不思議な爺さんとしがない会社員~妄想が現実になる

なんぷぅ

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第4章定年間近の山田

定年間近の山田さん

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それから、数ヶ月が過ぎた。

里美は、産休に入った。
送別の挨拶はあったが、どこか腫れ物に触るような空気で、
誰も深く踏み込まなかった。

係長は、前より無口になった。
何も言わないが、何かを疑っているような、
それでいて確かめる勇気もない、そんな顔をしている。

収はというと、何も変わらない。
相変わらず、いびられ、雑用を押し付けられ、
誰にも必要とされていない感じのまま、日々を過ごしていた。

その日の終業間際。
隣の島から、低い声がかかる。

「鈴木」

顔を上げると、
定年間近で、収と同じように扱われている山田さんだった。

白髪混じりで、背中が少し丸い。
いつも誰にも気づかれないように、静かに働いている人。

「終わったら……飲みに行くか」

誘い方が、不器用だった。
命令でもなく、軽口でもない。

収は、一瞬迷ってから、うなずいた。

「……はい」



仕事終わり、
二人は駅から少し離れた、静かな居酒屋に入った。

カウンターだけの、小さな店。
テレビも音楽も控えめで、
話さなくても気まずくならない空気がある。

生ビールが置かれる。

「……お疲れさん」

山田さんはそう言って、
グラスを軽く持ち上げた。

「お疲れ様です」

乾いた音がして、
二人は黙って一口飲む。

しばらく、会話はない。

「……」

先に口を開いたのは、山田さんだった。

「鈴木はさ」
「……この会社、どう思ってる?」

直球だった。

収は、すぐには答えられず、
泡の消えかけたビールを見つめた。

「……どうって言われても」

「まぁ、そうだよな」

山田さんは苦笑する。

「俺もな、若い頃は、
 ここまで何も言えない人間じゃなかったんだ」

そう言って、
焼き鳥を一本、箸でつまむ。

「でもな」
「言っても、何も変わらなかった」

その言葉が、
妙に重く落ちた。

店の外では、
終電に向かう人たちの足音が、遠くに聞こえている。

収は、ビールをもう一口飲んだ。

胸の奥で、
ずっと押し込んできた何かが、
少しだけ、動いた気がした。

山田さんは、グラスを置いてから、ぽつりと言った。

「俺はさ、ここ……中途採用でな」
「もう、五十過ぎてから入ったんだよ」

収は、意外そうに顔を上げる。

「そうなんですか」

「前の会社、潰れてな」
「再就職も難しくてさ。拾ってもらえただけ、ありがたいと思ってた」

山田さんは、笑っているようで、笑っていない。

「最初の数年はな、
 “年上”ってだけで、それなりに気を遣われてた」

ビールを一口飲む。

「でも、いつの間にかだ」
「邪魔にならない存在、
 使いやすい存在、
 何言っても大丈夫な存在」

その言葉が、収の胸に静かに刺さる。

「……鈴木も、似たようなもんだろ」

収は、否定しなかった。

しばらく沈黙が流れる。
焼き鳥の皿が、いつの間にか空になっていた。

山田さんは、少し声を落とした。

「不思議なことがあってさ」

収は、自然と耳を傾ける。

「この会社、
 トイレ掃除の爺さん、いるだろ」

収の背中が、ぴくりとした。

「……いますね」

「だよな」
「でもさ」

山田さんは、指でグラスの縁をなぞりながら言う。

「俺、ここに来てからもう十年以上経つんだ」
「なのに、あの爺さん」

一拍置いて、続ける。

「見た目が、まったく変わらないんだよ」

店のざわめきが、少し遠のいた気がした。

「白髪の量も」
「背中の曲がり具合も」
「声も、笑い方も」

「……ずっと、同じ」

山田さんは、冗談めかすでもなく、
ただ事実を確認するみたいに言った。

「最初はさ、
 俺の記憶違いかと思ったんだけどな」

「でも、ある時ふと気づいてさ」

「……あれ?」
「十年前と、まんま一緒じゃねぇか、って」

収は、喉が渇くのを感じた。

あの声。
あの笑い方。

――ふぉっふぉっふぉっ。

「鈴木」

山田さんが、ちらっと収を見る。

「お前さ」
「……あの爺さんと、話したことあるか?」

収は、答えられなかった。

グラスの中の氷が、
かすかに音を立てて溶けていく。

店の外では、
夜が、静かに深まっていた。

居酒屋の時計が、閉店の時間を告げた。
店主が気まずそうにラストオーダーを下げ、
客たちがぽつぽつと席を立ち始める。

そのときだ。

奥の方から、
酔っ払いの、調子外れな歌声が聞こえてきた。

「だんじょうやくー♪
 あと、よんほんじゃー♪
 よんほん、つかいきらないとー♪
 ごじかんのー、やくそくを、らやぶると~♪」

不意に、
喉の奥がひゅっと鳴った。

「ふぉっふぉっふぉっ~」

笑い声。

山田さんと収は、同時に立ち上がった。
顔を見合わせることもなく、
そのまま店の外へ出る。

夜風が、思ったより冷たい。

通りを見渡す。
路地の奥。
角。
看板の陰。

――誰も、いない。

さっきまで確かにあったはずの気配が、
きれいさっぱり消えている。

「……今の、聞こえたよな」

山田さんが、低い声で言った。

収は、うなずくことしかできなかった。

遠くで、終電の音。
街は、いつも通りの夜だ。

「鈴木」

山田さんが、前を向いたまま言う。

「……使うなら、覚悟しろよ」

何のことか、説明はいらなかった。

二人は、
それぞれ反対方向へ歩き出す。

振り返らなかった。

収のカバンの奥で、
残り四本の重さが、
やけに、はっきりと伝わっていた。

五時間の約束。
破ったら、どうなるのか。

答えは、
もうすぐ、分かる気がした。
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