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後日談
78 初夜
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いよいよだわ!
王太女宮で最も広い寝室で寝間着に着替えた私はベッドに腰掛け掌の中の小瓶をぎゅっと握りしめた。
結婚式、立太子の儀式、そして披露宴で疲れている。
見る分にはいいが着用する身には肩の凝る盛装のドレスに何度か着替え、その度に髪型を変えたり化粧直しをしたり、それだけでも疲れるのに、さらには多くの参列者の相手だ。
本当は、このまま寝てしまいたかったが……王太女として何よりも重要な義務が残っている。
まあ義務でなくても、私自身、これだけはしたかった。
愛する夫の子を得るために――。
「アーサーも疲れているかもしれないし、今日は何もないかしらね」
「それを期待されているのなら残念ですね」
私の呟きに低音の美声が被った。
いつの間にか今日私の夫になったアーサー・テューダが扉を背に立っていた。
アーサーも私同様寝間着なのだが完璧な外見と人を畏怖させるカリスマ性故に無防備には見えない。
今夜の準備があったので早々に披露宴を抜け出した私と違いアーサーは参列者の相手をしていたはずだ。
「……いつ来たのよ」
ここは王太女夫妻の寝室だ。アーサーもまたこの部屋の主なのでノックもなしに入っても誰も咎められないのだが、いろいろと心の準備がある私には心臓に悪い。
「一応ノックはしましたが、返事がなかったので」
いろいろ考え込んでいたのでノックが聞こえなかったのだろう。
「逃げなかったのですね」
返事がないから逃げたと思われたのか。
「逃げてほしかったの?」
逃げるなら二年前に逃げている。アーサー相手に逃げられる自信は全くないけど。
「まさか、逃げしませんよ」
アーサーは結婚式の時と同じ射貫くような瞳で、一見優雅だのに獲物に近づく肉食獣のような足取りで、私に近づいてきた。
……うん、これから初夜を迎える夫婦には見えないわね。
まあロマンチックな展開なんて期待してなかったけど。
触れる位置にまで来たアーサーに私は手の中の小瓶を突きつけた。
「それは?」
怪訝そうなアーサーに私は答えた。
「媚薬よ」
この場を沈黙が支配した。
「……それをどうなさるおつもりなんですか?」
長い沈黙の後アーサーは言った。
「あなたに飲んでもらおうと思って」
再び沈黙が支配した。
「……そんな物、飲みませんよ」
アーサーは吐き捨てるように言った。
「男性には危険でないはずよ。あの女が私を未亡人にするはずないもの」
「……妾妃が用意した物ですか」
「そうよ」
私が言う「あの女」は妾妃しかいないのだ。
アーサーは私が突きつける小瓶を手に取ったものの飲まずにサイドテーブルに置いた。
「……媚薬に頼らなければ、私が貴女を抱けないとでも思ったのですか?」
いっそ静かな口調ではあるが、それが却ってアーサーの怒りを伝えている。
確かに、媚薬に頼らなければ女性を抱けないと思われるのは男性には心外だろう。冷静沈着なアーサーでも怒って当然だ。
私はようやくそれに思い至った。
私は、またアーサーの男性としてのプライドを大きく傷つけてしまったようだ。
「……保険よ」
私はぽつりと呟いた。
「保険?」
私よりもずっと頭が良く他人に興味がないくせに人の心の機微に聡いアーサーでも私が何を思って媚薬を用意したのか分からなかったのだろう。いつも冷静沈着な彼も心なしか困惑している様子だった。
「……男性は愛してなくても女性を抱けると聞いたわ。まして、義務と責任感で生きているあなたなら王太女の夫になった役割を果たしてくれるでしょう」
「……いろいろ反論したいですが、話が進まないので今はやめておきます」
アーサーは「反論」よりも自分の疑問を解決する事を優先したようだ。
「なぜ、この世で一番嫌いな妾妃に頼んでまで媚薬など用意したのですか? そんな物がなくても私が貴女を抱けると思っているのでしょう?」
「……だから、保険よ」
私は同じ科白を繰り返した。
「……私は……さいから」
「リズ? 聞こえません。もう一度言ってください」
消え入りそうな声は当然アーサーには聞こえなかったらしく、もう一度言うように促されてしまった。
「だから! 私は、あの女と違って胸が小さいから! いくらあなたでもその気にならないと思ったの!」
私はやけくそぎみに叫んだ。
一瞬の沈黙。
そして思ってもいない事が起こった。
部屋を満たすのは、実に耳に心地よい低音の美声による笑い声。
アーサーが爆笑したのだ。
二年前、私が婚約破棄宣言した日の夜の哄笑とは全く違う。
本当に心からおかしいと思って笑っているのだと分かる。
最初は呆気にとられていた私も、いつまでも笑い止まないアーサーを見ているうちに段々腹が立ってきた。
「何がおかしいのよ!」
「……す、すみません」
アーサーは何とか笑いをおさめたが私の気持ちはおさまらない。
「……もういい。出て行って。今日は一人で寝るから」
私は寝台に横になると頭から上掛けを被った。
「……リズ」
アーサーは珍しく困ったように私を呼んだが無視した。
「笑ったのは謝ります。貴女にとっては深刻な悩みで、この世で一番嫌いな人間に頭を下げてまで媚薬を用意したのでしょう?」
アーサーが寝台に腰を下ろしたのが気配で分かった。
「貴女は信じてくださらないけれど私は貴女を愛しています」
黙っている私に構わずアーサーは話を続けた。
「ペンドーン侯爵家に生まれた義務や責任で王太女と結婚したんじゃない。貴女だから結婚したんです」
「……嘘吐き」
上掛けの中から私は呟いた。
アーサーの今の言葉は、とても信じられなかったのだ。
「そう思うなら思えばいい。どちらにしろ、私は貴女を逃がさない」
アーサーは私が被っている上掛けを強引に引きはがした。
抗議しようとした私の口をアーサーが塞いだ。……自分の口で。
「貧乳でも、媚薬がなくても、貴女を抱ける事を証明しますよ」
普段なら「貧乳は余計!」と喰ってかかるが、この時は長い長い口づけでぐったりして、それを気にするどころではなかった。
そんな私を見下ろしてアーサーは微笑んだ。
壮絶な色気を放つ、それはそれは美しい微笑なのだが……目だけは獲物を前に舌なめずりした肉食獣のようだった。
二年前の心底怒ったアーサーを前にした時も竦んだが……今感じているのは恐怖だけではない。
恐怖以上に魅入ってしまった。
まさに悪魔を前にした人間の気持ちとは、こういうものかもしれない。
破滅に導かれると分かっていても抗えない。
私の美しい悪魔。
けれど、あなたが私にもたらすのは破滅じゃない。
王太女としても一人の女としても私は幸福だから。
歴史に名が残る王配となり国を繁栄させてくれると信じている。
愛するあなたと結婚できて、いずれあなたの子を産む。
あなたが私を愛してくれなくても、それだけで充分幸福だ。
王太女宮で最も広い寝室で寝間着に着替えた私はベッドに腰掛け掌の中の小瓶をぎゅっと握りしめた。
結婚式、立太子の儀式、そして披露宴で疲れている。
見る分にはいいが着用する身には肩の凝る盛装のドレスに何度か着替え、その度に髪型を変えたり化粧直しをしたり、それだけでも疲れるのに、さらには多くの参列者の相手だ。
本当は、このまま寝てしまいたかったが……王太女として何よりも重要な義務が残っている。
まあ義務でなくても、私自身、これだけはしたかった。
愛する夫の子を得るために――。
「アーサーも疲れているかもしれないし、今日は何もないかしらね」
「それを期待されているのなら残念ですね」
私の呟きに低音の美声が被った。
いつの間にか今日私の夫になったアーサー・テューダが扉を背に立っていた。
アーサーも私同様寝間着なのだが完璧な外見と人を畏怖させるカリスマ性故に無防備には見えない。
今夜の準備があったので早々に披露宴を抜け出した私と違いアーサーは参列者の相手をしていたはずだ。
「……いつ来たのよ」
ここは王太女夫妻の寝室だ。アーサーもまたこの部屋の主なのでノックもなしに入っても誰も咎められないのだが、いろいろと心の準備がある私には心臓に悪い。
「一応ノックはしましたが、返事がなかったので」
いろいろ考え込んでいたのでノックが聞こえなかったのだろう。
「逃げなかったのですね」
返事がないから逃げたと思われたのか。
「逃げてほしかったの?」
逃げるなら二年前に逃げている。アーサー相手に逃げられる自信は全くないけど。
「まさか、逃げしませんよ」
アーサーは結婚式の時と同じ射貫くような瞳で、一見優雅だのに獲物に近づく肉食獣のような足取りで、私に近づいてきた。
……うん、これから初夜を迎える夫婦には見えないわね。
まあロマンチックな展開なんて期待してなかったけど。
触れる位置にまで来たアーサーに私は手の中の小瓶を突きつけた。
「それは?」
怪訝そうなアーサーに私は答えた。
「媚薬よ」
この場を沈黙が支配した。
「……それをどうなさるおつもりなんですか?」
長い沈黙の後アーサーは言った。
「あなたに飲んでもらおうと思って」
再び沈黙が支配した。
「……そんな物、飲みませんよ」
アーサーは吐き捨てるように言った。
「男性には危険でないはずよ。あの女が私を未亡人にするはずないもの」
「……妾妃が用意した物ですか」
「そうよ」
私が言う「あの女」は妾妃しかいないのだ。
アーサーは私が突きつける小瓶を手に取ったものの飲まずにサイドテーブルに置いた。
「……媚薬に頼らなければ、私が貴女を抱けないとでも思ったのですか?」
いっそ静かな口調ではあるが、それが却ってアーサーの怒りを伝えている。
確かに、媚薬に頼らなければ女性を抱けないと思われるのは男性には心外だろう。冷静沈着なアーサーでも怒って当然だ。
私はようやくそれに思い至った。
私は、またアーサーの男性としてのプライドを大きく傷つけてしまったようだ。
「……保険よ」
私はぽつりと呟いた。
「保険?」
私よりもずっと頭が良く他人に興味がないくせに人の心の機微に聡いアーサーでも私が何を思って媚薬を用意したのか分からなかったのだろう。いつも冷静沈着な彼も心なしか困惑している様子だった。
「……男性は愛してなくても女性を抱けると聞いたわ。まして、義務と責任感で生きているあなたなら王太女の夫になった役割を果たしてくれるでしょう」
「……いろいろ反論したいですが、話が進まないので今はやめておきます」
アーサーは「反論」よりも自分の疑問を解決する事を優先したようだ。
「なぜ、この世で一番嫌いな妾妃に頼んでまで媚薬など用意したのですか? そんな物がなくても私が貴女を抱けると思っているのでしょう?」
「……だから、保険よ」
私は同じ科白を繰り返した。
「……私は……さいから」
「リズ? 聞こえません。もう一度言ってください」
消え入りそうな声は当然アーサーには聞こえなかったらしく、もう一度言うように促されてしまった。
「だから! 私は、あの女と違って胸が小さいから! いくらあなたでもその気にならないと思ったの!」
私はやけくそぎみに叫んだ。
一瞬の沈黙。
そして思ってもいない事が起こった。
部屋を満たすのは、実に耳に心地よい低音の美声による笑い声。
アーサーが爆笑したのだ。
二年前、私が婚約破棄宣言した日の夜の哄笑とは全く違う。
本当に心からおかしいと思って笑っているのだと分かる。
最初は呆気にとられていた私も、いつまでも笑い止まないアーサーを見ているうちに段々腹が立ってきた。
「何がおかしいのよ!」
「……す、すみません」
アーサーは何とか笑いをおさめたが私の気持ちはおさまらない。
「……もういい。出て行って。今日は一人で寝るから」
私は寝台に横になると頭から上掛けを被った。
「……リズ」
アーサーは珍しく困ったように私を呼んだが無視した。
「笑ったのは謝ります。貴女にとっては深刻な悩みで、この世で一番嫌いな人間に頭を下げてまで媚薬を用意したのでしょう?」
アーサーが寝台に腰を下ろしたのが気配で分かった。
「貴女は信じてくださらないけれど私は貴女を愛しています」
黙っている私に構わずアーサーは話を続けた。
「ペンドーン侯爵家に生まれた義務や責任で王太女と結婚したんじゃない。貴女だから結婚したんです」
「……嘘吐き」
上掛けの中から私は呟いた。
アーサーの今の言葉は、とても信じられなかったのだ。
「そう思うなら思えばいい。どちらにしろ、私は貴女を逃がさない」
アーサーは私が被っている上掛けを強引に引きはがした。
抗議しようとした私の口をアーサーが塞いだ。……自分の口で。
「貧乳でも、媚薬がなくても、貴女を抱ける事を証明しますよ」
普段なら「貧乳は余計!」と喰ってかかるが、この時は長い長い口づけでぐったりして、それを気にするどころではなかった。
そんな私を見下ろしてアーサーは微笑んだ。
壮絶な色気を放つ、それはそれは美しい微笑なのだが……目だけは獲物を前に舌なめずりした肉食獣のようだった。
二年前の心底怒ったアーサーを前にした時も竦んだが……今感じているのは恐怖だけではない。
恐怖以上に魅入ってしまった。
まさに悪魔を前にした人間の気持ちとは、こういうものかもしれない。
破滅に導かれると分かっていても抗えない。
私の美しい悪魔。
けれど、あなたが私にもたらすのは破滅じゃない。
王太女としても一人の女としても私は幸福だから。
歴史に名が残る王配となり国を繁栄させてくれると信じている。
愛するあなたと結婚できて、いずれあなたの子を産む。
あなたが私を愛してくれなくても、それだけで充分幸福だ。
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