟と口を酸っぱくして優貴に言ってた。だから、本当なら無視をされてホッとするはずなのに、今は全然嬉しくない。それどころか、優貴の心が一瞬で千佳から離れたとわかってしまった。鋭い爪で胸を抉られたような痛みが、千佳を襲う。
千佳は人目も憚らずに泣きそうになったが、瞼をギュッと閉じてその思いを押さえ込んだ。
過去には、仕事を隠れ蓑にして何度も呼び出されたことがある。だから今回も、あの冷酷な怒りが瞳に宿った時に、何かが起こると思った。
それなのに、どうして今回に限って何もないのだろうか?
優貴に冷たく無視された事実に、どう対処していいのか全くわからない。
「どうかした?」
茂庭が話しかけてくると同時に我に返ると、千佳は勢いよく彼の手を振り払った。
「あっ、ごめん。でも役員の前であまり騒がない方がいいと思って、」
「ごめんなさい。わたし……もう戻らないと」
千佳を止めようとする茂庭の手から逃れるように、優貴の後を追って走り出した。ロビーにいる社員を掻き分けてエレベーターホールへ向かうと、ちょうど優貴がエレベーターに乗ったところだった。
優貴を呼び止めることはできないが、こちらを向いて何か言ってくれるかもしれない。その希望に縋ったが、振り返ってこちらを見つめる優貴の冷たい瞳を見て、千佳はその場に凍りついた。
その瞳に、既に怒りは宿っていなかった。宿っていたのは、今まで見たことのない……蔑みに満ちた黒い闇。
「ち、違うの……」
千佳の震える唇から、掠れた声が漏れる。エレベーター内にもエレベーターホールにも社員が数人いるのに、千佳は優貴に向かって訴えるように頭を振った。
だが、優貴は何も言わず、目の前で取り乱す千佳を興味がなさそうに見返すだけ。優貴が何も行動しないとわかると、柳原が操作パネルに手を伸ばした。閉ボタンを押したのだろう。エレベーターの扉は、まるで二人の絆を断ち切るように容赦なく閉まった。
胸が張り裂けそうな痛みが襲ってくる。千佳は、どうにかなりそうだった。
他のエレベーターが来ても、千佳は乗ろうとはせずその場にずっと立ち尽くしていた。
完全に優貴から距離を置かれたのだとわかると、千佳の掌が異様に汗ばみ出した。同時に、指先がどんどん冷たくなり、自分でも抑えきれない震えが襲ってくる。
(わたし、いったいどうしたらいいの? どうしたら!)
そんな千佳の後ろ姿を茂庭が遠くから眺めていたが、もちろんそのことに気付くことはなかった。
その日の午後をどう過ごしたのか、千佳はあまり覚えていなかった。
だが、優貴から電話がかかってくると信じて、携帯だけは目の前に置いて仕事をしていたことは覚えている。上司から咎められなかったということは、仕事だけはきちんとしていたのだろう。
千佳は何度も携帯を手に取って連絡を取ろうとしたが、電話をかけて無言で切られたらと思うと恐怖が湧き起こり、結局はボタンを押すことができなかった……
千佳の望みは叶わず、その日、優貴からの連絡は一度もなかった。
残業を一時間だけすると、千佳は寄り道もせず真っ直ぐ家へ戻った。バッグを部屋に置くとキッチンへ行き、実家から送られてきた野菜を取り出す。旬の食材である筍料理を作るために、包丁を握り締めた。時計の秒針が動く小さな音だけが、静かな部屋に響く。
「痛っ!」
ポタポタッと俎板に血が落ちる。千佳はすぐに包丁を投げ棄てると、キッチンペーパーを引っ張り出して指に当てた。料理は得意な方ではないが、こんな失態は初めてだった。玉ねぎを刻んでる時に、まさか中指の第一関節周辺の皮膚を包丁でざっくりやってしまうとは。
心ここにあらず……だから、こんな怪我をしてしまうのだろう。
「もう!」
