5 / 9
高飛車上司の高野姫奈
高飛車上司の高野姫奈
しおりを挟む
次の日も、いつも通り始まった。
女性社員たちの声が、朝から飛び交う。
愚痴、惚気、噂話。
収に向けられる指示と、ため息。
中でも、ひときわ声が大きいのが、
高飛車な上司、課長の**高野姫奈(たかの・ひめな)**だった。
「今日さぁ~」
「彼ピがぁ~」
収は、キーボードを叩くふりをしながら、耳を澄ます。
「高級ディナーでさぁ」
「一泊、百万円のとこ!」
周りから、
「えー!」「やば!」「映画みたい!」
と、歓声が上がる。
姫奈は、満足そうに続ける。
「ほんと、男は経済力よね~」
「愛とか言ってもさ、結局お金じゃん?」
誰かが笑う。
誰かが相槌を打つ。
「でさ~、
最近ちょっと冷たいのよね~」
「仕事忙しいとか言ってさ」
収の指が、止まる。
「まぁ、どうせ私から離れられないけど」
そう言って、姫奈は髪をかき上げた。
収の胸の奥で、
昨日の歌声が、ふっと蘇る。
――だんじょうやく。
――あと、よんほん。
カバンの奥。
まだ、二本目は手つかずだ。
五時間。
条件は分かっている。
相手は、いる。
立場も、近さも、十分すぎる。
収は、画面に視線を戻しながら、
それでも、聞き耳を立て続けた。
――今なら。
――今が、一番、自然だ。
高野姫奈の笑い声が、
やけに大きく、耳に残る。
収は、静かに息を吐いた。
二本目を使うなら、今だ。
その決断が、
どこへ連れていくのかも知らないまま。
退社時刻。
フロアの明かりが一つ、また一つと落ちていく中、
収は会社の玄関付近、柱の影に身を潜めていた。
心臓の音が、やけにうるさい。
しばらくして、
ヒールの音が近づいてくる。
――高野姫奈だ。
スマホを見ながら、余裕たっぷりの足取りで玄関を出る。
香水の匂いが、ふっと流れてきた。
数秒遅れて、
外から背の高い男が近づいてくる。
モデルみたいな体型。
スーツの着こなしも自然で、
どう見ても“選ばれる側”の男だった。
姫奈は男に気づくと、軽く手を振る。
「あ、ごめんなさい」
少し困ったように笑って言う。
「職場に忘れ物しちゃって」
「すぐ取ってくる」
そう言って、
再びビルの中へ戻り、
エレベーターに乗り込んでいった。
扉が閉まる。
――今だ。
収は、自然を装って歩き出す。
すれ違いざま、
ポケットの中の二本目を取り出し、
一気に飲み干した。
喉を通る感覚は、一瞬。
次の瞬間――
視界が、ぐらりと歪む。
身体が、前へ引っ張られる。
抗う暇もなく、
目の前に立っていた姫奈の彼氏の身体に、ずるりと吸い込まれていく。
音が消える。
重さが変わる。
足元が、やけに安定している。
見下ろすと、
長い脚。
高い視線。
――入った。
胸の奥で、
恐怖と高揚が、同時に跳ね上がった。
遠くで、
エレベーターの到着を知らせる音が鳴る。
五時間。
もう、カウントは始まっている。
収は、
“姫奈の彼氏の身体”で、
静かに息を整えた。
次に、姫奈が出てくる。
この五時間が、
何を壊すのかも知らないまま。
高級ホテルに入り、受付でスウィートルームの予約を確認する。
そのままホテル一階のレストランで、姫奈とディナーを楽しむ。
料理は次々と運ばれてくるが、
収には正直、味なんてほとんど分からなかった。
高飛車な姫奈が、
職場では想像もできないような甘えた声で話し、
上目遣いでこちらを見る。
それだけで、収の胸は落ち着かなかった。
食事を終え、二人でエレベーターに乗る。
スウィートルームの扉の前に着くと、
収は姫奈を先に部屋へ入らせた。
その後ろ姿を見た瞬間、
収はごくりと唾を飲み込む。
――里美の時と、同じだ。
ズボンとパンツを即座におろし。
収は、姫奈に後ろから襲いかかる。
少し驚いた様子だったが抵抗はなく
逆にキャッキャッと喜んでいる
しばらくして、事が終わる。
