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本編
46 私のお母様
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久しぶりに思い出したくもない「過去」を夢に見た。
暗い暗い「海」。
規則正しい鼓動。
時折、聞こえてくる甘くまろやかな女の声。
――許してね、××。
――わたくしを嫌っても憎んでもいい。
――あなたの安全のために、こうするのがいいの。
豪華なベビーベッド。そこで眠っている小さな赤ん坊。
「彼女」は赤ん坊を抱き上げ、そして――。
「……何だって、今更」
自室のベッドの上、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまった。
思い出したくもない「過去」を夢に見てしまったのは……今日、あの人に「真実」を話すと決意したからだろう。
明日から学院は夏休みに入る。
……本当は、この日、全てを棄てて出奔する予定だった。
出奔はやめたのだから、あの人に話さず墓場まで持っていこうかとも思った。
けれど、いい加減、自分を偽るのが嫌になったのだ。
本当の私を、「真実」を告げれば、あの人の私への愛情は木っ端微塵に砕け散るだろう。
それでも、もう構わない。
自分を偽るよりは、何倍もマシだ。
そう決意し、学院から帰りドレスに着替え、いざあの人の、王妃の居住区に近づくと足取りが重くなってきた。
「リズ?」
入室の許可をもらって入って来た私に、王妃は意外そうな顔を見せた。
元々、王妃が私を呼び出すか、王妃自ら私の私室にやってくる事が多かった。
私から王妃を訪ねる事はあまりないのだ。まして、アーサーとの婚約破棄騒動以来、私から王妃を訪ねる事は全くといっていいほどなくなった。
その私が王妃を訪ねに来たのだ。王妃が意外に思うのも無理はない。
「……お母様と二人きりで話したいの。あなた達は出ていて」
いつでも王妃に付き従っているベールで顔を隠した五人の侍女に命じると、彼女達は主でもない私の命令に素直に従い一礼し部屋から出て行った。
私はソファに座っている王妃を、つくづくと眺めた。
やはり、その容姿はアーサーに、いや、ロクサーヌに酷似している。彼女の数年後を思わせる、妾妃とは違う印象の絶世の美女だ。彼女の中身が脳筋だとは誰も思わないだろう。
脳筋で王妃としては役者不足なのは否めないが、それでも夫を一途に愛し、「娘」を愛してくれた。一人の人間として、女性として、決して悪い方ではない。
その彼女を私はずっと騙し続けていたのだ――。
「リズ? どうした?」
自分を見たまま黙り込んでいる私に、王妃は訝し気に声を掛けた。
私は彼女にとって予想外の行動に出た。ソファに座っている王妃を抱きしめたのだ。
「……お母様……私のお母様……」
子供の頃から変わらないお母様の匂い。彼女が好む薔薇の香水と彼女の体臭が混じった、お母様だけの匂い。
これを決して忘れないと思った。
「リズ?」
戸惑ったように、それでも優しく私を抱きしめ返してくれる王妃に、私はずっとこのままでいたい思いを振り切って離れた。
「……貴女を『お母様』とお呼びするのも、これで最後になります」
「リズ? 何を言っているんだ? さっきからおかしいぞ」
王妃は立ち上がると私に詰め寄って来た。
私は絨毯の敷かれた床に正座すると、いつかのケイティのように土下座した。
「こんな事しても到底許されない事は分かっています! 私は二重の意味で、ずっと貴女を騙していました!」
私の土下座に呆気にとられていた王妃だったが、我に返ると私の腕を摑んで立ち上がらせた。
「……とにかく立つのだ。いくら相手が母である妾とはいえ、王女が土下座などするものではない」
「……母ではないのです」
ぽつりと言ったから聞こえなかったのか、言葉の内容が信じられないからか、王妃は柳眉をひそめて「何?」と聞き返してきた。
私は胸に痛みを覚えながら、王妃にとって残酷な「真実」を告げた。
「……貴女は、私を産んだ母親ではないのです」
「……何を言っている?」
「……私を産んだ母親は、メアリー・シーモア、貴女が誰よりも嫌っている女です」
「真実」であっても、これだけは言いたくなかった。
――許してね、吾子。
産まれたばかりの私に、あの女が囁いた言葉。
(……いいえ。私は、あなたを絶対に許さない)
「妾妃は、同じ日に産まれた自分の娘と貴女の娘を取り替えたのです。……赤ん坊の時に亡くなった私の異母姉妹、リジーこそが貴女が産んだ娘なのです」
王妃の娘であれば彼女の取り巻き達は危害を加えない。兄のように「殺される」事はない。
確かに、弟の言うように、子供を取り替えた理由の一つは、「吾子(我が子)の安全のために」だろう。
自分を毛嫌いする王妃の娘として生きるのだ。自分を生母だと知らない「娘」は、王妃に倣って自分を嫌うかもしれない。
それでも、妾妃は我が子の安全を優先して、王妃の娘と取り替えた。
けれど、誰よりも怜悧なあの女にも誤算はあった。
「何を馬鹿な事を!? そんな馬鹿な話をお前に吹き込んだのは、あの女か!?」
今にも、あの女、妾妃の元に乗り込みそうな王妃に対して、私はなるべく冷静な態度を心掛けた。二人共、頭に血が上っては話ができなくなる。私の話は、まだ終わっていないのだ。
「あの女に聞くまでもない。私もアルバートも最初から知っていたから」
「アルバート?」
「なぜ、ここで、あの女の息子が出てくるんだ?」と言いたげな王妃に、私は「真実」だと信じてもらうために感情を込めず淡々と語った。
「私とアルバートには胎児の頃からの記憶があります」
それが、あの女の誤算。
「真実」を知らない私に嫌われる事は覚悟しても、全てを知った上で私には毛嫌いされ、アルバートには心酔されるとは思いもしなかっただろう。
「だから、私もアルバートも自分を産んだ母親が違う事を最初から知っていたんです」
そう、あの女に取り替えられた子供は私だけではない。
「……あの女が取り替えたのは、私と亡くなった貴女の娘だけではありません。アルバートとあの子と同じ日に産まれ数日後に突然死した私のもう一人の弟もです。……アルバートこそが貴女が産んだ息子なのです」
「真実」を打ち明けると決めた以上、全てを話す。それをアルバートが望んでいなくても。
「……どうかアルバートに優しくしてあげてください。もう、あの子だけが貴女が産んだ唯一の子供なのだから」
王妃が最初に産んだ息子(私の異母兄)と私と同じ日に産まれた異母姉妹は亡くなった。王妃が産んだ生きている子供はアルバートだけなのだ。
「……私は『真実』を知りながら、ずっと黙っていました。それだけでなく、私はずっと素の自分として貴女や周囲の人間と接した事はなかった」
女王に相応しくないと思わせるために、アーサーと婚約破棄するために、高慢な王女として振舞っていた。その態度は王妃を参考にした。
けれど、今になって、それだけではなかったのだと気づいた。
王妃の娘と周囲に思われたかったからだ。
私の顔は父親である国王に似ていて瞳の色も同じだ。
髪質や手や耳の形などは、あの女と同じだ。仕方ないとはいえ全く忌々しい。
けれど、実際は赤の他人である王妃とは当然ながら似た所などない。強いて言えば同じ黒髪だというくらいか。
外見で母娘だと思われないのなら、普段の振る舞いでそう思われたかったのだ。
そんな事をしても意味はないのに。
「真実」が知らなくても存在しているように、私は私にしかなれないのだから。
「……それでも、信じてはいただけないでしょうが、貴女を母として慕っていた気持ちだけは、真実です」
王妃は私の言葉を聞いているのかいないのか、ただただ呆然としている。衝撃すぎる「真実」を呑み込めないのだろう。
「私の話が信じられないのなら、陛下にお聞きください。あの方の言葉なら、貴女は信じる事ができるでしょう?」
王妃が誰よりも敬愛する国王であり夫であるリチャードが語ったのなら、どれだけ信じられない「真実」であっても彼女は信じるだろう。
「陛下」の言葉に反応したのだろう。顔を上げた王妃に、私は今までの謝罪と感謝を込めてドレスの裾を摘まみ上げると王女に相応しい完璧な一礼をして部屋から出て行った。