自分自身にイライラしながら、千佳はキッチンペーパーをゴミ箱に放り投げた。再び血が溢れ出してくるのを見ていると、自然と千佳の目にも涙が浮かんでくる。
水道のレバーを上げて水を出すと、千佳は唇を噛み締め、涙を堪えながら傷口を洗った。そんなに深い傷ではないが、血が止まらない。
もう一度キッチンペーパーで傷口を押さえると、救急箱を取り出した。常備してある消毒液で傷を綺麗にし、化膿止めの粉を振りかけてから絆創膏を貼る。さらに料理に雑菌が入らないよう、絆創膏の上からゴム製のサックを填めた。
チラッと時計を見ると、十九時三十分だった。これから起こることを考えると、恐怖が込み上げてくる。
でも、その気持ちに負けてはいけないという思いで奮起すると、千佳は再びキッチンへ向かって料理の支度を始めた。
この時間になっても、優貴からの電話は一度もなかった。
でも、もしかしたら今夜部屋に寄ってくれるかもしれない……
千佳は指の痛みにも構わず、優貴が美味しいと言ってくれる料理を作るために手を動かした。
ふんだんに筍を使った春巻き、白和え、筍ご飯、筍ステーキの下ごしらえを終え、千佳特製の玉ねぎソースも器に入れた。
ビールを飲みながらでも、自然と箸が進む料理になっただろう。食が進めばその場が和み、少しはリラックスをして話ができるに違いない。
一通り準備が整うと、千佳はホッと息をついた。優貴が来たら、春巻きを揚げて筍をバター醤油で焼けばいい。お味噌汁も、味噌を溶かせば食卓に並べられる。
優貴の訪問を待つためにキッチンの椅子に座ると、千佳は肘をテーブルについて両手で頭を支えた。再び、部屋が静まり返り、秒針の音だけが響く。
(来る……優貴は絶対わたしに会いに来てくれる。怒っててもいい。わたしをなじってもいいから、お願い……わたしに会いに来て!)
優貴が来てくれると信じながら、千佳はひたすら待っていた。
テーブルに、涙がポタポタと零れ落ちる。時計の針は、もう二十三時三十分を指していた。
(来ない……優貴は来ないんだわ。最後にわたしを見たあの瞳……蔑みがそれを語ってる!)
「……っ!」
千佳は涙を堪えきれず、とうとうテーブルに突っ伏して泣き崩れた。
なんてバカなことをしたのだろう! 茂庭の誘いが何を意味しているのか、本当にわからなかった? 初めて男性から声をかけられたから、浮かれてしまった?
優貴の兄を好きになった時と似た感覚だったが、彼は雲の上の人だった。だから、気持ちはまだ安定していた。
だが、今回は同世代の茂庭から告白されたということもあり、千佳は妙に昂揚してしまった。
(こんな気持ち初めてだった……。だから、わたしは恋に恋するようなバカな感情を抱いてしまった)
今ならはっきりとわかる。千佳は自分の感情に溺れていた。男性に免疫がないから、自分の感情に振り回されてしまったのだと。
それに、彼女たちも千佳を先輩とは見ず、見下しているような雰囲気がある。それは、教育係でもある先輩がそういう態度を取っているからだろう。
秘書室での自分の位置というものを、千佳は既に理解していた。そういうドロドロした人間関係に捕われたくない千佳は、後輩たちの態度を気にせずに目の前の資料へと視線を落とした。
「どうぞ」
コーヒーカップが千佳の机に置かれる。驚いて顔を上げると、男らしい笑みがそこにあった。秘書室に配属された新入社員唯一の男性である永長英雄だった。
そして新入社員研修の時、「男が秘書になりたいと思うのはいけませんか?」と千佳に質問してきた人物。
「まあ! こんなこといいのに」
永長は何でもないことのように頭を振るが、素早く同期たちに非難の目を向けるのを忘れなかった。
「あいつら、秘書という仕事を勘違いしている。それに、先輩に対してあの態度!」