姫奈は、里美の時と同じように一度膝から崩れ落ちるが、
すぐに立ち上がり、
彼氏に乗り移った収の方を見た。
その表情を見て、
収は「いつもの、怒った時の姫奈だ」と思い、
これはやばい、と身構える。
だが次の瞬間、
姫奈の顔は、ふにゃっと甘く崩れた。
「もう~、そんなにしたかったの~」
「デザート好きじゃないって言ってたくせに~」
「私を食べたかったの~」
そう言って、甘えるように寄ってくる。
収は胸が高鳴り、腰が砕けそうになるのを必死にこらえた。
どうにか平静を装い、姫奈に言う。
「シャワー浴びてきなよ。
綺麗な姫奈と、もっとしたいな」
すると姫奈は、照れたように笑って答える。
「もう~、やだ~。
今夜は、寝かせてあげな~い」
そう言うと、姫奈はその場で服を脱ぎ始めた。
その光景を、ずっと見ていたかった。
だが、薬の効き目がそろそろ切れることが、収には分かっていた。
「……あ、ごめん」
「職場に大事な電話するの、忘れてたわ」
「機密情報だからさ、ちょっと下行ってくる」
そう言って、収は部屋を出る。
廊下に出た、その瞬間――
薬の効き目が切れた。
スウィートルームの前に、
姫奈の彼氏が、不思議そうな顔で立っている。
「あれ?」
「もう、部屋の前?」
収の存在には、気づいていないようだった。
収は、答えず、
そのまま足早にその場を立ち去った。
ホテルを出た瞬間、
収は胸の鼓動がうるさく、今にも腰が砕けそうだった。
だが、
「明日も仕事だ」という現実が、急に頭をよぎる。
一気に引き戻され、
収はそのまま家へ帰った。
翌日、出社。
相変わらず、フロアには女性社員たちの声が飛び交っている。
愚痴や噂話、惚気話。
収にとっては、いつもの朝だ。
その中でも、ひときわ大きく響く声がある。
高飛車な課長、姫奈だ。
「聞いて~~、昨日さぁ、彼ピッピが~」
その一言で、
収の胸が、きゅっと縮む。
資料を見るふりをしながら、
自然と耳がそちらに向く。
「スウィートルーム入るなりさ、
もう、いきなりデザートに私を食べたの~」
周りから、
「キャー」「なにそれ~」
と、笑い声が上がる。
姫奈は満足そうに続ける。
惚気話はしばらく続き、
だが、ふとトーンが落ちる。
「でもさぁ……」
「多分、ゴムなかったと思うか、
途中で破れたかなんだよね~」
「それにさぁ、ちょっとガサツで気持ち良くなかったぁ。その後はいつもの彼ピで最高だった~」
その瞬間、
収の頭の中が真っ白になる。
笑い声が、遠くなる。
これ以上、その場にいられなかった。
収は、いつものように席を立ち、
足早にトイレへ向かった。
トイレに駆け込む。
個室に入り、鍵をかけた瞬間、
収は壁にもたれかかるようにして息を吐いた。
――まただ。
――同じ流れ。
便座に座り、頭を抱える。
姫奈の声。
「ゴムなかったかも」
その一言が、何度も脳内で反響する。
「……やばいだろ……」
呟いた、その時。
トイレの入口側から、
ゆっくりした足音が聞こえた。
モップの音。
水を絞る音。
「ふぉっふぉっふぉっ……」
背筋が凍る。
「相変わらず、落ち着かんのう」
その声。
間違いない。
あの爺さんだ。
収は、個室の中で身を固くする。
「二本、使ったのう」
「まだ、四本ある」
爺さんの声は、
まるで、カバンの中を見ているかのようだった。
「便利じゃろ」
「現実を、少しだけ、楽にできる」
収は、思わず叫ぶ。
「……あんた、何者なんだよ!」
返事は、すぐには来なかった。
代わりに、
モップが床を滑る音が、近づいてくる。
「約束は、五時間」
「それと~なんじゃったかな、とにかく正しく使えばただの薬じゃ」
一拍置いて、
声が、少しだけ低くなる。
「破るときはな……」
そこで、言葉が途切れる。
収は、耐えきれず、
勢いよく個室の扉を開けた。
――誰も、いない。
トイレは、いつも通り。
清掃用具も、爺さんも、影すらない。
「……また、かよ」
鏡の前に立ち、
自分の顔を見る。
青白い。
目の奥だけが、妙に冴えている。
そのとき、
洗面台の端に、見覚えのあるものが置いてあった。
空になったドリンク瓶。
一本目でも、二本目でもない。
――三本目。
収の喉が、ごくりと鳴った。
「……考えろ」
そう呟きながらも、
手は、ゆっくりと、その瓶に伸びていた。
それから、数週間が経った。
出社すると、
相変わらずフロアには女性社員たちの声が飛び交っている。
収も、いつも通り席について、いつも通り雑用を振られる。
変わったのは――
高野姫奈だった。
最初は、早退が増えた。
「ちょっと気分悪くて」
「頭痛がひどくて」
そんな理由で、午後になると姿が消える。
次は、欠勤。
ぽつぽつと、
そして、だんだん間隔が短くなっていく。
出社してきても、顔色が悪い。
化粧で隠しているが、目の下が青い。
会議中、急に口元を押さえて席を立つ。
トイレへ駆け込む背中。
「最近どうしたの?」
「疲れてるんじゃない?」
周りは、そんな軽い調子だ。
姫奈は笑って誤魔化す。
「ちょっと、夏バテかな~」
「年かな~、やだやだ」
でも、その声に、
いつもの余裕はなかった。
収は、キーボードを打つふりをしながら、
何度も時計を見る。
――まただ。
里美の時と、同じ流れ。
同じ兆し。
昼休み、給湯室で、
女性社員たちのひそひそ声が聞こえてくる。
「姫奈課長、最近やばくない?」
「トイレ行きすぎじゃない?」
「もしかして……」
言葉は、最後まで出ない。
でも、全員が同じことを思っている空気。
収の喉が、静かに鳴る。
カバンの奥には、
まだ、残りのドリンクがある。
――使えば、何とかなる。
――使わなければ、もっと悪くなる。
そんな考えが、
頭の中を行ったり来たりする。
その日の夕方。
姫奈は、また早退した。
デスクの上に残されたバッグが、
妙に軽く見えた。
収は、
その席を、ほんの一瞬だけ見つめてから、
何事もなかったように視線を戻した。
現実は、
確実に、追いついてきていた。
退社後。
収は、いつもの帰宅路を歩いていた。
街灯の明かり。
人通りは少なく、会社のざわめきも、もう届かない。
そのとき、前方から二人組の男が歩いてくるのが見えた。
声が、風に乗って聞こえてくる。
――あれ?
歩調を落とした瞬間、
胸の奥が、嫌な音を立てた。
姫奈の、彼氏だ。
隣にいるのは、同僚らしき男。
仕事帰りの、何でもない会話の延長みたいな口調。
「……でさ」
「彼女に、妊娠したって言われてさ」
収の足が、止まりそうになる。
「え、マジで?」
「お前、ちゃんとしてる派だろ?」
「だろ?」
「だから意味わかんねぇんだよ」
笑い混じりだが、
声の奥は、乾いている。
「思い返してみてもさ」
「あの時、急に後ろから襲ってきたとか」
「……なんつーか、変だったんだよ」
「は?」
「いや、ほら」
「いつもと違うっていうか」
「説明できねぇんだけどさ」
二人は、まだこちらに気づいていない。
「正直さ」
「浮気でもしてんじゃねぇかって、思っちまうよな」
その言葉が、
収の胸を、直撃した。
――やめろ。
――聞くな。
足が、勝手に後ろへ下がる。
次の瞬間、
収は踵を返して走り出していた。
息が荒れる。
視界が揺れる。
背後の声が、遠ざかっていく。
――俺のせいだ。
――全部。
そう思った瞬間、
胃の奥が、ぎゅっと縮む。
角を曲がり、
人目のない路地に入っても、
足は止まらなかった。
逃げるみたいに、
ただ、前へ。
現実が、
音を立てて追いかけてきている。
収は、
それから目を逸らすことしかできなかった。
女性社員たちの声が、朝から飛び交う。
愚痴、惚気、噂話。
収に向けられる指示と、ため息。
中でも、ひときわ声が大きいのが、
高飛車な上司、課長の**高野姫奈(たかの・ひめな)**だった。
「今日さぁ~」
「彼ピがぁ~」
収は、キーボードを叩くふりをしながら、耳を澄ます。
「高級ディナーでさぁ」
「一泊、百万円のとこ!」
周りから、
「えー!」「やば!」「映画みたい!」
と、歓声が上がる。
姫奈は、満足そうに続ける。
「ほんと、男は経済力よね~」
「愛とか言ってもさ、結局お金じゃん?」
誰かが笑う。
誰かが相槌を打つ。
「でさ~、
最近ちょっと冷たいのよね~」
「仕事忙しいとか言ってさ」
収の指が、止まる。
「まぁ、どうせ私から離れられないけど」
そう言って、姫奈は髪をかき上げた。
収の胸の奥で、
昨日の歌声が、ふっと蘇る。
――だんじょうやく。
――あと、よんほん。
カバンの奥。
まだ、二本目は手つかずだ。
五時間。
条件は分かっている。
相手は、いる。
立場も、近さも、十分すぎる。
収は、画面に視線を戻しながら、
それでも、聞き耳を立て続けた。
――今なら。
――今が、一番、自然だ。
高野姫奈の笑い声が、
やけに大きく、耳に残る。
収は、静かに息を吐いた。
二本目を使うなら、今だ。
その決断が、
どこへ連れていくのかも知らないまま。
退社時刻。
フロアの明かりが一つ、また一つと落ちていく中、
収は会社の玄関付近、柱の影に身を潜めていた。
心臓の音が、やけにうるさい。
しばらくして、
ヒールの音が近づいてくる。
――高野姫奈だ。
スマホを見ながら、余裕たっぷりの足取りで玄関を出る。
香水の匂いが、ふっと流れてきた。
数秒遅れて、
外から背の高い男が近づいてくる。
モデルみたいな体型。
スーツの着こなしも自然で、
どう見ても“選ばれる側”の男だった。
姫奈は男に気づくと、軽く手を振る。
「あ、ごめんなさい」
少し困ったように笑って言う。
「職場に忘れ物しちゃって」
「すぐ取ってくる」
そう言って、
再びビルの中へ戻り、
エレベーターに乗り込んでいった。
扉が閉まる。
――今だ。
収は、自然を装って歩き出す。
すれ違いざま、
ポケットの中の二本目を取り出し、
一気に飲み干した。
喉を通る感覚は、一瞬。
次の瞬間――
視界が、ぐらりと歪む。
身体が、前へ引っ張られる。
抗う暇もなく、
目の前に立っていた姫奈の彼氏の身体に、ずるりと吸い込まれていく。
音が消える。
重さが変わる。
足元が、やけに安定している。
見下ろすと、
長い脚。
高い視線。
――入った。
胸の奥で、
恐怖と高揚が、同時に跳ね上がった。
遠くで、
エレベーターの到着を知らせる音が鳴る。
五時間。
もう、カウントは始まっている。
収は、
“姫奈の彼氏の身体”で、
静かに息を整えた。
次に、姫奈が出てくる。
この五時間が、
何を壊すのかも知らないまま。
高級ホテルに入り、受付でスウィートルームの予約を確認する。
そのままホテル一階のレストランで、姫奈とディナーを楽しむ。
料理は次々と運ばれてくるが、
収には正直、味なんてほとんど分からなかった。
高飛車な姫奈が、
職場では想像もできないような甘えた声で話し、
上目遣いでこちらを見る。
それだけで、収の胸は落ち着かなかった。
食事を終え、二人でエレベーターに乗る。
スウィートルームの扉の前に着くと、
収は姫奈を先に部屋へ入らせた。
その後ろ姿を見た瞬間、
収はごくりと唾を飲み込む。
――里美の時と、同じだ。
ズボンとパンツを即座におろし。
収は、姫奈に後ろから襲いかかる。
少し驚いた様子だったが抵抗はなく
逆にキャッキャッと喜んでいる
しばらくして、事が終わる。
姫奈は、里美の時と同じように一度膝から崩れ落ちるが、
すぐに立ち上がり、
彼氏に乗り移った収の方を見た。
その表情を見て、
収は「いつもの、怒った時の姫奈だ」と思い、
これはやばい、と身構える。
だが次の瞬間、
姫奈の顔は、ふにゃっと甘く崩れた。
「もう~、そんなにしたかったの~」
「デザート好きじゃないって言ってたくせに~」
「私を食べたかったの~」
そう言って、甘えるように寄ってくる。
収は胸が高鳴り、腰が砕けそうになるのを必死にこらえた。
どうにか平静を装い、姫奈に言う。
「シャワー浴びてきなよ。
綺麗な姫奈と、もっとしたいな」
すると姫奈は、照れたように笑って答える。
「もう~、やだ~。
今夜は、寝かせてあげな~い」
そう言うと、姫奈はその場で服を脱ぎ始めた。
その光景を、ずっと見ていたかった。
だが、薬の効き目がそろそろ切れることが、収には分かっていた。
「……あ、ごめん」
「職場に大事な電話するの、忘れてたわ」
「機密情報だからさ、ちょっと下行ってくる」
そう言って、収は部屋を出る。
廊下に出た、その瞬間――
薬の効き目が切れた。
スウィートルームの前に、
姫奈の彼氏が、不思議そうな顔で立っている。
「あれ?」
「もう、部屋の前?」
収の存在には、気づいていないようだった。
収は、答えず、
そのまま足早にその場を立ち去った。
ホテルを出た瞬間、
収は胸の鼓動がうるさく、今にも腰が砕けそうだった。
だが、
「明日も仕事だ」という現実が、急に頭をよぎる。
一気に引き戻され、
収はそのまま家へ帰った。
翌日、出社。
相変わらず、フロアには女性社員たちの声が飛び交っている。
愚痴や噂話、惚気話。
収にとっては、いつもの朝だ。
その中でも、ひときわ大きく響く声がある。
高飛車な課長、姫奈だ。
「聞いて~~、昨日さぁ、彼ピッピが~」
その一言で、
収の胸が、きゅっと縮む。
資料を見るふりをしながら、
自然と耳がそちらに向く。
「スウィートルーム入るなりさ、
もう、いきなりデザートに私を食べたの~」
周りから、
「キャー」「なにそれ~」
と、笑い声が上がる。
姫奈は満足そうに続ける。
惚気話はしばらく続き、
だが、ふとトーンが落ちる。
「でもさぁ……」
「多分、ゴムなかったと思うか、
途中で破れたかなんだよね~」
「それにさぁ、ちょっとガサツで気持ち良くなかったぁ。その後はいつもの彼ピで最高だった~」
その瞬間、
収の頭の中が真っ白になる。
笑い声が、遠くなる。
これ以上、その場にいられなかった。
収は、いつものように席を立ち、
足早にトイレへ向かった。
トイレに駆け込む。
個室に入り、鍵をかけた瞬間、
収は壁にもたれかかるようにして息を吐いた。
――まただ。
――同じ流れ。
便座に座り、頭を抱える。
姫奈の声。
「ゴムなかったかも」
その一言が、何度も脳内で反響する。
「……やばいだろ……」
呟いた、その時。
トイレの入口側から、
ゆっくりした足音が聞こえた。
モップの音。
水を絞る音。
「ふぉっふぉっふぉっ……」
背筋が凍る。
「相変わらず、落ち着かんのう」
その声。
間違いない。
あの爺さんだ。
収は、個室の中で身を固くする。
「二本、使ったのう」
「まだ、四本ある」
爺さんの声は、
まるで、カバンの中を見ているかのようだった。
「便利じゃろ」
「現実を、少しだけ、楽にできる」
収は、思わず叫ぶ。
「……あんた、何者なんだよ!」
返事は、すぐには来なかった。
代わりに、
モップが床を滑る音が、近づいてくる。
「約束は、五時間」
「それと~なんじゃったかな、とにかく正しく使えばただの薬じゃ」
一拍置いて、
声が、少しだけ低くなる。
「破るときはな……」
そこで、言葉が途切れる。
収は、耐えきれず、
勢いよく個室の扉を開けた。
――誰も、いない。
トイレは、いつも通り。
清掃用具も、爺さんも、影すらない。
「……また、かよ」
鏡の前に立ち、
自分の顔を見る。
青白い。
目の奥だけが、妙に冴えている。
そのとき、
洗面台の端に、見覚えのあるものが置いてあった。
空になったドリンク瓶。
一本目でも、二本目でもない。
――三本目。
収の喉が、ごくりと鳴った。
「……考えろ」
そう呟きながらも、
手は、ゆっくりと、その瓶に伸びていた。
それから、数週間が経った。
出社すると、
相変わらずフロアには女性社員たちの声が飛び交っている。
収も、いつも通り席について、いつも通り雑用を振られる。
変わったのは――
高野姫奈だった。
最初は、早退が増えた。
「ちょっと気分悪くて」
「頭痛がひどくて」
そんな理由で、午後になると姿が消える。
次は、欠勤。
ぽつぽつと、
そして、だんだん間隔が短くなっていく。
出社してきても、顔色が悪い。
化粧で隠しているが、目の下が青い。
会議中、急に口元を押さえて席を立つ。
トイレへ駆け込む背中。
「最近どうしたの?」
「疲れてるんじゃない?」
周りは、そんな軽い調子だ。
姫奈は笑って誤魔化す。
「ちょっと、夏バテかな~」
「年かな~、やだやだ」
でも、その声に、
いつもの余裕はなかった。
収は、キーボードを打つふりをしながら、
何度も時計を見る。
――まただ。
里美の時と、同じ流れ。
同じ兆し。
昼休み、給湯室で、
女性社員たちのひそひそ声が聞こえてくる。
「姫奈課長、最近やばくない?」
「トイレ行きすぎじゃない?」
「もしかして……」
言葉は、最後まで出ない。
でも、全員が同じことを思っている空気。
収の喉が、静かに鳴る。
カバンの奥には、
まだ、残りのドリンクがある。
――使えば、何とかなる。
――使わなければ、もっと悪くなる。
そんな考えが、
頭の中を行ったり来たりする。
その日の夕方。
姫奈は、また早退した。
デスクの上に残されたバッグが、
妙に軽く見えた。
収は、
その席を、ほんの一瞬だけ見つめてから、
何事もなかったように視線を戻した。
現実は、
確実に、追いついてきていた。
退社後。
収は、いつもの帰宅路を歩いていた。
街灯の明かり。
人通りは少なく、会社のざわめきも、もう届かない。
そのとき、前方から二人組の男が歩いてくるのが見えた。
声が、風に乗って聞こえてくる。
――あれ?
歩調を落とした瞬間、
胸の奥が、嫌な音を立てた。
姫奈の、彼氏だ。
隣にいるのは、同僚らしき男。
仕事帰りの、何でもない会話の延長みたいな口調。
「……でさ」
「彼女に、妊娠したって言われてさ」
収の足が、止まりそうになる。
「え、マジで?」
「お前、ちゃんとしてる派だろ?」
「だろ?」
「だから意味わかんねぇんだよ」
笑い混じりだが、
声の奥は、乾いている。
「思い返してみてもさ」
「あの時、急に後ろから襲ってきたとか」
「……なんつーか、変だったんだよ」
「は?」
「いや、ほら」
「いつもと違うっていうか」
「説明できねぇんだけどさ」
二人は、まだこちらに気づいていない。
「正直さ」
「浮気でもしてんじゃねぇかって、思っちまうよな」
その言葉が、
収の胸を、直撃した。
――やめろ。
――聞くな。
足が、勝手に後ろへ下がる。
次の瞬間、
収は踵を返して走り出していた。
息が荒れる。
視界が揺れる。
背後の声が、遠ざかっていく。
――俺のせいだ。
――全部。
そう思った瞬間、
胃の奥が、ぎゅっと縮む。
角を曲がり、
人目のない路地に入っても、
足は止まらなかった。
逃げるみたいに、
ただ、前へ。
現実が、
音を立てて追いかけてきている。
収は、
それから目を逸らすことしかできなかった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
春に狂(くる)う
転生新語
恋愛
先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/
カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる