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出産
女批判の男 女として生きる~出産
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翌日。
朝はいつも通りだった。
ケンジは出勤し、
「何かあったらすぐ電話しろよ」と言って家を出た。
昼前。
貴子はソファーに座っていた。
なんとなく、違和感。
張りとは違う。
でも、軽くない。
お腹の奥が、きゅっと締まる。
「……あれ?」
深呼吸する。
少しおさまる。
立ち上がろうとした瞬間、
また、ぎゅうっと強く張る。
「っ……」
ソファーに手をつく。
そのタイミングで玄関のチャイム。
綾子だった。
「貴子ちゃん~」
入ってきてすぐ、様子に気づく。
「どうしたの?」
貴子はお腹を押さえながら、
「ちょっと……お腹が……いつもより……」
言葉が途切れる。
また、張る。
今度ははっきり。
綾子の顔が変わる。
「間隔は?」
「……わからない……」
綾子は迷わない。
「タクシー呼ぶわ。今すぐ病院行きましょう」
スマホを取り出す。
声は冷静。
でも早い。
「はい、妊婦です。双子です。今すぐお願いします」
貴子はゆっくり玄関へ。
靴を履くのも一苦労。
綾子が支える。
「大丈夫。落ち着いて。深呼吸」
タクシーが到着。
病院までの道がやけに長い。
お腹は、不規則に張る。
ヒカルとミライも、落ち着かないように動く。
病院。
診察室。
エコー、内診。
医師の表情が少し真剣になる。
「張りが強いですね」
「双子ですし、念のため入院した方がいいでしょう」
貴子
「入院……」
「まだ出産ではありません。ただ、このまま様子を見ます」
安静。
点滴。
病室へ案内される。
ベッドに横になる。
急に現実味が増す。
綾子がそっと手を握る。
「大丈夫よ」
その声は、強い。
貴子は天井を見る。
予定日まで、あと2週間。
まだ早い。
でも――
何かが、確実に動き出している。
診察を終え、
貴子はベッドに横になっている。
点滴が静かに落ちている。
綾子は貴子の額に手を当てる。
「あなたは休んでなさい」
そう言って、病室をそっと出る。
廊下を早足で進み、
病院の外へ。
深呼吸ひとつ。
すぐにスマホを取り出す。
ケンジの会社に電話。
――
会社。
ケンジはデスクで資料を見ている。
スマホが震える。
「母さん?」
電話に出た瞬間、綾子の声。
「今、病院よ。張りが強くて入院になったわ」
ケンジ
「え……産まれるの?」
「まだよ。でも双子だから念のためって」
ケンジの顔色が変わる。
受話器を持ったまま立ち上がる。
上司が気づく。
「どうした?」
ケンジ
「すみません……妻が……双子で……今、入院に……」
一瞬の沈黙。
上司はうなずく。
「行ってあげなさい」
「仕事はなんとかする」
ケンジ
「ありがとうございます!」
鞄をつかみ、ほとんど走る。
――
病院前。
タクシーを降りるケンジ。
息が荒い。
入口で綾子と合流。
「母さん!どう?」
綾子
「だから、まだ産まれないから。いいって言ったのに~」
少し呆れた顔。
でも安心した顔。
ケンジ
「でも……」
「落ち着きなさい。今は安静」
ケンジは深呼吸する。
手が少し震えている。
「……怖い」
小さく漏れる本音。
綾子はそれを見て、ふっと笑う。
「あなた、もう父親なのよ」
肩を軽く叩く。
「強くなりなさい」
ケンジはうなずく。
そして病室へ。
扉を開ける。
ベッドの上で横になっている貴子。
点滴。
静かな機械音。
「貴子……」
貴子は少しだけ微笑む。
「来なくていいって言ったのに」
ケンジはベッドの横に立つ。
「来るに決まってるだろ」
手を握る。
お腹は、ゆっくり上下している。
ヒカルとミライは、まだ中にいる。
でも、確実にその日は近づいている。
その夜。
貴子は病室で眠っている。
点滴の音が、一定のリズムで落ちる。
「今日はもう帰りなさい」
そう言われて、
ケンジは病院を出た。
外の空気がやけに冷たい。
まだ産まれない。
でも、確実に近づいている。
家に帰る気になれず、
足は自然と実家へ向かっていた。
玄関の扉を開ける。
「ただいま」
久しぶりに言うその言葉は、少し小さい。
父が振り返る。
「おう」
短い返事。
テレビはついているが、音は小さい。
父はすぐに聞く。
「どうなんだ」
ケンジは靴を脱ぎながら答える。
「入院」
それだけ。
父はうなずく。
「産まれるのか」
「まだ」
短いやり取り。
間がある。
綾子が台所から顔を出す。
「ご飯食べる?」
ケンジは少し考えて、
「うん」
テーブルにつく。
久しぶりの実家の匂い。
味噌汁の湯気。
箸を持つ手が、少し震えている。
父がそれに気づく。
「怖いか」
ケンジは一瞬だけ笑う。
でも、隠せない。
「……怖い」
父はすぐに慰めない。
味噌汁を一口飲む。
それから言う。
「俺もな」
ケンジが顔を上げる。
父は視線を合わせないまま続ける。
「お前が産まれる前、病院の前で立ち止まった」
「帰ろうかと思った」
沈黙。
「俺がいなくても、どうにかなるだろって」
ケンジの喉がごくりと鳴る。
「でも帰らなかった」
父は湯呑みを置く。
「帰ったら、一生後悔すると思ったからな」
間。
テレビの音だけが流れる。