「いいのよ。先輩といってもわたしは年下だし。それは、永長さんにも言えることね」
千佳は、永長の腕をポンポンッと叩いた。
「さっ、永長さんは未来の室長に……ううん、それ以上に出世するかもしれないんだから、今から頑張って秘書業務を覚えていってくださいね」
永長の机にある未ファイリングの書類の山を指し、仕事に戻るよう永長を促した。彼が素直に席へ向かうのを微笑ましく見ていたが、千佳もすぐに仕事に戻ろうとペンを手に取る。
その時、マナーモードにしたまま机の上に置いてあった携帯が着信の振動で震えた。手に持っていたペンを置くと、千佳はすぐに携帯を取った。
「はい、秘書室の鈴木です」
『鈴木さん? 俺、茂庭です! システム開発部技術課の! ……あの、約束を覚えてますか?』
千佳は、昨日の出来事を一瞬で思い出した。彼がその時に言った言葉どおり電話をしてきたのだとわかると、急に千佳の躯が火照り始めた。
「え、ええ……はい」
『十二時に、正面玄関の外で待ってますから』
「えっ? 外で? 社員食堂ではないんですか?」
茂庭と話しながら、千佳はペンを持って意味不明な模様をメモ用紙に書き連ねていた。
『社食では、ちょっと……』
「そう、ですか……」
『俺待ってますから。それではまた後で』
「あの!」
何を訊きたいのかわからないまま呼び止めたが、既に通話は切れていた。まだドキドキしている鼓動と火照った頬を気にしながら、千佳は携帯を置いた。
「誰なのかな~?」
「えっ!」
隣の席の桜田が、椅子を滑らせて千佳の側へ近寄る。
「電話の相手」
「あの……、システム開発部技術課配属になった茂庭さんって人です」
不思議そうに千佳の言葉に何度も頷くが、桜田はすぐに困惑したように唇を尖らせた。
「で、彼はいったい何の用事だったの?」
「今日のお昼を一緒にする約束していて。あっ! ごめんなさい、今日は一緒に食べられないです」
「……そう」
ただそれだけ言うと、桜田は椅子に座ったまま床を蹴って自分の席へ戻った。
千佳は、桜田の反応の薄さに小首を傾げた。
(いつもの桜田さんなら、絶対問い質してくるのに。どうしたのかしら?)
心配するほどのことではないだろうという結論に至ると、千佳は仕事に戻った。
十一時五十分になると、千佳はいつもの余裕がなくなってしまった。
バッグを手に更衣室へ行き、いつもは気にしない口紅を塗り直して髪を整えると、鏡に映る自分を見つめた。そこには、頬をほんのりと染めた見慣れぬ女性がいた。
しかも、先程までつけていたオーソドックスな一粒の石のピアスが、今は少し洒落たドロップ型の揺れるタイプに変わっている。
それは出張用として更衣室に置いてあったものだ。わざわざつけ替える必要はない。わかっているのに、千佳は自然とそれを取り出してつけ替えていた。
どうしてここまで綺麗に装うとするのかわからず、千佳は戸惑いを覚えた。
だが、そのことについて深く考えないように気持ちを切り替えると、千佳は足早にロビーへ向かった。
このことが発端となり……優貴との間に亀裂が生じることになるなんて、千佳は想像すらしていなかった。
ロビーに下りると、外へ出ようとしている茂庭が目に入った。視線を感じたのか、茂庭がいきなり振り返った。千佳を見つけた瞬間、周囲の目を気にもせずに破顔し、こちらへ近寄ってこようとする。千佳はその行為を押し止めるように、慌てて茂庭へと走り寄った。
「すみません、待たせてしまいました?」
窺うように彼を見上げると、茂庭は嬉しそうに目を輝かせながら頭を振った。
「いいえ。俺が……その、待ちきれなくて」
照れたように俯くその姿が、何故か千佳の胸をときめかせた。
(こんなにドキドキするなんて、わたし本当に変。男の人のこういう姿を初めて見るから?)
