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第一話 皐月

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 ぱち、と目を開けた。一瞬自分がどこにいるかわからず、キョロキョロと首を動かす。それは見慣れた小部屋ではなく、豪華に飾られた一室で。
 ハッとして身を起こす。赤い布団は柔らかで温かかったし、敷き布団もふかふかで快適だった……ではなく。
「真波、さん」
 呟いて、寝台を降りる。衝立を回ると、真波さんが椅子に腰掛けていた。ふと俺を見て、目を丸くする。そしてふっと破顔した。
「……雪柳。顔が」
「え」
 なんだろう……顔に手をやり、慌てて鏡を探す。部屋の隅の座卓に小さな鏡台を見つけて、映してみた。
 ……口紅が盛大にはみ出している。綺麗にセットされた髪もぴょんぴょんとあちこちが乱れているし、衣装も前がはだけている。
「うわ」
 前をかき合わせて、慌てて唇のはしを指で拭った。ティッシュほしいティッシュ!と思ったら机に小さな紙が重ねて置いてあったので、それで手を拭く。口をぬぐい、手で髪を整えて、真波さんの元に戻った。
「すみません! お客さんより遅く起きるなんて……」
 まだ夜は明けておらず、あたりは静かだ。でも多分昨日寝たのは7時くらいだと思うし、盛大に寝たとしてもまだ深夜三時くらいなのかもしれない。
「……別にいい。私は妓楼の作法は知らないが……。君は面白いな」
 面白いって言われた! これはあれか、「おもしれー奴」ってやつか! ちょっと嬉しくなって笑うと、真波さんも笑ってくれた。それはいつもの分かりづらい笑みではなく、もっとわかりやすい綺麗な笑みで。
「……おいで」
 呼ばれるがまま、彼の前の席に座った。机の上の重箱には寝る前に見たままの綺麗な料理が入っている。
「腹が減っていないか?」
 ……減ってる!! 
 俺の顔が輝いたのがわかったのだろう。真波さんは微笑んで「一緒にいただこう」と言った。
 真夜中の晩飯は冷えていたけど、冷えても美味しいように作られているのか、とても美味だった。蒸し鶏の和え物やピータン、冬瓜の煮凝りなどの冷菜、可愛らしい小さな肉まんや餃子などの点心、そして角煮や肉団子などの肉料理。馴染みの味が多いのは、やはりここがアレンジされた世界だからか。
「美味しいですね」
 笑いかけると、頷いてくれる。口数は多くはないが、穏やかで落ち着いた大人の男。いやまあ俺も中身は大人なのだが。
 夕方には、まさかこんな穏やかな深夜を迎えられるとは思わなかった。重箱の料理を二人で綺麗に食べ尽くし、俺たちはまた眠りについた。そして……。


「………雪柳!! 雪柳!! 起きて」
 うるさいな。もうすこし寝かせてくれよ。
「雪柳! 早く起きないと大変なことになるよ!」
 ……なんだ? 
 はっと目を開けた。目の前には……秋櫻の顔があった。さああああっと顔から血の気が引く。はねるように飛び起きた。反動で秋櫻の顔にぶつかりそうになる。
「しゅしゅしゅ秋櫻!? なんでここに!」
「それは僕の台詞だよ! なんで雪柳が皐月兄さんの部屋にいるの!」
「あ、え。それは…………。えっと、真波さんは?」
 さっきとおなじ皐月の部屋だが、真波さんの姿はない。
「バカ! さっきお帰りになったよ! 男妓がお客をひとりで帰してどうするの!」
 …………やべえ、ガチで怒ってる!
「……真波さん、何か言ってた?」
 恐る恐る聞くと、秋櫻は唇を尖らせて言った。
「……皐月は寝てるから、起こさないでやってくれって。でも随分遅いし、様子見に来たら雪柳なんだもん。僕意味が分からなくて」
「……ごめん」
「そもそも雪柳もさ!! 昨日いきなりいなくなっちゃうんだもん。ちょっとしばらく離れるけど、戻ってくるから安心して、なんて言ってさ。ちょっとじゃなかったじゃん。僕がどれだけ心配したと思ってるの! それにめちゃめちゃ忙しかったんだからね!!!!」
 やっぱり怒ってる! それはそうだろう。
「ほんとごめん。俺がいないこと、皆にばれてた?」
 すると秋櫻はむっとした表情で、首を横にふった。
「……ばれてるけど、怪しまれてはいない」
 その回答にほっとする。でもそんなことできるのか……。
「最近、何か悩んでたでしょ。昨日も思い詰めた顔してたし、何かあるのかなと思って。君がいなくなるなんておかしいけど、安心してって言ってたから、頑張ってごまかした」
 ……思わず感動してしまった。
「どうやってごまかしたの?」
「聞かれたときに、雪柳、おなかが痛いって便所に籠もってましたって言ったの。僕が二倍働くから、雪柳を休ませてあげてほしいって。そしたら見逃してもらえた。多分皆バタバタしてたし、それどころじゃなかったってのもあるんだろうけど」
 ……なんて子だ!! 俺はさらに感動して、秋櫻の手を取って両手で挟み込んだ。
「ありがとう! 君は恩人だ」
 すると秋櫻は唇を尖らせて俺を見た。
「それはいいけど、何が起きたか話してよ。何で程将軍は君を皐月兄さんだって言ったの? 程将軍と……寝たの?」
「寝たよ……。でも、それはほんと、文字通りの意味で」
 俺は観念して、昨日のことをほぼすべて秋櫻に伝えた。秋櫻は大きな目をいっぱいに広げて話を聞いていたが、聞き終わると、はあ、とため息をついた。
「……なんで。言ってくれなかったの?」
「……それは。……上手くいくとは思えなくて」
 すると秋櫻はきっと大きな目を吊り上げて俺を見た。
「雪柳、本当にものすごく危険だったって、わかってる?  男妓の脱走は妓楼では大罪だ。手を貸すことだって重罪だよ。天佑さんは折檻とかはしないと思いたいけど……他の妓楼ではそういう話もよく聞くし」
「……ごめん」
 返す言葉もない。俯くと、秋櫻は「あーもう!」と怒ったように言った。
「とにかく、程将軍は君が雪柳と知って見逃してくれたんだね?」
 うん、と頷くと、秋櫻の目が柔らかくなった。
「本当に、本当に、運が良かったね。じゃあ、その髪を解いて。服も着替えて早く部屋に戻ろう。もうじきみんな起きてきちゃうから。はやく」
 そうして俺は秋櫻の手を借りて複雑な結い上げを解き、服を畳んで布団に置いて、部屋を脱出したのだった。

 とはいえ、皐月の不在はすぐにばれるだろう。そこで初めて彼の脱走が明るみになる。
 そもそも何故彼は花祭りの夜の前に脱走しようとしたのか。それはゲームのシナリオだからだ、と考えるのは簡単だけれど、もしかして最後まで迷っていたからかもしれない。しかしあのスチルはもう使えなくなったから、悲劇は回避されたと信じたい。
 彼はきっと好きな人と、いまごろ新天地で自由を手に入れていることだろう。籠の中の小鳥は、大空に飛び立ったのだ。
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