暗い暗い「海」。
規則正しい鼓動。
時折、聞こえてくる甘くまろやかな女の声。
――許してね、××。
――わたくしを嫌っても憎んでもいい。
――あなたの安全のために、こうするのがいいの。
豪華なベビーベッド。そこで眠っている小さな赤ん坊。
「彼女」は赤ん坊を抱き上げ、そして――。
「……何だって、今更」
自室のベッドの上、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまった。
思い出したくもない「過去」を夢に見てしまったのは……今日、あの人に「真実」を話すと決意したからだろう。
明日から学院は夏休みに入る。
……本当は、この日、全てを棄てて出奔する予定だった。
出奔はやめたのだから、あの人に話さず墓場まで持っていこうかとも思った。
けれど、いい加減、自分を偽るのが嫌になったのだ。
本当の私を、「真実」を告げれば、あの人の私への愛情は木っ端微塵に砕け散るだろう。
それでも、もう構わない。
自分を偽るよりは、何倍もマシだ。
そう決意し、学院から帰りドレスに着替え、いざあの人の、王妃の居住区に近づくと足取りが重くなってきた。
「リズ?」
入室の許可をもらって入って来た私に、王妃は意外そうな顔を見せた。
元々、王妃が私を呼び出すか、王妃自ら私の私室にやってくる事が多かった。
私から王妃を訪ねる事はあまりないのだ。まして、アーサーとの婚約破棄騒動以来、私から王妃を訪ねる事は全くといっていいほどなくなった。
その私が王妃を訪ねに来たのだ。王妃が意外に思うのも無理はない。
「……お母様と二人きりで話したいの。あなた達は出ていて」
いつでも王妃に付き従っているベールで顔を隠した五人の侍女に命じると、彼女達は主でもない私の命令に素直に従い一礼し部屋から出て行った。
私はソファに座っている王妃を、つくづくと眺めた。
やはり、その容姿はアーサーに、いや、ロクサーヌに酷似している。彼女の数年後を思わせる、妾妃とは違う印象の絶世の美女だ。彼女の中身が脳筋だとは誰も思わないだろう。
脳筋で王妃としては役者不足なのは否めないが、それでも夫を一途に愛し、「娘」を愛してくれた。一人の人間として、女性として、決して悪い方ではない。
その彼女を私はずっと騙し続けていたのだ――。
「リズ? どうした?」
自分を見たまま黙り込んでいる私に、王妃は訝し気に声を掛けた。
私は彼女にとって予想外の行動に出た。ソファに座っている王妃を抱きしめたのだ。
「……お母様……私のお母様……」
子供の頃から変わらないお母様の匂い。彼女が好む薔薇の香水と彼女の体臭が混じった、お母様だけの匂い。
これを決して忘れないと思った。
「リズ?」
戸惑ったように、それでも優しく私を抱きしめ返してくれる王妃に、私はずっとこのままでいたい思いを振り切って離れた。
「……貴女を『お母様』とお呼びするのも、これで最後になります」
「リズ? 何を言っているんだ? さっきからおかしいぞ」
王妃は立ち上がると私に詰め寄って来た。
私は絨毯の敷かれた床に正座すると、いつかのケイティのように土下座した。
「こんな事しても到底許されない事は分かっています! 私は二重の意味で、ずっと貴女を騙していました!」
私の土下座に呆気にとられていた王妃だったが、我に返ると私の腕を摑んで立ち上がらせた。
「……とにかく立つのだ。いくら相手が母である妾とはいえ、王女が土下座などするものではない」
「……母ではないのです」
ぽつりと言ったから聞こえなかったのか、言葉の内容が信じられないからか、王妃は柳眉をひそめて「何?」と聞き返してきた。
私は胸に痛みを覚えながら、王妃にとって残酷な「真実」を告げた。
「……貴女は、私を産んだ母親ではないのです」
「……何を言っている?」
「……私を産んだ母親は、メアリー・シーモア、貴女が誰よりも嫌っている女です」
「真実」であっても、これだけは言いたくなかった。
――許してね、吾子。
産まれたばかりの私に、あの女が囁いた言葉。
(……いいえ。私は、あなたを絶対に許さない)
「妾妃は、同じ日に産まれた自分の娘と貴女の娘を取り替えたのです。……赤ん坊の時に亡くなった私の異母姉妹、リジーこそが貴女が産んだ娘なのです」
王妃の娘であれば彼女の取り巻き達は危害を加えない。兄のように「殺される」事はない。
確かに、弟の言うように、子供を取り替えた理由の一つは、「吾子(我が子)の安全のために」だろう。
自分を毛嫌いする王妃の娘として生きるのだ。自分を生母だと知らない「娘」は、王妃に倣って自分を嫌うかもしれない。
それでも、妾妃は我が子の安全を優先して、王妃の娘と取り替えた。
けれど、誰よりも怜悧なあの女にも誤算はあった。
「何を馬鹿な事を!? そんな馬鹿な話をお前に吹き込んだのは、あの女か!?」
今にも、あの女、妾妃の元に乗り込みそうな王妃に対して、私はなるべく冷静な態度を心掛けた。二人共、頭に血が上っては話ができなくなる。私の話は、まだ終わっていないのだ。
「あの女に聞くまでもない。私もアルバートも最初から知っていたから」
「アルバート?」
「なぜ、ここで、あの女の息子が出てくるんだ?」と言いたげな王妃に、私は「真実」だと信じてもらうために感情を込めず淡々と語った。
「私とアルバートには胎児の頃からの記憶があります」
それが、あの女の誤算。
「真実」を知らない私に嫌われる事は覚悟しても、全てを知った上で私には毛嫌いされ、アルバートには心酔されるとは思いもしなかっただろう。
「だから、私もアルバートも自分を産んだ母親が違う事を最初から知っていたんです」
そう、あの女に取り替えられた子供は私だけではない。
「……あの女が取り替えたのは、私と亡くなった貴女の娘だけではありません。アルバートとあの子と同じ日に産まれ数日後に突然死した私のもう一人の弟もです。……アルバートこそが貴女が産んだ息子なのです」
「真実」を打ち明けると決めた以上、全てを話す。それをアルバートが望んでいなくても。
「……どうかアルバートに優しくしてあげてください。もう、あの子だけが貴女が産んだ唯一の子供なのだから」
王妃が最初に産んだ息子(私の異母兄)と私と同じ日に産まれた異母姉妹は亡くなった。王妃が産んだ生きている子供はアルバートだけなのだ。
「……私は『真実』を知りながら、ずっと黙っていました。それだけでなく、私はずっと素の自分として貴女や周囲の人間と接した事はなかった」
女王に相応しくないと思わせるために、アーサーと婚約破棄するために、高慢な王女として振舞っていた。その態度は王妃を参考にした。
けれど、今になって、それだけではなかったのだと気づいた。
王妃の娘と周囲に思われたかったからだ。
私の顔は父親である国王に似ていて瞳の色も同じだ。
髪質や手や耳の形などは、あの女と同じだ。仕方ないとはいえ全く忌々しい。
けれど、実際は赤の他人である王妃とは当然ながら似た所などない。強いて言えば同じ黒髪だというくらいか。
外見で母娘だと思われないのなら、普段の振る舞いでそう思われたかったのだ。
そんな事をしても意味はないのに。
「真実」が知らなくても存在しているように、私は私にしかなれないのだから。
「……それでも、信じてはいただけないでしょうが、貴女を母として慕っていた気持ちだけは、真実です」
王妃は私の言葉を聞いているのかいないのか、ただただ呆然としている。衝撃すぎる「真実」を呑み込めないのだろう。
「私の話が信じられないのなら、陛下にお聞きください。あの方の言葉なら、貴女は信じる事ができるでしょう?」
王妃が誰よりも敬愛する国王であり夫であるリチャードが語ったのなら、どれだけ信じられない「真実」であっても彼女は信じるだろう。
「陛下」の言葉に反応したのだろう。顔を上げた王妃に、私は今までの謝罪と感謝を込めてドレスの裾を摘まみ上げると王女に相応しい完璧な一礼をして部屋から出て行った。
応援ありがとうございます!
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