茂庭の側にいるだけで心臓が激しく高鳴る。その鼓動を無視するように、千佳は彼のネクタイに視線を落とした。
「時間がないから、早く行きましょうか?」
「あわわっ! すみません! では、行きましょう!」
茂庭が社外を指すと千佳は頷き、そのまま二人揃って外へ出た。彼が案内するまま肩を並べて、歩道を進んでいく。数分歩いたあと交差点で曲がり、そのままビルとビルの間にある狭い道路に入った。どこまで歩くのだろうと思っていると、茂庭がすぐ横の商業ビルを指した。
「こっちです」
飲食店の看板が出ているのを横目で確認し、茂庭の後ろから地下へと続く階段を下りた。
のれんをくぐり、店内に入る。時間が少し早いからか、それともあまり知られていないからか、店内はまだ空席が目立った。
「いらっしゃいませ! お二人様ですか?」
店員に席まで案内されると、二人はすぐに注文を終えた。店員がテーブルから去った途端、茂庭が背筋を伸ばしてペコリと頭を下げた。
「今日は、俺のためにありがとうございます!」
居たたまれずに思わず視線をテーブルに落としたが、千佳は思い切って顔を上げると、改めて彼を見つめた。
(わたし……こうやってよく知らない人と一緒にご飯を食べるのなんて初めてなんだわ)
千佳が初めて男性と二人っきりで食事をした相手は優貴だが、それは出会ってから数ヶ月経ってからだった。
優貴の視線に気付き、ファーストキスを奪われ、何度も誘いを受けるようになって……
あの時は承諾するまであんなにも時間をかけたのに、どうして茂庭に対しては一日で食事の誘いを受けてしまったのだろうか?
優貴の目に留まった時の千佳と比べて、今の千佳は心が成長している。そのことに気付かないまま、千佳は探るように茂庭を見つめ続けた。
千佳の視線に気付くと、茂庭は照れくさそうに笑みを浮かべながらネクタイを少し緩めた。
「すみません、こんなところまで歩いていただいて。でも、会社の近くでは嫌だったんです」
「いえ……」
「しかも……蕎麦屋なんて。デートらしくありませんよね?」
「えっ!」
(これって……デ、デートなの!? わたしが、茂庭さんと?)
茂庭を意識した途端、千佳の躯がまた火照り出した。彼の言葉にどう答えようか狼狽えていると、注文した蕎麦がテーブルに運ばれてきた。
妙な雰囲気になりそうだった場の空気を断ち切れたことに、千佳は思わずホッとした。茂庭の言葉を聞かなかったことすると、千佳は箸を手に持った。
「……わたし、お蕎麦は好きですから」
「そう言ってもらえて、本当に良かった」
茂庭はホッとしたように微笑むと、千佳と同じように箸を持った。二人は同時に食べ始めたが、千佳は茂庭に何度もチラチラと視線を向けた。
優貴とは、雰囲気が丸っきり違っている。物の考え方や感じ方も、真逆と言っていいかもしれない。それに、優貴と一緒の時には全く感じない……朗らかな雰囲気が彼から漂ってくる。それが妙に心地いい。
この感じ、高校の同級生で美容師を目指している中里と一緒にいた時と似ているかもしれない。
だが、あの時とは全く違う。千佳の心臓が、こんなにもドキドキしている。
「昨日は詳しく言えなかったけど、新入社員研修で見かけてから鈴木さんのことばかり考えてしまって……。あのっ! 鈴木さんの方が先輩ですが、俺と……付き合ってもらえませんか?」
突然の告白に、千佳は思わず咽せた。
「大丈夫ですか!」
茂庭の心配そうな声を聞きながら、千佳は水が入ってるグラスに手を伸ばして急いで飲んだ。
「……ゴホッ、だ、大丈夫です」
口を拭って視線を上げると、茂庭はホッと安心したように息を吐き出した。
しかし、千佳の返事を聞こうとすぐに背筋を伸ばす。
「俺と付き合うこと、真剣に考えてみてくれませんか? 少しでもいいからチャンスを……」
茂庭の強烈な眼差しに、千佳の心は揺れ出した。なぜなら、優貴にはないものを茂庭が持っているからだ。茂庭は相手の気持ちを優先させ、無理強いをしてこない。
優貴とは、男女の関係から始まった。優貴は、一切千佳の気持ちを省みようとしなかった。
だが、茂庭は違う。付き合って欲しいと告白し、千佳から良い返事が返されるのを辛抱強く待っている。
(わたしは……こういう告白を夢見ていた。気持ちをストレートに出し、それでいて通い合うまでジッと耐えてくれるような男性から愛の告白をされるのを)
正直、茂庭の告白は唐突だったが、それでも千佳の心を激しく高鳴らしてくれた。
もし優貴と出会う前、もしくは優貴を愛していると気付く前なら、茂庭にイエスと答えていただろう。自然と茂庭を意識してしまうのだから。
まるで、恋に落ちたように……
(えっ? 恋? ……わたしは茂庭さんに、恋しちゃったの? まさか、そんな!)
ハッと息を呑み目を大きく見開くと、千佳は茂庭に視線を向けた。出会ってまだ二日目なのに、茂庭に恋? 千佳は、心の中で何度も頭を振った。
(違うわ! わたしは優貴を愛している。……わたしには優貴がいる!)
「ごめんなさい、わたし、」
慌てて拒否の言葉を口にしようとした。
だが、それを止めるように茂庭が身を乗り出してくる。
「今、返事はしないで! 頼むよ。少しは、期待させて欲しいんだ」
千佳は頭を振った。
「期待しないで欲しいの。ごめんなさい……わたし、付き合ってる人がいるから」
その言葉に、茂庭の顔から血の気が失せた。
「そう、なんですか?」
明るく語りかけてくる茂庭の表情を曇らせたのが千佳だと思うと、胸がチクッと痛んだ。
だが、真実を隠しておく方がよっぽど酷い。
「その彼って社内の人ですか? 鈴木さんと付き合ってる幸運な人は、いったい誰なんですか?」
「えっ? それは……」
千佳は、言葉を濁した。付き合っている彼が、社長の息子である水嶋優貴だと話せるわけがない。さらに、二人の付き合いは社内で噂にならないよう秘密にしているので、簡単に人には言えない。
「もしかして、俺を諦めさせるためについた嘘じゃありませんよね?」
「違うわ! わたし、嘘なんか……」
「本当に付き合っているのなら、相手が誰なのか教えてください。決して口外はしませんから!」
「言えません。言いたくありません!」
千佳は、絶対口にしないと伝えるように激しく頭を振った。茂庭は力なく椅子の背に凭れ、下を向いたが、すぐに面を上げて千佳を射貫くように見つめてきた。
「そんな風に言われたら……きつく問い質すことなんかできないじゃないですか。でも、きちんと言ってくれないと、俺は鈴木さんのことを諦められません。俺に諦めて欲しくないから彼の名を言わないのだと……思ってしまいますよ? いいんですか?」
いくら訊ねられても、優貴の名を出すことは決してできない。不用意なことをして、優貴と千佳の間に亀裂を作りたくはなかった。千佳は、力なく立ち上がった。
「もう行きましょう。午後も忙しいですし」
「鈴木さん!」
この押しの強さはどこから出てくるのだろう?
千佳は不思議に思いながら、後に続くように立ち上がった茂庭を見上げた。
「茂庭さんの告白は、本当に嬉しかったです。でも……ごめんなさい」
「……そんな辛そうな表情しないでください。俺は……そういう顔をさせたくて告白したんじゃないんですから」
千佳は、初めて自分が苦しそうに顔を歪めていることに気付いた。
「ごめんなさい」
「最後に一つだけ! 鈴木さんの彼氏は……社内の人ですか?」
千佳は、ハッと息を呑んだ。
(これぐらいはいいわよね? わたしの彼が、優貴だとはわからないんだから)
「……はい、そうです」
茂庭の目に強い光が宿ったが、千佳は全く気付かなかった。自分でも理解できない苦しみから逃れるように、一瞬目を瞑って俯いたからだ。
告白を断ったことで気まずい雰囲気が流れるかと思ったが、それは不要な心配だった。
社会経験は確かに千佳の方があるが、年齢もあまり変わらないからだろう。会社へ戻る道中、茂庭は気さくにいろいろな話をしてくれた。茂庭の話に耳を傾けるうちに肩から余分な力が抜け、千佳は自然と笑みを浮かべていた。
「実家を出ずに素敵な大学生活を過ごせたのはいい思い出だと思うわ。わたしも親元を離れたのは、つい最近のことなの」
「……そうなんだ。少し寂しかったりする?」
「部屋がシーンとしてたら特にね。妹は家族の中でお日様みたいな存在だから、時々その笑い声が懐かしかったり」
千佳は、青い空を見上げた。同時に、ピアスが軽やかに揺れる。
(実佳、元気にしてるかな? メールでは新しい学校にも馴染んで楽しく過ごしてるって書いてあったけど、こっちと大阪では違うこともいろいろあるから……きっとわたしには言えない大変な思いもしてるよね?)
「そのピアス……」
「えっ?」
千佳が意識を戻すと、茂庭が手を伸ばしてピアスに触れてきた。
その時、微かだが彼の手が千佳の頬を優しく撫でたような気がした。突然素肌に触れられた千佳は、咄嗟に顔を下に向けた。
頬が熱く火照っていく。両手を頬に当てて、その火照りを冷ましたいぐらいだ。
「その……とても似合ってます」
「……あり、がとう」
(しっかりしなさい! わたしがこんな態度を取っていたら、茂庭さんが変に思ってしまう!)
会社が目前だったので、千佳は突然湧き起こった動揺を振り払うように深呼吸をした。何事もなかったようにポケットから社員証のプレートを出すと、首にかける。茂庭も同じように首にかけた。
二人で並びながら表玄関の手前に辿り着いた時、ちょうど黒塗りの車が車道からロータリーに入ってきた。周囲にいた社員たちの視線は、自ずとそちらへ向く。千佳も同様に、車から出てくる人物へと視線を向けた。
助手席のドアが開くと、先輩秘書が現れた。彼女がドアを閉めると同時に後部座席のドアが開き、まだ若い男性が出てきた。
その人が誰だかわかると、千佳はハッと息を呑んだ。同時に足がガクガク震え出し、その場から動けなくなってしまった。
ドアを両手で支えて車から降りる人物を待っているのは、いつも優貴に付き従うアシスタントの柳原。彼がそこにいるということは、つまり優貴が車に乗っているということになる。
いつもの千佳なら、優貴を見ただけで過剰に狼狽えたりしない。
だが、優貴とは違う男性と二人っきりで食事をしてしまったことで、千佳は妙な後ろめたさを感じていた。さらに、茂庭から告白されたことも重なって、やましい気持ちも抱き始めている。
「さすが経営本部の人は違うね。……鈴木さん?」
千佳が何も答えないので不思議に思ったのだろう。千佳の顔を覗き込むように、茂庭が顔を寄せてくる。
その時、優貴が車から出てきた。
優貴は柳原に軽く頷き、その後ろにいる秘書から鞄を受け取る。千佳に背を向ける形で社内に入ろうとしていた優貴だったが、その瞬間、動きを止めて勢いよく振り返った。
千佳に見られていると気付いたのだろうか?
優貴の視線に射貫かれたその時、茂庭がいきなり千佳の頬に触れてきた。
「どうかした? 何か怖いものでも見た?」
一部始終を見ていた優貴が、一瞬で顔を強ばらせる。優貴の気持ちが、千佳には手に取るようにわかった。優貴は、千佳がこんな風に他の男性に触れられるのをとても嫌ってる。自分だけを見つめて欲しいと、いつも強く願っている。
(自分の兄弟にすら嫉妬するぐらいなのよ? なのに、わたしが他の男性と一緒にいて、簡単に肌を触られているのを見たら……どんなことになるか!)
「や、やめて……」
茂庭の手を振り払おうとすると、彼はその手を下ろして千佳の二の腕を強く掴んだ。
「鈴木さん? いったいどうしたんだ?」
茂庭が話しかけているのに、千佳は優貴から目を逸らすことができなかった。どんどん優貴の目が細められ顎が強ばっていくのが見て取れるのに、どうして彼から目を逸らせるだろうか。
これ以上優貴を怒らせないために、必死になって茂庭の手を振り払おうとするが、彼はさらに強く握り締めて放そうとしない。
過去の経験から、優貴が千佳へ近寄り、何らかの口実を使って優貴のもとに来るように言うだろうと思った。そうなると、確信していたと言っていい。
でも、優貴は千佳の方へ来ようとしなかった。何かを告げるような視線を投げてくることも一切しなかった。ただ、そこには誰もいないというように……千佳の存在を無視した。真っ直ぐ前だけを向いて、ガラスドアの内側へと消えていった。
(嘘……どうして? どうしてわたしに何も言わないの? 優貴!)
今まで〝会社では仕事上の付き合いにしたい〟と口を酸っぱくして優貴に言ってた。だから、本当なら無視をされてホッとするはずなのに、今は全然嬉しくない。それどころか、優貴の心が一瞬で千佳から離れたとわかってしまった。鋭い爪で胸を抉られたような痛みが、千佳を襲う。
千佳は人目も憚らずに泣きそうになったが、瞼をギュッと閉じてその思いを押さえ込んだ。
過去には、仕事を隠れ蓑にして何度も呼び出されたことがある。だから今回も、あの冷酷な怒りが瞳に宿った時に、何かが起こると思った。
それなのに、どうして今回に限って何もないのだろうか?
優貴に冷たく無視された事実に、どう対処していいのか全くわからない。
「どうかした?」
茂庭が話しかけてくると同時に我に返ると、千佳は勢いよく彼の手を振り払った。
「あっ、ごめん。でも役員の前であまり騒がない方がいいと思って、」
「ごめんなさい。わたし……もう戻らないと」
千佳を止めようとする茂庭の手から逃れるように、優貴の後を追って走り出した。ロビーにいる社員を掻き分けてエレベーターホールへ向かうと、ちょうど優貴がエレベーターに乗ったところだった。
優貴を呼び止めることはできないが、こちらを向いて何か言ってくれるかもしれない。その希望に縋ったが、振り返ってこちらを見つめる優貴の冷たい瞳を見て、千佳はその場に凍りついた。
その瞳に、既に怒りは宿っていなかった。宿っていたのは、今まで見たことのない……蔑みに満ちた黒い闇。
「ち、違うの……」
千佳の震える唇から、掠れた声が漏れる。エレベーター内にもエレベーターホールにも社員が数人いるのに、千佳は優貴に向かって訴えるように頭を振った。
だが、優貴は何も言わず、目の前で取り乱す千佳を興味がなさそうに見返すだけ。優貴が何も行動しないとわかると、柳原が操作パネルに手を伸ばした。閉ボタンを押したのだろう。エレベーターの扉は、まるで二人の絆を断ち切るように容赦なく閉まった。
胸が張り裂けそうな痛みが襲ってくる。千佳は、どうにかなりそうだった。
他のエレベーターが来ても、千佳は乗ろうとはせずその場にずっと立ち尽くしていた。
完全に優貴から距離を置かれたのだとわかると、千佳の掌が異様に汗ばみ出した。同時に、指先がどんどん冷たくなり、自分でも抑えきれない震えが襲ってくる。
(わたし、いったいどうしたらいいの? どうしたら!)
そんな千佳の後ろ姿を茂庭が遠くから眺めていたが、もちろんそのことに気付くことはなかった。
その日の午後をどう過ごしたのか、千佳はあまり覚えていなかった。
だが、優貴から電話がかかってくると信じて、携帯だけは目の前に置いて仕事をしていたことは覚えている。上司から咎められなかったということは、仕事だけはきちんとしていたのだろう。
千佳は何度も携帯を手に取って連絡を取ろうとしたが、電話をかけて無言で切られたらと思うと恐怖が湧き起こり、結局はボタンを押すことができなかった……
千佳の望みは叶わず、その日、優貴からの連絡は一度もなかった。
残業を一時間だけすると、千佳は寄り道もせず真っ直ぐ家へ戻った。バッグを部屋に置くとキッチンへ行き、実家から送られてきた野菜を取り出す。旬の食材である筍料理を作るために、包丁を握り締めた。時計の秒針が動く小さな音だけが、静かな部屋に響く。
「痛っ!」
ポタポタッと俎板に血が落ちる。千佳はすぐに包丁を投げ棄てると、キッチンペーパーを引っ張り出して指に当てた。料理は得意な方ではないが、こんな失態は初めてだった。玉ねぎを刻んでる時に、まさか中指の第一関節周辺の皮膚を包丁でざっくりやってしまうとは。
心ここにあらず……だから、こんな怪我をしてしまうのだろう。
「もう!」
自分自身にイライラしながら、千佳はキッチンペーパーをゴミ箱に放り投げた。再び血が溢れ出してくるのを見ていると、自然と千佳の目にも涙が浮かんでくる。
水道のレバーを上げて水を出すと、千佳は唇を噛み締め、涙を堪えながら傷口を洗った。そんなに深い傷ではないが、血が止まらない。
もう一度キッチンペーパーで傷口を押さえると、救急箱を取り出した。常備してある消毒液で傷を綺麗にし、化膿止めの粉を振りかけてから絆創膏を貼る。さらに料理に雑菌が入らないよう、絆創膏の上からゴム製のサックを填めた。
チラッと時計を見ると、十九時三十分だった。これから起こることを考えると、恐怖が込み上げてくる。
でも、その気持ちに負けてはいけないという思いで奮起すると、千佳は再びキッチンへ向かって料理の支度を始めた。
この時間になっても、優貴からの電話は一度もなかった。
でも、もしかしたら今夜部屋に寄ってくれるかもしれない……
千佳は指の痛みにも構わず、優貴が美味しいと言ってくれる料理を作るために手を動かした。
ふんだんに筍を使った春巻き、白和え、筍ご飯、筍ステーキの下ごしらえを終え、千佳特製の玉ねぎソースも器に入れた。
ビールを飲みながらでも、自然と箸が進む料理になっただろう。食が進めばその場が和み、少しはリラックスをして話ができるに違いない。
一通り準備が整うと、千佳はホッと息をついた。優貴が来たら、春巻きを揚げて筍をバター醤油で焼けばいい。お味噌汁も、味噌を溶かせば食卓に並べられる。
優貴の訪問を待つためにキッチンの椅子に座ると、千佳は肘をテーブルについて両手で頭を支えた。再び、部屋が静まり返り、秒針の音だけが響く。
(来る……優貴は絶対わたしに会いに来てくれる。怒っててもいい。わたしをなじってもいいから、お願い……わたしに会いに来て!)
優貴が来てくれると信じながら、千佳はひたすら待っていた。
テーブルに、涙がポタポタと零れ落ちる。時計の針は、もう二十三時三十分を指していた。
(来ない……優貴は来ないんだわ。最後にわたしを見たあの瞳……蔑みがそれを語ってる!)
「……っ!」
千佳は涙を堪えきれず、とうとうテーブルに突っ伏して泣き崩れた。
なんてバカなことをしたのだろう! 茂庭の誘いが何を意味しているのか、本当にわからなかった? 初めて男性から声をかけられたから、浮かれてしまった?
優貴の兄を好きになった時と似た感覚だったが、彼は雲の上の人だった。だから、気持ちはまだ安定していた。
だが、今回は同世代の茂庭から告白されたということもあり、千佳は妙に昂揚してしまった。
(こんな気持ち初めてだった……。だから、わたしは恋に恋するようなバカな感情を抱いてしまった)
今ならはっきりとわかる。千佳は自分の感情に溺れていた。男性に免疫がないから、自分の感情に振り回されてしまったのだと。
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