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第三章『焔魔仙教編』

第二百三十五話 手と手を取り合う【中】

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 シアンが右手と左手でラン族の姉妹と手をつなぐころ、八歌バーグェ暗珠アンジュの目の前で腰をおろす。

「立てる?」
「…………いや」
「素直でよろしい。ほら、つかまって」

 口をひらけば喧嘩ばかりしていたふたりだが、背を差し出した八歌を、暗珠も拒もうとはしない。
 長身の八歌が、男子にしては小柄な暗珠を背負うのも、そう難しいことではなかった。

「おまえ、きものがしわくちゃになるからって、俺には肩も貸してくれないくせになぁ?」
八藍バーランうるさいよ」

 ニヤニヤと茶化す八藍。即座に反論する八歌。喧嘩するほど仲がいい、双子の光景だ。
 そうした一連の出来事をほほ笑ましく見守っていた早梅はやめは、「さてと」と気を取り直す。

「ねぇ黒皇ヘイファン、私は大丈夫だから、下ろしてくれたりとか……」
「なにかおっしゃいましたか?」
「なんでもないでーす」

 ためしに声をかけてみるも、真顔の黒皇は、抱き上げた早梅を下ろすどころか、さらに腕の力を強めるばかり。
 これにて早梅のささやかな期待は、あっけなく散った。

「うぅ……こんな公衆の面前で、お姫さまだっことか、なんの羞恥プレイなの……」
「怪我人がいまさら何言ってんだ、自業自得だろ」

 恥ずかしさのあまり、しくしくと泣き始めた早梅だが、紫月ズーユェからの追い討ちに、とどめを刺される。
 ついに羞恥心の限界突破をした早梅は、ぷしゅーと頭から湯気を上げ、黒皇の腕の中で縮こまったのであった。

 ……ドン、ドン。

 疲労と安堵につつまれる早梅たちの頭上で、ふいに破裂音のようなものが鳴り響く。
 月の浮かぶ夜空を見上げた一心イーシンが、そっとつぶやいた。

の刻ですね。祭りの終盤に打ち上げられる、花火の音です」
「そろそろ、刻限のようだな」
「えぇ。目的は達成できましたし、長居は無用です。おいとまさせていただきましょう」

 一心は桃英タオインにうなずき返すと、若草色の袍のあわせに右手をさし入れる。

「一心、あなただけでこの人数を移動させるのは、大変でしょう。私も手伝うわ」

 そこで声を上げたのは、二星アーシンだ。

「助かるよ。おねがいできるかい?」
「街の外につれて行けばいいんでしょう? ここに倒れている獣人のみなさんと、私の袖を離してくれない困ったさんは、私が責任をもって案内するわ。任せて」
「困ったさんとは私のことか、紅娘ホアニャン
「さぁさぁ、そうと決まったら急ぎましょ!」

 とたん、早梅は戦慄する。瑠璃の瞳で何度もまばたきをして、目前で繰り広げられた光景を呆然と見つめていた。

「お父さまを、スルーするなんて……二星さま、只者じゃないな……!」

 二星に無視された桃英が、心なしかしゅんと落ち込んでいる気がする。
 もちろん、ストレートすぎる桃英の愛情表現に二星は照れ隠しをしているだけなのだが、それを早梅が理解するのは、もうすこし後のこと。

「では、マオ族のみなさま方は、お先に行かれてください。負傷した方々の治療を、最優先に」
憂炎ユーエン……やっぱり、一緒には行かないの?」

 もともと、猫族とは別行動をすると宣言していた憂炎である。すこしさびしげに問う早梅へ、憂炎は眉じりを下げてみせた。

「そんな顔しないで、梅雪メイシェ。ほかに獣人奴隷はいないか、さがすだけです。離れの地下牢にいらした方々は一心さまが避難させたとのことですが、念のため。わたしは鼻がききますからね」

 そうと話す憂炎の表情は、おだやかなものだ。
 憂炎は手を伸ばすと、指先でくすぐるように、早梅のほほをなでた。

「地下牢にいらした方々が、全員です。ほかに逃げ遅れた獣人奴隷はいないはず。ご安心を」

 言葉を継いだのは、意外な人物だった。

「陳太守……」

 早梅が声の聞こえた方角へ視線を向けると、小舟を岸辺に寄せたチェン仙海シェンハイが、ちりちりと炎のくすぶる地面へ降り立つところであった。

「あなたは、どうなされるおつもりですか」

 早梅の問いに、陳仙海は振り返り、薄く笑った。

「ここに残ります」

 たったのひと言。だが陳仙海のその言葉が何を意味しているのか、早梅には理解できた。

「どこへ行こうとも、私が『用済み』であることに変わりはない。出来損ないの私を、陛下は生かしてはおかないでしょう。ならば私は、どこにも行きませぬ」

 陳仙海の声音は、ひどく落ち着いたものだ。
 だがそれは、死を前に、絶望している者の様子とはちがう。

「私は娘と、朱華ヂュファと、ともにおります」

 焦げた岸辺には、煤けた朱色の襤褸ぼろをまとった少女の亡骸が、横たわっている。
 そのすぐそばにひざをついた陳仙海は、少女の亡骸を、そっと抱き上げた。

「せめて、この手で弔ってやりたい……それが私にできる、この子への罪滅ぼしです」

 長い沈黙が流れる。
 少女の亡骸へ視線を落とした陳仙海の表情は、早梅からはうかがえない。けれど。

「私は、ちっぽけな存在なのやもしれない……けれど、微力ではあっても、無力ではない。ですから、最後に足掻いてみようと思うのです」

 うわごとのようにこぼした陳仙海が、ふと、顔を上げた。
 陳仙海は、まっすぐな視線で、暗珠を見つめている。

「私はいったい、何をしていたのだろう。絶望する以外の、何を。……なぜ、抗おうとしなかったのだろう。どうして、信じることができなかったのだろう……『光』は、こんなにも近くにあったというのに」

 そう独白する陳仙海の声は、震えている。

「殿下、あなたさまは、大きなことを成し遂げられました。悪に憤る正義の心。脅威にも恐れず闘う不屈の心。愛する者を守る優しい心。どれも……まばゆいものでした。この身の奥底から、震えるほどに」
「陳太守……私は……いや、俺は」

 口を開きかけた暗珠へ、陳仙海は、かすかにほほ笑んでみせる。

「殿下、あなたさまはお強いです。弱い自分を打ち負かして、お強くなられた。たとえ微力でも、あなたさまの示したお心のひとつひとつが、ひとりの人間の勇気となった。まさに稲妻のごとく、鮮烈に、私の心を震わせた。無力だなどと、どうして言えましょうか。あなたさまは、私にとっての『光』です。『希望』なのです」
「っ……!」
「私はもう、舞台を降ります。ですが、これだけは」

 凪いだ水面。静けさにつつまれる岸辺で、陳仙海の声だけがひびく。
 陳仙海のつむいだ言葉が、暗珠のもとへ、まっすぐに届けられる。

「あなたさまを心より敬愛し、信じております。これが、私が最後に遺す陛下への呪いであり、殿下へ贈る祝福でございます」

 深々と頭を垂れる陳仙海。しばらくののち、娘を腕に抱いたまま立ち上がってからは、もう振り返らなかった。

「たとえこの身が朽ち果てようと、この陳仙海の魂が、寄り添いましょう。さぁ、おゆきください。歩みを止めてはいけません。常闇にさいなまれるこの世を、あなたさまが照らすのです、ルオ暗珠アンジュさま!」

 ザァ……と、岸辺の木々が木の葉をゆらす。
 陳仙海の感情に、呼応したかのようだった。

「陳仙海……あなたのことは、忘れない。絶対に」

 ひと言ひと言を噛みしめるように、暗珠が言葉を返す。
 陳仙海からの返答はない。もうふたりには、言葉は必要なかった。

「まいりましょう──『沙華絵図しゃげえず』」

 一心のやわらかな声がひびき、そこへ、琵琶の音も重なる。
 かすみゆく景色の端に、紐解かれた巻物がひろげられるさまを見た早梅たちの視界は、直後、暗転した。
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