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部長の野中愛
部長の野中愛
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二人の上司がいなくなり、
職場は確かに静かになった。
だが、それは一時的なものだった。
一番露骨に、
一番執拗に、
見た目をいじり、パシリにし、雑に扱ってきたのは、
部長の**野中 愛(のなか・あい)**だ。
誰が見ていようと関係ない。
命令口調で呼びつけ、
「それ、今すぐ」
「鈴木でいいでしょ?」
と、当たり前のように使う。
――ただし。
社長夫人が職場に顔を出している時だけは、
野中は、驚くほど静かになる。
声を張らない。
無駄に命令しない。
収のことも、視界に入らないかのように扱う。
まるで、
「ここでは自分は脇役だ」と分かっているみたいに。
野中は、
自分の立場がバレていないと思っている。
だが、社内のほとんどは知っている。
――社長の愛人だ、ということを。
だから、社長夫人がいる時は出しゃばらない。
だから、その場ではおとなしくしている。
社長夫人が帰った瞬間、
また元に戻る。
ヒールの音と一緒に、
命令と、いじりと、視線が戻ってくる。
収は、
その切り替えを、毎日見ていた。
静かな時間と、
理不尽な時間。
どちらも同じ職場で起きている。
そして収は、
その様子を眺めながら、
カバンの奥に残っているものの存在を、
はっきりと意識していた。
――懲らしめたい相手は、
もう、決まっている。
その日、珍しく社長が社長室から出てきた。
フロアが、一瞬だけ静まる。
社長は、そのまま部長の野中 愛に近づき、
事務的な口調で言った。
「今度の、三月三日、四日の山梨出張な」
「同行の件、資料まとめておいてくれ」
野中は、少しだけ姿勢を正し、
「分かりました」とだけ答える。
それ以上、言葉は交わされない。
社長は、何事もなかったように踵を返し、
再び社長室へ戻っていった。
ドアが閉まる音。
フロアの空気が、ゆっくり元に戻る。
そのやり取りを、
収は自分の席で聞いていた。
――三月三日、四日。
日付が、頭の中で繰り返される。
収は、迷わなかった。
すぐにパソコンを開き、
有給休暇の申請画面を出す。
三月三日。
三月四日。
理由は「私用」。
送信ボタンを押す。
画面に「申請しました」の文字が出るのを確認してから、
収は、静かに息を吐いた。
偶然じゃない。
でも、必然とも言えない。
ただ、
その日付だけが、
はっきりと意味を持ち始めていた。
カバンの奥に残っているものの存在を、
収は、もう否定しなかった。
里美の旦那である係長も、
いつの間にか、少し変わっていた。
前は、必要なことしか話さない上司だった。
距離を保ち、深入りしないタイプ。
それが、
女性が二人いなくなってからなのか、
それとも、あの一件があってからなのか――
理由は分からない。
だが、今の係長は、妙に気さくだった。
「最近どう?」
「仕事、きつくない?」
そんな言葉を、
部下に普通にかけるようになっている。
収にも、だ。
ある日の昼休み。
係長は、雑談の延長みたいな口調で話しかけてきた。
「そういえばさ」
「三月の山梨出張、もう聞いてる?」
収は、一瞬だけ間を置いてから答える。
「いえ……詳しくは」
「まだ詰めてるとこだけどさ」
「朝は結構早く出るみたいだな」
「現地には昼前には着くって話だ」
まるで、
ただの世間話。
「泊まりは、駅から少し離れたとこらしい」
「静かなとこがいいって、社長が言ってて」
係長は、コーヒーを飲みながら、
何でもないことのように続ける。
収は、頷きながら聞いていた。
――三月三日、四日。
――山梨。
――出発時間。
――宿泊場所。
断片が、
頭の中で、少しずつ形を作っていく。
「有給取るって聞いたけど」
係長が、ふと聞いてきた。
「……はい」
「私用で」
「そうか」
それ以上、踏み込まない。
でも、どこか、確かめるような目。
係長は、軽く笑って言った。
「たまには休まないとな」
その言葉が、
やけに普通で、
やけに重く聞こえた。
収は、
その背中を見送りながら思う。
――知られているのか。
――それとも、ただの偶然か。
答えは分からない。
ただ、
必要な情報は、
もう、十分すぎるほど集まっていた。
三月三日と四日が、
確実に近づいてきていた。
当日。
収は、朝から落ち着かなかった。
もしハズレだったら――
その時は、普通に旅行を楽しめばいい。
そう自分に言い聞かせて、
前から目星をつけていたホテルへ向かった。
観光地らしい、静かな場所。
人の出入りはあるが、騒がしくはない。
収は、ホテルの正面には行かず、
少し離れた場所に身を潜めて様子を見る。
スマホで時間を確認する。
まだ、予定より少し早い。
――違ったら、それでいい。
そう思った、その時だった。
一台のタクシーが、
ホテルの前で止まる。
後部座席のドアが開く。
先に降りてきたのは、
見間違えようのない――社長。
続いて、
ヒールの音を立てて降りてきたのは、
野中 愛、部長だった。
二人は、周囲を気にする様子もなく、
並んでホテルの入口へ向かって歩いていく。
その光景を見た瞬間、
収の胸が、静かに鳴った。
――当たった。
逃げる理由も、
言い訳も、
もう、なかった。
収は、
隠れたまま、その背中を見つめていた。
収は、距離を保ったまま、二人に近づいた。
視線を合わせず、歩調も変えない。
ホテルのロビーに入ると、
社長が野中部長に、短く顎で指示を出した。
野中部長は、
「分かりました」とだけ言って、
そのまま受付へ向かう。
社長は、ロビーの端にある喫煙所へ歩いていった。
ガラス越しに、ライターの火が一瞬光る。
――今だ。
収は、自然な動きで進路を変え、
社長の背後に回り込む。
距離は、ほんの数歩。
喫煙所の中で、
社長は、こちらに背を向けたまま、煙を吐いている。
収は、ポケットの中のドリンクを取り出し、
一息に飲み干した。
次の瞬間を、
もう、引き返すことはできなかった。
社長に乗り移った収は、
吸ったこともないタバコを、すぐに灰皿へ捨てた。
そのまま受付へ向かい、
手続きをしている野中部長に合流する。
二人でエレベーターに乗る。
短い沈黙。
階数表示が、静かに上がっていく。
部屋に着くと、
収は野中部長を先に中へ入れた。
自分は一拍置いてから、後に続く。
ドアが閉まる。
すらっとした、モデルのような後ろ姿。
その背中を見た瞬間、
収はいつもの動きでズボンとパンツを脱ぎ距離を詰めた。
無防備な野中部長の背後から襲いかかる
「ちょっと、社長――」
野中部長は、少しだけ抵抗する。
だが、その力は次第に弱まり、
収も「愛~」と叫びながらガムシャラに動く、そしてことが終わると野中部長は
ゆっくりと膝から崩れ落ちる。
もう三人目だ。
収は、不思議なほど落ち着いて、
その様子を見ていた。
やがて、野中部長は立ち上がり、
社長になった収の顔をまっすぐ見た。
里美や姫奈の時のような、
甘えた空気にはならない。
真剣な表情で、言う。
「……妊娠したら、どうするんですか?」
「奥さんと、別れてくれるんですか?」
収の胸が、少しだけ跳ねた。
今までの二人とは違う。
心を掴まれかける感覚。
「分かった、分かった」
「最近、妻とはレスでな」
「あいつも、若い社員と浮気ばっかで」
そう答えると、
張りつめていた表情が、ゆっくりと崩れる。
「……絶対に?」
「明日まで、もっと可愛がってくださいね」
「分かったよ」
「本当に、愛は可愛いなぁ」
収は、少し間を置いて続けた。
「ちょっと、大事な電話があってな」
「ロビーまで行って、かけてくるよ」
そう言って、部屋を出る。
エレベーターを降り、
ロビーを抜け、
収はそのままホテルの玄関まで歩いてきた。
外の空気が、
やけに現実的だった。
収は、ロビーの片隅で時間を待った。
ソファに座り、スマホを見るふりをしながら、
ただ、体の感覚に意識を向ける。
――そろそろだ。
胸の奥が、ふっと軽くなる。
視界が、わずかに揺れた。
収は立ち上がり、
そのままホテルの玄関へ向かう。
外に出た、その瞬間――
薬の効果が切れた。
目の前に、
社長が立っている。
きょとんとした顔で、
自分の周囲を見回している。
「……あれ?」
「部屋は……? あれ?」
当然だ。
収が社員だなんて、気づくはずもない。
困っている人に道を教えるみたいに、
収は、自然な口調で言った。
「フロントに、名前言えばいいんじゃないですか?」
社長は、はっとしたように頷く。
「あ、そうか。ありがとう」
一歩歩き出してから、
ふと振り返る。
「……あれ?」
「どこかで会ったこと、あったかな」
すぐに首を振る。
「……気のせいか」
そう言って、
社長はフロントへ向かった。
その背中を見送った瞬間、
収の中に、別の焦りが湧く。
――野中部長と、鉢合わせたらまずい。
そう思った収は、
ロビーに戻ることも、宿に泊まることもせず、
そのままホテルを離れた。
山梨に来た意味は、
もう、終わっている。
夜道を歩きながら、
収は電車に乗り、
何もなかったかのように、家へ帰った。
現実だけが、
静かに、後を追ってきていた。
有給休暇が終わり、出社。
席に着いて間もなく、
収は、野中部長に呼び止められた。
「鈴木」
低い声。
それだけで、胸がざわつく。
部長席の前に立つと、
野中は、書類から目を上げもせずに言った。
「あなた、有給休暇を取った日――」
「山梨に、いなかった?」
その一言で、
収の心臓が止まるかと思った。
「い、いえ……」
「実家に、帰ってました」
自分の声が、少し上ずっているのが分かる。
野中は、ゆっくり顔を上げ、
じっと収の顔を見た。
視線が、離れない。
「ふーん」
短く息を吐いて、続ける。
「ホテルの窓からね」
「あなたに似た、気持ち悪い男を見た気がしたから」
収の喉が、鳴る。
「……そ、そうなんですね」
野中は、口元をわずかに歪める。
「何?」
「そんなに挙動不審になって」
椅子にもたれ、
探るような目で言う。
「私の前だと、緊張するわけ?私が好きなの?」
その瞬間、
山梨の部屋で見た、
あの、きりっとした目が、頭をよぎる。
収は、返事を忘れて、
一瞬ぼうっとしてしまった。
「何気持ち悪い顔してるのよ、違うなら、いいわ」
興味を失ったように、
野中は書類に視線を戻す。
「仕事に戻って」
「……はい」
そう答えたものの、
収は自分の席へは戻らなかった。
そのまま、
足早にトイレへ向かう。
胸の奥が、
じわじわと締めつけられていく。
逃げ場は、
もう、ほとんど残っていなかった。
そして、案の定だった。
野中部長の体調不良が、目に見えて続くようになる。
遅刻。
早退。
会議の途中で席を外す。
顔色は悪く、
声にも、いつもの張りがない。
野中部長が席を立った瞬間、
フロアのあちこちで、声が落ちる。
ひそひそ。
ひそひそ。
「……ねぇ」
「もしかして、妊娠じゃない?」
「社長の子?」
「ヤバくない、それ」
「だって、最近ずっと一緒だったよね……」
誰も名前を出さない。
でも、全員が同じ方向を見ている。
収は、キーボードを打つふりをしながら、
その声を、否応なく耳に入れていた。
そのときだった。
フロアの入口が、ざわつく。
社長夫人が現れた。
今日は珍しく、
職場に顔を出している。
ヒールの音を鳴らしながら、
フロア内を、ゆっくりと歩き回る。
視線が、社員一人ひとりをなぞる。
そして――
収のところで、止まった。
「……あんたでいいわ」
突然の声に、
収は顔を上げる。
「買い物、付き合って」
「荷物持ちね」
一拍置いて、
当たり前のように続ける。
「この時間は、給料つかないから」
「社長には、私から言っておく」
拒否という選択肢は、
最初から用意されていない。
フロアの視線が、
一斉に、収に集まる。
収は、
何も言えず、ただ立ち上がった。
静かになった職場で、
一番重たい役目が、
また、収に回ってきていた。
職場は確かに静かになった。
だが、それは一時的なものだった。
一番露骨に、
一番執拗に、
見た目をいじり、パシリにし、雑に扱ってきたのは、
部長の**野中 愛(のなか・あい)**だ。
誰が見ていようと関係ない。
命令口調で呼びつけ、
「それ、今すぐ」
「鈴木でいいでしょ?」
と、当たり前のように使う。
――ただし。
社長夫人が職場に顔を出している時だけは、
野中は、驚くほど静かになる。
声を張らない。
無駄に命令しない。
収のことも、視界に入らないかのように扱う。
まるで、
「ここでは自分は脇役だ」と分かっているみたいに。
野中は、
自分の立場がバレていないと思っている。
だが、社内のほとんどは知っている。
――社長の愛人だ、ということを。
だから、社長夫人がいる時は出しゃばらない。
だから、その場ではおとなしくしている。
社長夫人が帰った瞬間、
また元に戻る。
ヒールの音と一緒に、
命令と、いじりと、視線が戻ってくる。
収は、
その切り替えを、毎日見ていた。
静かな時間と、
理不尽な時間。
どちらも同じ職場で起きている。
そして収は、
その様子を眺めながら、
カバンの奥に残っているものの存在を、
はっきりと意識していた。
――懲らしめたい相手は、
もう、決まっている。
その日、珍しく社長が社長室から出てきた。
フロアが、一瞬だけ静まる。
社長は、そのまま部長の野中 愛に近づき、
事務的な口調で言った。
「今度の、三月三日、四日の山梨出張な」
「同行の件、資料まとめておいてくれ」
野中は、少しだけ姿勢を正し、
「分かりました」とだけ答える。
それ以上、言葉は交わされない。
社長は、何事もなかったように踵を返し、
再び社長室へ戻っていった。
ドアが閉まる音。
フロアの空気が、ゆっくり元に戻る。
そのやり取りを、
収は自分の席で聞いていた。
――三月三日、四日。
日付が、頭の中で繰り返される。
収は、迷わなかった。
すぐにパソコンを開き、
有給休暇の申請画面を出す。
三月三日。
三月四日。
理由は「私用」。
送信ボタンを押す。
画面に「申請しました」の文字が出るのを確認してから、
収は、静かに息を吐いた。
偶然じゃない。
でも、必然とも言えない。
ただ、
その日付だけが、
はっきりと意味を持ち始めていた。
カバンの奥に残っているものの存在を、
収は、もう否定しなかった。
里美の旦那である係長も、
いつの間にか、少し変わっていた。
前は、必要なことしか話さない上司だった。
距離を保ち、深入りしないタイプ。
それが、
女性が二人いなくなってからなのか、
それとも、あの一件があってからなのか――
理由は分からない。
だが、今の係長は、妙に気さくだった。
「最近どう?」
「仕事、きつくない?」
そんな言葉を、
部下に普通にかけるようになっている。
収にも、だ。
ある日の昼休み。
係長は、雑談の延長みたいな口調で話しかけてきた。
「そういえばさ」
「三月の山梨出張、もう聞いてる?」
収は、一瞬だけ間を置いてから答える。
「いえ……詳しくは」
「まだ詰めてるとこだけどさ」
「朝は結構早く出るみたいだな」
「現地には昼前には着くって話だ」
まるで、
ただの世間話。
「泊まりは、駅から少し離れたとこらしい」
「静かなとこがいいって、社長が言ってて」
係長は、コーヒーを飲みながら、
何でもないことのように続ける。
収は、頷きながら聞いていた。
――三月三日、四日。
――山梨。
――出発時間。
――宿泊場所。
断片が、
頭の中で、少しずつ形を作っていく。
「有給取るって聞いたけど」
係長が、ふと聞いてきた。
「……はい」
「私用で」
「そうか」
それ以上、踏み込まない。
でも、どこか、確かめるような目。
係長は、軽く笑って言った。
「たまには休まないとな」
その言葉が、
やけに普通で、
やけに重く聞こえた。
収は、
その背中を見送りながら思う。
――知られているのか。
――それとも、ただの偶然か。
答えは分からない。
ただ、
必要な情報は、
もう、十分すぎるほど集まっていた。
三月三日と四日が、
確実に近づいてきていた。
当日。
収は、朝から落ち着かなかった。
もしハズレだったら――
その時は、普通に旅行を楽しめばいい。
そう自分に言い聞かせて、
前から目星をつけていたホテルへ向かった。
観光地らしい、静かな場所。
人の出入りはあるが、騒がしくはない。
収は、ホテルの正面には行かず、
少し離れた場所に身を潜めて様子を見る。
スマホで時間を確認する。
まだ、予定より少し早い。
――違ったら、それでいい。
そう思った、その時だった。
一台のタクシーが、
ホテルの前で止まる。
後部座席のドアが開く。
先に降りてきたのは、
見間違えようのない――社長。
続いて、
ヒールの音を立てて降りてきたのは、
野中 愛、部長だった。
二人は、周囲を気にする様子もなく、
並んでホテルの入口へ向かって歩いていく。
その光景を見た瞬間、
収の胸が、静かに鳴った。
――当たった。
逃げる理由も、
言い訳も、
もう、なかった。
収は、
隠れたまま、その背中を見つめていた。
収は、距離を保ったまま、二人に近づいた。
視線を合わせず、歩調も変えない。
ホテルのロビーに入ると、
社長が野中部長に、短く顎で指示を出した。
野中部長は、
「分かりました」とだけ言って、
そのまま受付へ向かう。
社長は、ロビーの端にある喫煙所へ歩いていった。
ガラス越しに、ライターの火が一瞬光る。
――今だ。
収は、自然な動きで進路を変え、
社長の背後に回り込む。
距離は、ほんの数歩。
喫煙所の中で、
社長は、こちらに背を向けたまま、煙を吐いている。
収は、ポケットの中のドリンクを取り出し、
一息に飲み干した。
次の瞬間を、
もう、引き返すことはできなかった。
社長に乗り移った収は、
吸ったこともないタバコを、すぐに灰皿へ捨てた。
そのまま受付へ向かい、
手続きをしている野中部長に合流する。
二人でエレベーターに乗る。
短い沈黙。
階数表示が、静かに上がっていく。
部屋に着くと、
収は野中部長を先に中へ入れた。
自分は一拍置いてから、後に続く。
ドアが閉まる。
すらっとした、モデルのような後ろ姿。
その背中を見た瞬間、
収はいつもの動きでズボンとパンツを脱ぎ距離を詰めた。
無防備な野中部長の背後から襲いかかる
「ちょっと、社長――」
野中部長は、少しだけ抵抗する。
だが、その力は次第に弱まり、
収も「愛~」と叫びながらガムシャラに動く、そしてことが終わると野中部長は
ゆっくりと膝から崩れ落ちる。
もう三人目だ。
収は、不思議なほど落ち着いて、
その様子を見ていた。
やがて、野中部長は立ち上がり、
社長になった収の顔をまっすぐ見た。
里美や姫奈の時のような、
甘えた空気にはならない。
真剣な表情で、言う。
「……妊娠したら、どうするんですか?」
「奥さんと、別れてくれるんですか?」
収の胸が、少しだけ跳ねた。
今までの二人とは違う。
心を掴まれかける感覚。
「分かった、分かった」
「最近、妻とはレスでな」
「あいつも、若い社員と浮気ばっかで」
そう答えると、
張りつめていた表情が、ゆっくりと崩れる。
「……絶対に?」
「明日まで、もっと可愛がってくださいね」
「分かったよ」
「本当に、愛は可愛いなぁ」
収は、少し間を置いて続けた。
「ちょっと、大事な電話があってな」
「ロビーまで行って、かけてくるよ」
そう言って、部屋を出る。
エレベーターを降り、
ロビーを抜け、
収はそのままホテルの玄関まで歩いてきた。
外の空気が、
やけに現実的だった。
収は、ロビーの片隅で時間を待った。
ソファに座り、スマホを見るふりをしながら、
ただ、体の感覚に意識を向ける。
――そろそろだ。
胸の奥が、ふっと軽くなる。
視界が、わずかに揺れた。
収は立ち上がり、
そのままホテルの玄関へ向かう。
外に出た、その瞬間――
薬の効果が切れた。
目の前に、
社長が立っている。
きょとんとした顔で、
自分の周囲を見回している。
「……あれ?」
「部屋は……? あれ?」
当然だ。
収が社員だなんて、気づくはずもない。
困っている人に道を教えるみたいに、
収は、自然な口調で言った。
「フロントに、名前言えばいいんじゃないですか?」
社長は、はっとしたように頷く。
「あ、そうか。ありがとう」
一歩歩き出してから、
ふと振り返る。
「……あれ?」
「どこかで会ったこと、あったかな」
すぐに首を振る。
「……気のせいか」
そう言って、
社長はフロントへ向かった。
その背中を見送った瞬間、
収の中に、別の焦りが湧く。
――野中部長と、鉢合わせたらまずい。
そう思った収は、
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現実だけが、
静かに、後を追ってきていた。
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「鈴木」
低い声。
それだけで、胸がざわつく。
部長席の前に立つと、
野中は、書類から目を上げもせずに言った。
「あなた、有給休暇を取った日――」
「山梨に、いなかった?」
その一言で、
収の心臓が止まるかと思った。
「い、いえ……」
「実家に、帰ってました」
自分の声が、少し上ずっているのが分かる。
野中は、ゆっくり顔を上げ、
じっと収の顔を見た。
視線が、離れない。
「ふーん」
短く息を吐いて、続ける。
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「あなたに似た、気持ち悪い男を見た気がしたから」
収の喉が、鳴る。
「……そ、そうなんですね」
野中は、口元をわずかに歪める。
「何?」
「そんなに挙動不審になって」
椅子にもたれ、
探るような目で言う。
「私の前だと、緊張するわけ?私が好きなの?」
その瞬間、
山梨の部屋で見た、
あの、きりっとした目が、頭をよぎる。
収は、返事を忘れて、
一瞬ぼうっとしてしまった。
「何気持ち悪い顔してるのよ、違うなら、いいわ」
興味を失ったように、
野中は書類に視線を戻す。
「仕事に戻って」
「……はい」
そう答えたものの、
収は自分の席へは戻らなかった。
そのまま、
足早にトイレへ向かう。
胸の奥が、
じわじわと締めつけられていく。
逃げ場は、
もう、ほとんど残っていなかった。
そして、案の定だった。
野中部長の体調不良が、目に見えて続くようになる。
遅刻。
早退。
会議の途中で席を外す。
顔色は悪く、
声にも、いつもの張りがない。
野中部長が席を立った瞬間、
フロアのあちこちで、声が落ちる。
ひそひそ。
ひそひそ。
「……ねぇ」
「もしかして、妊娠じゃない?」
「社長の子?」
「ヤバくない、それ」
「だって、最近ずっと一緒だったよね……」
誰も名前を出さない。
でも、全員が同じ方向を見ている。
収は、キーボードを打つふりをしながら、
その声を、否応なく耳に入れていた。
そのときだった。
フロアの入口が、ざわつく。
社長夫人が現れた。
今日は珍しく、
職場に顔を出している。
ヒールの音を鳴らしながら、
フロア内を、ゆっくりと歩き回る。
視線が、社員一人ひとりをなぞる。
そして――
収のところで、止まった。
「……あんたでいいわ」
突然の声に、
収は顔を上げる。
「買い物、付き合って」
「荷物持ちね」
一拍置いて、
当たり前のように続ける。
「この時間は、給料つかないから」
「社長には、私から言っておく」
拒否という選択肢は、
最初から用意されていない。
フロアの視線が、
一斉に、収に集まる。
収は、
何も言えず、ただ立ち上がった。
静かになった職場で、
一番重たい役目が、
また、収に回ってきていた。
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