3 / 7
妊娠
女批判の男 女として生きる~妊娠
しおりを挟む
そして、二人の新婚生活は、特に大きな問題もなく続いていた。
もちろんケンジの理解もあり、貴子はガールズバーの仕事を辞めてはいなかった。
ノゾミ
「貴子ちゃん、眠そうだね。大丈夫?」
貴子
「最近、寝ても寝ても眠くて」
ノゾミ
「え~、毎晩毎晩ケンジさんに寝かせてもらえてないとか?」
貴子
「ちがうよ~、そんな毎日してないし」
ノゾミ
「そっかぁ~、毎日じゃないってことは週5ぐらいで」
貴子
「もう、ノゾミちゃんたら~」
軽口を叩き合いながらも、
その裏で――
少しずつ、確実に。
貴子の体調には変化が現れはじめていた。
そして翌朝。
ケンジは出勤の身支度をしていた。
貴子
「ねぇ、ケンジ」
ケンジ
「どうした?」
貴子
「なんか香水つけてる?」
ケンジ
「つけてないよ。整髪料かな?」
貴子
「そうなんだ」
ケンジ
「変な匂いする?」
そう言って、自分の体の匂いを確かめるケンジ。
貴子
「ううん、大丈夫だよ」
ケンジ
「そっか。じゃあ行ってくるね」
貴子
「いってらっしゃい」
玄関まで見送って、ドアが閉まる。
――でも。
なんだろう。
ケンジから匂った、あの鼻につく感じ。
貴子
「……それにしても眠すぎる」
そう呟いて、布団に戻る。
「寝よ」
貴子は、もう一度目を閉じた。
そのまま、深い二度寝に落ちていくのだった。
しばらくの間、
「変だな……気のせいかな……」
そう思いながら、貴子はいつも通りの日々を過ごしていた。
とある日のガールズバー。
いつも通り、お客さんのお酒を作っていた、その時だった。
(……何、このアルコールの匂い……)
胸の奥がむわっとして、思わず顔をしかめる。
(うけつけない……)
でも、仕事だ。
そう自分に言い聞かせて続けていたが――
急に、強い吐き気が込み上げてきた。
貴子
「ちょっと失礼します」
そう言うと、貴子はトイレへ駆け込む。
「……何これ……わからない……」
しばらくして戻ってきたが、
もうお酒の匂いを受けつけなくなっていた。
ママ
「貴子ちゃん、ちょっと」
奥に来るよう、手招きされる。
貴子
「ちょっと失礼します」
そう言って、ママのところへ向かう。
ママ
「貴子ちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」
貴子
「ちょっと吐き気がして……」
ママ
「もしかしてだけど、妊娠してるんじゃない?」
貴子
「妊娠?!」
ママ
「心当たりは?」
貴子
「あります……」
ママ
「生理は?きてる?」
貴子
「遅れてるような……」
ママ
「今日は帰りなさい。そして検査薬、1回試してみなさい」
貴子
「はい、迷惑おかけします」
ママ
「怒ってるんじゃないわよ。心配してるの」
貴子
「ママ……」
ママ
「もし妊娠してたら、ここは一旦休憩ね」
貴子
「はい、お先に失礼します」
そうして貴子は、その日、早退した。
そして帰り道。
まだ営業しているドラッグストアの灯りが目に入る。
少し迷ったあと、貴子は店に入り、
妊娠検査薬を手に取った。
レジで会計を済ませる手が、わずかに震えている。
外に出ると、夜風が冷たい。
(あの時……)
ケンジは腰をひこうとしたのを止めたから……
妊娠してるのかなぁ。
妊娠してるって言ったら、ケンジどう思うかなぁ。
嬉しいって言ってくれる?
それとも、まだ早いって思う?
自分で選んだ夜なのに、
今になって、胸がざわつく。
袋をぎゅっと握りしめながら、
考えがまとまらないまま歩いていると――
いつの間にか、家の前まで来ていた。
家に着いた貴子。
「ただいま~」
ケンジ
「早いね、どうかしたの?」
貴子
「ちょっとお店暇だったから帰っていいって」
そう言って、ケンジに嘘をつく。
心臓の音がやけに大きい。
靴もそこそこに、
貴子は検査薬の入った袋を握りしめたままトイレへ向かった。
ドアを閉める。
小さな空間に、自分の呼吸だけが響く。
箱を開ける手が、少し震える。
説明書を何度も読み返し、
書いてある通りに検査をした。
(落ち着いて……落ち着いて……)
数分が、やけに長い。
トイレの時計の秒針の音が、耳につく。
やがて時間がたち――
貴子は、恐る恐る確認する。
そこには、はっきりとした線。
陽性だった。
なかなかトイレから出てこない貴子を心配して、
ケンジが廊下に立つ。
「貴子~大丈夫~?」
コンコン、とトイレのドアをノックする。
狭い空間の中で、その音がやけに大きく響いた。
ゆっくりとドアが開く。
貴子が、静かに出てきた。
ケンジ
「どうした? お腹痛いの?」
貴子
「ちがう……」
視線を落としたまま、声が少し震える。
ケンジ
「何かあった?」
貴子
「あのね……」
言葉が喉につかえる。
ケンジ
「言いたくなったらでいいよ」
その優しさが、逆に胸を締めつける。
貴子
「に、妊娠した」
ケンジ
「え?」
貴子
「これ……」
震える手で、妊娠検査薬を差し出す。
そこに出ている線を見て、ケンジは一瞬息を止める。
ケンジ
「大丈夫、そんな顔しない。嬉しい事じゃないか」
貴子
「嬉しい?」
不安と期待が混ざった声。
ケンジ
「当たり前じゃないか」
貴子は、目に涙を浮かべる。
貴子
「私は、わからない、嬉しいのか、不安なのか、なんなのか……」
声が震え、言葉が途切れ途切れになる。
ケンジは何も否定せず、
ただそっと貴子を抱きしめ、頭を撫でる。
ケンジ
「うんうん、そうか、ちょっと色々急すぎて貴子の気持ちが追いついてないんだな」
その言葉を聞いた瞬間、
張りつめていたものが切れたように――
貴子
「ケンジ~」
号泣する。
肩を震わせながら、ケンジの胸に顔をうずめる。
ケンジは、ゆっくりと貴子の体を離し、
両手で頬に触れ、涙をそっと拭う。
ケンジ
「俺がついてる、大丈夫だから、ちょっとベッドで休んでおいで」
そのまま優しく背中を押し、
貴子をベッドへと座らせた。
ケンジ
「ちょっと色々調べてさ、うどん作ってみたからおいで」
まだベッドに座ったまま、涙を浮かべている貴子。
ケンジはゆっくりと近づき、
そっとお腹に手をあて、やさしく撫でる。
ケンジ
「ママになるかもしれないんだよ、しっかりしろ貴子」
少し冗談めかして、怒ったような口調で言う。
貴子
「うん……」
それでも俯いたまま、涙がこぼれる。
ケンジ
「そうか、そうかぁ~、貴子は俺との子供嫌なんだなぁ~」
わざと拗ねたように言うケンジ。
貴子
「ちがう~、そうじゃない~」
慌てて立ち上がる。
ケンジ
「はい、立ったついでに、うどん食べに行こう」
そう言って、貴子の背中をやさしく押す。
貴子
「もう~ケンジったらァ~」
少しふくれながらも、
うどんが置いてあるテーブルの前に座った。
翌日。
ケンジを送り出したあと、
貴子は産婦人科へ行くことにした。
いつものヒールではなく、スニーカー。
少しラフな格好で家を出る。
歩きながら、何度もお腹に手をあてる。
(本当に……?)
産婦人科の看板が見えた瞬間、
胸がきゅっと締めつけられる。
深呼吸をして、扉を開ける。
受付をすませ、待合室で静かに座る。
周りには、少しお腹のふくらんだ女性や、
母子手帳を手にした人たち。
自分だけが場違いな気がして、
視線を落とす。
しばらくして――
「佐々木様~」
呼ばれるが、貴子は気づかない。
「佐々木貴子さん」
その名前を聞いた瞬間、はっとする。
(私、今、佐々木だ!)
「は、はい」
立ち上がる足が、少し震える。
看護師
「1診にお入りください」
貴子は、ゆっくりと診察室へ向かった。
「失礼します……」
1診の扉を開けると、
年配の医師がカルテを見ながら顔を上げた。
医師
「佐々木さんですね。どうされましたか?」
貴子は少し緊張しながら椅子に座る。
貴子
「市販の検査薬で陽性が出て……確認に来ました」
医師はうなずきながら質問を続ける。
医師
「最終月経はいつ頃ですか?」
「体調の変化は?」
「持病や服用中のお薬は?」
ひとつひとつ答えていく。
少し迷いながらも口を開く。
貴子
「ガールズバーで働いていて……お酒を扱う仕事なんですけど」
医師は落ち着いた表情で答える。
医師
「そうですか。まずは妊娠しているかどうか確認しましょう。その後で生活についてお話ししますね」
そして内診台へ案内される。
カーテンの向こうで横になり、
心臓の音が自分でも聞こえそうなくらい大きくなる。
しばらくして、
モニターに白黒の映像が映し出される。
医師
「はい、見えますね」
画面の一部を指さす。
医師
「この黒い丸いのが胎嚢、まぁ袋ですね」
貴子は画面を見つめる。
小さな、黒い影。
医師
「週数から考えても自然な大きさです。妊娠は確実ですね」
その言葉が、ゆっくりと胸に落ちてくる。
妊娠は確実。
頭の中で何度も繰り返される。
医師
「心拍はもう少し先になりますが、今のところ問題はありませんよ」
診察が終わり、
椅子に戻った貴子は、まだ少しぼんやりしていた。
自分の中に――
命がある。
お腹にそっと手をあてる。
「本当なんだ……」
小さく、そうつぶやいた。
診察室を出て、
次回の予約や注意事項の説明を受ける。
受付で会計を済ませると、
小さな封筒を手渡される。
その中には、エコー写真。
貴子は封筒から取り出し、
何故かそのまま手に持ってしまう。
白黒の、小さな黒い丸。
「この黒い丸いのが胎嚢、まぁ袋ですね」
医師の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
外に出ると、昼間の光がまぶしい。
さっきまでと同じ街のはずなのに、
どこか違って見える。
通りを歩く人たち、
車の音、信号の音。
全部が、遠く感じる。
エコー写真を握る手に、自然と力が入る。
(本当に……ここにいるんだ)
お腹にそっと手をあてる。
まだ何も変わっていないはずなのに、
もう守るものがある気がする。
しばらく立ち止まっていたが、
ゆっくりと歩き出す。
エコー写真を何故か手に持ったまま、
家に向かう貴子だった。
家に着き、玄関を開ける。
「ただいま……」
誰もいない部屋に、声だけが響く。
エコー写真をテーブルに置く。
しばらく、じっと見つめる。
黒い、小さな丸。
嬉しいのか、不安なのか、まだはっきりしない。
ただ、現実なんだという重みだけがある。
ふと、胸がむかむかする。
「……あ、空腹だから気持ち悪いのかな」
ママの言葉を思い出す。
(無理しないこと)
キッチンへ向かい、
冷蔵庫を開ける。
昨日の残りのうどんの材料が目に入る。
簡単なものを作ろう、と
お湯を沸かし、麺を入れる。
湯気が立ちのぼる匂いが、少しきつく感じる。
でも、不思議と食べ始めると落ち着いた。
「……うん、食べられる」
ゆっくり噛んで、ゆっくり飲み込む。
お腹に手をあてる。
「よろしくね……」
小さくつぶやく。
食べ終わり、
ソファに座る。
エコー写真をまた手に取る。
(どう言おう……)
嬉しいって言ってくれた。
でも、今日も同じ顔をしてくれるかな。
時計を見る。
しばらくして、玄関の鍵の音。
ガチャ。
ケンジ
「ただいまー」
心臓が一気に早くなる。
貴子
「おかえり」
ケンジ
「今日どうだった?病院」
その言葉に、少しだけ間があく。
貴子は、テーブルの上のエコー写真を手に取る。
ケンジの前に、そっと差し出す。
貴子
「……確実だって」
ケンジ
「え?」
貴子
「この黒い丸いのが胎嚢、まぁ袋ですね、って」
ケンジは写真を見る。
表情が、ゆっくり変わる。
静かに、深く息を吐く。
ケンジ
「……本当なんだな」
貴子
「うん」
数秒の沈黙。
そして、ケンジは貴子をぎゅっと抱きしめる。
ケンジ
「ありがとう」
その一言で、
貴子の目にまた涙が浮かぶ。
嬉しいのか、不安なのか、まだ全部は整理できない。
でも――
2人で、受け止めている。
抱きしめたまま、しばらく動かないケンジ。
ケンジ
「ママには報告した?」
貴子
「……まだ」
ケンジ
「そっか」
少しだけ考えるような顔をしてから、
ケンジ
「じゃあ、一緒に行こう」
貴子
「え?」
ケンジ
「貴子ひとりで言わせるのも違うだろ。俺も一緒にちゃんと報告したい」
貴子は少し驚いた顔をする。
貴子
「ちょうど開店前の準備中かなぁ」
ケンジ
「そうだね、行こうか」
テーブルの上のエコー写真をもう一度手に取るケンジ。
ケンジ
「ママもきっと喜んでくれるだろうね」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
貴子
「……うん」
ケンジ
「今から行く?」
貴子
「うん、行こ」
急いで上着を羽織る。
玄関で靴を履きながら、
自然と手を繋ぐ2人。
貴子はそっとお腹に手をあてる。
ケンジ
「寒くない?」
貴子
「大丈夫」
夜の空気は少しひんやりしている。
でも、不思議と心はあたたかい。
これから伝える言葉を胸に抱きながら、
2人は、ガールズバーに向かった。
ガールズバーに着いた2人。
まだ開店前で、店内には準備の音が響いている。
2人でゆっくりドアを開けた。
ケンジ
「こんばんは」
貴子
「こんばんは」
ママはグラスを拭きながら顔を上げる。
ママ
「あら夫婦でどうしたの?」
ノゾミ
「2人で惚気けにきたの?」
ケンジは軽く笑ってから、
そっと貴子の背中を押す。
ケンジ
「貴子、自分の言葉で言って」
少しだけ息を吸い込む貴子。
貴子
「あの……妊娠……してました」
一瞬、店内の空気が止まる。
そして――
ママ
「あら~、やっぱり~、おめでとう貴子」
ノゾミ
「その膨らみがケンジさん以外にも活躍する日が来るのね」
ケンジ
「ちょっと、ノゾミさん」
ママは少しだけ寂しそうに笑う。
ママ
「でも困ったわ~、うちのNo.1が抜けちゃうから」
ケンジ
「すみません……」
ママはすぐに手をひらひらさせる。
ママ
「そうだわ~、ケンジさんにお化粧して~」
ノゾミ
「貴子ちゃんの代わりに出勤~」
ケンジ
「え?え?」
貴子
「ダメ~~っ」
店内に笑いが広がる。
ママは優しい目に戻る。
ママ
「冗談よ、お店の事は気にしないで、体大事にして立派に産んでね」
ノゾミ
「うんうん、しんどくなったら、いつでも連絡して」
貴子
「ありがとう~」
涙をながす貴子。
ケンジ
「素敵な2人で良かったね」
貴子
「うん」
ケンジ
「では失礼します」
2人は深くお辞儀をして、
店を後にした。
外の夜風が、少しだけ優しく感じた。
店を出て、夜道を歩きながら。
ケンジは、そっと貴子の顔をのぞき込む。
ケンジ
「まだ、大丈夫?しんどくない?」
貴子
「大丈夫、どうしたの?」
ケンジ
「BARワンダーにも報告どうかな?と思って」
貴子は少し足を止める。
貴子
「そうだね、あの店がなかったら2人の間で、こんな事なかったもんね」
出会いも、告白も、結婚も。
全部、あの場所から始まった。
ケンジはうなずく。
ケンジ
「マスター、絶対何か言うけどな」
貴子
「言うね、絶対言う」
2人でくすっと笑う。
手をつなぎ直し、
自然と歩く足並みがそろう。
夜風が少し冷たい。
ケンジは、さりげなく歩幅を合わせる。
貴子は、もう一度お腹に手をあてる。
そして2人は、
BARワンダーに向かった。
そしてBARワンダーに着いた2人。
店内には、いつもながら社長と爺さんの姿があった。
マスター
「貴子ちゃんダメだよ、今度は2人っきりで会うって…」
食い気味に言うマスター。
貴子
「言ってません」
ケンジ
「相変わらずだなぁ、マスター」
2人は並んで席に着く。
社長
「夫婦揃って、どないしたん」
爺さん
「うむ、あれじゃな」
貴子は一度深呼吸してから、はっきり言った。
貴子
「実は……妊娠しました」
一瞬、店内が静まる。
マスター
「あ、あの時、俺と愛し合った夜の……」
貴子 ケンジ
「マスター!!」
社長
「そりゃ、めでたい」
爺さん
「めでたい事が続くのぅ」
マスター
「母乳が出たら教えて」
貴子
「教えません!!」
ケンジ
「でも……1回味わってみたい」
貴子
「こら!ケンジも」
そう言って、そっと自分のお腹をさする。
「この子のなんだから」
社長
「まぁ、冗談はさておき、ぱぁーっとお祝いしたいとこやけど今日はもう家で休み」
爺さん
「安定期に入らんと何があるかわからんからのぅ」
マスター
「俺に会いたくなったら、いつでも、2人っきりで」
貴子 ケンジ
「マスター!!」
その声が重なり、店内に笑いが広がる。
ケンジ
「では失礼します」
貴子は軽く頭を下げ、ケンジと並んで歩き出す。
BARワンダーの扉がゆっくり閉まり、いつもの喧騒が遠のいていった。
2人は自然と手をつなぎ、夜の空気の中へと歩き出す。
これまでと同じ道なのに、少しだけ景色が違って見えた。
新しい命と、これからの生活を胸に抱きながら――
2人はBARを後にした。
翌朝。
貴子はソファに座りながら、
少し気持ち悪そうにお腹をさすっている。
貴子
「今日、検診と、あと母子手帳もらいに市役所行こうと思って……でも」
ケンジはネクタイを締めながら振り返る。
ケンジ
「どうした?」
貴子
「最近、つわりがひどいし、体がおもくて……大丈夫かなぁって」
少しだけ不安そうな顔。
しばらく考え、ケンジは真面目な表情になる。
ケンジ
「俺、この前休日出勤したし、明日休みとれるか聞いてみるよ、一緒に行こ」
貴子は驚いた顔でケンジを見る。
貴子
「本当に?助かるよケンジ」
ケンジは照れたように笑う。
ケンジ
「しんどさって男だし、わからないけど貴子を見てたら辛いんだろうなってわかるから」
その言葉に、貴子の目が少し潤む。
貴子
「ありがとう」
ケンジは鞄を持ち、玄関へ向かう。
ケンジ
「じゃあ仕事行って来るね」
貴子
「いってらっしゃい」
ドアが閉まり、静かになる部屋。
貴子はゆっくり横になり、
お腹に手をあてる。
(2人で、行けるんだ)
少しだけ、安心した表情になった。
職場に着いたケンジ。
デスクに鞄を置くと、
すぐに代休申請書を取り出し、記入する。
書き終えると、深呼吸をひとつ。
部長の席へ向かう。
ケンジ
「部長、急で申し訳ないですが明日休みたいので、これ、お願いします」
部長は申請書を受け取り、目を通す。
部長
「病院か?」
ケンジ
「僕じゃないですが妻が、ちょっと」
部長は顔を上げる。
部長
「そっか奥さん妊娠したんだったな、わかった」
ケンジ
「はい、つわりがひどいみたいで」
部長は少し懐かしそうに笑う。
部長
「うちも、1人目の時は大変だったな、あれ食べれない、これ食べれないってな」
ケンジ
「そうなんですね」
部長
「それに、ちょっとした事でイライラしてあたってくるからな、しっかり奥さんを見てやれ、男には、わからん辛さがあるんだ」
ケンジ
「はい、わかりました」
申請書に判が押される。
ケンジは軽く頭を下げ、窓口へ戻る。
いつも通りの業務。
来庁者の対応をしていると、
隣の席の山田さんが、そっと一枚の紙を差し出してきた。
「先輩からのアドバイス、つわりがひどい時に食べれる物 ※個人差あり」
レモン、冷たいゼリー、クラッカー、うどん、炭酸水――
細かく書き込まれている。
ケンジは一瞬だけ山田さんを見る。
声は出せないが、
「ありがとうございます」
と、口元だけでお礼を言った。
山田さんは軽くうなずく。
窓口業務をしながらも、
ケンジの頭の中は、もう家の方を向いていた。
(ちゃんと支えないとな)
父になる自覚が、
静かに芽生えはじめていた。
そして、家に帰ってきたケンジ。
スーパーやドラッグストアを何軒もはしごしていたせいで、
いつもより帰るのが遅くなってしまった。
ケンジ
「ただいま~」
リビングに入った瞬間、
少し険しい顔の貴子が振り向く。
貴子
「遅いよ!どこほっつき歩いてたのよ」
強い口調。
ケンジは一瞬きょとんとする。
ケンジ
「貴子が食べれそうな物色々買ってたんだよ」
そう言うと、貴子はぷいっと顔をそらし、
ベッドの方へ歩いていく。
ケンジ
「何か食べないと」
貴子
「いらない、食べたくない」
その背中に、少しだけイラっとしかけた。
(せっかく……)
でもその瞬間、
部長の声がよみがえる。
――ちょっとした事でイライラしてあたってくるからな
――しっかり奥さんを見てやれ
ケンジは小さく息を吐き、
ゆっくりベッドへ近づく。
貴子
「やだ、あっち行って」
ケンジは無理にではなく、
そっと貴子を抱きしめる。
ケンジ
「遅くなって、ごめん、でも貴子の力になりたいって思って色々買ってきたんだ、何か食べよ」
しばらく沈黙。
貴子
「わかった」
まだ少し怒った感じは残っているが、
ゆっくり立ち上がり、テーブルの椅子に座る。
ケンジは買い物袋を開ける。
ケンジ
「イチゴでしょ、これがゼリー、炭酸水、梅干し、レモン、……」
ひとつひとつ丁寧に並べる。
貴子の目に、じわっと涙が浮かぶ。
貴子
「これだけ買ってたら遅くなって当たり前だよね、ごめんなさい」
ケンジはやわらかく笑う。
ケンジ
「ママになるんだよ、なかない」
そう言って、そっと頭を撫でた。
テーブルの上には、
甘い匂いと、すっぱい匂いと、
まだ不安定な2人の気持ちが並んでいた。
でも――
ちゃんと向き合おうとしている。
貴子はテーブルの上に並べられた物を、
ひとつひとつ確かめるように口に運ぶ。
イチゴをひとかじり。
ゼリーを少し。
炭酸水を一口。
貴子
「全部食べれる味」
ケンジは肩の力が抜ける。
ケンジ
「良かった~」
心からほっとした顔。
だが、貴子は少しだけ視線を落とす。
貴子
「あのね……」
ケンジ
「どうした?」
少し間があく。
貴子
「……マックのポテトが食べたい」
ケンジ
「ポテト?」
貴子
「……うん」
真剣な顔。
ケンジは一瞬驚くが、すぐに笑う。
ケンジ
「しょうがないな」
スマホを取り出す。
ケンジ
「デリバリーしてもらお」
貴子
「やった~」
さっきまでの不機嫌が嘘のように、
表情がふっと柔らかくなる。
ケンジは注文画面を見ながら、
小さく笑う。
(これが、つわりか……)
でも、
その変化すら愛おしく感じていた。
テーブルの上には、
イチゴとゼリーと、
これから届くポテト。
少しずつ、
家の空気が“家族”になっていく。
しばらくして、チャイムが鳴る。
ケンジ
「来た」
デリバリーを受け取り、袋を開ける。
ふわっとポテトの匂いが広がる。
貴子の目が少しだけ輝く。
ケンジ
「ほら、揚げたて」
貴子は一本つまみ、ゆっくり口に入れる。
サクッ。
少し噛んで、飲み込む。
貴子
「……おいしい」
もう一本。
そして、もう一本。
ケンジは安心したように見守る。
でも、五本目あたりで手が止まる。
貴子
「……もういい」
ケンジ
「え?」
貴子
「満足」
袋の中には、まだほとんど残っている。
さっきまであんなに食べたがっていたのに。
ケンジは少し笑う。
ケンジ
「それだけ?」
貴子
「うん、今はもういい」
お腹に手をあてる。
貴子
「さっきまでは絶対食べたかったのに」
ケンジ
「不思議だな」
貴子
「うん、不思議」
ケンジは残りのポテトを自分の方に寄せる。
ケンジ
「じゃあ俺が責任持って食べる」
貴子は小さく笑う。
さっきまでの不安も怒りも、
今は少し落ち着いている。
ソファにもたれながら、ゆっくり目を閉じる。
(この子がいるんだな……)
まだ実感は揺れているけど、
確かに何かが変わっていた。
⸻
翌日。
ケンジが取った代休の日。
貴子は少し早く目が覚めた。
まだ体は重い。
けれど今日は、病院の日。
ケンジ
「大丈夫そう?」
貴子
「うん……ちょっと気持ち悪いけど、この子の様子気になるし……」
ケンジ
「うん。俺がそばにいる、行こう」
2人で産婦人科へ向かう。
病院に入り、受付を済ませて待合室へ。
前よりも、周りの景色が違って見える。
お腹の大きな女性。
母子手帳を持った人。
付き添いの夫。
ケンジが隣にいる。
それだけで、少し安心する。
名前を呼ばれ、診察室へ。
医師
「体調はどうですか?」
貴子
「つわりがひどくて……」
エコー検査。
モニターに映る、小さな黒い丸。
前回より、ほんの少し大きくなっている。
医師
「順調ですね。問題ありません」
ケンジが画面をじっと見つめる。
医師
「母子手帳はもうもらいましたか?」
貴子
「まだです」
医師
「では、市役所で妊娠届を出して、母子手帳をもらってきてください。次回から持参してくださいね」
ケンジ
「わかりました」
診察を終え、病院を出る。
貴子
「本当に順調なんだね」
ケンジ
「うん」
貴子
「男の子、女の子、ケンジはどっちがいい?」
ケンジ
「貴子ちゃんに似た胸の大きい」
貴子
「マスターの真似はしなくていいの!」
ケンジ
「ごめん、2人の子供なら、どっちが産まれても嬉しい」
貴子
「そうだね」
そんな話をしているうちに、市役所に着いた2人。
妊娠届出書に記入し、提出する。
ケンジ
「山田さん、この前はありがとうございました」
貴子
「何~?あやしい~」
ケンジ
「子供を産んだ先輩として、つわりがひどい時に食べれる物教えてくれたんだ」
山田
「貴子さん、頑張ってね。はい、この番号札でお待ちください」
番号札を受け取り、椅子に並んで座る。
貴子は静かに言う。
「なんか、急に現実だね」
ケンジ
「うん」
呼ばれて窓口へ。
山田
「おめでとうございます」
差し出されたのは、小さな冊子。
母子健康手帳。
貴子は両手で受け取る。
想像より、重く感じる。
表紙を開く。
まだ何も書かれていないページ。
これから健診の記録が入り、
この子の成長が刻まれていく。
ケンジが横から覗き込む。
ケンジ
「これからここに、全部残っていくんだな」
貴子はうなずく。
目がじわっと熱くなる。
嬉しいのか、不安なのか。
どちらもある。
母子手帳をそっと胸に抱える。
市役所を出る。
ケンジが自然に手を握る。
貴子はお腹に手をあてる。
「よろしくね」
小さくつぶやいた。
貴子
「なんか、安心したら、お腹空いたな~」
さっきまでの緊張がほどけたせいか、
急に胃の奥がきゅっと鳴る。
ケンジ
「そうだなぁ、ファミレスでも行くか。色々メニューあるし」
貴子
「うん。私、お寿司も焼肉もラーメンも好きだったのになぁ。今は受け付けないし、ナマモノもだめだし」
少し拗ねたように笑う。
ケンジ
「食べられるようになったら、全部ご馳走する」
貴子
「全部は無理~。ちょっとずつね」
そう言いながらも、
ほんの少し先の“普通に食べられる未来”を想像して、
貴子はほっとする。
なんて話しながら、ファミレスに向かった。
ファミレスに着いた2人。
店員に案内され、席に着く。
メニューを開きながら、貴子が少し申し訳なさそうに言う。
貴子
「ケンジは好きな物食べたら良いからね」
ケンジは首を横に振る。
ケンジ
「いいよ、同じ物にする。だって匂いもやだよね」
貴子
「ありがとう。別に私、おいて1人で外食していいからね」
少し冗談めかして言うが、
本音も混じっている。
ケンジはまっすぐ貴子を見る。
ケンジ
「おいてかない。そばにいれる時は、そばにいる」
貴子は一瞬だけ目を伏せてから、小さく笑う。
「ありがとう」
そう言って、2人分の山盛りポテトと冷たいサラダを頼む。
運ばれてきたポテトを、貴子はゆっくり一本つまむ。
少し不安そうに口へ運び、ゆっくり噛む。
「……うん、大丈夫」
ケンジも同じ物を食べる。
2人で顔を見合わせ、ほっとしたように笑う。
取り分けたり、
「そっち塩ついてるよ」なんて言い合いながら、
ポテトとサラダをつまむ。
豪華じゃないけれど、
今はそれで十分だった。
2人は、仲良く食べる。
家に帰ってきた2人。
貴子
「あ~疲れた~」
そう言って、そのままベッドに横たわる。
靴も脱ぎきらないまま、力が抜けたように天井を見つめる。
ケンジは、その横に、ゆっくり腰かけた。
ケンジ
「子供の名前、男の子ならなんて名前がいい?」
貴子
「うーんとね、私は……この子がどっちで産まれようか迷わないように、どっちでも大丈夫な名前にしたい」
ケンジ
「例えば?」
貴子
「うーん、ヒカル、のぞむ、みらい、あきら、蓮、」
ケンジ
「それだけで悩みそうだな」
貴子は小さく笑う。
「ほんとだね、ちょっと眠くなってきた」
あくびをして、目をこする。
ケンジ
「いっぱい歩いたもんね、ゆっくりして」
貴子
「せっかく休みとってくれたのに、ごめんね」
ケンジ
「いいよ、貴子の為だけじゃなくて、この子の為だからね」
そう言って、貴子のお腹をさする。
まだ目立たないお腹。
貴子は、その手の上にそっと自分の手を重ねた。
とある検診日。
体調は、まだマシだった。
つわりも波があるらしく、今日は比較的落ち着いている。
ケンジは仕事の都合がつかず、貴子は1人で病院へ向かった。
待合室で母子手帳を膝に置き、静かに名前を待つ。
呼ばれて診察室へ。
医師
「体調どうですか?」
貴子
「波はありますけど、今日は大丈夫です」
エコーの準備が始まる。
モニターに映像が映る。
医師は画面を見つめ、少し角度を変える。
もう一度見る。
そして、穏やかに言う。
医師
「順調ですね……」
一拍おいて、
「それと、もう一つ」
貴子の胸が小さく跳ねる。
医師は画面を指す。
「ここ、わかりますか?」
黒い丸が、二つ。
並ぶように、映っている。
貴子は瞬きをする。
医師
「双子ですね」
その言葉が、ゆっくり落ちてくる。
双子。
貴子
「……え?」
思わず聞き返す。
医師
「二つとも、順調です。大きさも問題ありません」
貴子は画面を見つめたまま動けない。
嬉しいのか、驚きなのか、少し混乱しているのか。
ただ一つ確かなのは――
二人、いる。
診察を終え、エコー写真を受け取る。
いつもより枚数が多い。
「二つ分、ですね」
看護師の何気ない一言が、やけに耳に残る。
病院を出る。
外の空気を吸った瞬間、足が止まる。
双子。
初めての妊娠で、いきなり?
二つの命を、授かった?
「え……?」
自分の声が、少し震える。
「え?え?」
嬉しいはずなのに、頭が追いつかない。
手の中のエコー写真を見る。
確かに、二つ。
並んでいる。
「私……二人分?」
お腹に手をあてる。
まだ何も変わらない体。
でも、中には二人。
胸の奥がざわざわする。
喜びと、不安と、責任と。
全部が一気に押し寄せてくる。
「ケンジ……」
今すぐ伝えたい。
でも、どう言えばいい?
深呼吸する。
もう一度、エコー写真を見る。
「双子、か……」
空を見上げる。
思わず、笑ってしまう。
「すごいね、私」
病院の前でしばらく立ち尽くしたあと、貴子は深呼吸する。
「……ケンジにばっかり買い物頼んだらあれだよね」
今日は体調もまだマシだ。
近くのスーパーに入る。
かごを持って、ゆっくり歩く。
ゼリー、ヨーグルト、冷たい麺。
少しだけ野菜。
ついでに、ケンジが好きそうな惣菜も入れる。
「あ、これも」
気づけば、かごはいっぱい。
レジを済ませ、袋を両手に持つ。
外に出た瞬間、ずっしり重みがくる。
「……重っ」
少しよろけた、その時。
「貴子ちゃん?」
振り向くと、ノゾミ。
ノゾミ
「ちょっと!妊婦が何してるの~!」
貴子
「え、あ、体調マシだったから……」
ノゾミは呆れた顔をしながら、袋をひょいっと持つ。
「マシでも重いでしょ。ほら、家どっち?」
貴子
「だ、大丈夫だよ」
ノゾミ
「大丈夫じゃない。今は無理しないの」
有無を言わせず、歩き出す。
貴子は少し笑う。
「ありがと……」
ノゾミ
「当たり前でしょ」
2人で並んで歩く。
家の前まで送ってもらい、
ノゾミ
「ケンジさんにもちゃんと頼るんだよ?」
貴子
「うん」
ノゾミは軽く手を振って帰っていった。
そしてケンジには、ちゃんとしたのを食べてもらいたいと思い、
吐き気を我慢しながらカレーを頑張って作る貴子。
玉ねぎを切る匂いで一度キッチンを離れ、
換気扇を強にして、深呼吸する。
鍋の中でぐつぐつと音を立てるカレー。
その匂いに、また少し顔をしかめる。
「……うっ」
一瞬シンクに手をつく。
でも火を止めるわけにはいかない。
「もうちょっと……」
自分に言い聞かせながら、なんとか仕上げる。
しばらくすると、玄関の音。
ケンジ
「ただいま、貴子、なんかカレーの匂いがする」
少し嬉しそうな声。
貴子
「ちょっと辛かったけど、頑張って働いてくれてるケンジの為にカレー作った。けど、ご飯の匂いはさすがにキツイから自分でよそって」
キッチンから少し離れた位置で言う。
ケンジ
「ありがとう」
本当に嬉しそうに言う。
貴子は、ご飯なしのカレーをよそってテーブルに置いた。
湯気が立つ。
その湯気に、また少し目を細める。
ケンジは皿にご飯をよそってカレーをかける。
その様子を、少し離れたところから見る貴子。
「美味そうだな」
スプーンを口に運ぶ。
「うん、うまい」
その一言に、貴子の肩の力が少し抜ける。
吐き気はまだある。
でも、少しだけ報われた気がした。
ケンジがカレーを食べている最中だった。
スプーンを口に運び、
「うまいな」ともう一口すくおうとした、その時。
貴子
「じゃじゃーん」
突然の明るい声。
ケンジ
「え?何?」
スプーンを止めて顔を上げる。
貴子は少しだけ得意げな顔。
でもどこか緊張も混じっている。
貴子
「子供の名前決めました」
ケンジ
「え?何にしたの?」
まだ軽い空気のまま聞く。
貴子
「ヒカルとミライ」
ケンジ
「ん?その2つで迷ってるって事?」
状況が追いついていない顔。
貴子はゆっくり首を横に振る。
貴子
「違うよ、決定」
バッグからそっとエコー写真を取り出し、テーブルに置く。
ケンジは箸を置き、写真を手に取る。
モニターに写った、ふたつの黒い影。
まだ小さい。
でも、はっきり“ふたつ”。
貴子
「双子って言われた」
静かな声。
ケンジの動きが止まる。
ケンジ
「え?本当に?」
貴子
「いきなり2人のママとパパになります」
少し笑おうとするけど、目は少し不安で揺れている。
ケンジは、エコー写真と貴子の顔を交互に見る。
言葉がすぐに出ない。
ケンジ
「そうか……」
それは戸惑いでも、拒否でもなく、
ただ、現実を受け止めようとする声。
テーブルの上のカレーの湯気が、ゆらりと揺れる。
部屋が少し静かになる。
貴子はその沈黙が少し怖い。
でも、逃げずにケンジを見る。
ケンジは、もう一度エコー写真を見る。
小さな影が、ふたつ。
まだ何もわからない形なのに、
そこに確かに“命”がある。
ケンジ
「ヒカル、ミライ、光る未来……、本当に、子供達がそうなるように、俺、頑張る」
さっきまでの戸惑いは消えている。
覚悟の混じった、静かな声。
貴子
「ケンジ……」
胸がぎゅっとなる。
不安もある。
でも、それ以上に、頼もしさが勝つ。
ケンジは写真をそっとテーブルに戻し、
ケンジ
「よーし」
と、少し気合いを入れるように言って、カレーをおかわりする。
その姿が、なんだか可笑しくて、愛おしい。
貴子は一瞬、自分のお腹に手をあてる。
そして、
貴子
「私も栄養2人分とらないと」
そう言って、少し照れながらおかわりする。
さっきまで、ご飯の匂いがきついと言っていたのに。
ケンジはそれを見て、ふっと笑う。
テーブルの上には、湯気の立つカレー。
エコー写真。
そして、ふたりの“覚悟”。
いきなり4人家族になる。
でも、不思議と怖くない。
部屋の空気が、少しだけ強くなった気がした。
双子ってわかってからケンジの帰る時間は、遅くなっていた。
玄関のドアが開く音。
ケンジ
「ただいま」
少しだけ息が上がっている。
貴子はソファから顔を上げる。
貴子
「今日も遅かったね、最近どうしたの?」
ケンジ
「何が?」
本当に悪気のない顔。
貴子
「帰りが遅いから……」
一瞬だけ間。
ケンジは鞄を置きながら言う。
ケンジ
「いきなり2人の命を授かるんだ」
その声は真面目だった。
貴子
「うん」
ケンジ
「だから倍頑張ってるだけだよ」
笑って言うわけじゃない。
でも重くもない。
ただ、当たり前のことのように。
貴子は胸の奥が少しだけきゅっとする。
嬉しい。
でも――
貴子
「でも……」
言葉が続かない。
「そんなに無理しなくていいよ」と言いたいのか、
「私のせいみたい」と言いたいのか、
自分でもわからない。
ケンジは気づかない。
ケンジ
「貴子は、ちょっとでも何か食べて、ゆっくり休んで」
優しい声。
でも、自分のことは何も言わない。
貴子
「そうだね…」
テーブルの上には、ケンジが買ってくれたゼリー。
スプーンですくって口に運ぶ。
冷たさが少しだけ心を落ち着かせる。
ケンジはその様子を見て、ほっとしたように微笑む。
その笑顔があるから、
まだ不安にはならない。
でも、
「倍頑張ってる」
その言葉だけが、
静かに胸に残った。
そして次の日、またケンジの帰りが遅い。
玄関のドアが開く。
ケンジ
「ふぅ~ただいま~」
いつもより疲れた声。
貴子はソファに座ったまま、ゆっくり顔を上げる。
貴子
「おかえり……」
声が少しだけ冷たい。
ケンジは気づかない。
ネクタイを外しながら言う。
ケンジ
「ちょっとさぁ、そこのコンビニさ、3時間だけだけど深夜バイト募集しててさ」
貴子は一瞬止まる。
貴子
「それがどうしたの?」
ケンジ
「働こうかな、って思って」
部屋の空気が変わる。
貴子
「………好きにすれば」
短い。
低い。
ケンジは眉をひそめる。
ケンジ
「何?どうしたの?」
貴子は立ち上がらない。
視線も合わせない。
貴子
「私の気持ちわからないなら、好きにしたらいいって言ってるの」
そのままベッドへ向かう。
ケンジ
「なんだよ、双子だろ?お金かかるしさ」
悪気はない。
でも、焦っている。
貴子は振り返る。
貴子
「お金の事だけ………」
ケンジ
「違うよ、貴子の事も思ってるし将来の事も……」
言葉が続かない。
どう伝えたらいいのかわからない。
貴子
「そばに入れる時はそばにいる、私をおいていかないって言ったのは誰よ」
ケンジ
「……俺だけど」
小さな声。
貴子
「今のケンジは、パパになる人じゃない、ただ単にお金を稼ごうとする人」
ケンジは何も言えない。
貴子
「お金じゃ、普通に子供は育てられても愛は育てられないよ」
沈黙。
ケンジの手が、ぎゅっと握られる。
貴子
「今のケンジは、私の好きになったケンジじゃない……、お金の事しか考えてないケンジを好きになったんじゃない」
言い終わった瞬間、貴子の目に涙が浮かぶ。
ケンジはやっと顔を上げる。
ケンジ
「ごめん……双子だから頑張って稼がないとって思って……貴子の辛さとか考えてなかった」
本心。
でも、もう少し早く言えたはずの言葉。
部屋は静か。
どちらも悪くない。
でも、少しだけ、ズレた。
ケンジはゆっくり近づく。
ケンジ
「貴子……」
そっと手を伸ばし、頭を撫でる。
でも、
貴子
「触らないで……」
小さな声。
怒鳴ってはいない。
でも、拒絶。
ケンジの手が止まる。
そのまま、ゆっくり下ろす。
ケンジ
「………ごめん」
謝るしかできない。
何をどうすればよかったのか。
働くのも違うのか。
働かないのも違うのか。
そばにいるって、どういうことなのか。
何が正解なのか、何が答えなのか。
今のケンジには、わからなかった。
ベッドに背を向けたままの貴子。
立ち尽くすケンジ。
同じ部屋にいるのに、
ほんの少しだけ、距離ができた夜だった。
貴子は自分でも、何故ケンジに冷たくしてしまったのか、わからなかった。
本当は、深夜バイトをしようとしてくれたことだって、
双子のために頑張ろうとしてくれたことだって、
嬉しくないわけじゃない。
わかっている。
でも――
しんどさ。
不安。
急に二つの命を抱えた重さ。
日中ひとりで感じている気持ち。
それを、何も言わずに
「倍頑張ってる」
と外に向かって走られたことが、苦しかった。
家で一人。
吐き気と戦って。
双子の未来を考えて。
それでも「大丈夫」と笑っていたのに。
まるで
“自分は頑張って働いてる”
と言われたように感じた。
そんなつもりじゃないとわかっている。
でも、
そばにいるって言ったのは誰?
一緒に向き合うって、そういうことじゃないの?
貴子は布団の中で目を閉じる。
涙は出ない。
ただ、胸が重い。
怒りでもない。
失望でもない。
言葉にできない、もやもや。
そしてそのもやもやは、
きっとケンジにも伝わっていない。
それが、また苦しかった。
翌朝、ケンジは休日だった。
キッチンから漂う、焼いたパンの匂い。
ケンジはトレイに朝食をのせ、寝室へ向かう。
ケンジ
「貴子、朝ごはん作ったよ」
ベッドにいる貴子をかるくゆする。
貴子は布団に顔をうずめたまま。
貴子
「食べたくない……」
ケンジ
「何か食べないと……」
優しい声。
でも、その優しさが今は刺さる。
貴子
「ほっといて……」
ケンジ
「ほっとけないよ……」
少しだけ強くなる声。
貴子はゆっくり振り向く。
貴子
「いつも、ほっといてるじゃない」
ケンジ
「ほっといてないだろ」
貴子
「ほっといてるよ、毎日、毎日、帰り遅いし」
ケンジ
「だから、それは頑張って残業して稼いでだな」
言いかけて、止まる。
貴子
「だから、昨日もお金を稼ぐ事しか考えてないケンジを好きになったんじゃないって言ったじゃない」
ケンジ
「俺にできる事って、それぐらいだから」
その言葉は、弱さだった。
でも貴子には届かない。
貴子
「子供なんて、できないほうが良かったのかな……」
言った瞬間、空気が凍る。
ケンジ
「なんて事言うんだ貴子!」
初めて声が大きくなる。
怒りじゃない。
驚きと、怖さ。
貴子の目から涙がこぼれる。
貴子
「だって、ケンジがケンジじゃなくなるんだもん……」
それが本音だった。
お金を追いかける人じゃなくて、
不器用でも、
そばにいるケンジが好きだった。
ケンジは言葉を失う。
ケンジ
「貴子……」
何を言えばいいのかわからない。
謝ればいいのか。
抱きしめればいいのか。
否定すればいいのか。
正解が見えない。
ただ、そこに立っている。
ケンジは少しうつむく。
ケンジ
「ごめん……もう残業もやめる……なるべく早く帰るようにする……」
必死だった。
正解を探して。
貴子
「……」
すぐには答えられない。
ケンジ
「双子の為にって空回りしてた」
やっと、自分の言葉で言えた。
貴子はゆっくり目を閉じる。
貴子
「……ケンジ」
小さな声。
「わかってる……ケンジが頑張ってるのはわかってる……、でも。なんか違うんだもん」
その“なんか”が、2人ともわからない。
ケンジはうなずく。
否定しない。
言い返さない。
ケンジ
「……とりあえず朝ごはん食べよ、体壊してほしくない、少しでもいいから」
強くもなく、弱くもない声。
ただ、心配している。
貴子
「わかった……」
ゆっくり起き上がる。
テーブルに並ぶ朝ごはん。
まだ少しぎこちない空気。
でも、壊れてはいない。
ケンジはトーストを小さくちぎって渡す。
貴子は一口食べる。
その姿を見て、ケンジは少しだけ安心する。
問題は消えていない。
でも、今日も同じ家で、同じ食卓につく。
それが今は、精一杯だった。
数日後。
定期検診の日。
つわりは少し落ち着いてきたけれど、
お腹の奥が張る感じが、前より増えている気がしていた。
産婦人科の待合室。
母子手帳を膝に置いて、静かに順番を待つ。
名前を呼ばれ、診察室へ。
エコー。
モニターに映る、ふたつの小さな影。
医師はしばらく画面を見つめてから言う。
医師
「赤ちゃんたちは順調ですね」
貴子は、ほっと息をつく。
だが、そのあと。
医師
「ただ、子宮の張りが少し強いです。双子ですから、どうしても負担は大きくなります」
貴子
「……張り、ですか」
医師
「今すぐ入院という状態ではありません。ただ、できるだけ安静にしてください。横になる時間を増やして、無理はしないように」
母子手帳に記入される文字。
“安静”
その言葉が、やけに重い。
⸻
家に帰る。
ケンジはちょうど帰宅したところだった。
ケンジ
「おかえり。どうだった?」
貴子はカバンを置いて、ゆっくり座る。
貴子
「赤ちゃんは順調。でも……ちょっと落ち着いてないみたい。安静にって言われた」
ケンジは少しだけ黙る。
目が静かに変わる。
ケンジ
「そうか」
それだけ。
怒らない。
慌てない。
でも、真剣になる。
ケンジ
「今日は、もう横になって」
強くない。
ただ、静かな声。
貴子はうなずく。
寝室へ向かう。
横になると、天井がやけに近い。
“安静”
それは、何もしない時間が増えるということ。
何もできない時間が増えるということ。
キッチンから、ケンジの物音が聞こえる。
食器の音。
水の音。
冷蔵庫の開け閉め。
しばらくして、ケンジが部屋に入ってくる。
ケンジ
「ゼリー、冷えてる」
短い。
優しい。
貴子は受け取る。
貴子
「ありがとう」
ケンジは少しだけうなずく。
それ以上、何も言わない。
でも、その横顔はどこか固い。
貴子は思う。
“また、頑張ろうとしてる”
自分は横になっているだけ。
ケンジは働いて、家事もして。
申し訳なさが、胸の奥に広がる。
双子は順調。
でも、2人の間には、
まだ言葉にならない何かが、
静かに積もりはじめていた。
安静と言われた日から、数日後。
貴子はできるだけ横になるようにしていた。
洗濯も、掃除も、最低限。
それでも、お腹の奥がときどききゅっと張る。
何もしない時間が、やけに長い。
夕方。
玄関の鍵が回る音。
まだ外は明るい。
ケンジ
「ただいま」
最近は、前より帰りが早い。
貴子はベッドから顔を出す。
貴子
「おかえり」
ケンジは部屋をのぞき込む。
ケンジ
「大丈夫?辛くない?」
確認するような声。
責めるでもなく、命令でもない。
貴子は小さくうなずく。
ケンジはそれ以上聞かず、キッチンへ向かう。
水の音。
包丁の音。
数日前より、少し手つきが慣れている。
味噌の匂いが広がる。
ケンジが顔を出す。
ケンジ
「味噌汁作ってみたんだ」
貴子
「え?」
ケンジは少し照れたように言う。
ケンジ
「お医者さん、塩分とりすぎないようにって言ってただろ?」
貴子は小さく笑う。
ちゃんと覚えていた。
食卓。
簡単な夕飯。
ケンジは小さめのお椀を貴子の前に置く。
ケンジ
「これぐらいなら、いける?」
貴子
「うん」
一口すする。
温かい。
胸の奥までゆるむ。
ケンジは黙って自分の分を食べる。
しばらくして、ケンジがそっと言う。
ケンジ
「ヒカルとミライも美味しいって思ってるかな?」
貴子は少し笑って、お腹に手を当てる。
貴子
「パパの味噌汁どう?」
ケンジはゆっくり、お腹に手を置く。
目を閉じて、少し間を置いてから。
ケンジ
「俺、間違ってた……早く帰るようにする」
その声は小さいけれど、逃げていない。
貴子
「私もイライラして、ごめん」
2人の手が、お腹の上で重なる。
日が落ちていく。
部屋の中は静かで、やわらかい。
安静は続いている。
不安も消えてはいない。
それでも、
2人は少しずつ、同じ方向を向き直していた。
貴子は味噌汁を飲み終え、箸をそっと置く。
貴子
「ご馳走様、じゃ私、洗い物を……」
立ち上がろうとする。
ケンジはすぐに手を伸ばす。
ケンジ
「だめ、ゆっくりしてて」
強くない。
でも、はっきりしている。
貴子
「でも……」
ケンジは貴子のお腹に手をあてる。
優しく。
少しだけ笑いながら。
ケンジ
「ほら、ヒカルもミライも、ママ動かないで、って言ってる」
貴子はその手を見つめる。
あたたかい。
貴子
「うん、わかった、ありがとう」
ゆっくり立ち上がり、寝室へ向かう。
ベッドに腰を下ろすと、少しだけ胸がざわつく。
嬉しい。
守られている。
でも同時に、
“私は何もしてない”
そんな小さな気持ちも、どこかに残る。
キッチンから水の音が聞こえる。
食器が触れ合う音。
ケンジが洗い物をしている。
その音は安心する音。
でも、少しだけ遠い音でもあった。
数日後。
安静と言われてから、家の中の空気は少し変わっていた。
ケンジは早く帰る。
料理もする。
洗濯もする。
慣れない手つきでも、文句ひとつ言わない。
でも、どこか無理をしているのがわかる。
貴子はベッドの上から、それを見ていた。
罪悪感と、ありがたさと、申し訳なさ。
全部が混ざる。
ある夜。
ケンジが言いにくそうに口を開く。
ケンジ
「貴子、ちょっと相談していい?」
貴子
「うん?」
ケンジ
「俺の母さんに、少しだけ手伝いに来てもらおうと思ってる」
貴子は一瞬、目を瞬かせる。
貴子
「お義母さんに?」
ケンジ
「双子だし……安静って言われてるし……俺だけじゃ足りない気がして」
言い訳じゃない。
弱さを認める声。
貴子は少し考える。
正直、他人が家に入るのは緊張する。
しかも“母親”。
でも――
貴子
「お義母さんと、ゆっくり話した事ないけど……」
ケンジは貴子に近づき、
「こんなに俺を優しく育てた母さんだぞ~」
と自慢げなポーズをとる。
その仕草が、少し子供っぽくて、
貴子は思わず微笑む。
貴子
「そうだね、優しくて頑張り屋のケンジを育てたお義母さんだもんね。わかったよ」
ケンジは、ほっとしたようにうなずいた。
数日後。
ケンジの母がやって来た。
名前は佐々木綾子。
穏やかな笑顔。
柔らかい声。
「貴子さん、やっぱり綺麗ね~。うちの子には、もったいないくらい」
貴子
「ケンジさんもかっこいいです。お義母さん似なんですね。お義母さんもお綺麗です」
母は手を振って笑う。
「あら~、綺麗だなんて言われたのいつぶりかしら。とにかく双子って聞いて、びっくりしたわ。ちょくちょく来るから、ゆっくりしなさい」
責めない。
探らない。
詮索しない。
ただ、自然に台所へ向かう。
エプロンを結び、冷蔵庫を開ける。
手際がいい。
「ケンジ、それ洗ってちょうだい」
「はいはい」
母と息子の軽い掛け合い。
台所から聞こえる包丁の音。
湯気の立つ匂い。
部屋が整い、食事が整い、
家が“ちゃんとした家庭”の形になっていく。
貴子は久しぶりに“何もしないでいい”時間を持つ。
横になっていてもいい。
誰も責めない。
誰も困らない。
楽だ。
本当に楽。
でも。
天井を見つめながら、ふと思う。
――自分のお母さん。
最後に、ちゃんと話したのはいつだろう。
女になったことも言えていない。
結婚したことも、曖昧なまま。
ましてや――
妊娠しているなんて。
言えない。
どう説明する?
どう受け止められる?
元気にしてるのかな……
ケンジの母の笑い声が、遠くで聞こえる。
優しい声。
温かい家。
なのに、
胸の奥が、少しだけ、ひりついた。
そして。
ケンジ
「できたよ~おいで」
綾子
「お口に合うかわからないけど」
食卓に何品か並べられる。
煮物。
ほうれん草のおひたし。
だしのきいた卵焼き。
湯気の立つ味噌汁。
やさしい匂い。
最近、少しずつ食べられるようになった貴子は、目を輝かせる。
貴子
「うわぁ~どれも美味しそう~」
椅子に座り、
「いただきます」と手を合わせる。
一口、煮物を口に運ぶ。
優しい味。
胃がびっくりしない。
胸がじんわりする。
貴子
「美味しい~」
自然に笑顔になる。
ケンジは嬉しそうに頷く。
ケンジ
「そうだろ、母さんの料理、絶品なんだ」
少し誇らしげ。
綾子はふふっと笑う。
綾子
「本当に、マザコンで困ってるの~」
わざとらしく肩をすくめる。
綾子
「ケンジ、貴子さんと、ここで2人で住むから、父さんと一緒に住みなさいよ」
貴子はすかさず乗っかる。
貴子
「ナイスアイデアですね、お義母さん」
ケンジ
「ちょっと~~」
3人の笑い声が重なる。
その瞬間だけは、
不安も、安静も、双子の重みも、
全部忘れて、
ただの“家族の食卓”だった。
でも。
ケンジが「母さんの料理は絶品」と言った言葉が、
ほんの少しだけ、
貴子の胸の奥に残る。
私は、いつか、
ちゃんと“この家の味”を作れるのかな。
そんな小さな思いを、
誰にも言わずに、飲み込んだ。
綾子はテーブルに座り、
紙にペンで何か書き始める。
さらさらと迷いのない字。
「これ、買い物行ってきて」
ケンジ
「うん、いってくる。結構色々あるな」
綾子
「安いスーパー、角を曲がったとこよ」
ケンジ
「了解」
軽い足取りで出ていく。
玄関の扉が閉まる音。
家の中が、静かになる。
綾子はゆっくり湯のみを手に取り、貴子を見る。
綾子
「ところでケンジとは、どうなの?」
貴子の手が、少し止まる。
貴子
「え? あ、あの……」
綾子は柔らかく笑う。
綾子
「すぐ答えが出ないって事は……ちょっとうまくいってない感じね」
責める口調じゃない。
ただ、見抜いているだけ。
貴子は視線を落とす。
貴子
「はい……」
綾子は、ふっと息を吐く。
綾子
「あの子ね、趣味もなくて、全然笑わない子だったの。家に帰っても、何にも言わない子」
貴子
「そうなんですね」
綾子
「でもね、あなたと付き合い始めたあたりから、なんか変わったの」
貴子は顔を上げる。
貴子
「え?」
綾子
「帰ってきて、今日はこんな事があった、って話すようになったのよ」
少し誇らしげに。
綾子
「うん、それとね、あの子、昔から、周りを見ないでまっすぐ走って頑張りすぎるところがあるの。ちょっと不器用だから、許してあげて」
その言葉に、貴子は小さく笑う。
貴子
「はい……まさしく、それで、この前、大喧嘩しました。一方的に、わたしが怒っただけでしたけど」
綾子は首を振る。
綾子
「喧嘩は、片方だけじゃできないのよ」
少し間を置く。
綾子
「家事とかは、私、また手伝いにくるし、お金の事も少しは援助するし、落ち着くと思うわ」
その“援助”という言葉に、
ほんの一瞬、
貴子の胸がきゅっとなる。
ありがたい。
でも――
自分たちの家庭に、
“支えてもらう”前提が入る。
貴子は笑顔を崩さない。
貴子
「ありがとうございます」
綾子は、貴子の手にそっと触れる。
綾子
「あなたがいるから、あの子はちゃんと大人になれてるのよ」
優しい。
本当に優しい。
だからこそ。
胸の奥に、静かな波が立つ。
私は、ちゃんとできてるのかな。
綾子は、ふと視線をやわらげたまま言う。
綾子
「それと、あなた両親と事情があって会えないって本当?」
その一言で、空気が少し変わる。
貴子の指先が、ぎゅっと握られる。
俯く。
貴子
「本当です……」
声が、少しだけ小さい。
綾子
「子供が産まれても?」
間ができる。
胸の奥が重くなる。
貴子
「は、はい……」
綾子はしばらく何も言わない。
そして、静かに言う。
綾子
「事情は聞かないけど」
その前置きが、優しい。
でも逃げ道でもない。
綾子
「親ってね、自分の子供の結婚、そして孫ができたのを喜ばない親なんていないの」
一拍置く。
綾子
「だから、なかなか決心できないかもだけど……会ってあげなさい」
まっすぐな目。
押しつけではない。
でも、真剣。
貴子の胸の奥が、きゅっと締まる。
自分の母。
最後に見た背中。
言えなかった言葉。
貴子
「は、はい……」
返事はした。
でも、心はまだ揺れている。
子供が無事産まれて、落ち着いたら……
その時に。
その時に――
そう思いながら、視線を落とす。
その時。
玄関の鍵の音。
「ただいま~、めちゃくちゃ重い」
ケンジの声が、少し弾んでいる。
ドアが開く。
両手いっぱいの買い物袋。
肩で息をしている。
「双子分って考えると、なんか色々増えたわ」
袋をどさっと置く。
その無邪気さに、
さっきまでの重たい空気が、少しだけほどける。
綾子が笑う。
「頑張り屋は誰に似たのかしらね」
貴子は、ケンジを見る。
この人は、知らない。
自分の“言えない過去”も、
今揺れている心も。
でも。
今は、
この人と、この家族で、
前に進んでいる。
その事実だけが、少し救いだった。
ケンジは大きな買い物袋をどさっと床に置く。
ケンジ
「双子って聞いてから、なんか量の感覚バグってる」
綾子
「まだ生まれてないのに気が早いわよ」
ケンジ
「いや、なんかさ、今から準備しとかないとって思って」
袋の中から、ノンカフェインのお茶、果物、貴子が食べられそうなヨーグルト。
綾子は中身を見て、にこっとする。
綾子
「ちゃんと考えてるじゃない」
ケンジ
「母さんに教わったからな」
貴子はそのやり取りを見ながら、ふっと笑う。
さっきまで胸に残っていた重さが、少し軽くなる。
綾子は立ち上がる。
「今日はこれで十分。あとは私がやるから、あなたは貴子さんの横にいなさい」
ケンジ
「はいはい」
貴子の隣に腰を下ろす。
ケンジ
「重くなかった?」
貴子
「うん、大丈夫」
ケンジはお腹にそっと触れる。
「ヒカル、ミライ、パパ荷物持ってきたぞ」
綾子
「まだ聞こえてないわよ」
3人で笑う。
その夜は穏やかだった。
食事をして、
少しテレビを見て、
貴子は早めに横になる。
ケンジは布団を整え、
綾子は洗い物をしている。
この家は、ちゃんと回っている。
貴子はお腹に手を当てる。
さっき言われた言葉――
“会ってあげなさい”
その言葉は消えないけれど、
今はまだ、焦らない。
今は、この命を守ること。
ヒカルとミライが元気に育つこと。
それだけでいい。
出産まで、家族は穏やかに続いていく。
双子とわかってからの検診日。
ケンジは仕事だった。
朝、ネクタイを締めながら言う。
ケンジ
「本当は行きたかったけど……ごめん」
貴子
「ううん、大丈夫。お義母さんいるし」
綾子
「任せなさい。ちゃんと聞いてくるから」
ケンジは貴子のお腹にそっと触れる。
「ヒカル、ミライ、今日はちゃんと先生の言うこと聞くんだぞ」
少し照れたように笑い、仕事へ向かう。
⸻
病院。
今日は前より検査が多い。
双子は慎重に見るらしい。
エコー。
画面にふたつの影。
医師の表情が真剣になる。
時間が少し長い。
貴子の胸がざわつく。
綾子が横で静かに言う。
「大丈夫よ」
医師
「順調です。少し小さめですが、双子なら許容範囲です」
その言葉で、やっと息ができる。
心音も、ふたつ。
確かに、生きている。
⸻
帰宅。
ケンジはまだ帰っていない。
綾子は夕飯の準備をしながら言う。
「仕事中だろうけど、電話してあげなさい」
貴子は少し迷ってから、電話をかける。
ケンジ
「もしもし?どうだった?」
声が、少しだけ焦っている。
貴子
「順調だって」
一瞬の沈黙。
そして、
「よかった……」
本気で安心した声。
「今日、早く帰れるようにする」
貴子
「無理しなくていいよ」
ケンジ
「無理はしない。でも、顔見たい」
夜。
いつもより少しだけ早く帰ってくるケンジ。
エコー写真を広げる。
「これがヒカルで、これがミライ?」
「逆かも」
3人で写真をのぞき込む。
ケンジは少し疲れている。
でも目は優しい。
崩れない。
まだ、家族はちゃんと一つ。
数日後。
昼休み。
社員食堂。
山田が味噌汁をすすりながら言う。
「そういえば、奥さんどうですか?」
ケンジは一瞬だけ迷う。
今までは「順調です」だけで済ませていた。
でも今日は、少し違う。
ケンジ
「…実はさ」
箸を置く。
「双子なんだ」
一瞬、空気が止まる。
「え?マジで?」
「すげぇな」
「いきなり2人かよ」
ざわっと笑いが起きる。
部長が振り返る。
「双子?本当か?」
ケンジ
「はい。まだ安定期入ったばかりですけど」
部長は少しだけ真顔になる。
「それは大変だな。でも、めでたい」
山田がニヤッとする。
「先輩、出費2倍っすね」
ケンジは苦笑する。
「笑えないけどな」
でも、その顔は暗くない。
どこか誇らしい。
「ヒカルとミライって名前、もう決めてるんです」
「早っ!」
「気が早いな」
ケンジは少し照れながら言う。
「光る未来、って意味で」
食堂が一瞬静かになる。
山田がぽつりと言う。
「いい名前ですね」
部長も頷く。
「ちゃんと帰れよ。残業ばっかりするな」
その言葉に、ケンジは一瞬だけ表情を変える。
以前の自分を思い出す。
「はい」
小さく、でもはっきり答える。
その日。
綾子は朝から家に来てくれていた。
双子の話をして、
会社で報告した話をして、
夕飯を一緒に食べた。
ケンジ
「今日、会社で双子って言った」
綾子
「ちゃんと言えたのね」
ケンジ
「うん」
少し照れた顔。
綾子は腕を組み、
「しっかり頑張りなさいよ」
と、言ったあと、
「……あ、しかし頑張り過ぎないように!」
ケンジ
「え?」
綾子は目を細める。
「聞いたんだからね、貴子ちゃん怒らせたって」
貴子
「ちょっと~お義母さん……」
ケンジ
「母さん、余計なことを」
綾子は笑う。
「夫婦はね、どっちかが無理するとバランス崩れるの。あなたは走りすぎるのよ」
ケンジは小さくうなずく。
夕飯を食べ終え、
テレビを少し見て、
時間がゆっくり流れる。
そして、綾子は立ち上がる。
「じゃあ、今日は帰るわね」
貴子
「もう帰られるんですか?」
「父さん一人にしてるからね。でもまた来るわ」
玄関。
靴を履きながら、
綾子はケンジを呼ぶ。
「ちょっと」
ケンジが近づく。
綾子は声を落として言う。
「守るのは、お金だけじゃないのよ」
ケンジは一瞬、母の目を見る。
その言葉の意味を、ちゃんと理解している顔。
「……うん」
綾子は満足そうにうなずき、
「じゃあね」
ドアが閉まる。
家の中が、少し静かになる。
貴子
「なんか、急に広くなったね」
ケンジ
「うん」
でも、不安じゃない。
2人でやる。
その覚悟が、ちゃんとある。
ケンジは貴子の隣に座る。
「大丈夫?」
貴子
「うん」
貴子はお腹に手をあてる。
ヒカルとミライは、静かにそこにいる。
まだ崩れない。
まだ、幸せを積む時間。
その夜。
ケンジはすぐに寝息を立てた。
最近は早く帰る分、疲れもたまっている。
貴子は隣で目を閉じたまま、眠れずにいた。
部屋は暗い。
カーテンの隙間から、街灯の明かりが少しだけ差し込む。
ゆっくり布団を抜ける。
起こさないように。
足音を立てないように。
そっとリビングへ行き、ソファーに腰を下ろす。
静かだ。
冷蔵庫の小さな音だけが聞こえる。
両手でお腹を包む。
ヒカルとミライは、まだ静かだ。
綾子の言葉が頭に浮かぶ。
「親って、自分の子供の結婚、そして孫ができたのを喜ばない親なんていないの」
本当に、そうだろうか。
自分の母の顔を思い出す。
台所に立つ後ろ姿。
叱られた日の声。
笑った日の顔。
女になったこと。
結婚したこと。
妊娠したこと。
何も言えていない。
言えない。
どう説明する?
「お母さん、私ね――」
そこまで考えて、言葉が止まる。
怖い。
否定されたら?
拒絶されたら?
それでも。
このお腹に、ふたつの命がいる。
この子たちにとっては、
自分が“母”になる。
だったら、
自分の母から、逃げ続けていいのだろうか。
目がじんわり熱くなる。
涙が一粒、頬を伝う。
そのとき。
寝室のドアが、そっと開く音。
ケンジ
「どうしたの? 眠れない?」
眠そうだけど、ちゃんと心配している声。
貴子は慌てて涙を拭く。
貴子
「ん? 大丈夫、ちょっとトイレで起きただけ……」
ケンジはゆっくり近づく。
ソファーの前に立ち、じっと貴子の顔を見る。
ケンジ
「その顔は、貴子の嘘ついてる時の顔……」
貴子
「え? あ、あの……」
うまく言葉が出ない。
ケンジは隣に座る。
距離は近いけど、急かさない。
ケンジ
「話して楽になる事なら話して……お腹にも悪いから」
その言い方は優しい。
責めるでもなく、詰めるでもなく。
ただ、心配。
貴子は視線を落とす。
言いたい。
でも、まだ整理がつかない。
貴子
「わかった……でも、今日は、こんな時間だしケンジ仕事だから……時間ある時に話す」
ケンジは少しだけ考えて、うなずく。
ケンジ
「わかった。約束だよ」
貴子
「うん」
ケンジは立ち上がり、そっと手を差し出す。
「戻ろう」
貴子はその手を握る。
2人でベッドへ戻る。
布団に入り、横になる。
ケンジの手が、自然にお腹に触れる。
何も言わない。
でも、その温もりがある。
貴子は目を閉じる。
さっきより、少しだけ呼吸が深くなる。
不安は消えていない。
母への迷いも、そのまま。
それでも、
今は隣にケンジがいる。
その安心だけを胸に抱いて、
2人は静かに眠りについた。
翌朝。
ケンジが出勤してから、少ししてインターホンが鳴る。
すれ違うように綾子がきた。
綾子
「どう~体調は?」
明るく言いながらも、ソファーで浮かない顔をしている貴子を見て、表情が少しやわらぐ。
綾子
「うーん、悩み事がありますって顔に書いてあるね」
そう言って、貴子の横にゆっくり座る。
距離は近い。でも急かさない。
貴子
「あ、お義母さん……私……」
言葉が途中でほどける。
次の瞬間、涙がこぼれる。
綾子の胸元に顔を埋める。
綾子は驚かない。
ただ、そっと背中に手を置く。
綾子
「なに? 私に話してみなさい」
責めない声。
逃げない声。
貴子はしばらく泣いて、ゆっくり顔をあげる。
涙でにじんだ目で、綾子を見る。
「何を言っても驚かないって約束してくれますか?」
綾子は一瞬だけ息を整え、
そして真っ直ぐに見る。
綾子
「わかったわ、覚悟して聞くわ」
その目は、ぶれない。
貴子は小さくうなずき、
深く息を吸う。
貴子は、ゆっくり話しだす。
貴子
「信じてもらえないかもしれませんが、私、元は男だったんです……」
部屋の空気が一瞬止まる。
綾子
「……男?」
驚きはある。
でも、声は強くない。
貴子は震える指を握りしめながら、ゆっくり話し始める。
昔は、女が得だ、男は損だと、女批判ばかりしていたこと。
自分勝手な物差しで、世の中を見ていたこと。
そして、あの日。
BARで出会った不思議な薬。
冗談半分で飲んだ“女に変身できる薬”。
思っていたより、女は楽じゃなかったこと。
視線。
体の変化。
弱さ。
怖さ。
戻れる薬もできた。
元に戻る選択肢はあった。
それでも――
女として生きる道を選んだこと。
言葉を探しながら、何度も息を整えながら、
貴子は最後まで話した。
綾子は、途中で一度も遮らない。
そして。
綾子
「うーん……確かに信じられない話ね……」
少しだけ天井を見る。
「でもね」
ゆっくり、貴子の顔を見る。
「あなたの顔、嘘ついてる顔してないわ」
貴子
「お義母さん……」
声がまた震える。
綾子
「両親に会えない事情って、そういう事なのね……」
貴子
「はい……今日、ケンジさんにも言う約束してて……嫌われたりしないかな……って」
その不安は、本音だった。
綾子は少し笑う。
綾子
「ケンジは、今のあなたを好きになったの」
はっきり言う。
「今のあなたは、女として妊娠して、辛いのに頑張ってる。それを見てるのはケンジよ」
少し間を置いて。
「そりゃ、少しはショック受けるかもしれない。でも、大丈夫よ」
貴子
「それならいいんですけど……」
まだ完全には安心できない声。
綾子はふっと笑う。
綾子
「もし、嫌いだ離婚だってなったら、私がひっぱたいてやるわよ」
貴子
「お義母さん……」
その言い方が可笑しくて、
少しだけ、ほんの少しだけ、貴子の表情が明るくなる。
綾子はそっと貴子の手を取る。
温かい手。
綾子
「ケンジに言って、納得してもらえて、無事出産できたら」
真っ直ぐな目。
「孫連れて、ケンジと報告しに行きなさい。あなたのご両親に」
貴子
「えっ……」
綾子
「大丈夫。今と向き合ってるあなたを見たら、きっとご両親もわかってくれる」
逃げてない目で言う。
貴子
「はい……わかりました」
胸の奥の固まっていたものが、
少しだけ溶けた。
涙はまだある。
でも、それは怖さの涙じゃない。
少し、前を向ける涙だった。
玄関の鍵が回る音。
ケンジ
「ただいま」
いつもの声。
でも、今日は少しだけ重たい。
リビングには綾子もいる。
貴子は立ち上がろうとするけど、綾子が軽く肩に手を置く。
「座ってなさい」
貴子はうなずく。
ケンジが靴を脱ぎ、リビングに入ってくる。
貴子は、深く息を吸う。
ケンジは二人の空気を感じ取る。
「……どうした?」
貴子
「ケンジさん……今日、話すって言ってたでしょ」
ケンジの目がまっすぐになる。
「うん」
貴子は、両手を膝の上で重ねる。
「信じてもらえないかもしれないけど……」
一瞬、言葉が止まる。
それでも逃げない。
「私、昔は……女は得だ、男は損だって、女批判ばかりしてる男だったの」
ケンジの眉がわずかに動く。
貴子は続ける。
BARでのこと。
変身できる薬のこと。
女になったこと。
戻れる薬もあったこと。
それでも戻らなかったこと。
最後に、静かに。
「……元は、男だったの」
沈黙。
ケンジの口がわずかに開く。
ケンジ
「……ま、マジか……元は男……」
正直な反応。
ショックはある。
貴子の視線が揺れる。
「やっぱり……嫌だよね」
声が小さくなる。
ケンジはすぐに答えない。
少しだけ、考える。
その間が長く感じる。
やがて、ゆっくり息を吐く。
ケンジ
「びっくりはした」
正直に言う。
「でもな」
一歩近づく。
「俺が好きになったのは、あの日出会った時から、女として必死に生きてる貴子だ」
目を逸らさない。
「そこは、変わらない」
貴子
「ケンジ……」
涙がこぼれる。
綾子
「さすが私の息子、よく言った!」
バシーン。
ケンジ
「い、痛いよ、母さん!」
空気が少し緩む。
綾子は腕を組み、真面目な顔に戻る。
「子供が無事に産まれて落ち着いたら、2人で行きなさい」
「結婚しました、孫が産まれましたって、ご両親にちゃんと報告しに」
貴子
「はい、お義母さん」
ケンジも小さくうなずく。
「母さん、わかった」
その夜。
秘密は、家族の外では重い話かもしれない。
でもこの家の中では、
愛の方が勝っていた。
貴子が、そっと口を開く。
貴子
「ケンジ……」
ケンジ
「何?」
貴子は自分のお腹に手をあてながら言う。
「BARワンダーに行きたい」
ケンジは一瞬きょとんとする。
「どうして?」
貴子は少しだけ視線を落としてから、ゆっくり顔を上げる。
「真実を知ってたのは、あの3人だけだったから……」
一呼吸。
「ケンジにも伝えた事、報告したい」
ケンジは少し考えて、やわらかく笑う。
「そっか」
「じゃあ、少しだけ顔見せようか」
その会話を聞いていた綾子が、ふいに声をかける。
綾子
「ちょっと待って」
台所に行く音。
引き出しの音。
戻ってきて、貴子の前に水筒を差し出す。
「はい、これ持って行きなさい」
貴子
「これは?」
綾子は少し得意げに言う。
「烏龍茶も緑茶もダメだからね。麦茶よ。水だと味気ないだろうから」
貴子の顔がふっとやわらぐ。
「ありがとうございます、お義母さん」
ケンジが靴を履きながら振り返る。
「じゃ、行こうか」
綾子は2人を見送る。
「夕食、作って置いとくからね。早く帰ってらっしゃい」
ケンジ
「わかった」
玄関のドアが開く。
外の空気は少しひんやりしている。
貴子はそっとお腹に手をあてる。
ケンジは自然にその手を包む。
そうして2人は、
BARワンダーに向かった。
そしてBARワンダーに着く。
ケンジがドアを開け、2人で店内に入った。
カラン、とベルの音。
マスター
「あ、俺の子供は順調か?」
間髪入れず。
貴子
「ケンジの子供です!」
社長
「どないしたんや、夫婦そろって」
爺さん
「だいぶ目立ってきたのぅ」
貴子のお腹を見て、うんうんと頷く。
席に着く2人。
少しだけ、空気が落ち着く。
貴子はゆっくり口を開く。
「ケンジにも言ったんです……男だったって事」
一瞬、店の空気が静まる。
社長
「ほぅ~~……そりゃ勇気いったやろ」
爺さん
「本当にケンジを好きだから、隠せなかったんじゃな」
ケンジはまっすぐ前を向いたまま言う。
「男の貴子は、わかりませんが」
一拍。
「僕は、今の貴子が好きなので、受け入れました」
爺さんは静かにうなずく。
「そうじゃのぅ。今を生きる、今と向き合う。それが大事じゃ」
社長がふと笑う。
「それにしても、えらいお腹やな」
貴子
「双子なんです」
マスター
「え?いきなり2人のパパになるのか俺は」
貴子
「はいはい」
軽く流しながら、カバンから水筒を出す。
マスター
「持ち込みかよ~」
貴子
「だって、このBAR、烏龍茶か緑茶しかないし」
マスター
「そんな事ない!」
そう言って棚をガサガサ探し出す。
たんぽぽ茶、黒豆茶、ゆず茶、ごぼう茶、小豆茶、そば茶、コーン茶……
カウンターにずらっと並ぶ。
貴子
「え~、いっぱいある」
社長
「いつの間に仕入れとんねん」
マスターはそれを袋に詰めて、
「ケンジ!」
と手渡す。
ケンジ
「ありがとうございます」
貴子
「ありがとう~マスター」
マスターはニヤリと笑う。
「だから母乳が出たら……」
貴子 ケンジ
「ダメです」
店内に笑いが広がる。
爺さんは湯呑みをすすりながらつぶやく。
「守られとるのぅ、この子らは」
貴子はそっとお腹をなでる。
ワンダーは変わらない。
でも、2人は確実に前へ進んでいた。
そして、家に帰ってきた2人。
テーブルの上には、綾子が作ってくれた料理が並んでいる。
ケンジが温め直す。
湯気が立ち上る。
麦茶を注ぐ音。
いつもの家の匂い。
向かい合って座る2人。
貴子
「ケンジ……」
ケンジ
「ん?」
貴子は箸を止める。
「なんでもない……」
ケンジはじっと見る。
「なんでもない顔してない」
貴子は少し照れたように笑う。
「本当の事、話したのに……受け入れてくれて、ありがとう……」
ケンジは肩をすくめる。
「当たり前だろ」
一拍。
「頑張ってるし」
もう一拍。
「それに美人だし」
さらに視線がゆっくり下へ。
「それに……」
貴子
「それに……?」
ケンジの視線を追う。
「ちょっと~、今どこ見てたのー」
ケンジ
「いいだろ、夫婦なんだから」
貴子
「いたっ……」
突然、体をびくっとさせる。
ケンジ
「どうした?大丈夫?」
貴子はお腹を押さえる。
「なんか……今、蹴られた感じがして」
ケンジ
「え?」
椅子を引いて立ち上がる。
そっと、お腹に手をあてる。
静かになる部屋。
ケンジ
「……うーん、わかんないなぁ」
貴子は少し笑う。
「だって、今はなんともないもん」
二人でお腹を見つめる。
さっきまで冗談を言っていた空気が、少しだけ変わる。
ケンジ
「今の……ヒカルか?ミライか?」
貴子
「どっちだろうね」
手を重ねる。
しばらく待つ。
……何も起きない。
ケンジ
「タイミング悪いな、俺」
貴子はくすっと笑う。
「そのうち、嫌でもわかるよ」
小さな命が、確実にそこにいる。
さっきまで“未来”だった存在が、
今、少しだけ“現実”になった。
ケンジはもう一度、そっと撫でる。
「よろしくな」
それは、初めて父親としてかけた言葉だった。
とある検診の日。
今日は体調も悪くない。
綾子は来ようか?と言ってくれたけれど、
貴子は「大丈夫」と言って、1人で病院へ向かった。
待合室。
双子妊婦だと、呼ばれる時間も少し長い。
周りの妊婦さんより、少しだけ自分のお腹は大きい。
名前を呼ばれ、診察室へ。
エコー画面に、2人分の動き。
白黒の中で、それぞれが別々の方向に揺れている。
医師が少し笑う。
医師
「今日は、はっきり見えますね」
貴子
「え……?」
心臓が一瞬、強く鳴る。
医師は画面の左を指す。
「こちらが男の子」
小さな体が、ぴくっと動く。
胸の奥がぎゅっとなる。
そして、もう一方へ。
「こちらが女の子ですね」
貴子
「……え?」
男の子。
女の子。
頭の中で言葉がゆっくり重なる。
医師
「男女の双子ですね。どちらも順調です」
順調。
その一言で、目の奥がじんわり熱くなる。
ヒカルと、ミライ。
冗談みたいに呼んでいた名前が、
急に現実になる。
本当に、男の子と女の子。
本当に、2人。
貴子は画面から目を離せない。
お腹にそっと手を置く。
「……ヒカル、ミライ」
小さく、心の中で呼ぶ。
診察室を出る。
足が少しふわふわしている。
男の子と、女の子。
ヒカルと、ミライ。
本当に、そうなんだ。
病院の外に出る。
空気が少しだけ冷たい。
時計を見る。
ちょうどお昼前。
「……休憩中かなぁ?」
スマホを取り出す。
少しだけ深呼吸してから、電話をかける。
コール音。
1回、2回。
ケンジ
「もしもし?」
少しざわざわした音が後ろに聞こえる。
貴子
「今、検診終わったよ」
ケンジ
「どうだった?」
声が真剣。
貴子は一瞬、間を置く。
「性別、わかった」
ケンジ
「どっち?」
貴子は、はっきり言う。
「男の子と……女の子」
一瞬の沈黙。
そして次の瞬間。
ケンジ
「男と女の双子?!」
声、でかい。
電話の向こうが一斉にざわつく。
「え?双子?」
「男女?!」
「マジで?!」
「おめでとうございます!」
拍手の音。
誰かが笑いながら言う。
「佐々木さん、やりましたね!」
ケンジが慌てる。
「ちょ、ちょっと待って!すみません!」
でも声は隠しきれないくらい弾んでいる。
ケンジ
「本当に?男女?」
貴子
「うん。ヒカルとミライ」
電話の向こうで一瞬、静かになる。
ケンジ
「……すげぇな」
少しだけ声が震える。
「俺、男女の双子の父親か」
周りからまた声が飛ぶ。
「今日は奢りですね!」
「ヒカルとミライの父ちゃん!」
笑い声。
ケンジ
「ちがう!まだ生まれてない!」
貴子は思わず笑う。
さっきまで胸がいっぱいだったのに、
今は温かい。
ケンジ
「早く帰りたい」
貴子
「ちゃんと仕事してきなさい」
電話を切る。
スマホを胸に当てる。
お腹に手を置く。
「ヒカル、ミライ」
今日は、忘れられない日になった。
その日の夜。
ケンジはいつもより早く帰ってきた。
ドアを開けた瞬間から、顔が緩んでいる。
「男女ってさ……すごいな」
テーブルに向かい合って座る2人。
貴子はお腹を撫でながら言う。
「ねぇ、ヒカルとミライの事なんだけど」
ケンジ
「うん?」
「男の子がヒカル、とか決めるのやめない?」
ケンジは少し首をかしげる。
「どういうこと?」
貴子は少し照れながら笑う。
「最初に出てきた子がヒカル。次がミライ」
一瞬、ケンジが止まる。
「順番で?」
「うん」
「だってさ、どっちがどっちって決めなくてもいいじゃん」
「最初に会えた子がヒカル」
「あとから来た子がミライ」
ケンジはゆっくり頷く。
「それ、いいな」
少し考えてから続ける。
「なんか…平等だな」
貴子は笑う。
「でしょ?」
ケンジはお腹に手を当てる。
「じゃあ、ヒカル、どっちだ?」
貴子
「まだ内緒かもよ?」
2人で笑う。
性別がわかった日なのに、
性別で決めない。
それが、2人らしかった。
翌日。
「ちょっと、軽くウォーキングもした方がいいって言われたなぁ」
そう独り言をこぼしながら、
貴子はゆっくり外へ出た。
風は穏やか。
歩幅は小さめ。
双子のお腹は、前より確実に重い。
しばらく歩いて、公園のベンチに腰を下ろす。
はぁ……と小さく息を吐いた、そのとき。
足音。
「……貴子ちゃんだよね」
顔を上げる。
のぶだった。
昼間。
酒の匂いはない。
貴子
「は、はい……お久しぶりです」
のぶは少し距離をあけて、隣に腰かける。
じっとお腹を見る。
のぶ
「あの彼と結婚したの?……それで妊娠?」
貴子
「はい」
のぶは鼻で笑う。
のぶ
「いいよなぁ……女ってさ。妊娠したら家でダラダラできるんだろ?楽だよな」
その言葉。
昔、自分が言っていた言葉と同じ響き。
胸の奥が、少しだけ苦くなる。
貴子は、怒らない。
ゆっくり、のぶを見る。
貴子
「のぶさんって、女の人生って楽勝だと思ってますか?」
のぶ
「そりゃそうだろ。デート代出してもらえて、酒飲んで稼げてさ」
貴子は、お腹に手を置く。
貴子
「楽な人生なんて、誰にもないですよ」
静かに。
強く。
貴子
「女も男も関係ないです。
そうやって“どっちが得か”ばかり見てるうちは、たぶん何も変わらないです」
のぶ
「なんだそりゃ」
貴子は立ち上がる。
少し重たい動き。
でも、まっすぐ。
貴子
「嘘だと思って、今を頑張ってください。
今と向き合ってください。
絶対、前に進めますから」
それだけ言って、ゆっくり歩き出す。
振り返らない。
のぶはベンチに残る。
のぶ
「今を頑張る……今と向き合う、か」
風が吹く。
昼の公園は静かだ。
のぶの中に、ほんの少しだけ何かが残る。
家に着いた貴子。
ベッドで横たわってたら知らない間に寝てしまってた。
目が覚めた頃には、外は少し暗い。
体が重い。
リビングから料理の匂い。
綾子
「貴子さん、夕ご飯作ったわよ」
貴子
「あ、お義母さん……ウォーキングのあと寝てしまって……」
まだ少しぼんやりしながら、
ゆっくりテーブルまで行く。
貴子
「うわぁ~今日のも美味しそう~」
ケンジ
「早く食べよ、いただきます」
貴子
「いただきます」
湯気が立ち上る。
綾子
「ウォーキングとか、私はしなかったわ~」
貴子
「そういえばさぁ~途中でのぶさんに会ったよ」
ケンジ
「え?あいつ、何もされなかったか?」
箸を止める。
貴子
「シラフだったし、妊婦だったし」
綾子
「変な人なんだったら気をつけなさい」
貴子
「はい……でも昔の私みてるみたいだった、女は楽勝だ~って」
綾子
「女とか関係ないわよね」
ケンジ
「ちょっとだけ思う時もあるけどね~」
空気が一瞬だけ止まる。
貴子
「へぇ~ケンジそうなんだ~」
ケンジ
「た、たまにだよ」
綾子
「はい、馬鹿息子は、ほっといて、やっぱり2人だけで暮らしましょうか」
貴子
「そうですね、お義母さん」
ケンジ
「ごめんなさい~」
3人とも笑う。
でも、ほんの少しだけ、
笑いが揃っていない。
夜。
貴子がソファーでお腹をさすっている。
「なんかさっきからボコボコする~」
ケンジ、ぴたっと止まる。
「え?今?今?」
子どもみたいに横に滑り込んでくる。
手をそっと当てる。
静か。
ケンジ、真剣な顔。
小声で、
「ヒカルなら蹴って~」
……
一拍。
ボコッ。
ケンジ、目見開く。
「……きた」
ドヤ顔。
「あ、ヒカルだ」
貴子
「え、今のただのタイミングでしょ」
ケンジ
「いや、完全に今“はい”って蹴った」
貴子、笑いながら
「じゃあミライなら蹴って~」
一瞬静か。
トン。
貴子
「ほら!ミライ!」
ケンジ
「え、ちょっと待て、ちゃんと交互にやれ!」
その瞬間、ボコボコッ。
2人同時に
「うわっ!」
ケンジ
「会議してるな、これ」
貴子
「パパうるさいって言われてるかも」
ケンジ
「えー!ヒカル~味方してくれ~」
ボコッ。
ケンジ
「ほら!俺派!」
貴子
「いや今のは“うるさい”って蹴ったの」
2人で爆笑。
お腹はまた、ぽこん、と動く。
ケンジ、少しだけ優しい声で
「元気だなぁ」
貴子
「うん」
静かに笑い合う。
夜。
ベッドに入っても、貴子は落ち着かない。
ボコッ。
トン。
また、ボコボコ。
貴子
「……うぅ、今日すごい……ボコボコする……」
ケンジ
「ん……まだ動いてる?」
貴子
「うん……さっきからずっと……」
ケンジは一度、目をこすって時計を見る。
明日も仕事。起きる時間は早い。
ボコッ。
ケンジ
「……貴子、俺さ、明日仕事だから寝ないといけないし……」
貴子
「……うん」
ケンジ
「だから、俺ソファーで寝るよ」
貴子
「え?」
ケンジ
「貴子も気にせず寝た方がいい。俺が隣にいたら、動くたびに気になるだろ?」
貴子
「……気になるのは、ケンジがいなくなる方……」
ケンジ
「貴子……」
貴子は布団をぎゅっと握る。
ボコボコ。
貴子
「だってさ……今日ほんまに元気すぎて、怖いっていうか……落ち着かなくて……」
ケンジ
「大丈夫だよ」
貴子
「大丈夫って言われても、眠れない……」
ケンジは起き上がりかけていた体を、いったん止める。
貴子
「……行かないで」
ケンジ
「貴子、俺——」
貴子
「わかってる。仕事やし、寝ないといけないのもわかってる」
一拍おいて、小さく言う。
貴子
「でも、一緒にいて……」
ケンジは少しだけ黙る。
そして、ため息みたいに笑う。
ケンジ
「……わかった」
貴子
「ほんと……?」
ケンジ
「その代わり、俺が寝れるように協力して」
貴子
「うん……する……」
ケンジは布団に戻って、貴子の方へ体を寄せる。
そっと、お腹に手を置く。
ケンジ
「ヒカル、ミライ。パパ明日仕事だからさ、ちょっとだけ静かにしてくれ」
ボコッ。
ケンジ
「……聞いてないな」
貴子
「今の絶対ヒカル」
ケンジ
「いや、ヒカルならもっとこう……ボコッ!って感じで——」
ボコッ。
ケンジ
「ほら!今のヒカルだ」
貴子
「……たまたま当たっただけ」
ケンジ
「じゃあ次はミライ」
トン。
ケンジ
「……ほら、ミライ」
貴子
「……それも、たまたま」
ケンジ
「たまたまでも当てたいんだよ」
そう言って、ケンジは貴子の額に軽くキスをする。
ケンジ
「寝よ。俺、ここにいるから」
貴子
「……うん」
ボコボコはまだ続く。
でも、貴子の肩の力は少し抜けていく。
数日続いた。
夜になるとボコボコ。
横になると元気になるヒカルとミライ。
貴子は眠れない。
ケンジも、当然眠れない。
朝。
ケンジは目の下にうっすらクマ。
ネクタイを締めながら、
「よし、いってくる」
少し声がかすれている。
貴子
「……大丈夫?」
ケンジ
「大丈夫大丈夫」
笑う。
でも、目が少し赤い。
玄関で靴を履く。
立ち上がる時、少しだけふらつく。
貴子はそれを見逃さない。
ケンジ
「ヒカル、ミライ、パパ稼いでくるぞ~」
お腹に軽くタッチして出ていく。
ドアが閉まる。
静かになる部屋。
貴子はソファーに座ったまま、
自分のお腹をさする。
ボコッ。
元気。
でも胸がぎゅっとなる。
「……私のせいだ」
数日前の夜を思い出す。
「そばにいて」
「行かないで」
仕事あるのに。
寝不足なのに。
涙が、ぽろっと落ちる。
「ごめんなさい……」
声に出る。
ヒカルかミライか分からないけど、
トン、とお腹の中で動く。
まるで
“泣かないで”
って言うみたいに。
貴子は両手でお腹を包む。
「パパに、ちゃんと謝ろ……」
夜。
ヒカルとミライは、今日も元気。
ボコッ。
トン。
でも昨日ほどじゃない。
ケンジが帰ってきて、夕飯を食べて、
少しだけテレビを見て。
寝る時間。
ケンジは当たり前みたいに、
貴子の隣に横になる。
何も言わずに、
そっと体を寄せる。
貴子は、その横顔を見る。
目の下のクマ。
少しだけ、疲れた目。
それを見た瞬間、
涙がじわっと出てくる。
ケンジ
「……どうした?」
貴子、首を振る。
でも止まらない。
ぽろぽろ、涙が落ちる。
ケンジ
「え、なに?どっか痛い?」
貴子
「ちがう……」
しゃくりあげながら、
「ごめんなさい……」
ケンジ
「え?」
貴子
「わがまま言って……ごめんなさい……」
ケンジは一瞬きょとんとする。
貴子
「仕事あるのに……寝不足なのに……そばにいてって……」
「私ばっかり不安で……」
声が震える。
「ごめんなさい……」
ケンジは、ゆっくり貴子の頬に触れる。
「謝ることじゃない」
貴子
「でも……」
ケンジ
「俺が一緒にいたいから、いるだけ」
少し笑う。
「ヒカルとミライがボコボコしてもさ」
お腹に手を置く。
ボコッ。
ケンジ
「ほら、元気」
貴子は涙を拭く。
ケンジ
「わがまま言える相手が俺でよかった」
静かな声。
貴子は顔をうずめる。
「……ありがとう」
ケンジはそのまま抱き寄せる。
今日はソファーの話は出ない。
寄り添ったまま。
お腹の中は、トン、と静かに動く。
休日。
久しぶりに晴れた日。
貴子はゆっくりと準備をする。
ケンジ
「よし、今日は双子用ベビーカー見に行くぞ」
綾子
「私は荷物持ちね」
貴子
「お義母さん、普通に楽しんでください」
3人でショッピングモールへ。
ベビー用品売り場。
ずらっと並ぶベビーカー。
ケンジ、目を輝かせる。
「でかっ」
双子用は想像以上に大きい。
横並びタイプ。
前後タイプ。
貴子
「これ、エレベーター入る?」
綾子
「玄関も測っとかないとね」
ケンジは押してみる。
「お、意外と軽い」
でも曲がるときにガクン。
「あ、思ったより幅あるな」
貴子
「ヒカルとミライ、これに乗るんだね」
自然にその名前が出る。
ケンジ
「ヒカルこっち、ミライこっちか?」
貴子
「なんで勝手に決めるの」
綾子
「どっちでも喧嘩しそうね」
3人で笑う。
貴子はベビーカーのハンドルに触れる。
まだ中は空っぽ。
でも確実に、もうすぐそこに命が乗る。
ケンジ
「これにしよっか?」
綾子
「もう少し見なさい、勢いで決めない」
ケンジ
「えー」
貴子
「お義母さんの言う通り」
ケンジ
「2対1かよ」
でも顔は楽しそう。
売り場の明るい照明の中、
3人で未来を選んでいる。
ベビーカーを一通り見て、
次はベビー服コーナー。
小さな肌着。
手のひらサイズの靴下。
双子用の「おそろい」セット。
貴子は思わず立ち止まる。
「ちっちゃ……」
ヒカルとミライ。
この服を着るのか。
ケンジが値札を見る。
無言。
もう一着見る。
また無言。
綾子はその様子を横目で見る。
ケンジ
「双子って……倍かかるな」
冗談っぽく言うけど、
目は本気で計算している。
貴子
「肌着何枚いるんだろ」
ケンジ
「吐き戻しもあるって言うしな」
カゴに入れては戻す。
入れては戻す。
ベビーカーも高い。
チャイルドシートも2つ。
ベビーベッドどうする?
頭の中で数字が増えていく。
空気が少しだけ重くなる。
そのとき。
綾子
「そんな顔しなくていいの」
2人が振り向く。
綾子
「私も少しは援助するから」
さらっと言う。
ケンジ
「母さん……」
綾子
「双子よ?1人でも大変なのに」
値札を見て、うなずく。
「これは未来への投資」
貴子
「でも……」
綾子
「でも、じゃない」
優しく笑う。
「私はおばあちゃんになるのよ?」
少し誇らしげ。
「手伝わせなさい」
ケンジは黙って頭を下げる。
貴子の目がうるむ。
「ありがとうございます……」
綾子
「泣くのはまだ早いわ」
小さな肌着をカゴに入れる。
「まずは現実的に、肌着は多め」
ケンジ
「はい」
さっきより、空気が軽い。
重たい現実はある。
でも、
3人でなら持てる。
カゴの中には、
少しずつ増えていく小さな未来。
ショッピングモールを出る3人。
両手いっぱいの紙袋。
ベビーカーのカタログ。
小さな服。
哺乳瓶。
思っていたより、ずっと量が多い。
ケンジ
「……重っ」
肩に食い込む。
もう片手も限界。
「双子、なめてた……」
貴子はくすっと笑う。
「さっき勢いでカゴ入れてたの誰?」
ケンジ
「未来への投資だろ」
綾子は横で腕を組む。
「その未来、今あなたの腕ちぎれそうよ」
ケンジ
「母さん、ちょっとは持ってよ」
綾子
「私は妊婦じゃないけど年寄りよ?」
言いながらも、一番軽い袋をひょいと持つ。
でも明らかに量が多すぎる。
駐車場までまだ距離がある。
ケンジ
「……無理かも」
額に汗。
その様子を見て、綾子がスマホを取り出す。
「ちょっとあなた、今からショッピングモール車で来て」
電話口の向こう。
父
「いやだよ~」
即答。
綾子
「あなたも、おじいちゃんになるの!」
少し間。
「早く」
父
「わ、わかったよ……」
電話を切る。
綾子
「15分」
ケンジ
「父さん来るの?」
綾子
「荷物よりあなたが心配」
貴子が小さく笑う。
「お義父さん優しいですね」
綾子
「優しくないわよ、ただ逆らえないだけ」
数分後。
遠くから少し息を切らしながら近づいてくる父。
「どれどれどれ……さすが……ケンジの奥さんは美人だなぁ、さぁ貴子さん行きましょう」
パシ~ン。
綾子の平手が軽く飛ぶ。
父
「冗談じゃないか……」
ケンジ
「父さん!こっち、この荷物!」
父
「うわぁ、すごいな……」
袋を持ち上げながら目を丸くする。
「双子って大変なんだなぁ……」
車に積みながら、ぽつりと。
「本当に、もうすぐおじいちゃんか……」
その声は、照れと嬉しさが混ざっていた。
貴子は、その光景を見ている。
笑い合って、
軽口を叩いて、
自然に支え合っている家族。
自分には、
こんな風に、当たり前に手を差し伸べてくれる父はいない。
胸の奥が、少しだけきゅっとなる。
でも今は、
この家族の中にいる。
ヒカルとミライは、
生まれる前から、こんなに囲まれている。
お腹にそっと手を当てる。
ボコッ。
思わず声が漏れる。
ケンジ
「今のヒカル?」
貴子
「わかんない」
父
「元気だなぁ」
綾子
「あなたより元気よ」
父
「ひどいなぁ」
駐車場に、やわらかい笑い声が広がる。
貴子は、そっと目を細めた。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
ほんの一瞬だけ、そう思った。
荷物をケンジと手分けしながら家に運び終えた父。
最後の袋を置いて、ふぅと息を吐く。
父
「いやぁ……双子って準備の時点で運動会だな」
腕をぐるぐる回す。
「じゃあ、わしは帰るよ」
靴に手をかけようとする。
その背中に、綾子の声。
「4人で夕飯食べましょ、私作るから」
父、ぴたりと止まる。
「そうか?」
振り返る顔がもう緩んでいる。
「じゃあ、お邪魔するか」
その言い方がもう、帰る気ゼロ。
綾子は、台所へ向かう。
エプロンをさっとつける。
冷蔵庫を開ける音。
包丁のトントンという軽やかな音。
家の中に、生活の音が広がる。
3人は食卓へ。
ケンジ、椅子にどさっと座る。
「父さん、助かった」
父
「それより、どこで、こんな美人捕まえたんだよ」
にやりと貴子を見る。
「母さんも、今は、あれだが昔は美人でな」
綾子
「あなた、聞こえてるわよ」
間髪入れず。
「それに今も美人の間違い」
父
「はいはい」
貴子はクスクスっと笑う。
「おふたりのような夫婦になりたいです」
父
「わしらみたいか」
ケンジを見る。
「ケンジ、尻に敷かれるぞ、貴子さんに」
ケンジ
「それは嫌だなぁ~」
貴子
「そんな事しないわよ~」
父
「いやぁ~、母になると強くなるからなぁ、分からんぞ」
その言葉に、貴子は一瞬だけお腹をなでる。
“母になる”。
まだ実感は半分。
でも、確実に近づいている。
台所から綾子の声。
「あなた、そこに座ってないでお茶ぐらい出しなさい」
父
「はいはい」
立ち上がる。
湯のみを出す手つきがぎこちない。
ケンジが笑う。
「父さん、完全に使われてる」
父
「昔からだ」
でもどこか嬉しそう。
そのやりとりを見ながら、
貴子はそっとお腹に手を当てる。
ボコッ。
はっきりと。
父
「お?」
貴子
「今、蹴りました」
ケンジ、身を乗り出す。
「ヒカル?」
貴子
「わかんないって」
父はお腹を見つめる。
少し照れくさそうに、でも真面目な顔で。
「わしも……そのうち抱っこするんだな」
ぽつり。
その声には、
実感と、
責任と、
少しの誇らしさが混ざっていた。
台所からいい匂いが漂う。
煮物の香り。
味噌の香り。
笑い声。
この家には、
笑い声と、
台所の音と、
未来の気配がある。
貴子は、
その真ん中にいる。
胸の奥が、じんわり温かい。
そして少しだけ――
怖いくらいに幸せだった。
どうにかケンジ、ケンジの両親の助けもあり、
貴子のお腹は、もう隠しようもないほど大きくなった。
最初はふくらみだった。
今は、存在。
双子分の重み。
歩くだけで息が上がる。
靴下を履くのも一苦労。
夜、寝返りひとつ打つだけで目が覚める。
ボコッ。
ドン。
ヒカルとミライは、遠慮がない。
ケンジはもう慣れた手つきで、
貴子の背中にクッションを入れる。
「ここ?」
「うん、そこ」
綾子は毎日のように顔を出す。
父も週末は必ず来る。
「まだか?」
と聞いては、
「まだよ」
と綾子にたしなめられる。
家の中には、
ベビーベッドが組み立てられ、
小さな肌着が洗われ、
双子用ベビーカーが玄関に控えている。
未来は、もう準備万端だ。
でも貴子の体は、
準備万端ではない。
足はむくみ、
腰は重く、
呼吸は浅い。
夜。
ケンジがそっとお腹に手を当てる。
「ヒカルなら蹴って」
ボコッ。
「お、ヒカルだ」
「適当言うな」
すぐにもう一発。
ドン。
「今のはミライだな」
「だから適当」
笑いながらも、
どこか緊張している。
予定日まで、あと2週間。
双子だから、
もしかしたらもっと早いかもしれない、と医師は言った。
カレンダーの赤い丸。
近づく日付。
幸せと、
不安と、
覚悟。
全部が混ざって、
家の空気は、少しだけ張り詰めている。
夜。
貴子はベッドに横たわっている。
もうお腹は、両手で抱えたくなるほど大きい。
寝返りひとつにも時間がかかる。
ケンジはその姿を見て、少しだけ真顔になる。
「貴子、さすがにここまで大きくなったら、俺寝ぼけて蹴ったら怖いし……ソファーで寝るよ」
冗談っぽいけど、本気の声。
貴子は少し黙ってから、
「うん……寂しいけど仕方ないね……」
ケンジはうなずいて、リビングのソファーをベッドの横までゆっくり引き寄せる。
床に傷がつかないように、慎重に。
「よし……」
位置を整えて、ベッドのすぐ横にぴったりつける。
「これで寂しくない」
ほとんど距離は変わらない。
貴子は少し笑う。
「ケンジ……ありがとう」
ケンジはベッドに近づき、貴子のお腹に顔を近づける。
「ヒカル、ミライ、もう夜だぞ。ママを寝かしてあげなよ」
ボコボコ。
勢いよく動く。
貴子
「パパうるさいよ~って」
ケンジ
「ちがうよ、わかった~、だよ」
そっと手を置く。
「それと、出てくる時も、ママを困らすなよ~」
ボコボコッ、ボコボコッ。
貴子
「もう~興奮したんじゃない?」
ケンジ
「ちがうよな、返事だよな?」
ボコッ……ボコッ。
少し落ち着いた動き。
貴子は目を閉じる。
「じゃあ、寝ようか……おやすみ」
ケンジもソファーに横になる。
手を伸ばせば届く距離。
しばらく、貴子の寝顔を見つめる。
お腹は静かだ。
ヒカルとミライは、本当に返事をしたのか。
それとも、ただ元気なだけなのか。
部屋は暗くなる。
静かな夜。
何も起こらない夜。
でも、確実に――
その日は近づいている。
もちろんケンジの理解もあり、貴子はガールズバーの仕事を辞めてはいなかった。
ノゾミ
「貴子ちゃん、眠そうだね。大丈夫?」
貴子
「最近、寝ても寝ても眠くて」
ノゾミ
「え~、毎晩毎晩ケンジさんに寝かせてもらえてないとか?」
貴子
「ちがうよ~、そんな毎日してないし」
ノゾミ
「そっかぁ~、毎日じゃないってことは週5ぐらいで」
貴子
「もう、ノゾミちゃんたら~」
軽口を叩き合いながらも、
その裏で――
少しずつ、確実に。
貴子の体調には変化が現れはじめていた。
そして翌朝。
ケンジは出勤の身支度をしていた。
貴子
「ねぇ、ケンジ」
ケンジ
「どうした?」
貴子
「なんか香水つけてる?」
ケンジ
「つけてないよ。整髪料かな?」
貴子
「そうなんだ」
ケンジ
「変な匂いする?」
そう言って、自分の体の匂いを確かめるケンジ。
貴子
「ううん、大丈夫だよ」
ケンジ
「そっか。じゃあ行ってくるね」
貴子
「いってらっしゃい」
玄関まで見送って、ドアが閉まる。
――でも。
なんだろう。
ケンジから匂った、あの鼻につく感じ。
貴子
「……それにしても眠すぎる」
そう呟いて、布団に戻る。
「寝よ」
貴子は、もう一度目を閉じた。
そのまま、深い二度寝に落ちていくのだった。
しばらくの間、
「変だな……気のせいかな……」
そう思いながら、貴子はいつも通りの日々を過ごしていた。
とある日のガールズバー。
いつも通り、お客さんのお酒を作っていた、その時だった。
(……何、このアルコールの匂い……)
胸の奥がむわっとして、思わず顔をしかめる。
(うけつけない……)
でも、仕事だ。
そう自分に言い聞かせて続けていたが――
急に、強い吐き気が込み上げてきた。
貴子
「ちょっと失礼します」
そう言うと、貴子はトイレへ駆け込む。
「……何これ……わからない……」
しばらくして戻ってきたが、
もうお酒の匂いを受けつけなくなっていた。
ママ
「貴子ちゃん、ちょっと」
奥に来るよう、手招きされる。
貴子
「ちょっと失礼します」
そう言って、ママのところへ向かう。
ママ
「貴子ちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」
貴子
「ちょっと吐き気がして……」
ママ
「もしかしてだけど、妊娠してるんじゃない?」
貴子
「妊娠?!」
ママ
「心当たりは?」
貴子
「あります……」
ママ
「生理は?きてる?」
貴子
「遅れてるような……」
ママ
「今日は帰りなさい。そして検査薬、1回試してみなさい」
貴子
「はい、迷惑おかけします」
ママ
「怒ってるんじゃないわよ。心配してるの」
貴子
「ママ……」
ママ
「もし妊娠してたら、ここは一旦休憩ね」
貴子
「はい、お先に失礼します」
そうして貴子は、その日、早退した。
そして帰り道。
まだ営業しているドラッグストアの灯りが目に入る。
少し迷ったあと、貴子は店に入り、
妊娠検査薬を手に取った。
レジで会計を済ませる手が、わずかに震えている。
外に出ると、夜風が冷たい。
(あの時……)
ケンジは腰をひこうとしたのを止めたから……
妊娠してるのかなぁ。
妊娠してるって言ったら、ケンジどう思うかなぁ。
嬉しいって言ってくれる?
それとも、まだ早いって思う?
自分で選んだ夜なのに、
今になって、胸がざわつく。
袋をぎゅっと握りしめながら、
考えがまとまらないまま歩いていると――
いつの間にか、家の前まで来ていた。
家に着いた貴子。
「ただいま~」
ケンジ
「早いね、どうかしたの?」
貴子
「ちょっとお店暇だったから帰っていいって」
そう言って、ケンジに嘘をつく。
心臓の音がやけに大きい。
靴もそこそこに、
貴子は検査薬の入った袋を握りしめたままトイレへ向かった。
ドアを閉める。
小さな空間に、自分の呼吸だけが響く。
箱を開ける手が、少し震える。
説明書を何度も読み返し、
書いてある通りに検査をした。
(落ち着いて……落ち着いて……)
数分が、やけに長い。
トイレの時計の秒針の音が、耳につく。
やがて時間がたち――
貴子は、恐る恐る確認する。
そこには、はっきりとした線。
陽性だった。
なかなかトイレから出てこない貴子を心配して、
ケンジが廊下に立つ。
「貴子~大丈夫~?」
コンコン、とトイレのドアをノックする。
狭い空間の中で、その音がやけに大きく響いた。
ゆっくりとドアが開く。
貴子が、静かに出てきた。
ケンジ
「どうした? お腹痛いの?」
貴子
「ちがう……」
視線を落としたまま、声が少し震える。
ケンジ
「何かあった?」
貴子
「あのね……」
言葉が喉につかえる。
ケンジ
「言いたくなったらでいいよ」
その優しさが、逆に胸を締めつける。
貴子
「に、妊娠した」
ケンジ
「え?」
貴子
「これ……」
震える手で、妊娠検査薬を差し出す。
そこに出ている線を見て、ケンジは一瞬息を止める。
ケンジ
「大丈夫、そんな顔しない。嬉しい事じゃないか」
貴子
「嬉しい?」
不安と期待が混ざった声。
ケンジ
「当たり前じゃないか」
貴子は、目に涙を浮かべる。
貴子
「私は、わからない、嬉しいのか、不安なのか、なんなのか……」
声が震え、言葉が途切れ途切れになる。
ケンジは何も否定せず、
ただそっと貴子を抱きしめ、頭を撫でる。
ケンジ
「うんうん、そうか、ちょっと色々急すぎて貴子の気持ちが追いついてないんだな」
その言葉を聞いた瞬間、
張りつめていたものが切れたように――
貴子
「ケンジ~」
号泣する。
肩を震わせながら、ケンジの胸に顔をうずめる。
ケンジは、ゆっくりと貴子の体を離し、
両手で頬に触れ、涙をそっと拭う。
ケンジ
「俺がついてる、大丈夫だから、ちょっとベッドで休んでおいで」
そのまま優しく背中を押し、
貴子をベッドへと座らせた。
ケンジ
「ちょっと色々調べてさ、うどん作ってみたからおいで」
まだベッドに座ったまま、涙を浮かべている貴子。
ケンジはゆっくりと近づき、
そっとお腹に手をあて、やさしく撫でる。
ケンジ
「ママになるかもしれないんだよ、しっかりしろ貴子」
少し冗談めかして、怒ったような口調で言う。
貴子
「うん……」
それでも俯いたまま、涙がこぼれる。
ケンジ
「そうか、そうかぁ~、貴子は俺との子供嫌なんだなぁ~」
わざと拗ねたように言うケンジ。
貴子
「ちがう~、そうじゃない~」
慌てて立ち上がる。
ケンジ
「はい、立ったついでに、うどん食べに行こう」
そう言って、貴子の背中をやさしく押す。
貴子
「もう~ケンジったらァ~」
少しふくれながらも、
うどんが置いてあるテーブルの前に座った。
翌日。
ケンジを送り出したあと、
貴子は産婦人科へ行くことにした。
いつものヒールではなく、スニーカー。
少しラフな格好で家を出る。
歩きながら、何度もお腹に手をあてる。
(本当に……?)
産婦人科の看板が見えた瞬間、
胸がきゅっと締めつけられる。
深呼吸をして、扉を開ける。
受付をすませ、待合室で静かに座る。
周りには、少しお腹のふくらんだ女性や、
母子手帳を手にした人たち。
自分だけが場違いな気がして、
視線を落とす。
しばらくして――
「佐々木様~」
呼ばれるが、貴子は気づかない。
「佐々木貴子さん」
その名前を聞いた瞬間、はっとする。
(私、今、佐々木だ!)
「は、はい」
立ち上がる足が、少し震える。
看護師
「1診にお入りください」
貴子は、ゆっくりと診察室へ向かった。
「失礼します……」
1診の扉を開けると、
年配の医師がカルテを見ながら顔を上げた。
医師
「佐々木さんですね。どうされましたか?」
貴子は少し緊張しながら椅子に座る。
貴子
「市販の検査薬で陽性が出て……確認に来ました」
医師はうなずきながら質問を続ける。
医師
「最終月経はいつ頃ですか?」
「体調の変化は?」
「持病や服用中のお薬は?」
ひとつひとつ答えていく。
少し迷いながらも口を開く。
貴子
「ガールズバーで働いていて……お酒を扱う仕事なんですけど」
医師は落ち着いた表情で答える。
医師
「そうですか。まずは妊娠しているかどうか確認しましょう。その後で生活についてお話ししますね」
そして内診台へ案内される。
カーテンの向こうで横になり、
心臓の音が自分でも聞こえそうなくらい大きくなる。
しばらくして、
モニターに白黒の映像が映し出される。
医師
「はい、見えますね」
画面の一部を指さす。
医師
「この黒い丸いのが胎嚢、まぁ袋ですね」
貴子は画面を見つめる。
小さな、黒い影。
医師
「週数から考えても自然な大きさです。妊娠は確実ですね」
その言葉が、ゆっくりと胸に落ちてくる。
妊娠は確実。
頭の中で何度も繰り返される。
医師
「心拍はもう少し先になりますが、今のところ問題はありませんよ」
診察が終わり、
椅子に戻った貴子は、まだ少しぼんやりしていた。
自分の中に――
命がある。
お腹にそっと手をあてる。
「本当なんだ……」
小さく、そうつぶやいた。
診察室を出て、
次回の予約や注意事項の説明を受ける。
受付で会計を済ませると、
小さな封筒を手渡される。
その中には、エコー写真。
貴子は封筒から取り出し、
何故かそのまま手に持ってしまう。
白黒の、小さな黒い丸。
「この黒い丸いのが胎嚢、まぁ袋ですね」
医師の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
外に出ると、昼間の光がまぶしい。
さっきまでと同じ街のはずなのに、
どこか違って見える。
通りを歩く人たち、
車の音、信号の音。
全部が、遠く感じる。
エコー写真を握る手に、自然と力が入る。
(本当に……ここにいるんだ)
お腹にそっと手をあてる。
まだ何も変わっていないはずなのに、
もう守るものがある気がする。
しばらく立ち止まっていたが、
ゆっくりと歩き出す。
エコー写真を何故か手に持ったまま、
家に向かう貴子だった。
家に着き、玄関を開ける。
「ただいま……」
誰もいない部屋に、声だけが響く。
エコー写真をテーブルに置く。
しばらく、じっと見つめる。
黒い、小さな丸。
嬉しいのか、不安なのか、まだはっきりしない。
ただ、現実なんだという重みだけがある。
ふと、胸がむかむかする。
「……あ、空腹だから気持ち悪いのかな」
ママの言葉を思い出す。
(無理しないこと)
キッチンへ向かい、
冷蔵庫を開ける。
昨日の残りのうどんの材料が目に入る。
簡単なものを作ろう、と
お湯を沸かし、麺を入れる。
湯気が立ちのぼる匂いが、少しきつく感じる。
でも、不思議と食べ始めると落ち着いた。
「……うん、食べられる」
ゆっくり噛んで、ゆっくり飲み込む。
お腹に手をあてる。
「よろしくね……」
小さくつぶやく。
食べ終わり、
ソファに座る。
エコー写真をまた手に取る。
(どう言おう……)
嬉しいって言ってくれた。
でも、今日も同じ顔をしてくれるかな。
時計を見る。
しばらくして、玄関の鍵の音。
ガチャ。
ケンジ
「ただいまー」
心臓が一気に早くなる。
貴子
「おかえり」
ケンジ
「今日どうだった?病院」
その言葉に、少しだけ間があく。
貴子は、テーブルの上のエコー写真を手に取る。
ケンジの前に、そっと差し出す。
貴子
「……確実だって」
ケンジ
「え?」
貴子
「この黒い丸いのが胎嚢、まぁ袋ですね、って」
ケンジは写真を見る。
表情が、ゆっくり変わる。
静かに、深く息を吐く。
ケンジ
「……本当なんだな」
貴子
「うん」
数秒の沈黙。
そして、ケンジは貴子をぎゅっと抱きしめる。
ケンジ
「ありがとう」
その一言で、
貴子の目にまた涙が浮かぶ。
嬉しいのか、不安なのか、まだ全部は整理できない。
でも――
2人で、受け止めている。
抱きしめたまま、しばらく動かないケンジ。
ケンジ
「ママには報告した?」
貴子
「……まだ」
ケンジ
「そっか」
少しだけ考えるような顔をしてから、
ケンジ
「じゃあ、一緒に行こう」
貴子
「え?」
ケンジ
「貴子ひとりで言わせるのも違うだろ。俺も一緒にちゃんと報告したい」
貴子は少し驚いた顔をする。
貴子
「ちょうど開店前の準備中かなぁ」
ケンジ
「そうだね、行こうか」
テーブルの上のエコー写真をもう一度手に取るケンジ。
ケンジ
「ママもきっと喜んでくれるだろうね」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
貴子
「……うん」
ケンジ
「今から行く?」
貴子
「うん、行こ」
急いで上着を羽織る。
玄関で靴を履きながら、
自然と手を繋ぐ2人。
貴子はそっとお腹に手をあてる。
ケンジ
「寒くない?」
貴子
「大丈夫」
夜の空気は少しひんやりしている。
でも、不思議と心はあたたかい。
これから伝える言葉を胸に抱きながら、
2人は、ガールズバーに向かった。
ガールズバーに着いた2人。
まだ開店前で、店内には準備の音が響いている。
2人でゆっくりドアを開けた。
ケンジ
「こんばんは」
貴子
「こんばんは」
ママはグラスを拭きながら顔を上げる。
ママ
「あら夫婦でどうしたの?」
ノゾミ
「2人で惚気けにきたの?」
ケンジは軽く笑ってから、
そっと貴子の背中を押す。
ケンジ
「貴子、自分の言葉で言って」
少しだけ息を吸い込む貴子。
貴子
「あの……妊娠……してました」
一瞬、店内の空気が止まる。
そして――
ママ
「あら~、やっぱり~、おめでとう貴子」
ノゾミ
「その膨らみがケンジさん以外にも活躍する日が来るのね」
ケンジ
「ちょっと、ノゾミさん」
ママは少しだけ寂しそうに笑う。
ママ
「でも困ったわ~、うちのNo.1が抜けちゃうから」
ケンジ
「すみません……」
ママはすぐに手をひらひらさせる。
ママ
「そうだわ~、ケンジさんにお化粧して~」
ノゾミ
「貴子ちゃんの代わりに出勤~」
ケンジ
「え?え?」
貴子
「ダメ~~っ」
店内に笑いが広がる。
ママは優しい目に戻る。
ママ
「冗談よ、お店の事は気にしないで、体大事にして立派に産んでね」
ノゾミ
「うんうん、しんどくなったら、いつでも連絡して」
貴子
「ありがとう~」
涙をながす貴子。
ケンジ
「素敵な2人で良かったね」
貴子
「うん」
ケンジ
「では失礼します」
2人は深くお辞儀をして、
店を後にした。
外の夜風が、少しだけ優しく感じた。
店を出て、夜道を歩きながら。
ケンジは、そっと貴子の顔をのぞき込む。
ケンジ
「まだ、大丈夫?しんどくない?」
貴子
「大丈夫、どうしたの?」
ケンジ
「BARワンダーにも報告どうかな?と思って」
貴子は少し足を止める。
貴子
「そうだね、あの店がなかったら2人の間で、こんな事なかったもんね」
出会いも、告白も、結婚も。
全部、あの場所から始まった。
ケンジはうなずく。
ケンジ
「マスター、絶対何か言うけどな」
貴子
「言うね、絶対言う」
2人でくすっと笑う。
手をつなぎ直し、
自然と歩く足並みがそろう。
夜風が少し冷たい。
ケンジは、さりげなく歩幅を合わせる。
貴子は、もう一度お腹に手をあてる。
そして2人は、
BARワンダーに向かった。
そしてBARワンダーに着いた2人。
店内には、いつもながら社長と爺さんの姿があった。
マスター
「貴子ちゃんダメだよ、今度は2人っきりで会うって…」
食い気味に言うマスター。
貴子
「言ってません」
ケンジ
「相変わらずだなぁ、マスター」
2人は並んで席に着く。
社長
「夫婦揃って、どないしたん」
爺さん
「うむ、あれじゃな」
貴子は一度深呼吸してから、はっきり言った。
貴子
「実は……妊娠しました」
一瞬、店内が静まる。
マスター
「あ、あの時、俺と愛し合った夜の……」
貴子 ケンジ
「マスター!!」
社長
「そりゃ、めでたい」
爺さん
「めでたい事が続くのぅ」
マスター
「母乳が出たら教えて」
貴子
「教えません!!」
ケンジ
「でも……1回味わってみたい」
貴子
「こら!ケンジも」
そう言って、そっと自分のお腹をさする。
「この子のなんだから」
社長
「まぁ、冗談はさておき、ぱぁーっとお祝いしたいとこやけど今日はもう家で休み」
爺さん
「安定期に入らんと何があるかわからんからのぅ」
マスター
「俺に会いたくなったら、いつでも、2人っきりで」
貴子 ケンジ
「マスター!!」
その声が重なり、店内に笑いが広がる。
ケンジ
「では失礼します」
貴子は軽く頭を下げ、ケンジと並んで歩き出す。
BARワンダーの扉がゆっくり閉まり、いつもの喧騒が遠のいていった。
2人は自然と手をつなぎ、夜の空気の中へと歩き出す。
これまでと同じ道なのに、少しだけ景色が違って見えた。
新しい命と、これからの生活を胸に抱きながら――
2人はBARを後にした。
翌朝。
貴子はソファに座りながら、
少し気持ち悪そうにお腹をさすっている。
貴子
「今日、検診と、あと母子手帳もらいに市役所行こうと思って……でも」
ケンジはネクタイを締めながら振り返る。
ケンジ
「どうした?」
貴子
「最近、つわりがひどいし、体がおもくて……大丈夫かなぁって」
少しだけ不安そうな顔。
しばらく考え、ケンジは真面目な表情になる。
ケンジ
「俺、この前休日出勤したし、明日休みとれるか聞いてみるよ、一緒に行こ」
貴子は驚いた顔でケンジを見る。
貴子
「本当に?助かるよケンジ」
ケンジは照れたように笑う。
ケンジ
「しんどさって男だし、わからないけど貴子を見てたら辛いんだろうなってわかるから」
その言葉に、貴子の目が少し潤む。
貴子
「ありがとう」
ケンジは鞄を持ち、玄関へ向かう。
ケンジ
「じゃあ仕事行って来るね」
貴子
「いってらっしゃい」
ドアが閉まり、静かになる部屋。
貴子はゆっくり横になり、
お腹に手をあてる。
(2人で、行けるんだ)
少しだけ、安心した表情になった。
職場に着いたケンジ。
デスクに鞄を置くと、
すぐに代休申請書を取り出し、記入する。
書き終えると、深呼吸をひとつ。
部長の席へ向かう。
ケンジ
「部長、急で申し訳ないですが明日休みたいので、これ、お願いします」
部長は申請書を受け取り、目を通す。
部長
「病院か?」
ケンジ
「僕じゃないですが妻が、ちょっと」
部長は顔を上げる。
部長
「そっか奥さん妊娠したんだったな、わかった」
ケンジ
「はい、つわりがひどいみたいで」
部長は少し懐かしそうに笑う。
部長
「うちも、1人目の時は大変だったな、あれ食べれない、これ食べれないってな」
ケンジ
「そうなんですね」
部長
「それに、ちょっとした事でイライラしてあたってくるからな、しっかり奥さんを見てやれ、男には、わからん辛さがあるんだ」
ケンジ
「はい、わかりました」
申請書に判が押される。
ケンジは軽く頭を下げ、窓口へ戻る。
いつも通りの業務。
来庁者の対応をしていると、
隣の席の山田さんが、そっと一枚の紙を差し出してきた。
「先輩からのアドバイス、つわりがひどい時に食べれる物 ※個人差あり」
レモン、冷たいゼリー、クラッカー、うどん、炭酸水――
細かく書き込まれている。
ケンジは一瞬だけ山田さんを見る。
声は出せないが、
「ありがとうございます」
と、口元だけでお礼を言った。
山田さんは軽くうなずく。
窓口業務をしながらも、
ケンジの頭の中は、もう家の方を向いていた。
(ちゃんと支えないとな)
父になる自覚が、
静かに芽生えはじめていた。
そして、家に帰ってきたケンジ。
スーパーやドラッグストアを何軒もはしごしていたせいで、
いつもより帰るのが遅くなってしまった。
ケンジ
「ただいま~」
リビングに入った瞬間、
少し険しい顔の貴子が振り向く。
貴子
「遅いよ!どこほっつき歩いてたのよ」
強い口調。
ケンジは一瞬きょとんとする。
ケンジ
「貴子が食べれそうな物色々買ってたんだよ」
そう言うと、貴子はぷいっと顔をそらし、
ベッドの方へ歩いていく。
ケンジ
「何か食べないと」
貴子
「いらない、食べたくない」
その背中に、少しだけイラっとしかけた。
(せっかく……)
でもその瞬間、
部長の声がよみがえる。
――ちょっとした事でイライラしてあたってくるからな
――しっかり奥さんを見てやれ
ケンジは小さく息を吐き、
ゆっくりベッドへ近づく。
貴子
「やだ、あっち行って」
ケンジは無理にではなく、
そっと貴子を抱きしめる。
ケンジ
「遅くなって、ごめん、でも貴子の力になりたいって思って色々買ってきたんだ、何か食べよ」
しばらく沈黙。
貴子
「わかった」
まだ少し怒った感じは残っているが、
ゆっくり立ち上がり、テーブルの椅子に座る。
ケンジは買い物袋を開ける。
ケンジ
「イチゴでしょ、これがゼリー、炭酸水、梅干し、レモン、……」
ひとつひとつ丁寧に並べる。
貴子の目に、じわっと涙が浮かぶ。
貴子
「これだけ買ってたら遅くなって当たり前だよね、ごめんなさい」
ケンジはやわらかく笑う。
ケンジ
「ママになるんだよ、なかない」
そう言って、そっと頭を撫でた。
テーブルの上には、
甘い匂いと、すっぱい匂いと、
まだ不安定な2人の気持ちが並んでいた。
でも――
ちゃんと向き合おうとしている。
貴子はテーブルの上に並べられた物を、
ひとつひとつ確かめるように口に運ぶ。
イチゴをひとかじり。
ゼリーを少し。
炭酸水を一口。
貴子
「全部食べれる味」
ケンジは肩の力が抜ける。
ケンジ
「良かった~」
心からほっとした顔。
だが、貴子は少しだけ視線を落とす。
貴子
「あのね……」
ケンジ
「どうした?」
少し間があく。
貴子
「……マックのポテトが食べたい」
ケンジ
「ポテト?」
貴子
「……うん」
真剣な顔。
ケンジは一瞬驚くが、すぐに笑う。
ケンジ
「しょうがないな」
スマホを取り出す。
ケンジ
「デリバリーしてもらお」
貴子
「やった~」
さっきまでの不機嫌が嘘のように、
表情がふっと柔らかくなる。
ケンジは注文画面を見ながら、
小さく笑う。
(これが、つわりか……)
でも、
その変化すら愛おしく感じていた。
テーブルの上には、
イチゴとゼリーと、
これから届くポテト。
少しずつ、
家の空気が“家族”になっていく。
しばらくして、チャイムが鳴る。
ケンジ
「来た」
デリバリーを受け取り、袋を開ける。
ふわっとポテトの匂いが広がる。
貴子の目が少しだけ輝く。
ケンジ
「ほら、揚げたて」
貴子は一本つまみ、ゆっくり口に入れる。
サクッ。
少し噛んで、飲み込む。
貴子
「……おいしい」
もう一本。
そして、もう一本。
ケンジは安心したように見守る。
でも、五本目あたりで手が止まる。
貴子
「……もういい」
ケンジ
「え?」
貴子
「満足」
袋の中には、まだほとんど残っている。
さっきまであんなに食べたがっていたのに。
ケンジは少し笑う。
ケンジ
「それだけ?」
貴子
「うん、今はもういい」
お腹に手をあてる。
貴子
「さっきまでは絶対食べたかったのに」
ケンジ
「不思議だな」
貴子
「うん、不思議」
ケンジは残りのポテトを自分の方に寄せる。
ケンジ
「じゃあ俺が責任持って食べる」
貴子は小さく笑う。
さっきまでの不安も怒りも、
今は少し落ち着いている。
ソファにもたれながら、ゆっくり目を閉じる。
(この子がいるんだな……)
まだ実感は揺れているけど、
確かに何かが変わっていた。
⸻
翌日。
ケンジが取った代休の日。
貴子は少し早く目が覚めた。
まだ体は重い。
けれど今日は、病院の日。
ケンジ
「大丈夫そう?」
貴子
「うん……ちょっと気持ち悪いけど、この子の様子気になるし……」
ケンジ
「うん。俺がそばにいる、行こう」
2人で産婦人科へ向かう。
病院に入り、受付を済ませて待合室へ。
前よりも、周りの景色が違って見える。
お腹の大きな女性。
母子手帳を持った人。
付き添いの夫。
ケンジが隣にいる。
それだけで、少し安心する。
名前を呼ばれ、診察室へ。
医師
「体調はどうですか?」
貴子
「つわりがひどくて……」
エコー検査。
モニターに映る、小さな黒い丸。
前回より、ほんの少し大きくなっている。
医師
「順調ですね。問題ありません」
ケンジが画面をじっと見つめる。
医師
「母子手帳はもうもらいましたか?」
貴子
「まだです」
医師
「では、市役所で妊娠届を出して、母子手帳をもらってきてください。次回から持参してくださいね」
ケンジ
「わかりました」
診察を終え、病院を出る。
貴子
「本当に順調なんだね」
ケンジ
「うん」
貴子
「男の子、女の子、ケンジはどっちがいい?」
ケンジ
「貴子ちゃんに似た胸の大きい」
貴子
「マスターの真似はしなくていいの!」
ケンジ
「ごめん、2人の子供なら、どっちが産まれても嬉しい」
貴子
「そうだね」
そんな話をしているうちに、市役所に着いた2人。
妊娠届出書に記入し、提出する。
ケンジ
「山田さん、この前はありがとうございました」
貴子
「何~?あやしい~」
ケンジ
「子供を産んだ先輩として、つわりがひどい時に食べれる物教えてくれたんだ」
山田
「貴子さん、頑張ってね。はい、この番号札でお待ちください」
番号札を受け取り、椅子に並んで座る。
貴子は静かに言う。
「なんか、急に現実だね」
ケンジ
「うん」
呼ばれて窓口へ。
山田
「おめでとうございます」
差し出されたのは、小さな冊子。
母子健康手帳。
貴子は両手で受け取る。
想像より、重く感じる。
表紙を開く。
まだ何も書かれていないページ。
これから健診の記録が入り、
この子の成長が刻まれていく。
ケンジが横から覗き込む。
ケンジ
「これからここに、全部残っていくんだな」
貴子はうなずく。
目がじわっと熱くなる。
嬉しいのか、不安なのか。
どちらもある。
母子手帳をそっと胸に抱える。
市役所を出る。
ケンジが自然に手を握る。
貴子はお腹に手をあてる。
「よろしくね」
小さくつぶやいた。
貴子
「なんか、安心したら、お腹空いたな~」
さっきまでの緊張がほどけたせいか、
急に胃の奥がきゅっと鳴る。
ケンジ
「そうだなぁ、ファミレスでも行くか。色々メニューあるし」
貴子
「うん。私、お寿司も焼肉もラーメンも好きだったのになぁ。今は受け付けないし、ナマモノもだめだし」
少し拗ねたように笑う。
ケンジ
「食べられるようになったら、全部ご馳走する」
貴子
「全部は無理~。ちょっとずつね」
そう言いながらも、
ほんの少し先の“普通に食べられる未来”を想像して、
貴子はほっとする。
なんて話しながら、ファミレスに向かった。
ファミレスに着いた2人。
店員に案内され、席に着く。
メニューを開きながら、貴子が少し申し訳なさそうに言う。
貴子
「ケンジは好きな物食べたら良いからね」
ケンジは首を横に振る。
ケンジ
「いいよ、同じ物にする。だって匂いもやだよね」
貴子
「ありがとう。別に私、おいて1人で外食していいからね」
少し冗談めかして言うが、
本音も混じっている。
ケンジはまっすぐ貴子を見る。
ケンジ
「おいてかない。そばにいれる時は、そばにいる」
貴子は一瞬だけ目を伏せてから、小さく笑う。
「ありがとう」
そう言って、2人分の山盛りポテトと冷たいサラダを頼む。
運ばれてきたポテトを、貴子はゆっくり一本つまむ。
少し不安そうに口へ運び、ゆっくり噛む。
「……うん、大丈夫」
ケンジも同じ物を食べる。
2人で顔を見合わせ、ほっとしたように笑う。
取り分けたり、
「そっち塩ついてるよ」なんて言い合いながら、
ポテトとサラダをつまむ。
豪華じゃないけれど、
今はそれで十分だった。
2人は、仲良く食べる。
家に帰ってきた2人。
貴子
「あ~疲れた~」
そう言って、そのままベッドに横たわる。
靴も脱ぎきらないまま、力が抜けたように天井を見つめる。
ケンジは、その横に、ゆっくり腰かけた。
ケンジ
「子供の名前、男の子ならなんて名前がいい?」
貴子
「うーんとね、私は……この子がどっちで産まれようか迷わないように、どっちでも大丈夫な名前にしたい」
ケンジ
「例えば?」
貴子
「うーん、ヒカル、のぞむ、みらい、あきら、蓮、」
ケンジ
「それだけで悩みそうだな」
貴子は小さく笑う。
「ほんとだね、ちょっと眠くなってきた」
あくびをして、目をこする。
ケンジ
「いっぱい歩いたもんね、ゆっくりして」
貴子
「せっかく休みとってくれたのに、ごめんね」
ケンジ
「いいよ、貴子の為だけじゃなくて、この子の為だからね」
そう言って、貴子のお腹をさする。
まだ目立たないお腹。
貴子は、その手の上にそっと自分の手を重ねた。
とある検診日。
体調は、まだマシだった。
つわりも波があるらしく、今日は比較的落ち着いている。
ケンジは仕事の都合がつかず、貴子は1人で病院へ向かった。
待合室で母子手帳を膝に置き、静かに名前を待つ。
呼ばれて診察室へ。
医師
「体調どうですか?」
貴子
「波はありますけど、今日は大丈夫です」
エコーの準備が始まる。
モニターに映像が映る。
医師は画面を見つめ、少し角度を変える。
もう一度見る。
そして、穏やかに言う。
医師
「順調ですね……」
一拍おいて、
「それと、もう一つ」
貴子の胸が小さく跳ねる。
医師は画面を指す。
「ここ、わかりますか?」
黒い丸が、二つ。
並ぶように、映っている。
貴子は瞬きをする。
医師
「双子ですね」
その言葉が、ゆっくり落ちてくる。
双子。
貴子
「……え?」
思わず聞き返す。
医師
「二つとも、順調です。大きさも問題ありません」
貴子は画面を見つめたまま動けない。
嬉しいのか、驚きなのか、少し混乱しているのか。
ただ一つ確かなのは――
二人、いる。
診察を終え、エコー写真を受け取る。
いつもより枚数が多い。
「二つ分、ですね」
看護師の何気ない一言が、やけに耳に残る。
病院を出る。
外の空気を吸った瞬間、足が止まる。
双子。
初めての妊娠で、いきなり?
二つの命を、授かった?
「え……?」
自分の声が、少し震える。
「え?え?」
嬉しいはずなのに、頭が追いつかない。
手の中のエコー写真を見る。
確かに、二つ。
並んでいる。
「私……二人分?」
お腹に手をあてる。
まだ何も変わらない体。
でも、中には二人。
胸の奥がざわざわする。
喜びと、不安と、責任と。
全部が一気に押し寄せてくる。
「ケンジ……」
今すぐ伝えたい。
でも、どう言えばいい?
深呼吸する。
もう一度、エコー写真を見る。
「双子、か……」
空を見上げる。
思わず、笑ってしまう。
「すごいね、私」
病院の前でしばらく立ち尽くしたあと、貴子は深呼吸する。
「……ケンジにばっかり買い物頼んだらあれだよね」
今日は体調もまだマシだ。
近くのスーパーに入る。
かごを持って、ゆっくり歩く。
ゼリー、ヨーグルト、冷たい麺。
少しだけ野菜。
ついでに、ケンジが好きそうな惣菜も入れる。
「あ、これも」
気づけば、かごはいっぱい。
レジを済ませ、袋を両手に持つ。
外に出た瞬間、ずっしり重みがくる。
「……重っ」
少しよろけた、その時。
「貴子ちゃん?」
振り向くと、ノゾミ。
ノゾミ
「ちょっと!妊婦が何してるの~!」
貴子
「え、あ、体調マシだったから……」
ノゾミは呆れた顔をしながら、袋をひょいっと持つ。
「マシでも重いでしょ。ほら、家どっち?」
貴子
「だ、大丈夫だよ」
ノゾミ
「大丈夫じゃない。今は無理しないの」
有無を言わせず、歩き出す。
貴子は少し笑う。
「ありがと……」
ノゾミ
「当たり前でしょ」
2人で並んで歩く。
家の前まで送ってもらい、
ノゾミ
「ケンジさんにもちゃんと頼るんだよ?」
貴子
「うん」
ノゾミは軽く手を振って帰っていった。
そしてケンジには、ちゃんとしたのを食べてもらいたいと思い、
吐き気を我慢しながらカレーを頑張って作る貴子。
玉ねぎを切る匂いで一度キッチンを離れ、
換気扇を強にして、深呼吸する。
鍋の中でぐつぐつと音を立てるカレー。
その匂いに、また少し顔をしかめる。
「……うっ」
一瞬シンクに手をつく。
でも火を止めるわけにはいかない。
「もうちょっと……」
自分に言い聞かせながら、なんとか仕上げる。
しばらくすると、玄関の音。
ケンジ
「ただいま、貴子、なんかカレーの匂いがする」
少し嬉しそうな声。
貴子
「ちょっと辛かったけど、頑張って働いてくれてるケンジの為にカレー作った。けど、ご飯の匂いはさすがにキツイから自分でよそって」
キッチンから少し離れた位置で言う。
ケンジ
「ありがとう」
本当に嬉しそうに言う。
貴子は、ご飯なしのカレーをよそってテーブルに置いた。
湯気が立つ。
その湯気に、また少し目を細める。
ケンジは皿にご飯をよそってカレーをかける。
その様子を、少し離れたところから見る貴子。
「美味そうだな」
スプーンを口に運ぶ。
「うん、うまい」
その一言に、貴子の肩の力が少し抜ける。
吐き気はまだある。
でも、少しだけ報われた気がした。
ケンジがカレーを食べている最中だった。
スプーンを口に運び、
「うまいな」ともう一口すくおうとした、その時。
貴子
「じゃじゃーん」
突然の明るい声。
ケンジ
「え?何?」
スプーンを止めて顔を上げる。
貴子は少しだけ得意げな顔。
でもどこか緊張も混じっている。
貴子
「子供の名前決めました」
ケンジ
「え?何にしたの?」
まだ軽い空気のまま聞く。
貴子
「ヒカルとミライ」
ケンジ
「ん?その2つで迷ってるって事?」
状況が追いついていない顔。
貴子はゆっくり首を横に振る。
貴子
「違うよ、決定」
バッグからそっとエコー写真を取り出し、テーブルに置く。
ケンジは箸を置き、写真を手に取る。
モニターに写った、ふたつの黒い影。
まだ小さい。
でも、はっきり“ふたつ”。
貴子
「双子って言われた」
静かな声。
ケンジの動きが止まる。
ケンジ
「え?本当に?」
貴子
「いきなり2人のママとパパになります」
少し笑おうとするけど、目は少し不安で揺れている。
ケンジは、エコー写真と貴子の顔を交互に見る。
言葉がすぐに出ない。
ケンジ
「そうか……」
それは戸惑いでも、拒否でもなく、
ただ、現実を受け止めようとする声。
テーブルの上のカレーの湯気が、ゆらりと揺れる。
部屋が少し静かになる。
貴子はその沈黙が少し怖い。
でも、逃げずにケンジを見る。
ケンジは、もう一度エコー写真を見る。
小さな影が、ふたつ。
まだ何もわからない形なのに、
そこに確かに“命”がある。
ケンジ
「ヒカル、ミライ、光る未来……、本当に、子供達がそうなるように、俺、頑張る」
さっきまでの戸惑いは消えている。
覚悟の混じった、静かな声。
貴子
「ケンジ……」
胸がぎゅっとなる。
不安もある。
でも、それ以上に、頼もしさが勝つ。
ケンジは写真をそっとテーブルに戻し、
ケンジ
「よーし」
と、少し気合いを入れるように言って、カレーをおかわりする。
その姿が、なんだか可笑しくて、愛おしい。
貴子は一瞬、自分のお腹に手をあてる。
そして、
貴子
「私も栄養2人分とらないと」
そう言って、少し照れながらおかわりする。
さっきまで、ご飯の匂いがきついと言っていたのに。
ケンジはそれを見て、ふっと笑う。
テーブルの上には、湯気の立つカレー。
エコー写真。
そして、ふたりの“覚悟”。
いきなり4人家族になる。
でも、不思議と怖くない。
部屋の空気が、少しだけ強くなった気がした。
双子ってわかってからケンジの帰る時間は、遅くなっていた。
玄関のドアが開く音。
ケンジ
「ただいま」
少しだけ息が上がっている。
貴子はソファから顔を上げる。
貴子
「今日も遅かったね、最近どうしたの?」
ケンジ
「何が?」
本当に悪気のない顔。
貴子
「帰りが遅いから……」
一瞬だけ間。
ケンジは鞄を置きながら言う。
ケンジ
「いきなり2人の命を授かるんだ」
その声は真面目だった。
貴子
「うん」
ケンジ
「だから倍頑張ってるだけだよ」
笑って言うわけじゃない。
でも重くもない。
ただ、当たり前のことのように。
貴子は胸の奥が少しだけきゅっとする。
嬉しい。
でも――
貴子
「でも……」
言葉が続かない。
「そんなに無理しなくていいよ」と言いたいのか、
「私のせいみたい」と言いたいのか、
自分でもわからない。
ケンジは気づかない。
ケンジ
「貴子は、ちょっとでも何か食べて、ゆっくり休んで」
優しい声。
でも、自分のことは何も言わない。
貴子
「そうだね…」
テーブルの上には、ケンジが買ってくれたゼリー。
スプーンですくって口に運ぶ。
冷たさが少しだけ心を落ち着かせる。
ケンジはその様子を見て、ほっとしたように微笑む。
その笑顔があるから、
まだ不安にはならない。
でも、
「倍頑張ってる」
その言葉だけが、
静かに胸に残った。
そして次の日、またケンジの帰りが遅い。
玄関のドアが開く。
ケンジ
「ふぅ~ただいま~」
いつもより疲れた声。
貴子はソファに座ったまま、ゆっくり顔を上げる。
貴子
「おかえり……」
声が少しだけ冷たい。
ケンジは気づかない。
ネクタイを外しながら言う。
ケンジ
「ちょっとさぁ、そこのコンビニさ、3時間だけだけど深夜バイト募集しててさ」
貴子は一瞬止まる。
貴子
「それがどうしたの?」
ケンジ
「働こうかな、って思って」
部屋の空気が変わる。
貴子
「………好きにすれば」
短い。
低い。
ケンジは眉をひそめる。
ケンジ
「何?どうしたの?」
貴子は立ち上がらない。
視線も合わせない。
貴子
「私の気持ちわからないなら、好きにしたらいいって言ってるの」
そのままベッドへ向かう。
ケンジ
「なんだよ、双子だろ?お金かかるしさ」
悪気はない。
でも、焦っている。
貴子は振り返る。
貴子
「お金の事だけ………」
ケンジ
「違うよ、貴子の事も思ってるし将来の事も……」
言葉が続かない。
どう伝えたらいいのかわからない。
貴子
「そばに入れる時はそばにいる、私をおいていかないって言ったのは誰よ」
ケンジ
「……俺だけど」
小さな声。
貴子
「今のケンジは、パパになる人じゃない、ただ単にお金を稼ごうとする人」
ケンジは何も言えない。
貴子
「お金じゃ、普通に子供は育てられても愛は育てられないよ」
沈黙。
ケンジの手が、ぎゅっと握られる。
貴子
「今のケンジは、私の好きになったケンジじゃない……、お金の事しか考えてないケンジを好きになったんじゃない」
言い終わった瞬間、貴子の目に涙が浮かぶ。
ケンジはやっと顔を上げる。
ケンジ
「ごめん……双子だから頑張って稼がないとって思って……貴子の辛さとか考えてなかった」
本心。
でも、もう少し早く言えたはずの言葉。
部屋は静か。
どちらも悪くない。
でも、少しだけ、ズレた。
ケンジはゆっくり近づく。
ケンジ
「貴子……」
そっと手を伸ばし、頭を撫でる。
でも、
貴子
「触らないで……」
小さな声。
怒鳴ってはいない。
でも、拒絶。
ケンジの手が止まる。
そのまま、ゆっくり下ろす。
ケンジ
「………ごめん」
謝るしかできない。
何をどうすればよかったのか。
働くのも違うのか。
働かないのも違うのか。
そばにいるって、どういうことなのか。
何が正解なのか、何が答えなのか。
今のケンジには、わからなかった。
ベッドに背を向けたままの貴子。
立ち尽くすケンジ。
同じ部屋にいるのに、
ほんの少しだけ、距離ができた夜だった。
貴子は自分でも、何故ケンジに冷たくしてしまったのか、わからなかった。
本当は、深夜バイトをしようとしてくれたことだって、
双子のために頑張ろうとしてくれたことだって、
嬉しくないわけじゃない。
わかっている。
でも――
しんどさ。
不安。
急に二つの命を抱えた重さ。
日中ひとりで感じている気持ち。
それを、何も言わずに
「倍頑張ってる」
と外に向かって走られたことが、苦しかった。
家で一人。
吐き気と戦って。
双子の未来を考えて。
それでも「大丈夫」と笑っていたのに。
まるで
“自分は頑張って働いてる”
と言われたように感じた。
そんなつもりじゃないとわかっている。
でも、
そばにいるって言ったのは誰?
一緒に向き合うって、そういうことじゃないの?
貴子は布団の中で目を閉じる。
涙は出ない。
ただ、胸が重い。
怒りでもない。
失望でもない。
言葉にできない、もやもや。
そしてそのもやもやは、
きっとケンジにも伝わっていない。
それが、また苦しかった。
翌朝、ケンジは休日だった。
キッチンから漂う、焼いたパンの匂い。
ケンジはトレイに朝食をのせ、寝室へ向かう。
ケンジ
「貴子、朝ごはん作ったよ」
ベッドにいる貴子をかるくゆする。
貴子は布団に顔をうずめたまま。
貴子
「食べたくない……」
ケンジ
「何か食べないと……」
優しい声。
でも、その優しさが今は刺さる。
貴子
「ほっといて……」
ケンジ
「ほっとけないよ……」
少しだけ強くなる声。
貴子はゆっくり振り向く。
貴子
「いつも、ほっといてるじゃない」
ケンジ
「ほっといてないだろ」
貴子
「ほっといてるよ、毎日、毎日、帰り遅いし」
ケンジ
「だから、それは頑張って残業して稼いでだな」
言いかけて、止まる。
貴子
「だから、昨日もお金を稼ぐ事しか考えてないケンジを好きになったんじゃないって言ったじゃない」
ケンジ
「俺にできる事って、それぐらいだから」
その言葉は、弱さだった。
でも貴子には届かない。
貴子
「子供なんて、できないほうが良かったのかな……」
言った瞬間、空気が凍る。
ケンジ
「なんて事言うんだ貴子!」
初めて声が大きくなる。
怒りじゃない。
驚きと、怖さ。
貴子の目から涙がこぼれる。
貴子
「だって、ケンジがケンジじゃなくなるんだもん……」
それが本音だった。
お金を追いかける人じゃなくて、
不器用でも、
そばにいるケンジが好きだった。
ケンジは言葉を失う。
ケンジ
「貴子……」
何を言えばいいのかわからない。
謝ればいいのか。
抱きしめればいいのか。
否定すればいいのか。
正解が見えない。
ただ、そこに立っている。
ケンジは少しうつむく。
ケンジ
「ごめん……もう残業もやめる……なるべく早く帰るようにする……」
必死だった。
正解を探して。
貴子
「……」
すぐには答えられない。
ケンジ
「双子の為にって空回りしてた」
やっと、自分の言葉で言えた。
貴子はゆっくり目を閉じる。
貴子
「……ケンジ」
小さな声。
「わかってる……ケンジが頑張ってるのはわかってる……、でも。なんか違うんだもん」
その“なんか”が、2人ともわからない。
ケンジはうなずく。
否定しない。
言い返さない。
ケンジ
「……とりあえず朝ごはん食べよ、体壊してほしくない、少しでもいいから」
強くもなく、弱くもない声。
ただ、心配している。
貴子
「わかった……」
ゆっくり起き上がる。
テーブルに並ぶ朝ごはん。
まだ少しぎこちない空気。
でも、壊れてはいない。
ケンジはトーストを小さくちぎって渡す。
貴子は一口食べる。
その姿を見て、ケンジは少しだけ安心する。
問題は消えていない。
でも、今日も同じ家で、同じ食卓につく。
それが今は、精一杯だった。
数日後。
定期検診の日。
つわりは少し落ち着いてきたけれど、
お腹の奥が張る感じが、前より増えている気がしていた。
産婦人科の待合室。
母子手帳を膝に置いて、静かに順番を待つ。
名前を呼ばれ、診察室へ。
エコー。
モニターに映る、ふたつの小さな影。
医師はしばらく画面を見つめてから言う。
医師
「赤ちゃんたちは順調ですね」
貴子は、ほっと息をつく。
だが、そのあと。
医師
「ただ、子宮の張りが少し強いです。双子ですから、どうしても負担は大きくなります」
貴子
「……張り、ですか」
医師
「今すぐ入院という状態ではありません。ただ、できるだけ安静にしてください。横になる時間を増やして、無理はしないように」
母子手帳に記入される文字。
“安静”
その言葉が、やけに重い。
⸻
家に帰る。
ケンジはちょうど帰宅したところだった。
ケンジ
「おかえり。どうだった?」
貴子はカバンを置いて、ゆっくり座る。
貴子
「赤ちゃんは順調。でも……ちょっと落ち着いてないみたい。安静にって言われた」
ケンジは少しだけ黙る。
目が静かに変わる。
ケンジ
「そうか」
それだけ。
怒らない。
慌てない。
でも、真剣になる。
ケンジ
「今日は、もう横になって」
強くない。
ただ、静かな声。
貴子はうなずく。
寝室へ向かう。
横になると、天井がやけに近い。
“安静”
それは、何もしない時間が増えるということ。
何もできない時間が増えるということ。
キッチンから、ケンジの物音が聞こえる。
食器の音。
水の音。
冷蔵庫の開け閉め。
しばらくして、ケンジが部屋に入ってくる。
ケンジ
「ゼリー、冷えてる」
短い。
優しい。
貴子は受け取る。
貴子
「ありがとう」
ケンジは少しだけうなずく。
それ以上、何も言わない。
でも、その横顔はどこか固い。
貴子は思う。
“また、頑張ろうとしてる”
自分は横になっているだけ。
ケンジは働いて、家事もして。
申し訳なさが、胸の奥に広がる。
双子は順調。
でも、2人の間には、
まだ言葉にならない何かが、
静かに積もりはじめていた。
安静と言われた日から、数日後。
貴子はできるだけ横になるようにしていた。
洗濯も、掃除も、最低限。
それでも、お腹の奥がときどききゅっと張る。
何もしない時間が、やけに長い。
夕方。
玄関の鍵が回る音。
まだ外は明るい。
ケンジ
「ただいま」
最近は、前より帰りが早い。
貴子はベッドから顔を出す。
貴子
「おかえり」
ケンジは部屋をのぞき込む。
ケンジ
「大丈夫?辛くない?」
確認するような声。
責めるでもなく、命令でもない。
貴子は小さくうなずく。
ケンジはそれ以上聞かず、キッチンへ向かう。
水の音。
包丁の音。
数日前より、少し手つきが慣れている。
味噌の匂いが広がる。
ケンジが顔を出す。
ケンジ
「味噌汁作ってみたんだ」
貴子
「え?」
ケンジは少し照れたように言う。
ケンジ
「お医者さん、塩分とりすぎないようにって言ってただろ?」
貴子は小さく笑う。
ちゃんと覚えていた。
食卓。
簡単な夕飯。
ケンジは小さめのお椀を貴子の前に置く。
ケンジ
「これぐらいなら、いける?」
貴子
「うん」
一口すする。
温かい。
胸の奥までゆるむ。
ケンジは黙って自分の分を食べる。
しばらくして、ケンジがそっと言う。
ケンジ
「ヒカルとミライも美味しいって思ってるかな?」
貴子は少し笑って、お腹に手を当てる。
貴子
「パパの味噌汁どう?」
ケンジはゆっくり、お腹に手を置く。
目を閉じて、少し間を置いてから。
ケンジ
「俺、間違ってた……早く帰るようにする」
その声は小さいけれど、逃げていない。
貴子
「私もイライラして、ごめん」
2人の手が、お腹の上で重なる。
日が落ちていく。
部屋の中は静かで、やわらかい。
安静は続いている。
不安も消えてはいない。
それでも、
2人は少しずつ、同じ方向を向き直していた。
貴子は味噌汁を飲み終え、箸をそっと置く。
貴子
「ご馳走様、じゃ私、洗い物を……」
立ち上がろうとする。
ケンジはすぐに手を伸ばす。
ケンジ
「だめ、ゆっくりしてて」
強くない。
でも、はっきりしている。
貴子
「でも……」
ケンジは貴子のお腹に手をあてる。
優しく。
少しだけ笑いながら。
ケンジ
「ほら、ヒカルもミライも、ママ動かないで、って言ってる」
貴子はその手を見つめる。
あたたかい。
貴子
「うん、わかった、ありがとう」
ゆっくり立ち上がり、寝室へ向かう。
ベッドに腰を下ろすと、少しだけ胸がざわつく。
嬉しい。
守られている。
でも同時に、
“私は何もしてない”
そんな小さな気持ちも、どこかに残る。
キッチンから水の音が聞こえる。
食器が触れ合う音。
ケンジが洗い物をしている。
その音は安心する音。
でも、少しだけ遠い音でもあった。
数日後。
安静と言われてから、家の中の空気は少し変わっていた。
ケンジは早く帰る。
料理もする。
洗濯もする。
慣れない手つきでも、文句ひとつ言わない。
でも、どこか無理をしているのがわかる。
貴子はベッドの上から、それを見ていた。
罪悪感と、ありがたさと、申し訳なさ。
全部が混ざる。
ある夜。
ケンジが言いにくそうに口を開く。
ケンジ
「貴子、ちょっと相談していい?」
貴子
「うん?」
ケンジ
「俺の母さんに、少しだけ手伝いに来てもらおうと思ってる」
貴子は一瞬、目を瞬かせる。
貴子
「お義母さんに?」
ケンジ
「双子だし……安静って言われてるし……俺だけじゃ足りない気がして」
言い訳じゃない。
弱さを認める声。
貴子は少し考える。
正直、他人が家に入るのは緊張する。
しかも“母親”。
でも――
貴子
「お義母さんと、ゆっくり話した事ないけど……」
ケンジは貴子に近づき、
「こんなに俺を優しく育てた母さんだぞ~」
と自慢げなポーズをとる。
その仕草が、少し子供っぽくて、
貴子は思わず微笑む。
貴子
「そうだね、優しくて頑張り屋のケンジを育てたお義母さんだもんね。わかったよ」
ケンジは、ほっとしたようにうなずいた。
数日後。
ケンジの母がやって来た。
名前は佐々木綾子。
穏やかな笑顔。
柔らかい声。
「貴子さん、やっぱり綺麗ね~。うちの子には、もったいないくらい」
貴子
「ケンジさんもかっこいいです。お義母さん似なんですね。お義母さんもお綺麗です」
母は手を振って笑う。
「あら~、綺麗だなんて言われたのいつぶりかしら。とにかく双子って聞いて、びっくりしたわ。ちょくちょく来るから、ゆっくりしなさい」
責めない。
探らない。
詮索しない。
ただ、自然に台所へ向かう。
エプロンを結び、冷蔵庫を開ける。
手際がいい。
「ケンジ、それ洗ってちょうだい」
「はいはい」
母と息子の軽い掛け合い。
台所から聞こえる包丁の音。
湯気の立つ匂い。
部屋が整い、食事が整い、
家が“ちゃんとした家庭”の形になっていく。
貴子は久しぶりに“何もしないでいい”時間を持つ。
横になっていてもいい。
誰も責めない。
誰も困らない。
楽だ。
本当に楽。
でも。
天井を見つめながら、ふと思う。
――自分のお母さん。
最後に、ちゃんと話したのはいつだろう。
女になったことも言えていない。
結婚したことも、曖昧なまま。
ましてや――
妊娠しているなんて。
言えない。
どう説明する?
どう受け止められる?
元気にしてるのかな……
ケンジの母の笑い声が、遠くで聞こえる。
優しい声。
温かい家。
なのに、
胸の奥が、少しだけ、ひりついた。
そして。
ケンジ
「できたよ~おいで」
綾子
「お口に合うかわからないけど」
食卓に何品か並べられる。
煮物。
ほうれん草のおひたし。
だしのきいた卵焼き。
湯気の立つ味噌汁。
やさしい匂い。
最近、少しずつ食べられるようになった貴子は、目を輝かせる。
貴子
「うわぁ~どれも美味しそう~」
椅子に座り、
「いただきます」と手を合わせる。
一口、煮物を口に運ぶ。
優しい味。
胃がびっくりしない。
胸がじんわりする。
貴子
「美味しい~」
自然に笑顔になる。
ケンジは嬉しそうに頷く。
ケンジ
「そうだろ、母さんの料理、絶品なんだ」
少し誇らしげ。
綾子はふふっと笑う。
綾子
「本当に、マザコンで困ってるの~」
わざとらしく肩をすくめる。
綾子
「ケンジ、貴子さんと、ここで2人で住むから、父さんと一緒に住みなさいよ」
貴子はすかさず乗っかる。
貴子
「ナイスアイデアですね、お義母さん」
ケンジ
「ちょっと~~」
3人の笑い声が重なる。
その瞬間だけは、
不安も、安静も、双子の重みも、
全部忘れて、
ただの“家族の食卓”だった。
でも。
ケンジが「母さんの料理は絶品」と言った言葉が、
ほんの少しだけ、
貴子の胸の奥に残る。
私は、いつか、
ちゃんと“この家の味”を作れるのかな。
そんな小さな思いを、
誰にも言わずに、飲み込んだ。
綾子はテーブルに座り、
紙にペンで何か書き始める。
さらさらと迷いのない字。
「これ、買い物行ってきて」
ケンジ
「うん、いってくる。結構色々あるな」
綾子
「安いスーパー、角を曲がったとこよ」
ケンジ
「了解」
軽い足取りで出ていく。
玄関の扉が閉まる音。
家の中が、静かになる。
綾子はゆっくり湯のみを手に取り、貴子を見る。
綾子
「ところでケンジとは、どうなの?」
貴子の手が、少し止まる。
貴子
「え? あ、あの……」
綾子は柔らかく笑う。
綾子
「すぐ答えが出ないって事は……ちょっとうまくいってない感じね」
責める口調じゃない。
ただ、見抜いているだけ。
貴子は視線を落とす。
貴子
「はい……」
綾子は、ふっと息を吐く。
綾子
「あの子ね、趣味もなくて、全然笑わない子だったの。家に帰っても、何にも言わない子」
貴子
「そうなんですね」
綾子
「でもね、あなたと付き合い始めたあたりから、なんか変わったの」
貴子は顔を上げる。
貴子
「え?」
綾子
「帰ってきて、今日はこんな事があった、って話すようになったのよ」
少し誇らしげに。
綾子
「うん、それとね、あの子、昔から、周りを見ないでまっすぐ走って頑張りすぎるところがあるの。ちょっと不器用だから、許してあげて」
その言葉に、貴子は小さく笑う。
貴子
「はい……まさしく、それで、この前、大喧嘩しました。一方的に、わたしが怒っただけでしたけど」
綾子は首を振る。
綾子
「喧嘩は、片方だけじゃできないのよ」
少し間を置く。
綾子
「家事とかは、私、また手伝いにくるし、お金の事も少しは援助するし、落ち着くと思うわ」
その“援助”という言葉に、
ほんの一瞬、
貴子の胸がきゅっとなる。
ありがたい。
でも――
自分たちの家庭に、
“支えてもらう”前提が入る。
貴子は笑顔を崩さない。
貴子
「ありがとうございます」
綾子は、貴子の手にそっと触れる。
綾子
「あなたがいるから、あの子はちゃんと大人になれてるのよ」
優しい。
本当に優しい。
だからこそ。
胸の奥に、静かな波が立つ。
私は、ちゃんとできてるのかな。
綾子は、ふと視線をやわらげたまま言う。
綾子
「それと、あなた両親と事情があって会えないって本当?」
その一言で、空気が少し変わる。
貴子の指先が、ぎゅっと握られる。
俯く。
貴子
「本当です……」
声が、少しだけ小さい。
綾子
「子供が産まれても?」
間ができる。
胸の奥が重くなる。
貴子
「は、はい……」
綾子はしばらく何も言わない。
そして、静かに言う。
綾子
「事情は聞かないけど」
その前置きが、優しい。
でも逃げ道でもない。
綾子
「親ってね、自分の子供の結婚、そして孫ができたのを喜ばない親なんていないの」
一拍置く。
綾子
「だから、なかなか決心できないかもだけど……会ってあげなさい」
まっすぐな目。
押しつけではない。
でも、真剣。
貴子の胸の奥が、きゅっと締まる。
自分の母。
最後に見た背中。
言えなかった言葉。
貴子
「は、はい……」
返事はした。
でも、心はまだ揺れている。
子供が無事産まれて、落ち着いたら……
その時に。
その時に――
そう思いながら、視線を落とす。
その時。
玄関の鍵の音。
「ただいま~、めちゃくちゃ重い」
ケンジの声が、少し弾んでいる。
ドアが開く。
両手いっぱいの買い物袋。
肩で息をしている。
「双子分って考えると、なんか色々増えたわ」
袋をどさっと置く。
その無邪気さに、
さっきまでの重たい空気が、少しだけほどける。
綾子が笑う。
「頑張り屋は誰に似たのかしらね」
貴子は、ケンジを見る。
この人は、知らない。
自分の“言えない過去”も、
今揺れている心も。
でも。
今は、
この人と、この家族で、
前に進んでいる。
その事実だけが、少し救いだった。
ケンジは大きな買い物袋をどさっと床に置く。
ケンジ
「双子って聞いてから、なんか量の感覚バグってる」
綾子
「まだ生まれてないのに気が早いわよ」
ケンジ
「いや、なんかさ、今から準備しとかないとって思って」
袋の中から、ノンカフェインのお茶、果物、貴子が食べられそうなヨーグルト。
綾子は中身を見て、にこっとする。
綾子
「ちゃんと考えてるじゃない」
ケンジ
「母さんに教わったからな」
貴子はそのやり取りを見ながら、ふっと笑う。
さっきまで胸に残っていた重さが、少し軽くなる。
綾子は立ち上がる。
「今日はこれで十分。あとは私がやるから、あなたは貴子さんの横にいなさい」
ケンジ
「はいはい」
貴子の隣に腰を下ろす。
ケンジ
「重くなかった?」
貴子
「うん、大丈夫」
ケンジはお腹にそっと触れる。
「ヒカル、ミライ、パパ荷物持ってきたぞ」
綾子
「まだ聞こえてないわよ」
3人で笑う。
その夜は穏やかだった。
食事をして、
少しテレビを見て、
貴子は早めに横になる。
ケンジは布団を整え、
綾子は洗い物をしている。
この家は、ちゃんと回っている。
貴子はお腹に手を当てる。
さっき言われた言葉――
“会ってあげなさい”
その言葉は消えないけれど、
今はまだ、焦らない。
今は、この命を守ること。
ヒカルとミライが元気に育つこと。
それだけでいい。
出産まで、家族は穏やかに続いていく。
双子とわかってからの検診日。
ケンジは仕事だった。
朝、ネクタイを締めながら言う。
ケンジ
「本当は行きたかったけど……ごめん」
貴子
「ううん、大丈夫。お義母さんいるし」
綾子
「任せなさい。ちゃんと聞いてくるから」
ケンジは貴子のお腹にそっと触れる。
「ヒカル、ミライ、今日はちゃんと先生の言うこと聞くんだぞ」
少し照れたように笑い、仕事へ向かう。
⸻
病院。
今日は前より検査が多い。
双子は慎重に見るらしい。
エコー。
画面にふたつの影。
医師の表情が真剣になる。
時間が少し長い。
貴子の胸がざわつく。
綾子が横で静かに言う。
「大丈夫よ」
医師
「順調です。少し小さめですが、双子なら許容範囲です」
その言葉で、やっと息ができる。
心音も、ふたつ。
確かに、生きている。
⸻
帰宅。
ケンジはまだ帰っていない。
綾子は夕飯の準備をしながら言う。
「仕事中だろうけど、電話してあげなさい」
貴子は少し迷ってから、電話をかける。
ケンジ
「もしもし?どうだった?」
声が、少しだけ焦っている。
貴子
「順調だって」
一瞬の沈黙。
そして、
「よかった……」
本気で安心した声。
「今日、早く帰れるようにする」
貴子
「無理しなくていいよ」
ケンジ
「無理はしない。でも、顔見たい」
夜。
いつもより少しだけ早く帰ってくるケンジ。
エコー写真を広げる。
「これがヒカルで、これがミライ?」
「逆かも」
3人で写真をのぞき込む。
ケンジは少し疲れている。
でも目は優しい。
崩れない。
まだ、家族はちゃんと一つ。
数日後。
昼休み。
社員食堂。
山田が味噌汁をすすりながら言う。
「そういえば、奥さんどうですか?」
ケンジは一瞬だけ迷う。
今までは「順調です」だけで済ませていた。
でも今日は、少し違う。
ケンジ
「…実はさ」
箸を置く。
「双子なんだ」
一瞬、空気が止まる。
「え?マジで?」
「すげぇな」
「いきなり2人かよ」
ざわっと笑いが起きる。
部長が振り返る。
「双子?本当か?」
ケンジ
「はい。まだ安定期入ったばかりですけど」
部長は少しだけ真顔になる。
「それは大変だな。でも、めでたい」
山田がニヤッとする。
「先輩、出費2倍っすね」
ケンジは苦笑する。
「笑えないけどな」
でも、その顔は暗くない。
どこか誇らしい。
「ヒカルとミライって名前、もう決めてるんです」
「早っ!」
「気が早いな」
ケンジは少し照れながら言う。
「光る未来、って意味で」
食堂が一瞬静かになる。
山田がぽつりと言う。
「いい名前ですね」
部長も頷く。
「ちゃんと帰れよ。残業ばっかりするな」
その言葉に、ケンジは一瞬だけ表情を変える。
以前の自分を思い出す。
「はい」
小さく、でもはっきり答える。
その日。
綾子は朝から家に来てくれていた。
双子の話をして、
会社で報告した話をして、
夕飯を一緒に食べた。
ケンジ
「今日、会社で双子って言った」
綾子
「ちゃんと言えたのね」
ケンジ
「うん」
少し照れた顔。
綾子は腕を組み、
「しっかり頑張りなさいよ」
と、言ったあと、
「……あ、しかし頑張り過ぎないように!」
ケンジ
「え?」
綾子は目を細める。
「聞いたんだからね、貴子ちゃん怒らせたって」
貴子
「ちょっと~お義母さん……」
ケンジ
「母さん、余計なことを」
綾子は笑う。
「夫婦はね、どっちかが無理するとバランス崩れるの。あなたは走りすぎるのよ」
ケンジは小さくうなずく。
夕飯を食べ終え、
テレビを少し見て、
時間がゆっくり流れる。
そして、綾子は立ち上がる。
「じゃあ、今日は帰るわね」
貴子
「もう帰られるんですか?」
「父さん一人にしてるからね。でもまた来るわ」
玄関。
靴を履きながら、
綾子はケンジを呼ぶ。
「ちょっと」
ケンジが近づく。
綾子は声を落として言う。
「守るのは、お金だけじゃないのよ」
ケンジは一瞬、母の目を見る。
その言葉の意味を、ちゃんと理解している顔。
「……うん」
綾子は満足そうにうなずき、
「じゃあね」
ドアが閉まる。
家の中が、少し静かになる。
貴子
「なんか、急に広くなったね」
ケンジ
「うん」
でも、不安じゃない。
2人でやる。
その覚悟が、ちゃんとある。
ケンジは貴子の隣に座る。
「大丈夫?」
貴子
「うん」
貴子はお腹に手をあてる。
ヒカルとミライは、静かにそこにいる。
まだ崩れない。
まだ、幸せを積む時間。
その夜。
ケンジはすぐに寝息を立てた。
最近は早く帰る分、疲れもたまっている。
貴子は隣で目を閉じたまま、眠れずにいた。
部屋は暗い。
カーテンの隙間から、街灯の明かりが少しだけ差し込む。
ゆっくり布団を抜ける。
起こさないように。
足音を立てないように。
そっとリビングへ行き、ソファーに腰を下ろす。
静かだ。
冷蔵庫の小さな音だけが聞こえる。
両手でお腹を包む。
ヒカルとミライは、まだ静かだ。
綾子の言葉が頭に浮かぶ。
「親って、自分の子供の結婚、そして孫ができたのを喜ばない親なんていないの」
本当に、そうだろうか。
自分の母の顔を思い出す。
台所に立つ後ろ姿。
叱られた日の声。
笑った日の顔。
女になったこと。
結婚したこと。
妊娠したこと。
何も言えていない。
言えない。
どう説明する?
「お母さん、私ね――」
そこまで考えて、言葉が止まる。
怖い。
否定されたら?
拒絶されたら?
それでも。
このお腹に、ふたつの命がいる。
この子たちにとっては、
自分が“母”になる。
だったら、
自分の母から、逃げ続けていいのだろうか。
目がじんわり熱くなる。
涙が一粒、頬を伝う。
そのとき。
寝室のドアが、そっと開く音。
ケンジ
「どうしたの? 眠れない?」
眠そうだけど、ちゃんと心配している声。
貴子は慌てて涙を拭く。
貴子
「ん? 大丈夫、ちょっとトイレで起きただけ……」
ケンジはゆっくり近づく。
ソファーの前に立ち、じっと貴子の顔を見る。
ケンジ
「その顔は、貴子の嘘ついてる時の顔……」
貴子
「え? あ、あの……」
うまく言葉が出ない。
ケンジは隣に座る。
距離は近いけど、急かさない。
ケンジ
「話して楽になる事なら話して……お腹にも悪いから」
その言い方は優しい。
責めるでもなく、詰めるでもなく。
ただ、心配。
貴子は視線を落とす。
言いたい。
でも、まだ整理がつかない。
貴子
「わかった……でも、今日は、こんな時間だしケンジ仕事だから……時間ある時に話す」
ケンジは少しだけ考えて、うなずく。
ケンジ
「わかった。約束だよ」
貴子
「うん」
ケンジは立ち上がり、そっと手を差し出す。
「戻ろう」
貴子はその手を握る。
2人でベッドへ戻る。
布団に入り、横になる。
ケンジの手が、自然にお腹に触れる。
何も言わない。
でも、その温もりがある。
貴子は目を閉じる。
さっきより、少しだけ呼吸が深くなる。
不安は消えていない。
母への迷いも、そのまま。
それでも、
今は隣にケンジがいる。
その安心だけを胸に抱いて、
2人は静かに眠りについた。
翌朝。
ケンジが出勤してから、少ししてインターホンが鳴る。
すれ違うように綾子がきた。
綾子
「どう~体調は?」
明るく言いながらも、ソファーで浮かない顔をしている貴子を見て、表情が少しやわらぐ。
綾子
「うーん、悩み事がありますって顔に書いてあるね」
そう言って、貴子の横にゆっくり座る。
距離は近い。でも急かさない。
貴子
「あ、お義母さん……私……」
言葉が途中でほどける。
次の瞬間、涙がこぼれる。
綾子の胸元に顔を埋める。
綾子は驚かない。
ただ、そっと背中に手を置く。
綾子
「なに? 私に話してみなさい」
責めない声。
逃げない声。
貴子はしばらく泣いて、ゆっくり顔をあげる。
涙でにじんだ目で、綾子を見る。
「何を言っても驚かないって約束してくれますか?」
綾子は一瞬だけ息を整え、
そして真っ直ぐに見る。
綾子
「わかったわ、覚悟して聞くわ」
その目は、ぶれない。
貴子は小さくうなずき、
深く息を吸う。
貴子は、ゆっくり話しだす。
貴子
「信じてもらえないかもしれませんが、私、元は男だったんです……」
部屋の空気が一瞬止まる。
綾子
「……男?」
驚きはある。
でも、声は強くない。
貴子は震える指を握りしめながら、ゆっくり話し始める。
昔は、女が得だ、男は損だと、女批判ばかりしていたこと。
自分勝手な物差しで、世の中を見ていたこと。
そして、あの日。
BARで出会った不思議な薬。
冗談半分で飲んだ“女に変身できる薬”。
思っていたより、女は楽じゃなかったこと。
視線。
体の変化。
弱さ。
怖さ。
戻れる薬もできた。
元に戻る選択肢はあった。
それでも――
女として生きる道を選んだこと。
言葉を探しながら、何度も息を整えながら、
貴子は最後まで話した。
綾子は、途中で一度も遮らない。
そして。
綾子
「うーん……確かに信じられない話ね……」
少しだけ天井を見る。
「でもね」
ゆっくり、貴子の顔を見る。
「あなたの顔、嘘ついてる顔してないわ」
貴子
「お義母さん……」
声がまた震える。
綾子
「両親に会えない事情って、そういう事なのね……」
貴子
「はい……今日、ケンジさんにも言う約束してて……嫌われたりしないかな……って」
その不安は、本音だった。
綾子は少し笑う。
綾子
「ケンジは、今のあなたを好きになったの」
はっきり言う。
「今のあなたは、女として妊娠して、辛いのに頑張ってる。それを見てるのはケンジよ」
少し間を置いて。
「そりゃ、少しはショック受けるかもしれない。でも、大丈夫よ」
貴子
「それならいいんですけど……」
まだ完全には安心できない声。
綾子はふっと笑う。
綾子
「もし、嫌いだ離婚だってなったら、私がひっぱたいてやるわよ」
貴子
「お義母さん……」
その言い方が可笑しくて、
少しだけ、ほんの少しだけ、貴子の表情が明るくなる。
綾子はそっと貴子の手を取る。
温かい手。
綾子
「ケンジに言って、納得してもらえて、無事出産できたら」
真っ直ぐな目。
「孫連れて、ケンジと報告しに行きなさい。あなたのご両親に」
貴子
「えっ……」
綾子
「大丈夫。今と向き合ってるあなたを見たら、きっとご両親もわかってくれる」
逃げてない目で言う。
貴子
「はい……わかりました」
胸の奥の固まっていたものが、
少しだけ溶けた。
涙はまだある。
でも、それは怖さの涙じゃない。
少し、前を向ける涙だった。
玄関の鍵が回る音。
ケンジ
「ただいま」
いつもの声。
でも、今日は少しだけ重たい。
リビングには綾子もいる。
貴子は立ち上がろうとするけど、綾子が軽く肩に手を置く。
「座ってなさい」
貴子はうなずく。
ケンジが靴を脱ぎ、リビングに入ってくる。
貴子は、深く息を吸う。
ケンジは二人の空気を感じ取る。
「……どうした?」
貴子
「ケンジさん……今日、話すって言ってたでしょ」
ケンジの目がまっすぐになる。
「うん」
貴子は、両手を膝の上で重ねる。
「信じてもらえないかもしれないけど……」
一瞬、言葉が止まる。
それでも逃げない。
「私、昔は……女は得だ、男は損だって、女批判ばかりしてる男だったの」
ケンジの眉がわずかに動く。
貴子は続ける。
BARでのこと。
変身できる薬のこと。
女になったこと。
戻れる薬もあったこと。
それでも戻らなかったこと。
最後に、静かに。
「……元は、男だったの」
沈黙。
ケンジの口がわずかに開く。
ケンジ
「……ま、マジか……元は男……」
正直な反応。
ショックはある。
貴子の視線が揺れる。
「やっぱり……嫌だよね」
声が小さくなる。
ケンジはすぐに答えない。
少しだけ、考える。
その間が長く感じる。
やがて、ゆっくり息を吐く。
ケンジ
「びっくりはした」
正直に言う。
「でもな」
一歩近づく。
「俺が好きになったのは、あの日出会った時から、女として必死に生きてる貴子だ」
目を逸らさない。
「そこは、変わらない」
貴子
「ケンジ……」
涙がこぼれる。
綾子
「さすが私の息子、よく言った!」
バシーン。
ケンジ
「い、痛いよ、母さん!」
空気が少し緩む。
綾子は腕を組み、真面目な顔に戻る。
「子供が無事に産まれて落ち着いたら、2人で行きなさい」
「結婚しました、孫が産まれましたって、ご両親にちゃんと報告しに」
貴子
「はい、お義母さん」
ケンジも小さくうなずく。
「母さん、わかった」
その夜。
秘密は、家族の外では重い話かもしれない。
でもこの家の中では、
愛の方が勝っていた。
貴子が、そっと口を開く。
貴子
「ケンジ……」
ケンジ
「何?」
貴子は自分のお腹に手をあてながら言う。
「BARワンダーに行きたい」
ケンジは一瞬きょとんとする。
「どうして?」
貴子は少しだけ視線を落としてから、ゆっくり顔を上げる。
「真実を知ってたのは、あの3人だけだったから……」
一呼吸。
「ケンジにも伝えた事、報告したい」
ケンジは少し考えて、やわらかく笑う。
「そっか」
「じゃあ、少しだけ顔見せようか」
その会話を聞いていた綾子が、ふいに声をかける。
綾子
「ちょっと待って」
台所に行く音。
引き出しの音。
戻ってきて、貴子の前に水筒を差し出す。
「はい、これ持って行きなさい」
貴子
「これは?」
綾子は少し得意げに言う。
「烏龍茶も緑茶もダメだからね。麦茶よ。水だと味気ないだろうから」
貴子の顔がふっとやわらぐ。
「ありがとうございます、お義母さん」
ケンジが靴を履きながら振り返る。
「じゃ、行こうか」
綾子は2人を見送る。
「夕食、作って置いとくからね。早く帰ってらっしゃい」
ケンジ
「わかった」
玄関のドアが開く。
外の空気は少しひんやりしている。
貴子はそっとお腹に手をあてる。
ケンジは自然にその手を包む。
そうして2人は、
BARワンダーに向かった。
そしてBARワンダーに着く。
ケンジがドアを開け、2人で店内に入った。
カラン、とベルの音。
マスター
「あ、俺の子供は順調か?」
間髪入れず。
貴子
「ケンジの子供です!」
社長
「どないしたんや、夫婦そろって」
爺さん
「だいぶ目立ってきたのぅ」
貴子のお腹を見て、うんうんと頷く。
席に着く2人。
少しだけ、空気が落ち着く。
貴子はゆっくり口を開く。
「ケンジにも言ったんです……男だったって事」
一瞬、店の空気が静まる。
社長
「ほぅ~~……そりゃ勇気いったやろ」
爺さん
「本当にケンジを好きだから、隠せなかったんじゃな」
ケンジはまっすぐ前を向いたまま言う。
「男の貴子は、わかりませんが」
一拍。
「僕は、今の貴子が好きなので、受け入れました」
爺さんは静かにうなずく。
「そうじゃのぅ。今を生きる、今と向き合う。それが大事じゃ」
社長がふと笑う。
「それにしても、えらいお腹やな」
貴子
「双子なんです」
マスター
「え?いきなり2人のパパになるのか俺は」
貴子
「はいはい」
軽く流しながら、カバンから水筒を出す。
マスター
「持ち込みかよ~」
貴子
「だって、このBAR、烏龍茶か緑茶しかないし」
マスター
「そんな事ない!」
そう言って棚をガサガサ探し出す。
たんぽぽ茶、黒豆茶、ゆず茶、ごぼう茶、小豆茶、そば茶、コーン茶……
カウンターにずらっと並ぶ。
貴子
「え~、いっぱいある」
社長
「いつの間に仕入れとんねん」
マスターはそれを袋に詰めて、
「ケンジ!」
と手渡す。
ケンジ
「ありがとうございます」
貴子
「ありがとう~マスター」
マスターはニヤリと笑う。
「だから母乳が出たら……」
貴子 ケンジ
「ダメです」
店内に笑いが広がる。
爺さんは湯呑みをすすりながらつぶやく。
「守られとるのぅ、この子らは」
貴子はそっとお腹をなでる。
ワンダーは変わらない。
でも、2人は確実に前へ進んでいた。
そして、家に帰ってきた2人。
テーブルの上には、綾子が作ってくれた料理が並んでいる。
ケンジが温め直す。
湯気が立ち上る。
麦茶を注ぐ音。
いつもの家の匂い。
向かい合って座る2人。
貴子
「ケンジ……」
ケンジ
「ん?」
貴子は箸を止める。
「なんでもない……」
ケンジはじっと見る。
「なんでもない顔してない」
貴子は少し照れたように笑う。
「本当の事、話したのに……受け入れてくれて、ありがとう……」
ケンジは肩をすくめる。
「当たり前だろ」
一拍。
「頑張ってるし」
もう一拍。
「それに美人だし」
さらに視線がゆっくり下へ。
「それに……」
貴子
「それに……?」
ケンジの視線を追う。
「ちょっと~、今どこ見てたのー」
ケンジ
「いいだろ、夫婦なんだから」
貴子
「いたっ……」
突然、体をびくっとさせる。
ケンジ
「どうした?大丈夫?」
貴子はお腹を押さえる。
「なんか……今、蹴られた感じがして」
ケンジ
「え?」
椅子を引いて立ち上がる。
そっと、お腹に手をあてる。
静かになる部屋。
ケンジ
「……うーん、わかんないなぁ」
貴子は少し笑う。
「だって、今はなんともないもん」
二人でお腹を見つめる。
さっきまで冗談を言っていた空気が、少しだけ変わる。
ケンジ
「今の……ヒカルか?ミライか?」
貴子
「どっちだろうね」
手を重ねる。
しばらく待つ。
……何も起きない。
ケンジ
「タイミング悪いな、俺」
貴子はくすっと笑う。
「そのうち、嫌でもわかるよ」
小さな命が、確実にそこにいる。
さっきまで“未来”だった存在が、
今、少しだけ“現実”になった。
ケンジはもう一度、そっと撫でる。
「よろしくな」
それは、初めて父親としてかけた言葉だった。
とある検診の日。
今日は体調も悪くない。
綾子は来ようか?と言ってくれたけれど、
貴子は「大丈夫」と言って、1人で病院へ向かった。
待合室。
双子妊婦だと、呼ばれる時間も少し長い。
周りの妊婦さんより、少しだけ自分のお腹は大きい。
名前を呼ばれ、診察室へ。
エコー画面に、2人分の動き。
白黒の中で、それぞれが別々の方向に揺れている。
医師が少し笑う。
医師
「今日は、はっきり見えますね」
貴子
「え……?」
心臓が一瞬、強く鳴る。
医師は画面の左を指す。
「こちらが男の子」
小さな体が、ぴくっと動く。
胸の奥がぎゅっとなる。
そして、もう一方へ。
「こちらが女の子ですね」
貴子
「……え?」
男の子。
女の子。
頭の中で言葉がゆっくり重なる。
医師
「男女の双子ですね。どちらも順調です」
順調。
その一言で、目の奥がじんわり熱くなる。
ヒカルと、ミライ。
冗談みたいに呼んでいた名前が、
急に現実になる。
本当に、男の子と女の子。
本当に、2人。
貴子は画面から目を離せない。
お腹にそっと手を置く。
「……ヒカル、ミライ」
小さく、心の中で呼ぶ。
診察室を出る。
足が少しふわふわしている。
男の子と、女の子。
ヒカルと、ミライ。
本当に、そうなんだ。
病院の外に出る。
空気が少しだけ冷たい。
時計を見る。
ちょうどお昼前。
「……休憩中かなぁ?」
スマホを取り出す。
少しだけ深呼吸してから、電話をかける。
コール音。
1回、2回。
ケンジ
「もしもし?」
少しざわざわした音が後ろに聞こえる。
貴子
「今、検診終わったよ」
ケンジ
「どうだった?」
声が真剣。
貴子は一瞬、間を置く。
「性別、わかった」
ケンジ
「どっち?」
貴子は、はっきり言う。
「男の子と……女の子」
一瞬の沈黙。
そして次の瞬間。
ケンジ
「男と女の双子?!」
声、でかい。
電話の向こうが一斉にざわつく。
「え?双子?」
「男女?!」
「マジで?!」
「おめでとうございます!」
拍手の音。
誰かが笑いながら言う。
「佐々木さん、やりましたね!」
ケンジが慌てる。
「ちょ、ちょっと待って!すみません!」
でも声は隠しきれないくらい弾んでいる。
ケンジ
「本当に?男女?」
貴子
「うん。ヒカルとミライ」
電話の向こうで一瞬、静かになる。
ケンジ
「……すげぇな」
少しだけ声が震える。
「俺、男女の双子の父親か」
周りからまた声が飛ぶ。
「今日は奢りですね!」
「ヒカルとミライの父ちゃん!」
笑い声。
ケンジ
「ちがう!まだ生まれてない!」
貴子は思わず笑う。
さっきまで胸がいっぱいだったのに、
今は温かい。
ケンジ
「早く帰りたい」
貴子
「ちゃんと仕事してきなさい」
電話を切る。
スマホを胸に当てる。
お腹に手を置く。
「ヒカル、ミライ」
今日は、忘れられない日になった。
その日の夜。
ケンジはいつもより早く帰ってきた。
ドアを開けた瞬間から、顔が緩んでいる。
「男女ってさ……すごいな」
テーブルに向かい合って座る2人。
貴子はお腹を撫でながら言う。
「ねぇ、ヒカルとミライの事なんだけど」
ケンジ
「うん?」
「男の子がヒカル、とか決めるのやめない?」
ケンジは少し首をかしげる。
「どういうこと?」
貴子は少し照れながら笑う。
「最初に出てきた子がヒカル。次がミライ」
一瞬、ケンジが止まる。
「順番で?」
「うん」
「だってさ、どっちがどっちって決めなくてもいいじゃん」
「最初に会えた子がヒカル」
「あとから来た子がミライ」
ケンジはゆっくり頷く。
「それ、いいな」
少し考えてから続ける。
「なんか…平等だな」
貴子は笑う。
「でしょ?」
ケンジはお腹に手を当てる。
「じゃあ、ヒカル、どっちだ?」
貴子
「まだ内緒かもよ?」
2人で笑う。
性別がわかった日なのに、
性別で決めない。
それが、2人らしかった。
翌日。
「ちょっと、軽くウォーキングもした方がいいって言われたなぁ」
そう独り言をこぼしながら、
貴子はゆっくり外へ出た。
風は穏やか。
歩幅は小さめ。
双子のお腹は、前より確実に重い。
しばらく歩いて、公園のベンチに腰を下ろす。
はぁ……と小さく息を吐いた、そのとき。
足音。
「……貴子ちゃんだよね」
顔を上げる。
のぶだった。
昼間。
酒の匂いはない。
貴子
「は、はい……お久しぶりです」
のぶは少し距離をあけて、隣に腰かける。
じっとお腹を見る。
のぶ
「あの彼と結婚したの?……それで妊娠?」
貴子
「はい」
のぶは鼻で笑う。
のぶ
「いいよなぁ……女ってさ。妊娠したら家でダラダラできるんだろ?楽だよな」
その言葉。
昔、自分が言っていた言葉と同じ響き。
胸の奥が、少しだけ苦くなる。
貴子は、怒らない。
ゆっくり、のぶを見る。
貴子
「のぶさんって、女の人生って楽勝だと思ってますか?」
のぶ
「そりゃそうだろ。デート代出してもらえて、酒飲んで稼げてさ」
貴子は、お腹に手を置く。
貴子
「楽な人生なんて、誰にもないですよ」
静かに。
強く。
貴子
「女も男も関係ないです。
そうやって“どっちが得か”ばかり見てるうちは、たぶん何も変わらないです」
のぶ
「なんだそりゃ」
貴子は立ち上がる。
少し重たい動き。
でも、まっすぐ。
貴子
「嘘だと思って、今を頑張ってください。
今と向き合ってください。
絶対、前に進めますから」
それだけ言って、ゆっくり歩き出す。
振り返らない。
のぶはベンチに残る。
のぶ
「今を頑張る……今と向き合う、か」
風が吹く。
昼の公園は静かだ。
のぶの中に、ほんの少しだけ何かが残る。
家に着いた貴子。
ベッドで横たわってたら知らない間に寝てしまってた。
目が覚めた頃には、外は少し暗い。
体が重い。
リビングから料理の匂い。
綾子
「貴子さん、夕ご飯作ったわよ」
貴子
「あ、お義母さん……ウォーキングのあと寝てしまって……」
まだ少しぼんやりしながら、
ゆっくりテーブルまで行く。
貴子
「うわぁ~今日のも美味しそう~」
ケンジ
「早く食べよ、いただきます」
貴子
「いただきます」
湯気が立ち上る。
綾子
「ウォーキングとか、私はしなかったわ~」
貴子
「そういえばさぁ~途中でのぶさんに会ったよ」
ケンジ
「え?あいつ、何もされなかったか?」
箸を止める。
貴子
「シラフだったし、妊婦だったし」
綾子
「変な人なんだったら気をつけなさい」
貴子
「はい……でも昔の私みてるみたいだった、女は楽勝だ~って」
綾子
「女とか関係ないわよね」
ケンジ
「ちょっとだけ思う時もあるけどね~」
空気が一瞬だけ止まる。
貴子
「へぇ~ケンジそうなんだ~」
ケンジ
「た、たまにだよ」
綾子
「はい、馬鹿息子は、ほっといて、やっぱり2人だけで暮らしましょうか」
貴子
「そうですね、お義母さん」
ケンジ
「ごめんなさい~」
3人とも笑う。
でも、ほんの少しだけ、
笑いが揃っていない。
夜。
貴子がソファーでお腹をさすっている。
「なんかさっきからボコボコする~」
ケンジ、ぴたっと止まる。
「え?今?今?」
子どもみたいに横に滑り込んでくる。
手をそっと当てる。
静か。
ケンジ、真剣な顔。
小声で、
「ヒカルなら蹴って~」
……
一拍。
ボコッ。
ケンジ、目見開く。
「……きた」
ドヤ顔。
「あ、ヒカルだ」
貴子
「え、今のただのタイミングでしょ」
ケンジ
「いや、完全に今“はい”って蹴った」
貴子、笑いながら
「じゃあミライなら蹴って~」
一瞬静か。
トン。
貴子
「ほら!ミライ!」
ケンジ
「え、ちょっと待て、ちゃんと交互にやれ!」
その瞬間、ボコボコッ。
2人同時に
「うわっ!」
ケンジ
「会議してるな、これ」
貴子
「パパうるさいって言われてるかも」
ケンジ
「えー!ヒカル~味方してくれ~」
ボコッ。
ケンジ
「ほら!俺派!」
貴子
「いや今のは“うるさい”って蹴ったの」
2人で爆笑。
お腹はまた、ぽこん、と動く。
ケンジ、少しだけ優しい声で
「元気だなぁ」
貴子
「うん」
静かに笑い合う。
夜。
ベッドに入っても、貴子は落ち着かない。
ボコッ。
トン。
また、ボコボコ。
貴子
「……うぅ、今日すごい……ボコボコする……」
ケンジ
「ん……まだ動いてる?」
貴子
「うん……さっきからずっと……」
ケンジは一度、目をこすって時計を見る。
明日も仕事。起きる時間は早い。
ボコッ。
ケンジ
「……貴子、俺さ、明日仕事だから寝ないといけないし……」
貴子
「……うん」
ケンジ
「だから、俺ソファーで寝るよ」
貴子
「え?」
ケンジ
「貴子も気にせず寝た方がいい。俺が隣にいたら、動くたびに気になるだろ?」
貴子
「……気になるのは、ケンジがいなくなる方……」
ケンジ
「貴子……」
貴子は布団をぎゅっと握る。
ボコボコ。
貴子
「だってさ……今日ほんまに元気すぎて、怖いっていうか……落ち着かなくて……」
ケンジ
「大丈夫だよ」
貴子
「大丈夫って言われても、眠れない……」
ケンジは起き上がりかけていた体を、いったん止める。
貴子
「……行かないで」
ケンジ
「貴子、俺——」
貴子
「わかってる。仕事やし、寝ないといけないのもわかってる」
一拍おいて、小さく言う。
貴子
「でも、一緒にいて……」
ケンジは少しだけ黙る。
そして、ため息みたいに笑う。
ケンジ
「……わかった」
貴子
「ほんと……?」
ケンジ
「その代わり、俺が寝れるように協力して」
貴子
「うん……する……」
ケンジは布団に戻って、貴子の方へ体を寄せる。
そっと、お腹に手を置く。
ケンジ
「ヒカル、ミライ。パパ明日仕事だからさ、ちょっとだけ静かにしてくれ」
ボコッ。
ケンジ
「……聞いてないな」
貴子
「今の絶対ヒカル」
ケンジ
「いや、ヒカルならもっとこう……ボコッ!って感じで——」
ボコッ。
ケンジ
「ほら!今のヒカルだ」
貴子
「……たまたま当たっただけ」
ケンジ
「じゃあ次はミライ」
トン。
ケンジ
「……ほら、ミライ」
貴子
「……それも、たまたま」
ケンジ
「たまたまでも当てたいんだよ」
そう言って、ケンジは貴子の額に軽くキスをする。
ケンジ
「寝よ。俺、ここにいるから」
貴子
「……うん」
ボコボコはまだ続く。
でも、貴子の肩の力は少し抜けていく。
数日続いた。
夜になるとボコボコ。
横になると元気になるヒカルとミライ。
貴子は眠れない。
ケンジも、当然眠れない。
朝。
ケンジは目の下にうっすらクマ。
ネクタイを締めながら、
「よし、いってくる」
少し声がかすれている。
貴子
「……大丈夫?」
ケンジ
「大丈夫大丈夫」
笑う。
でも、目が少し赤い。
玄関で靴を履く。
立ち上がる時、少しだけふらつく。
貴子はそれを見逃さない。
ケンジ
「ヒカル、ミライ、パパ稼いでくるぞ~」
お腹に軽くタッチして出ていく。
ドアが閉まる。
静かになる部屋。
貴子はソファーに座ったまま、
自分のお腹をさする。
ボコッ。
元気。
でも胸がぎゅっとなる。
「……私のせいだ」
数日前の夜を思い出す。
「そばにいて」
「行かないで」
仕事あるのに。
寝不足なのに。
涙が、ぽろっと落ちる。
「ごめんなさい……」
声に出る。
ヒカルかミライか分からないけど、
トン、とお腹の中で動く。
まるで
“泣かないで”
って言うみたいに。
貴子は両手でお腹を包む。
「パパに、ちゃんと謝ろ……」
夜。
ヒカルとミライは、今日も元気。
ボコッ。
トン。
でも昨日ほどじゃない。
ケンジが帰ってきて、夕飯を食べて、
少しだけテレビを見て。
寝る時間。
ケンジは当たり前みたいに、
貴子の隣に横になる。
何も言わずに、
そっと体を寄せる。
貴子は、その横顔を見る。
目の下のクマ。
少しだけ、疲れた目。
それを見た瞬間、
涙がじわっと出てくる。
ケンジ
「……どうした?」
貴子、首を振る。
でも止まらない。
ぽろぽろ、涙が落ちる。
ケンジ
「え、なに?どっか痛い?」
貴子
「ちがう……」
しゃくりあげながら、
「ごめんなさい……」
ケンジ
「え?」
貴子
「わがまま言って……ごめんなさい……」
ケンジは一瞬きょとんとする。
貴子
「仕事あるのに……寝不足なのに……そばにいてって……」
「私ばっかり不安で……」
声が震える。
「ごめんなさい……」
ケンジは、ゆっくり貴子の頬に触れる。
「謝ることじゃない」
貴子
「でも……」
ケンジ
「俺が一緒にいたいから、いるだけ」
少し笑う。
「ヒカルとミライがボコボコしてもさ」
お腹に手を置く。
ボコッ。
ケンジ
「ほら、元気」
貴子は涙を拭く。
ケンジ
「わがまま言える相手が俺でよかった」
静かな声。
貴子は顔をうずめる。
「……ありがとう」
ケンジはそのまま抱き寄せる。
今日はソファーの話は出ない。
寄り添ったまま。
お腹の中は、トン、と静かに動く。
休日。
久しぶりに晴れた日。
貴子はゆっくりと準備をする。
ケンジ
「よし、今日は双子用ベビーカー見に行くぞ」
綾子
「私は荷物持ちね」
貴子
「お義母さん、普通に楽しんでください」
3人でショッピングモールへ。
ベビー用品売り場。
ずらっと並ぶベビーカー。
ケンジ、目を輝かせる。
「でかっ」
双子用は想像以上に大きい。
横並びタイプ。
前後タイプ。
貴子
「これ、エレベーター入る?」
綾子
「玄関も測っとかないとね」
ケンジは押してみる。
「お、意外と軽い」
でも曲がるときにガクン。
「あ、思ったより幅あるな」
貴子
「ヒカルとミライ、これに乗るんだね」
自然にその名前が出る。
ケンジ
「ヒカルこっち、ミライこっちか?」
貴子
「なんで勝手に決めるの」
綾子
「どっちでも喧嘩しそうね」
3人で笑う。
貴子はベビーカーのハンドルに触れる。
まだ中は空っぽ。
でも確実に、もうすぐそこに命が乗る。
ケンジ
「これにしよっか?」
綾子
「もう少し見なさい、勢いで決めない」
ケンジ
「えー」
貴子
「お義母さんの言う通り」
ケンジ
「2対1かよ」
でも顔は楽しそう。
売り場の明るい照明の中、
3人で未来を選んでいる。
ベビーカーを一通り見て、
次はベビー服コーナー。
小さな肌着。
手のひらサイズの靴下。
双子用の「おそろい」セット。
貴子は思わず立ち止まる。
「ちっちゃ……」
ヒカルとミライ。
この服を着るのか。
ケンジが値札を見る。
無言。
もう一着見る。
また無言。
綾子はその様子を横目で見る。
ケンジ
「双子って……倍かかるな」
冗談っぽく言うけど、
目は本気で計算している。
貴子
「肌着何枚いるんだろ」
ケンジ
「吐き戻しもあるって言うしな」
カゴに入れては戻す。
入れては戻す。
ベビーカーも高い。
チャイルドシートも2つ。
ベビーベッドどうする?
頭の中で数字が増えていく。
空気が少しだけ重くなる。
そのとき。
綾子
「そんな顔しなくていいの」
2人が振り向く。
綾子
「私も少しは援助するから」
さらっと言う。
ケンジ
「母さん……」
綾子
「双子よ?1人でも大変なのに」
値札を見て、うなずく。
「これは未来への投資」
貴子
「でも……」
綾子
「でも、じゃない」
優しく笑う。
「私はおばあちゃんになるのよ?」
少し誇らしげ。
「手伝わせなさい」
ケンジは黙って頭を下げる。
貴子の目がうるむ。
「ありがとうございます……」
綾子
「泣くのはまだ早いわ」
小さな肌着をカゴに入れる。
「まずは現実的に、肌着は多め」
ケンジ
「はい」
さっきより、空気が軽い。
重たい現実はある。
でも、
3人でなら持てる。
カゴの中には、
少しずつ増えていく小さな未来。
ショッピングモールを出る3人。
両手いっぱいの紙袋。
ベビーカーのカタログ。
小さな服。
哺乳瓶。
思っていたより、ずっと量が多い。
ケンジ
「……重っ」
肩に食い込む。
もう片手も限界。
「双子、なめてた……」
貴子はくすっと笑う。
「さっき勢いでカゴ入れてたの誰?」
ケンジ
「未来への投資だろ」
綾子は横で腕を組む。
「その未来、今あなたの腕ちぎれそうよ」
ケンジ
「母さん、ちょっとは持ってよ」
綾子
「私は妊婦じゃないけど年寄りよ?」
言いながらも、一番軽い袋をひょいと持つ。
でも明らかに量が多すぎる。
駐車場までまだ距離がある。
ケンジ
「……無理かも」
額に汗。
その様子を見て、綾子がスマホを取り出す。
「ちょっとあなた、今からショッピングモール車で来て」
電話口の向こう。
父
「いやだよ~」
即答。
綾子
「あなたも、おじいちゃんになるの!」
少し間。
「早く」
父
「わ、わかったよ……」
電話を切る。
綾子
「15分」
ケンジ
「父さん来るの?」
綾子
「荷物よりあなたが心配」
貴子が小さく笑う。
「お義父さん優しいですね」
綾子
「優しくないわよ、ただ逆らえないだけ」
数分後。
遠くから少し息を切らしながら近づいてくる父。
「どれどれどれ……さすが……ケンジの奥さんは美人だなぁ、さぁ貴子さん行きましょう」
パシ~ン。
綾子の平手が軽く飛ぶ。
父
「冗談じゃないか……」
ケンジ
「父さん!こっち、この荷物!」
父
「うわぁ、すごいな……」
袋を持ち上げながら目を丸くする。
「双子って大変なんだなぁ……」
車に積みながら、ぽつりと。
「本当に、もうすぐおじいちゃんか……」
その声は、照れと嬉しさが混ざっていた。
貴子は、その光景を見ている。
笑い合って、
軽口を叩いて、
自然に支え合っている家族。
自分には、
こんな風に、当たり前に手を差し伸べてくれる父はいない。
胸の奥が、少しだけきゅっとなる。
でも今は、
この家族の中にいる。
ヒカルとミライは、
生まれる前から、こんなに囲まれている。
お腹にそっと手を当てる。
ボコッ。
思わず声が漏れる。
ケンジ
「今のヒカル?」
貴子
「わかんない」
父
「元気だなぁ」
綾子
「あなたより元気よ」
父
「ひどいなぁ」
駐車場に、やわらかい笑い声が広がる。
貴子は、そっと目を細めた。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
ほんの一瞬だけ、そう思った。
荷物をケンジと手分けしながら家に運び終えた父。
最後の袋を置いて、ふぅと息を吐く。
父
「いやぁ……双子って準備の時点で運動会だな」
腕をぐるぐる回す。
「じゃあ、わしは帰るよ」
靴に手をかけようとする。
その背中に、綾子の声。
「4人で夕飯食べましょ、私作るから」
父、ぴたりと止まる。
「そうか?」
振り返る顔がもう緩んでいる。
「じゃあ、お邪魔するか」
その言い方がもう、帰る気ゼロ。
綾子は、台所へ向かう。
エプロンをさっとつける。
冷蔵庫を開ける音。
包丁のトントンという軽やかな音。
家の中に、生活の音が広がる。
3人は食卓へ。
ケンジ、椅子にどさっと座る。
「父さん、助かった」
父
「それより、どこで、こんな美人捕まえたんだよ」
にやりと貴子を見る。
「母さんも、今は、あれだが昔は美人でな」
綾子
「あなた、聞こえてるわよ」
間髪入れず。
「それに今も美人の間違い」
父
「はいはい」
貴子はクスクスっと笑う。
「おふたりのような夫婦になりたいです」
父
「わしらみたいか」
ケンジを見る。
「ケンジ、尻に敷かれるぞ、貴子さんに」
ケンジ
「それは嫌だなぁ~」
貴子
「そんな事しないわよ~」
父
「いやぁ~、母になると強くなるからなぁ、分からんぞ」
その言葉に、貴子は一瞬だけお腹をなでる。
“母になる”。
まだ実感は半分。
でも、確実に近づいている。
台所から綾子の声。
「あなた、そこに座ってないでお茶ぐらい出しなさい」
父
「はいはい」
立ち上がる。
湯のみを出す手つきがぎこちない。
ケンジが笑う。
「父さん、完全に使われてる」
父
「昔からだ」
でもどこか嬉しそう。
そのやりとりを見ながら、
貴子はそっとお腹に手を当てる。
ボコッ。
はっきりと。
父
「お?」
貴子
「今、蹴りました」
ケンジ、身を乗り出す。
「ヒカル?」
貴子
「わかんないって」
父はお腹を見つめる。
少し照れくさそうに、でも真面目な顔で。
「わしも……そのうち抱っこするんだな」
ぽつり。
その声には、
実感と、
責任と、
少しの誇らしさが混ざっていた。
台所からいい匂いが漂う。
煮物の香り。
味噌の香り。
笑い声。
この家には、
笑い声と、
台所の音と、
未来の気配がある。
貴子は、
その真ん中にいる。
胸の奥が、じんわり温かい。
そして少しだけ――
怖いくらいに幸せだった。
どうにかケンジ、ケンジの両親の助けもあり、
貴子のお腹は、もう隠しようもないほど大きくなった。
最初はふくらみだった。
今は、存在。
双子分の重み。
歩くだけで息が上がる。
靴下を履くのも一苦労。
夜、寝返りひとつ打つだけで目が覚める。
ボコッ。
ドン。
ヒカルとミライは、遠慮がない。
ケンジはもう慣れた手つきで、
貴子の背中にクッションを入れる。
「ここ?」
「うん、そこ」
綾子は毎日のように顔を出す。
父も週末は必ず来る。
「まだか?」
と聞いては、
「まだよ」
と綾子にたしなめられる。
家の中には、
ベビーベッドが組み立てられ、
小さな肌着が洗われ、
双子用ベビーカーが玄関に控えている。
未来は、もう準備万端だ。
でも貴子の体は、
準備万端ではない。
足はむくみ、
腰は重く、
呼吸は浅い。
夜。
ケンジがそっとお腹に手を当てる。
「ヒカルなら蹴って」
ボコッ。
「お、ヒカルだ」
「適当言うな」
すぐにもう一発。
ドン。
「今のはミライだな」
「だから適当」
笑いながらも、
どこか緊張している。
予定日まで、あと2週間。
双子だから、
もしかしたらもっと早いかもしれない、と医師は言った。
カレンダーの赤い丸。
近づく日付。
幸せと、
不安と、
覚悟。
全部が混ざって、
家の空気は、少しだけ張り詰めている。
夜。
貴子はベッドに横たわっている。
もうお腹は、両手で抱えたくなるほど大きい。
寝返りひとつにも時間がかかる。
ケンジはその姿を見て、少しだけ真顔になる。
「貴子、さすがにここまで大きくなったら、俺寝ぼけて蹴ったら怖いし……ソファーで寝るよ」
冗談っぽいけど、本気の声。
貴子は少し黙ってから、
「うん……寂しいけど仕方ないね……」
ケンジはうなずいて、リビングのソファーをベッドの横までゆっくり引き寄せる。
床に傷がつかないように、慎重に。
「よし……」
位置を整えて、ベッドのすぐ横にぴったりつける。
「これで寂しくない」
ほとんど距離は変わらない。
貴子は少し笑う。
「ケンジ……ありがとう」
ケンジはベッドに近づき、貴子のお腹に顔を近づける。
「ヒカル、ミライ、もう夜だぞ。ママを寝かしてあげなよ」
ボコボコ。
勢いよく動く。
貴子
「パパうるさいよ~って」
ケンジ
「ちがうよ、わかった~、だよ」
そっと手を置く。
「それと、出てくる時も、ママを困らすなよ~」
ボコボコッ、ボコボコッ。
貴子
「もう~興奮したんじゃない?」
ケンジ
「ちがうよな、返事だよな?」
ボコッ……ボコッ。
少し落ち着いた動き。
貴子は目を閉じる。
「じゃあ、寝ようか……おやすみ」
ケンジもソファーに横になる。
手を伸ばせば届く距離。
しばらく、貴子の寝顔を見つめる。
お腹は静かだ。
ヒカルとミライは、本当に返事をしたのか。
それとも、ただ元気なだけなのか。
部屋は暗くなる。
静かな夜。
何も起こらない夜。
でも、確実に――
その日は近づいている。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
【短編】淫紋を付けられたただのモブです~なぜか魔王に溺愛されて~
双真満月
恋愛
不憫なメイドと、彼女を溺愛する魔王の話(短編)。
なんちゃってファンタジー、タイトルに反してシリアスです。
※小説家になろうでも掲載中。
※一万文字ちょっとの短編、メイド視点と魔王視点両方あり。
触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜
桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。
上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。
「私も……私も交配したい」
太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる