不思議な爺さんとしがない会社員~妄想が現実になる

なんぷぅ

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第3章 最初の五時間

第3章 最初の5時間

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職場には、ひとりだけ例外がいる。
社内結婚している上司、係長。

収は、その男に目をつけた。
一番現実的で、一番距離が近い。

トイレで手に入れたドリンクを、カバンの奥で確かめる。
効果は五時間。
今飲んでも無駄だ。

その日は、何事もない顔で仕事を終える。
定時。
係長夫妻が、並んで駐車場へ向かうのを、少し離れて見送る。

車に乗り込む直前。
収はドリンクを開け、一気に飲み干した。

すると、鈴木収の体は係長の体に吸い込まれていった。
そして帰宅


里美は、エプロンをつけ台所へ向かう
エプロン姿の上司――**里美(さとみ)**が、台所で夕飯の準備をしている。

後ろ姿。
包丁の音。
いつもの職場とは、まるで違う距離。
時間もないチャンスは今だと思い
収は、言葉もなく近づき、ズボンとパンツをおろし里美に襲いかかり
抑えきれなかった衝動に身を任せた。

普段、絶対に呼び捨てにできない名前を、
思わず口にしてしまう。
「里美~~」そう叫びガムシャラに動いた
ことが終わった
里美は力が抜けたように、その場に座り込んだ。

――やばいことをした。

心臓がうるさい。
頭の中が一気に冷える。

だが、里美はゆっくり立ち上がり、
少し照れたように笑った。

「もう……夕飯準備中だったのに」
「でも、久しぶりに、興奮したわ」

そう言って、
“旦那の姿をした収”に抱きつき、軽くキスをする。

「続きを――」

そう言いかけた里美を、収はそっと引き離した。

「……運動したから、お腹空いたよ」
「夕飯、夕飯」

「もう~、いじわるなんだから」
「あとで、ね」

何も疑わず、里美は再び台所へ戻る。

時計を見る。
そろそろ、五時間が切れる。

「夜の続きのためにさ」
「栄養ドリンク、コンビニ行ってくる」

そう言って、収は玄関を開けた。

外に一歩出た瞬間、
頭の奥が、ぎゅっと引き戻される。

――切れた。

視界が揺れて、
次の瞬間、玄関の前に二人が立っていた。

収と、係長。

係長は一瞬、状況が飲み込めない様子で周りを見回し、
それから収に気づく。

「……あれ?」
「鈴木?」

収の心臓が跳ねる。

係長は首をかしげながら、
何事もなかったように玄関を開けた。

「ただいまー」

中から里美の声。

「おかえりなさい。あれ?
ドリンクは?」

係長は靴を脱ぎながら、きょとんとする。

「……ドリンク?」
「何のことだ?」

その会話が、玄関の外まで聞こえた。

収の背中に、ぞわっと寒気が走る。

――覚えてない。

係長は何も疑わず、
そのまま家の中へ消えていく。

ドアが閉まる。

収は、もう一秒もそこにいられなかった。

「……やばい」

そう呟いて、
振り返り、全力で走り出す。

息が切れる。
頭が追いつかない。

今のは現実だったのか。
何が起きたのか。
どこまでが本当なのか。

分からないまま、
収はただ、自分の家へ向かって走り続けた。



次の日の朝。
収は、いつもより少し早く出社した。

頭が重い。
昨夜のことが、夢だったのか現実だったのか、
まだ整理がつかない。

席についてしばらくすると、
少し離れたところから、女たちの笑い声が聞こえてきた。

声の中心にいるのは、里美だ。

「ねぇ、聞いてよ、昨日彼とさぁ~」

その一言で、収の心臓が跳ねた。

資料に目を落としたまま、
ペンを動かすふりをして、耳だけをそばだてる。

「もう、ほんと意味わかんないんだけど」

周りの女性社員が、くすくす笑う。

「そういう最中の時はさ、
里美大好き、とか言ってくれるのに」

収の指が、ぴたりと止まる。

「急に、
里美~、里美~、バカヤロー、とか言ってくるの」

「え、なにそれ~」

「ひどくなーい?」

里美は笑いながら、でも少し頬を膨らませている。

「それにさ、
なんか、いつもよりがさつでさぁ~」

その言葉に、収の背中を冷たい汗が流れた。

周りの女性社員たちは、
「男なんてそんなもんだよ~」
「疲れてたんじゃない?」
なんて、軽い調子で返している。

里美は、首をかしげながら言った。

「でもさ、不思議なんだよね」
「途中で、急に別人みたいになる感じ」

その瞬間、
収は、喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。

――やっぱり、現実だった。

誰にも気づかれていない。
証拠もない。
でも、自分だけは知っている。

収は、何事もなかったように、
再びペンを動かし始めた。

ドキドキが、なかなか収まらない。

そして、カバンの奥に入っている
残りのドリンクの重さを、
はっきりと意識していた。

「でもさぁ……ちょっと昨日、危険日だったのに」

里美の声が、ひそひそと、それでいて妙にはっきり耳に届く。

「彼、ゴムつけてなくて~」
「……でも、二回目はつけてくれたの」
「だけど、やばいかも~」

周りの女性社員が、
「えー」「それ大丈夫?」と騒ぐ声。

収の頭が、真っ白になる。

ペンを握る手が震え、
椅子の背もたれが、やけに硬く感じた。

――やばい。

これ以上、その場にいられなかった。

収は立ち上がり、
誰にも声をかけず、足早にトイレへ向かった。



個室に入り、便座に座り込む。

ドアを閉めた瞬間、
張り詰めていたものが一気に落ちてきた。

「……やっぱり」

あの薬は、本物だった。
夢でも、妄想でもない。

頭の中で、昨日の光景と、
今朝の里美の言葉が、何度も反芻される。

――もし、もしも。

そこまで考えて、
収は強く首を振った。

そのとき、トイレの扉が開く音がした。

足音。
ゆっくりした、覚えのある歩き方。

「ふぉっふぉっふぉっ」
「ちょっとは、元気出たかの~」

背筋が、ぞくりとした。

――あの爺さんだ。

収は、勢いよく個室の扉を開けた。

しかし。

そこには、誰もいない。
清掃道具も、足音も、気配もない。

「……あれ?」

さっきまで、確かに声がした。

収は、しばらく周囲を見回してから、
自分の頬をつねった。

「……痛っ」

はっきりとした痛み。

夢じゃない。
少なくとも、今は。

収は、個室に戻り、
深く息を吐いた。

胸の奥で、
不安と、恐怖と、
それでも消えない高揚が、
ぐちゃぐちゃに絡まっていた。

そして、
カバンの中に残っているドリンクの数を、
また一つ、意識してしまう。

それからも、日常は何事もなかったように続いた。
相変わらず、収はいびられ、雑用を振られ、見下される。

違うのは、里美だった。

体調不良での欠勤が、ぽつぽつと増えた。
出勤してきても、顔色が悪く、
しばらくすると気持ち悪そうにトイレへ駆け込む。

その後ろ姿を、収は何度も目で追ってしまう。

休憩時間。
コピー機の近くで、係長――里美の旦那が、
同僚と小声で話しているのが耳に入った。

「なんかさぁ……」
「あいつ、妊娠したっぽくてさぁ」

収の呼吸が、一瞬止まる。

「俺さ、ちゃんと避妊する派なんだけど」
「……浮気してんじゃないかなぁ」

笑い混じりの声。
でも、冗談にしきれない温度。

周りの同僚は、
「え、マジ?」
「それ、修羅場じゃん」
なんて軽く返している。

収は、耐えきれず席を立った。



トイレに逃げ込み、
個室のドアを閉め、深く息を吐く。

――やめろ。
――考えるな。

そう自分に言い聞かせて、
しばらくしてから洗面所へ向かう。

戻る途中、廊下の角で――
里美と、ぶつかった。

「あっ」

衝撃で、里美がよろける。

次の瞬間、
里美は口元を押さえ、
収のスーツに、少しだけ吐いてしまった。

「……っ、ごめんなさい……!」

さすがにまずいと思ったのか、
里美は慌ててハンカチを差し出す。

「ほんとに、ごめん」

そのとき。

指先が、触れ合った。

ほんの一瞬。
でも、収の背中に、ぞわっとしたものが走る。

里美が、わずかに眉をひそめる。

「あれ……?」
「この感触……」

すぐに、小さく首を振る。

「……んな訳ない」

そう呟いて、
何事もなかったように踵を返し、
職場へ戻っていった。

収は、その場に立ち尽くす。

胸の奥が、妙にざわついている。

――気のせいだ。
――ただの偶然だ。

そう思いながら、
収はトイレへ向かい、
自分のスーツについた吐物を、黙々と拭き取った。

鏡に映る自分の顔は、
青白くて、情けない。

それでも、
指先に残った感触だけが、
なかなか消えなかった。

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