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第一章 「目覚めたら七歳でした」

第22話 鮮血は笑顔を掻き消す

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「お嬢さま……、えッ!? だだだだ、旦那さま……ッ!」

 震え上がるのはネニュファールの専属侍女達。酷い慌てように思わず笑いそうになるが堪えて「お母さまは?」と訊く。

「奥さまは……坊ちゃまとお話をしていまして」
「そう、じゃあ取り次いでくれる?」

 今日は後ろに猛獣を連れてるからか風の速さで取り次いでくれる。その侍女の様子が余りにも滑稽に見えて愉快だなとぼんやりと思うイクシャが言う猛獣は黙っていても硬直していて落ち着かない様子だ。

 それはそうだ。

 ネニュファールの堪忍袋に触れて、心の病が悪化し本邸で休んでいる所を誕生日パーティーに出席するも夜会までは出ずに勝手に部屋に戻ってから明らかに夫婦仲に亀裂が入っている事を知らしめ引き留めようとする参加者に何も言わずして視線で殺したネニュファール。
 それ以降に口も利かず顔も合わせず隣にある別邸に許可も取らずに移って生き生きと植物に親しみながら過ごしている所で会うのだから緊張もするし恐れもするだろう。

 “あの”ネニュファールが反抗的な態度を取って堂々としているのだし、普段は優しく愛情にあふれ慈悲深い人程、激怒したら何するか想像もつかないのだから。

 ──「お姉さま! と、お父さまに挨拶しますっ」 
「シアンとお母さまに挨拶します。お母さま、御機嫌よくお過ごしでしょうか……体調は大丈夫ですか?」

 ふんわりと微笑んでカーテシーをする。リュシアンは扉の前で出迎えてくれ元気沢山に微笑んで、その後ろでネニュファールは瞬きもせずに石のように固まっていた。

「……ッ旦那さまに挨拶します……お久し振りでございます」

 眼差しは説明しろと語っている。見たくもない顔が現れて怒りが燃え上がっていても何とか抑えて子供達には覚らせまいと隠そうと愛想笑いを浮かべているのだろうが数十秒でも時間が経つにつれて鋭さの増す瞳によって怒りを抱いている事が解る。リュシアンはまだ幼いから鈍いかもしれないがイクシャの中身は大人だ、牢に囚われの身になって後悔し人生をやり直そうとしているのだから人の表情の起伏や感情へのそれくらいに察し能力は高くあると思う。

「お父さまがね今日はお仕事が一通り終わったから皆で一緒にお茶を飲んで過ごしたいって! 私も久し振りに外に出てお花摘みたいし皆と過ごしたいんだ良いでしょ?」

 ぎょっと目を剥いたベルナールに構う事もなく、イクシャはまたもや固まる母の元へ走って抱き着く。金魚の如く口を開閉して言葉も出せないベルナールを凝視するネニュファールに思い切りの天使スマイルを向ける。

「お願い……お父さまとお母さまが揃って“家族”で今日は過ごしたいの……私の我儘を今日だけ許して」
「お母さま、僕も皆で過ごしたい……ッ!」

 ネニュファールの顔は次第に険しくなって、目線を逸らそうとするも嘆息して渋面で頷く。ベルナールだけを映した翠の瞳はさっきよりも柔らかく細められていた。
 後ろのベルナールにイクシャはそっと近寄ってその手を繋ぐ。

「……お父さま、嘘言ってごめんね。でも、お母さまと一緒に仲良くいて欲しかったからなの……」

 怒られるかも不安になっていたのが馬鹿みたいだ。己の顔を一瞥したベルナールの口角は見間違いかもしれないが緩んでいて、その手はずっと温かく優しくイクシャの頭を撫でてくれた。

「別に良い、いちいち気にする事でもないから謝ろうとするな」

 そうイクシャを見ずに言ったベルナールの顔を見上げた。繋いだ手の温かさは更に増した。何故なら、右からネニュファール、リュシアン、イクシャ、ベルナールの順で手を繋いでいるから。体温が移り移って増したのだった。
 リュシアンに手を繋ぎ留められたネニュファールは仕方が無さそうに微笑んでいる。その見た事も無い奇跡に近い光景を眩しく思った。

 ▽ ▲ ▽

「……息災であったようだな」
「ええお陰様で……難なく楽しく穏やかに過ごさせて貰ってます」

 ネニュファールは目も合わせずにイクシャとリュシアンだけを見つめて言う。余程のことをしたのだから仕方が無いと思い続かない会話に終止符を打つ。

「クーやシアンの事を想って今、貴方の妻としてこの家の女当主として此処に居ます。正直言って二人が居なければこの家を早々と出て行っていたでしょう、だから、今度またあのような事をしたら私も黙ってはいけません」

 冷淡な声は隠すもしない鋭さと冷酷さがあった。儚く美しい花のようで、自由を許されない鳥のようなネニュファールを愛し力になりたかったのにこんな風になるまで傷付けてしまったのだと胸が何かに強く刺され強くもぎ取られるような感覚に陥る。

「俺は……自分の愚かさに気付いた。父として人として欠けてしまい、間違った判断をしてしまっていたとやっと、気付けた」

 無意識のうちに拳を作っていたようだった。掌に遺った半円に眼を伏せる。今更、彼女の夫を名乗り、イクシャとリュシアンの父親を名乗る事なんて出来ないってもう解っている。
 
 ──それがおこがましいと、それが狡いとも。

 ネニュファールはベルナールが顔を俯かせて言った言葉に動揺する。耳を疑って、でも、目の前に居た筈だった涼しい顔を何時もして高圧的な彼が情けなく頭を垂れているから現実だと確信をしてしまう。
 言葉も発せないような重苦しい空気に二人は目線を泳がせていた。

 そんな光景を余所に遊ぶリュシアンを見ながら花を摘んで冠を作るイクシャは二人を気付かれないくらいに気にしていた。ようやく花冠が出来上がるのにも、二人があんな様子じゃ到底入り込めない。
 持て余すようなイクシャは俯いて、久し振りに家族が揃って嬉しそうに元気に笑うシアンのこれからの幸せの為、と反芻して立ち上がった。

「お父さま、お母さまっ! 花冠が出来ました!」

 庭に咲き誇る白いデイジーの花と小さな野花で作られた花冠を見せる。空気は気まずいが、二人は目の前に救いが現れたような顔をしてネニュファールも笑っている。

「お母さま、はい!」
「私に、……くれるの?」
「勿論です! お母さまの為に作ったんですもの!」

 流石だと思う。やはり美女には花が似合う、と内心大きく首を縦に振るイクシャは「ありがとう」と微笑するそのネニュファールの姿に惚けているような顔のベルナールに近寄る。
 実はベルナールにも用意していたのだ。二人でペアリングになるようにお揃いに。

「お父さまにも!」
「私にも、か?」
「当然でしょう! 夫婦なんだから!」

 背伸びをして、ベルナールの頭に花冠を置く。戸惑い気味に笑いを浮かべるベルナールの姿はこれを付けたら滑稽になるかなと思っていたが、全然違った。予想を大きく反するくらいに可愛い。可愛いのだった。
 ベルナールの膝に手を置いてイクシャは笑いを堪えるが、努力は水の泡。
 遊びをやめ、姉と一緒に二人の元に来ていたリュシアンが噴き出したのだ。

「……ぷっ」

 あはははは、と三つの笑いが起こる。此処でやっと家族の輪が繋がったような気がしてならなかった。ベルナールは訳が分からないと読み取れるような表情で当惑している。

「あははは、……は、ぁ、うッ」

 不安と恐怖は、幸せの中で前触れもなしにやってくる。

 ……予兆もなければ、猶予もない。ノックの音もない。あたりの空気が突然薄くなったような気がした。
 突然、心臓が大きな音を立てる。規則的な鼓動の中に割り込んだ感じで息苦しさと不安を覚え、イクシャは胸に手を当てて確かめる。どくん、どくどく、どくんイクシャの自律神経に逆らうかのように、心臓は再び身勝手な一拍を返してきた。全身が熱くなるのが気付く。胸の痛み、背中の張りを感じ、急に動けなくなる。


 笑いは続いていたが、ネニュファールとリュシアンがイクシャの異変に気付いたのだった。ベルナールが席から立ち上がり、イクシャを不安に満ちた瞳で見つめる。
 
 「ぁ”」

 己の喉から発したのはときどき何かの加減で震え気味になり、やっと発音するような耳遠い掠れ声だった。
 金属音が混じっているようだ。ちゃんと呼吸している筈なのに何処か抜けているみたいな音が鼓膜を嫌に響く。呼吸音は非常に荒かった。息苦しくて喉に触れる。
  
 ”ひゅーひゅー”

 "ぜーぜー" 

 胃から、肺から“何か”が込み上がってくるような気がして慌てて口元に手を添える。“何か”は咳と共に姿を露わにしたのだ。

 
 手にあったのは、赤い、赤い液体。


 意識は部分的にはむしろ鋭敏になる。経験した事があるものだった。しかし目を開けていることはできない。まぶたは固く閉じられる。まわりの物音も遠のいていく。そしてそのお馴染みの映像が何度も意識のスクリーンに映し出される。身体の至る所から汗がふきだしてくる。脇の下が湿っていくのがわかる。全身が細かく震え始める。鼓動が速く、大きくなる。

「ッ! 発作、久し振りに外に出て気温の変化で……発作よ、シャーロック! 主治医を呼んできて!! ロゼ、薬の準備を!」

 ベルナールが抱き締めてくれている、皆は心配と様々な感情が入り混じった表情で慌てて己の為に動いているのだろう。

 笑顔が消えた──自分のせい。


 景色は真っ赤だった。
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