父はゆっくり言う。
「怖くていい」
「でも、逃げるな」
その言葉は強くない。
静かだ。
でも重い。
綾子が横から口を挟む。
「あなた、そのあと廊下を何十往復もしてたくせに」
父
「うるさい」
少しだけ笑う。
ケンジは下を向いたまま、
「逃げない」
小さく言う。
息子だった場所で、
父になる覚悟をする。
夜は静かに更けていく。
病室では、
貴子のお腹の中で、
ヒカルとミライがゆっくり動いていた。
まだ、その時は来ていない。
でも、
もう、すぐそこだ。
それから数日。
貴子は病室で安静にしていた。
張り止めの点滴。
ベッドの上での生活。
トイレも付き添い。
お腹は相変わらず大きい。
ヒカルとミライは、
狭いよ、と言わんばかりに
ボコッ、ドン、と元気に動く。
ケンジは毎日仕事帰りに顔を出す。
綾子も来る。
父も一度、そっと覗きに来た。
「まだか?」
と聞いて、
「まだよ」と言われて帰る。
穏やかに見える時間。
でも、
どこか張りつめている。
⸻
そして、その夜。
静かだった。
消灯後の病室。
カーテンの向こうにうっすら街灯の光。
貴子は眠れずにいた。
お腹が重い。
呼吸も浅い。
ふいに、
いつもと違う痛み。
ぎゅう、ではない。
奥から、ぐっと押されるような感覚。
「……あれ?」
深呼吸。
落ち着こうとする。
数分後。
また来る。
今度ははっきり。
「っ……」
ベッドの柵を握る。
ヒカルとミライが動く。
ボコッ。
その直後。
下腹部に、強い波。
「……これ、かも……」
ナースコールを押す。
看護師がすぐ来る。
「どうしました?」
「痛みが……さっきより……」
間隔を測る。
看護師の顔が変わる。
「先生呼びますね」
内診。
モニター。
医師が言う。
「始まりましたね」
静かな声。
「双子ですから、すぐ準備に入ります」
貴子の呼吸が荒くなる。
頭が真っ白。
その頃――
ケンジのスマホが鳴る。
夜中。
表示は病院。
胸が跳ねる。
「はい!」
「陣痛が始まりました。すぐ来てください」
「はい!」
電話を切る。
靴もきちんと履かずに家を飛び出す。
父と綾子も目を覚ます。
「始まったの?」
「行ってくる!」
夜の空気が冷たい。
でも、体は熱い。
病院の灯りが見える。
その中で、
ヒカルとミライは、
いよいよ外の世界へ向かっている。
陣痛室。
痛みはもう波じゃない。
連続。
貴子はベッドの柵を握りしめている。
「っ……!」
看護師
「呼吸、ゆっくり。吐いて、吐いて」
汗がこめかみを流れる。
そのとき、扉が開く。
ケンジ
「貴子!」
息を切らしている。
髪も乱れている。
本気で走ってきた顔。
貴子は痛みの合間に、目を開ける。
視界がにじむ。
「ケンジ……」
その声は、弱くない。
ほっとした声。
「来てくれた……」
ケンジはすぐ手を握る。
「当たり前だろ」
握る力が強い。
「ここにいる」
次の波が来る。
貴子が叫ぶ。
ケンジ
「大丈夫、大丈夫だ」
必死に言う。
医師
「いいですよ、その調子です」
「1人目いきます」
ケンジの呼吸が浅くなる。
でも手は離さない。
貴子
「ケンジ……!」
ケンジ
「いる!」
目を逸らさない。
そして――
産声。
はっきりとした男の子の泣き声。
「おめでとうございます、男の子です」
ケンジの目から涙が溢れる。
「ヒカル……」
自然にその名前が出る。
貴子の胸の上に、ほんの一瞬乗せられる。
小さい。
でも、力強い。
貴子は泣きながら笑う。
「ヒカル……」
でもすぐに医師の声。
「まだもう1人いますよ」
現実。
ミライは、まだ中にいる。
貴子は息を整える。
ケンジは顔を近づける。
「もう一回だ」
貴子はうなずく。
そして――
もう一度、力を振り絞る。
二度目の産声。
少し高く、柔らかい。
「女の子です」
ミライ。
二つの命の泣き声が重なる。
ケンジは声を出して泣く。
貴子は力を使い切って、
でも、笑っている。
「……2人……」
世界が、変わった瞬間だった。
ヒカルの産声。
続いてミライの産声。
分娩室に、二つの泣き声が重なる。
ケンジは、貴子の手を握っていた。
震えているのは自分の方だった。
「よく頑張った……」
でも、貴子はもう限界。
汗で濡れた髪。
荒い呼吸。
助産師が優しく言う。
「お父さん、赤ちゃんをお連れしますね。お母さんは少し処置があります」
ケンジは一瞬、貴子を見る。
貴子は目を閉じたまま、小さくうなずく。
見せたくない。
そんな気持ちも、少しだけ混じっている。
「……お願いします」
別室。
小さな処置台。
ヒカル。
体重測定。
「2,486グラム」
ミライ。
「2,312グラム」
ケンジは数字を見つめる。
それだけで、涙が出る。
「お父さん、抱っこしてください」
震える腕で受け取る。
ヒカル。
軽い。
でも、人生で一番重い。
続いてミライも。
両腕に、2人。
涙が止まらない。
スマホを取り出す。
うまく操作できない。
看護師が言う。
「撮りましょうか?」
「あ、お願いします……」
シャッター音。
ヒカルとミライ。
そして泣いている父親。
その頃。
分娩室では、まだ処置が続いている。
貴子は目を閉じている。
遠くで、かすかに泣き声。
そして誰かが言う。
「お父さん、すごく泣いてましたよ」
それだけで、また涙がにじむ。
見せなくてよかった。
でも、
あの人が泣いている姿は、想像できる。
ケンジは病室の椅子に座っている。
さっきまで両腕にいた重みが、まだ残っている。
涙は止まったはずなのに、目が熱い。
ドアがノックされる。
看護師
「ご家族の方、いらっしゃいましたよ」
廊下。
綾子と父が立っている。
「どうだったの!?」
綾子は声を抑えながらも興奮している。
ケンジはうまく言葉が出ない。
「……元気。男と女」
父
「本当に双子なんだな……」
三人で新生児室の前へ。
ガラス越し。
小さなベッドが二つ並んでいる。
ヒカル 2,486g。
ミライ 2,312g。
小さな名札。
綾子がガラスに手を当てる。
「ちっちゃい……」
声が震えている。
父は何も言わない。
ただ、じっと見ている。
ケンジはガラス越しに、そっとつぶやく。
「最初に出てきたのがヒカル」
綾子
「そう…」
父
「よく頑張ったな、貴子さん」
その言葉は、ガラスの向こうではなく、分娩室に向けて。
ケンジは胸の奥がぎゅっとなる。
「まだ会えてない」
「処置中だから」
綾子が小さくうなずく。
「会ったら、ちゃんと“ありがとう”言いなさいよ」
ケンジはうなずく。
ガラスの向こうで、ヒカルが少し動く。
ミライも小さく手を動かす。
父がぽつりと。
「もう、おじいちゃんか……」
誰も笑わない。
でも、三人の目はやわらかい。
病院の廊下は静かだ。
その静けさの中に、
はっきりと“家族が増えた音”がしている。
処置が終わり、数時間後。
病室は薄い夕方の光に包まれている。
体は重い。
お腹は軽くなったのに、どこもかしこも痛い。
でも、
胸の奥は妙に静かだ。
ノック。
看護師が入ってくる。
小さなワゴン。
その上に、二つの小さな包み。
「お母さん、初対面ですよ」
呼吸が止まる。
まず、ヒカル。
そっと胸の上に乗せられる。
温かい。
小さい。
指が、動く。
次に、ミライ。
もう片方の腕へ。
左右に、命。
貴子の目から、静かに涙が流れる。
「……小さい」
声がかすれている。
ケンジはベッドの横に立っている。
何も言わない。
ただ見ている。
貴子はヒカルの頬にそっと触れる。
ミライの髪に指を滑らせる。
ふと、言葉がこぼれる。
「男のままだったら……」
ケンジが顔を上げる。
「うん?」
「この体験、できなかった」
お腹で育てて。
蹴られて。
眠れなくて。
苦しくて。
怖くて。
でも今、
胸の上にいる。
二人の体温。
心臓の音。
匂い。
全部、直接感じている。
「女になって、よかった」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
自分への答え。
ケンジの目がまた潤む。
「貴子……」
貴子は小さく笑う。
「ボロボロだけどね」
ケンジが首を振る。
「かっこいいよ」
ヒカルが小さく口を動かす。
ミライがむにゃっと顔をしかめる。
貴子は二人を見つめながら、そっと言う。
「ようこそ」
病室は静か。
外の世界はいつも通り動いている。
でもこの部屋の中だけ、
時間がゆっくり流れている。
男のままだったら。
この重みも。
この痛みも。
この涙も。
知らなかった。
両腕にいる命が、
その答えだった。
ノック。
病室のドアが静かに開く。
綾子がそっと入ってくる。
手には小さな花束。
一瞬、足が止まる。
ベッドの上。
両腕にヒカルとミライ。
貴子の顔はまだ青白い。
でも、目はやわらかい。
綾子はゆっくり近づく。
何も言わない。
ただ、見る。
ヒカル。
ミライ。
そして、貴子。
その瞬間。
綾子の目が潤む。
堪えようとする。
でも無理だった。
「……よく、頑張ったわね」
声が震える。
貴子が少し笑う。
「ありがとうございます、お義母さん」
綾子はヒカルの小さな手を見る。
ミライの小さな鼻を見る。
指先が、そっと震える。
「こんな小さいのに……」
涙がこぼれる。
「ちゃんと生まれてきてくれて……」
貴子も涙を流す。
ケンジは黙っている。
綾子は一歩近づき、貴子の肩に手を置く。
まっすぐ目を見る。
「この感動をね」
一呼吸。
「あなたの両親にも、絶対伝えるのよ」
病室の空気が少し変わる。
逃げていた場所。
向き合っていなかった過去。
でも今、
腕の中にいる。
二人の命。
綾子は続ける。
「こんな奇跡、伝えないなんて、もったいない」
「あなたがどれだけ頑張ったか」
「ちゃんと見せなさい」
貴子の喉が詰まる。
言葉が出ない。
でも、うなずく。
小さく。
ヒカルが少し動く。
ミライも、くしゃっと顔をしかめる。
綾子が涙を拭きながら笑う。
「ほら、聞いてるわよ」
ケンジがぽつりと言う。
「母さんも泣くんだな」
綾子は鼻をすすりながら、
「当たり前でしょ」
そしてヒカルとミライを見つめる。
「ようこそ、うちの家族へ」
病室は静か。
でもその静けさの中に、
強い決意が生まれていた。
逃げない。
この命を抱いて、ちゃんと向き合う。
貴子はヒカルとミライを抱きしめる。
そのぬくもりが、
背中を押していた。
退院の日。
空気が少し違う。
家の匂い。
ドアを開ける。
「ただいま」
ケンジがヒカルを抱いている。
貴子はミライ。
二人ともまだ小さい。
そっと、ベビーベッドへ寝かせる。
ヒカルが少し顔をしかめる。
ミライは小さく息をしている。
貴子
「ケンジ……ちょっとだけ、ヒカルとミライ、お願いね」
ケンジ
「わかった」
何も聞かない。
ただうなずく。
貴子は隣の部屋へ。
ドアを閉める。
静か。
スマホを取り出す。
手が震えている。
深呼吸。
一回。
もう一回。
母の番号。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
「……はい」
懐かしい声。
喉が詰まる。
貴子
「もしもし、たかしだけど……元気?」
間。
母
「……本当に?たかし?」
疑いの声。
「声がちがう気がするけど」
貴子
「本当だよ。母さんの名前は、中山美沙子。旧姓、木村。父さんは中山新一、仕事は薬剤師で」
母
「わかったわ」
少しだけ声が揺れる。
「で?あなた海外転勤って言ってなかった?」
貴子
「そんな事よりさ」
息を整える。
「会って話したい事がある」
沈黙。
貴子
「次の日曜日、予定ない?父さんも」
母
「……お金なら貸さないわよ」
少しだけいつもの母。
「そうじゃないなら父さんにも言っておくわ」
貴子
「お金の話じゃないから」
小さく笑う。
「じゃ、日曜日ね」
通話終了。
スマホを持ったまま、しばらく動けない。
心臓がうるさい。
そのとき。
ヒカルとミライの泣き声。
はっとして立ち上がる。
ドアを開ける。
ケンジが慌てている。
「同時は無理だ!」
貴子はミライを抱き上げる。
ヒカルはケンジの腕の中。
二人の泣き声が重なる。
貴子はミライをあやしながら、
さっきの通話を思い出す。
逃げなかった。
切らなかった。
約束した。
日曜日。
その日が来る。
ヒカルとミライの泣き声が、
背中を押している。
ヒカルの泣き声。
続いてミライ。
同時。
ケンジが右往左往している。
「ちょ、どっちからだ?」
貴子はミライを抱き上げる。
「もう、同時にくるのやめてよ~」
ベッドに腰掛ける。
右胸にヒカル。
左胸にミライ。
二人とも必死。
小さな口で、一生懸命吸う。
その感触に、少しだけ顔が歪む。
「……痛っ」
ケンジは横で見ている。
真剣な顔。
でも、どこか感動している。
「すげぇな……」
ヒカルが小さく動く。
ミライも、もぞもぞ。
二人同時に吸う。
貴子は息を整える。
「これ、想像以上に体力持ってかれるんだけど……」
ケンジはぽつり。
「1人なら、俺も吸えたのに……」
沈黙。
貴子の目が、ゆっくりケンジを向く。
「は?」
ケンジ、慌てる。
「いや、冗談、冗談!」
貴子
「もう、こっちは大変なんだからぁ~!」
声は怒ってるけど、半分笑っている。
ヒカルが一瞬止まる。
ミライも止まる。
ケンジ
「ほら、ヒカルもミライも、ママ怒らせるなよ」
貴子
「怒ってない!」
でも、口元は緩んでいる。
二人の吸う音。
部屋は静か。
ケンジはその光景をじっと見る。
「……すごいな」
今度は真面目な声。
貴子は少しだけ目を細める。
「女にならなかったら、これ、できなかったんだよね」
ケンジはうなずく。
「今の貴子だから、できてる」
ヒカルが小さく手を動かす。
ミライが足をばたつかせる。
二人同時。
貴子は笑う。
「双子、ほんと容赦ない」
ケンジも笑う。
でも、その目は少し潤んでいる。
家に、命の音が満ちている。
夜。
ヒカルとミライ、同時授乳。
右にヒカル。
左にミライ。
小さな口で一生懸命。
でも――
ヒカルがぐいっと顔を寄せる。
ミライのほっぺに手が当たる。
むにっ。
「ちょ、ちょっと!」
ヒカルの腕がミライの顔を押す。
ミライが「ふぇっ」と不満そうな声。
貴子
「もう~ヒカル、ミライちゃん飲めないでしょ~」
ヒカル、気にせず吸い続ける。
ケンジが笑う。
「こいつはマザコンになるな」
貴子
「誰かさんみたいに?」
じろっと見る。
ケンジ
「俺はちがう!」
即否定。
ヒカルがまた押す。
ミライが顔をしかめる。
貴子
「ほら見てよ、独り占めしようとしてる」
ケンジは少し身を乗り出す。
「よし、ミライは俺が粉ミルクで飲ませるよ」
ミライをそっと受け取る。
小さな体。
哺乳瓶を準備する。
ヒカルは満足そうに吸い続ける。
ケンジ
「ほらミライ、パパの番だ」
ミライが哺乳瓶をくわえる。
小さく吸う。
ケンジの顔がゆるむ。
「俺の方が優しいだろ~」
貴子
「どうだか」
ヒカルがまた動く。
貴子
「ほんと、性格もう出てる気がする」
ケンジ
「ヒカルは貴子似で強いな」
貴子
「ミライは?」
ケンジ
「俺似で優しい」
貴子
「都合いいなぁ」
でも笑っている。
ヒカルの吸う音。
ミライのごくごくという音。
部屋は静かだけど、賑やか。
双子。
もうすでに、個性がある。
深夜2時。
「ふぇぇぇぇぇぇ」
ヒカル。
0.5秒後。
「ぎゃぁぁぁぁ」
ミライ。
ケンジ
「同時はやめてくれ……」
ベッドから転がるように起きる。
貴子はすでに起きている。
「右ヒカル、左ミライ、どっち?」
「ヒカルいく!」
ケンジ、ヒカルを抱く。
ミライは貴子。
さっき寝たばかり。
目が半分閉じている。
ヒカル、全力。
ケンジ
「よしよしよしよし……」
全然泣き止まない。
ミライも泣く。
貴子
「お腹じゃないよね……さっき飲んだよね……」
ヒカルがケンジの腕の中で暴れる。
ケンジ
「力強すぎる……」
3時。
やっと静かになる。
ベッドへ戻る。
2分後。
「ふぇっ」
「ぎゃぁ」
ケンジ
「マジか……」
貴子
「なんで連動するの……」
4時。
ヒカル抱っこ。
ミライ抱っこ。
交代。
粉ミルク準備。
お湯冷ます。
消毒。
ヒカル寝た。
ミライ泣く。
ミライ寝た。
ヒカル泣く。
ケンジ、目が死んでいる。
5時。
外がうっすら明るい。
ケンジ、ソファーに座ったままヒカルを抱いて寝落ち寸前。
貴子、ミライを胸に抱いたまま壁にもたれている。
ケンジ
「これ……毎日?」
貴子
「毎日……」
静か。
でもヘロヘロ。
ケンジ
「会社……」
時計を見る。
あと1時間で起きる時間。
貴子が小さく言う。
「今日、有給取れば?」
ケンジ、目を閉じたまま。
「……取る」
即答。
ヒカルが小さく鼻を鳴らす。
ミライも寝息。
貴子がぽつり。
「幸せだけど……しんどいね」
ケンジ、かすれ声。
「でもいないともっとしんどい」
二人、顔を見て笑う。
目の下はクマ。
髪はボサボサ。
でも、
腕の中は温かい。
そして日曜日。
貴子の両親に会いに行く日。
綾子
「私も挨拶しないといけないし、ついて行くわ」
貴子
「お義母さん、心強いです」
ケンジの父の運転で隣町へ。
車内は静かだった。
ヒカルとミライはチャイルドシートでスヤスヤ。
家が見えてくる。
貴子の呼吸が浅くなる。
父
「わしは車で待ってるよ」
綾子
「あなたも挨拶行くの!!」
父
「わ、わかったよ」
ケンジ
「貴子、大丈夫だよ」
ヒカルとミライは綾子とケンジに抱かれ、眠ったまま。
インターホン。
ピンポーン。
美沙子
「はーい」
ドアが開く。
目が合う。
一瞬の空白。
貴子
「あ、あの……」
美沙子
「どちら様?」
無理もない。
面影は、ない。
貴子
「たかしです」
美沙子の顔が固まる。
「は?たかしは男です。冗談はやめてください」
声が強くなる。
その瞬間。
ヒカルとミライが泣き出す。
綾子が一歩前に出る。
「信じてもらえないと思いますが、この双子の赤ちゃん、あなたの孫なんです」
美沙子
「……え?」
混乱。
でも赤ちゃんの泣き声に目が向く。
「とにかく赤ちゃん大変そうだから、中に入ってください」
居間。
新一が座っている。
「おい、美沙子、どちらさんだ?」
美沙子
「それがね、この女性がたかしで、あの双子が私たちの孫だって言うのよ」
新一の眉が寄る。
貴子は深呼吸。
「お父さん、お母さん、信じてもらえないかもしれないけど、話を聞いてください」
美沙子
「話聞くだけよ。なんにも買ったりしないわよ」
まだ疑っている。
貴子は、ゆっくり話す。
女は楽だと批判していたこと。
薬で女になったこと。
戻る道があったこと。
それでも女として生きると決めたこと。
結婚したこと。
そして、この二人を授かったこと。
部屋は静まり返る。
綾子
「この子の顔、見てあげてください。嘘ついてる顔に見えませんでしょう?」
ケンジ
「僕も最初は信じられませんでした。でも、女として頑張って生きてる彼女を愛して結婚しました」
ヒカルとミライをあやす貴子。
美沙子が、じっと見る。
「たしかにね……たかしは昔から、母さんは家にいるだけで楽だ、とか言ってたわね」
苦笑する。
「こっちも大変だったのに」
新一がぽつり。
「うーん……たかしが、こんな美人に……」
美沙子
「ちょっとあなた」
ケンジの父
「ね、美人でしょ?」
綾子
「あなたも!」
空気が少し緩む。
貴子がそっと言う。
「ばーばと、じーじに抱っこしてもらいなさい」
美沙子がヒカルを抱く。
震える手。
「可愛い……」
新一がミライを抱く。
「わしらの孫か……」
目が潤む。
貴子
「たかしから、貴子になって、頑張ってます。今日はそれを伝えに来ました。結婚と、孫ができた報告です」
貴子とケンジが頭を下げる。
ヒカルとミライがまた泣く。
美沙子
「あらら、やっぱりばーば、じーじよりママとパパがいいよね~」
赤ちゃんを戻す。
少し間。
美沙子が静かに言う。
「夢みたいな話だけど……息子が消えたんじゃなくて、娘が増えたと思うことにするわ」
新一
「そうだな。たまには孫、見せに来てくれ」
綾子
「うちの息子が娘さんを大事にするよう、言っておきます」
ケンジの父
「よろしくお願いいたします」
美沙子
「こちらこそ」
新一
「娘を頼むよ」
ケンジを見る。
ケンジ
「わかりました」
貴子
「新生児だし、長くはいられないので、そろそろ帰ります」
美沙子
「困ったことあったら連絡しなさい」
新一
「また来い」
家を出る。
玄関のドアが閉まる。
貴子の目から、涙がこぼれる。
でも顔は、笑っていた。
父の車で家まで戻ってきた。
夕方の光が、やわらかく差し込む。
車を降りると、急に静かになる。
ヒカルとミライは、チャイルドシートでぐっすり。
綾子
「大変だったら、泊まってくけど」
少し本気の声。
ケンジの父がぽつり。
「そうだ、母さんいない方が気楽でいいしな」
綾子
「あなた!」
軽く肘でつつく。
貴子は小さく笑う。
「大丈夫です。今日は、お義母さんの援護がなければ、追い返されて終わってました」
本音。
ケンジも頷く。
「そうだな。俺も、あまり言えなかったし」
綾子は貴子の肩に手を置く。
「信じてもらえて良かったわね」
一呼吸。
「じゃあ、何かあったら飛んでいくから、連絡ちょうだいね」
父も頷く。
「今度はゆっくり来い」
エンジンがかかる。
車がゆっくり去っていく。
家の前に、四人だけが残る。
ヒカルが少し動く。
ミライも、もぞもぞ。
貴子は二人を見つめる。
「ちゃんと、伝えられたね」
ケンジが静かに言う。
「うん」
玄関を開ける。
家の匂い。
日常に戻る。
でも、今日は少し違う。
逃げていた場所と向き合った。
“たかし”の両親に、
“貴子”として立った。
ヒカルとミライの寝息が、静かに重なる。
貴子はそっとつぶやく。
「これで、前に進める」
ケンジは何も言わず、
ただ、隣に立っていた。
そして家に入った途端。
「ふぇぇぇぇぇぇぇ」
ヒカル。
0.2秒後。
「ぎゃぁぁぁぁぁ」
ミライ。
貴子
「……うそでしょ」
さっきまで静かに寝てたのに。
ケンジ
「空気読め」
ヒカルの泣き声が一段階上がる。
ミライも負けじと声量アップ。
さっきまでの感動ムード、一瞬で消える。
貴子は急いでミライを抱き上げる。
「はいはいはい、ただいま~」
ケンジもヒカルを抱く。
「どうしたどうした」
でも泣き止まない。
ケンジ
「日曜外出は刺激強かったか……」
貴子
「疲れたんだよね」
ヒカルが暴れる。
ミライも顔を真っ赤にする。
ケンジ
「さっきまで感動してたのに現実戻すの早すぎ」
貴子
「これが現実」
ヒカル、全力。
ミライ、全力。
二重奏。
ケンジ
「今日、両親に認められても、こいつらには通用しないな」
貴子、少し笑う。
「ばーばにもじーじにも抱っこされて興奮したのかも」
ヒカルがさらに泣く。
ケンジ
「ヒカル、お前さっきいい子だっただろ」
ミライも泣く。
貴子
「ミライも、いい子だったのに~」
二人で左右に揺れる。
家に、泣き声が満ちる。
さっきの感動も、
受け入れられた安堵も、
全部まとめて包むように、
現実がそこにある。
ケンジ、ヒカルを抱きながらぽつり。
「……でも、帰ってこれてよかったな」
貴子、ミライを胸に寄せながら。
「うん」
ヒカルの泣き声が少し小さくなる。
ミライも、しゃくりあげるだけになる。
家。
ここが、今の居場所。
泣き声ごと、全部。
ヒカルは右腕の中。
貴子がそっと母乳を飲ませる。
ミライはケンジの腕。
哺乳瓶をくわえて、ごくごく。
さっきまでの大合唱が、少しずつ静かになる。
吸う音だけが部屋に響く。
やがて――
ヒカル、うとうと。
ミライも、まぶたが重くなる。
しばらくして、二人とも静かになった。
寝息。
同じリズム。
貴子が小さく息を吐く。
「……はぁ」
ケンジも、肩を落とす。
貴子
「1年以上のモヤモヤが、やっと解消された~」
天井を見上げる。
本気で言っている。
ケンジ
「良かったな」
静かな声。
貴子
「よ~し、頑張るぞ~!」
両手を少し上げる。
ケンジ
「シッ、声が大きい」
その瞬間。
ヒカル
「ふぇっ」
ミライ
「うぇぇ」
二人、同時。
ケンジ
「ほらぁ~!」
貴子
「ごめんごめんごめん!」
慌てて揺らす。
ケンジ、苦笑。
「頑張るのはいいけど、静かに頑張れ」
ヒカルがまた寝る。
ミライも、もぞもぞして落ち着く。
やっと静寂。
ケンジがぽつり。
「でもさ」
貴子
「ん?」
「今日、行ってよかったな」
貴子はヒカルの寝顔を見る。
「うん」
間。
「逃げなくてよかった」
ケンジはミライの頬をつつく。
「俺も」
部屋は暗くなっていく。
小さな寝息が二つ。
その横で、
二人も、ようやく少し笑う。
朝はいつも通りだった。
ケンジは出勤し、
「何かあったらすぐ電話しろよ」と言って家を出た。
昼前。
貴子はソファーに座っていた。
なんとなく、違和感。
張りとは違う。
でも、軽くない。
お腹の奥が、きゅっと締まる。
「……あれ?」
深呼吸する。
少しおさまる。
立ち上がろうとした瞬間、
また、ぎゅうっと強く張る。
「っ……」
ソファーに手をつく。
そのタイミングで玄関のチャイム。
綾子だった。
「貴子ちゃん~」
入ってきてすぐ、様子に気づく。
「どうしたの?」
貴子はお腹を押さえながら、
「ちょっと……お腹が……いつもより……」
言葉が途切れる。
また、張る。
今度ははっきり。
綾子の顔が変わる。
「間隔は?」
「……わからない……」
綾子は迷わない。
「タクシー呼ぶわ。今すぐ病院行きましょう」
スマホを取り出す。
声は冷静。
でも早い。
「はい、妊婦です。双子です。今すぐお願いします」
貴子はゆっくり玄関へ。
靴を履くのも一苦労。
綾子が支える。
「大丈夫。落ち着いて。深呼吸」
タクシーが到着。
病院までの道がやけに長い。
お腹は、不規則に張る。
ヒカルとミライも、落ち着かないように動く。
病院。
診察室。
エコー、内診。
医師の表情が少し真剣になる。
「張りが強いですね」
「双子ですし、念のため入院した方がいいでしょう」
貴子
「入院……」
「まだ出産ではありません。ただ、このまま様子を見ます」
安静。
点滴。
病室へ案内される。
ベッドに横になる。
急に現実味が増す。
綾子がそっと手を握る。
「大丈夫よ」
その声は、強い。
貴子は天井を見る。
予定日まで、あと2週間。
まだ早い。
でも――
何かが、確実に動き出している。
診察を終え、
貴子はベッドに横になっている。
点滴が静かに落ちている。
綾子は貴子の額に手を当てる。
「あなたは休んでなさい」
そう言って、病室をそっと出る。
廊下を早足で進み、
病院の外へ。
深呼吸ひとつ。
すぐにスマホを取り出す。
ケンジの会社に電話。
――
会社。
ケンジはデスクで資料を見ている。
スマホが震える。
「母さん?」
電話に出た瞬間、綾子の声。
「今、病院よ。張りが強くて入院になったわ」
ケンジ
「え……産まれるの?」
「まだよ。でも双子だから念のためって」
ケンジの顔色が変わる。
受話器を持ったまま立ち上がる。
上司が気づく。
「どうした?」
ケンジ
「すみません……妻が……双子で……今、入院に……」
一瞬の沈黙。
上司はうなずく。
「行ってあげなさい」
「仕事はなんとかする」
ケンジ
「ありがとうございます!」
鞄をつかみ、ほとんど走る。
――
病院前。
タクシーを降りるケンジ。
息が荒い。
入口で綾子と合流。
「母さん!どう?」
綾子
「だから、まだ産まれないから。いいって言ったのに~」
少し呆れた顔。
でも安心した顔。
ケンジ
「でも……」
「落ち着きなさい。今は安静」
ケンジは深呼吸する。
手が少し震えている。
「……怖い」
小さく漏れる本音。
綾子はそれを見て、ふっと笑う。
「あなた、もう父親なのよ」
肩を軽く叩く。
「強くなりなさい」
ケンジはうなずく。
そして病室へ。
扉を開ける。
ベッドの上で横になっている貴子。
点滴。
静かな機械音。
「貴子……」
貴子は少しだけ微笑む。
「来なくていいって言ったのに」
ケンジはベッドの横に立つ。
「来るに決まってるだろ」
手を握る。
お腹は、ゆっくり上下している。
ヒカルとミライは、まだ中にいる。
でも、確実にその日は近づいている。
その夜。
貴子は病室で眠っている。
点滴の音が、一定のリズムで落ちる。
「今日はもう帰りなさい」
そう言われて、
ケンジは病院を出た。
外の空気がやけに冷たい。
まだ産まれない。
でも、確実に近づいている。
家に帰る気になれず、
足は自然と実家へ向かっていた。
玄関の扉を開ける。
「ただいま」
久しぶりに言うその言葉は、少し小さい。
父が振り返る。
「おう」
短い返事。
テレビはついているが、音は小さい。
父はすぐに聞く。
「どうなんだ」
ケンジは靴を脱ぎながら答える。
「入院」
それだけ。
父はうなずく。
「産まれるのか」
「まだ」
短いやり取り。
間がある。
綾子が台所から顔を出す。
「ご飯食べる?」
ケンジは少し考えて、
「うん」
テーブルにつく。
久しぶりの実家の匂い。
味噌汁の湯気。
箸を持つ手が、少し震えている。
父がそれに気づく。
「怖いか」
ケンジは一瞬だけ笑う。
でも、隠せない。
「……怖い」
父はすぐに慰めない。
味噌汁を一口飲む。
それから言う。
「俺もな」
ケンジが顔を上げる。
父は視線を合わせないまま続ける。
「お前が産まれる前、病院の前で立ち止まった」
「帰ろうかと思った」
沈黙。
「俺がいなくても、どうにかなるだろって」
ケンジの喉がごくりと鳴る。
「でも帰らなかった」
父は湯呑みを置く。
「帰ったら、一生後悔すると思ったからな」
間。
テレビの音だけが流れる。
父はゆっくり言う。
「怖くていい」
「でも、逃げるな」
その言葉は強くない。
静かだ。
でも重い。
綾子が横から口を挟む。
「あなた、そのあと廊下を何十往復もしてたくせに」
父
「うるさい」
少しだけ笑う。
ケンジは下を向いたまま、
「逃げない」
小さく言う。
息子だった場所で、
父になる覚悟をする。
夜は静かに更けていく。
病室では、
貴子のお腹の中で、
ヒカルとミライがゆっくり動いていた。
まだ、その時は来ていない。
でも、
もう、すぐそこだ。
それから数日。
貴子は病室で安静にしていた。
張り止めの点滴。
ベッドの上での生活。
トイレも付き添い。
お腹は相変わらず大きい。
ヒカルとミライは、
狭いよ、と言わんばかりに
ボコッ、ドン、と元気に動く。
ケンジは毎日仕事帰りに顔を出す。
綾子も来る。
父も一度、そっと覗きに来た。
「まだか?」
と聞いて、
「まだよ」と言われて帰る。
穏やかに見える時間。
でも、
どこか張りつめている。
⸻
そして、その夜。
静かだった。
消灯後の病室。
カーテンの向こうにうっすら街灯の光。
貴子は眠れずにいた。
お腹が重い。
呼吸も浅い。
ふいに、
いつもと違う痛み。
ぎゅう、ではない。
奥から、ぐっと押されるような感覚。
「……あれ?」
深呼吸。
落ち着こうとする。
数分後。
また来る。
今度ははっきり。
「っ……」
ベッドの柵を握る。
ヒカルとミライが動く。
ボコッ。
その直後。
下腹部に、強い波。
「……これ、かも……」
ナースコールを押す。
看護師がすぐ来る。
「どうしました?」
「痛みが……さっきより……」
間隔を測る。
看護師の顔が変わる。
「先生呼びますね」
内診。
モニター。
医師が言う。
「始まりましたね」
静かな声。
「双子ですから、すぐ準備に入ります」
貴子の呼吸が荒くなる。
頭が真っ白。
その頃――
ケンジのスマホが鳴る。
夜中。
表示は病院。
胸が跳ねる。
「はい!」
「陣痛が始まりました。すぐ来てください」
「はい!」
電話を切る。
靴もきちんと履かずに家を飛び出す。
父と綾子も目を覚ます。
「始まったの?」
「行ってくる!」
夜の空気が冷たい。
でも、体は熱い。
病院の灯りが見える。
その中で、
ヒカルとミライは、
いよいよ外の世界へ向かっている。
陣痛室。
痛みはもう波じゃない。
連続。
貴子はベッドの柵を握りしめている。
「っ……!」
看護師
「呼吸、ゆっくり。吐いて、吐いて」
汗がこめかみを流れる。
そのとき、扉が開く。
ケンジ
「貴子!」
息を切らしている。
髪も乱れている。
本気で走ってきた顔。
貴子は痛みの合間に、目を開ける。
視界がにじむ。
「ケンジ……」
その声は、弱くない。
ほっとした声。
「来てくれた……」
ケンジはすぐ手を握る。
「当たり前だろ」
握る力が強い。
「ここにいる」
次の波が来る。
貴子が叫ぶ。
ケンジ
「大丈夫、大丈夫だ」
必死に言う。
医師
「いいですよ、その調子です」
「1人目いきます」
ケンジの呼吸が浅くなる。
でも手は離さない。
貴子
「ケンジ……!」
ケンジ
「いる!」
目を逸らさない。
そして――
産声。
はっきりとした男の子の泣き声。
「おめでとうございます、男の子です」
ケンジの目から涙が溢れる。
「ヒカル……」
自然にその名前が出る。
貴子の胸の上に、ほんの一瞬乗せられる。
小さい。
でも、力強い。
貴子は泣きながら笑う。
「ヒカル……」
でもすぐに医師の声。
「まだもう1人いますよ」
現実。
ミライは、まだ中にいる。
貴子は息を整える。
ケンジは顔を近づける。
「もう一回だ」
貴子はうなずく。
そして――
もう一度、力を振り絞る。
二度目の産声。
少し高く、柔らかい。
「女の子です」
ミライ。
二つの命の泣き声が重なる。
ケンジは声を出して泣く。
貴子は力を使い切って、
でも、笑っている。
「……2人……」
世界が、変わった瞬間だった。
ヒカルの産声。
続いてミライの産声。
分娩室に、二つの泣き声が重なる。
ケンジは、貴子の手を握っていた。
震えているのは自分の方だった。
「よく頑張った……」
でも、貴子はもう限界。
汗で濡れた髪。
荒い呼吸。
助産師が優しく言う。
「お父さん、赤ちゃんをお連れしますね。お母さんは少し処置があります」
ケンジは一瞬、貴子を見る。
貴子は目を閉じたまま、小さくうなずく。
見せたくない。
そんな気持ちも、少しだけ混じっている。
「……お願いします」
別室。
小さな処置台。
ヒカル。
体重測定。
「2,486グラム」
ミライ。
「2,312グラム」
ケンジは数字を見つめる。
それだけで、涙が出る。
「お父さん、抱っこしてください」
震える腕で受け取る。
ヒカル。
軽い。
でも、人生で一番重い。
続いてミライも。
両腕に、2人。
涙が止まらない。
スマホを取り出す。
うまく操作できない。
看護師が言う。
「撮りましょうか?」
「あ、お願いします……」
シャッター音。
ヒカルとミライ。
そして泣いている父親。
その頃。
分娩室では、まだ処置が続いている。
貴子は目を閉じている。
遠くで、かすかに泣き声。
そして誰かが言う。
「お父さん、すごく泣いてましたよ」
それだけで、また涙がにじむ。
見せなくてよかった。
でも、
あの人が泣いている姿は、想像できる。
ケンジは病室の椅子に座っている。
さっきまで両腕にいた重みが、まだ残っている。
涙は止まったはずなのに、目が熱い。
ドアがノックされる。
看護師
「ご家族の方、いらっしゃいましたよ」
廊下。
綾子と父が立っている。
「どうだったの!?」
綾子は声を抑えながらも興奮している。
ケンジはうまく言葉が出ない。
「……元気。男と女」
父
「本当に双子なんだな……」
三人で新生児室の前へ。
ガラス越し。
小さなベッドが二つ並んでいる。
ヒカル 2,486g。
ミライ 2,312g。
小さな名札。
綾子がガラスに手を当てる。
「ちっちゃい……」
声が震えている。
父は何も言わない。
ただ、じっと見ている。
ケンジはガラス越しに、そっとつぶやく。
「最初に出てきたのがヒカル」
綾子
「そう…」
父
「よく頑張ったな、貴子さん」
その言葉は、ガラスの向こうではなく、分娩室に向けて。
ケンジは胸の奥がぎゅっとなる。
「まだ会えてない」
「処置中だから」
綾子が小さくうなずく。
「会ったら、ちゃんと“ありがとう”言いなさいよ」
ケンジはうなずく。
ガラスの向こうで、ヒカルが少し動く。
ミライも小さく手を動かす。
父がぽつりと。
「もう、おじいちゃんか……」
誰も笑わない。
でも、三人の目はやわらかい。
病院の廊下は静かだ。
その静けさの中に、
はっきりと“家族が増えた音”がしている。
処置が終わり、数時間後。
病室は薄い夕方の光に包まれている。
体は重い。
お腹は軽くなったのに、どこもかしこも痛い。
でも、
胸の奥は妙に静かだ。
ノック。
看護師が入ってくる。
小さなワゴン。
その上に、二つの小さな包み。
「お母さん、初対面ですよ」
呼吸が止まる。
まず、ヒカル。
そっと胸の上に乗せられる。
温かい。
小さい。
指が、動く。
次に、ミライ。
もう片方の腕へ。
左右に、命。
貴子の目から、静かに涙が流れる。
「……小さい」
声がかすれている。
ケンジはベッドの横に立っている。
何も言わない。
ただ見ている。
貴子はヒカルの頬にそっと触れる。
ミライの髪に指を滑らせる。
ふと、言葉がこぼれる。
「男のままだったら……」
ケンジが顔を上げる。
「うん?」
「この体験、できなかった」
お腹で育てて。
蹴られて。
眠れなくて。
苦しくて。
怖くて。
でも今、
胸の上にいる。
二人の体温。
心臓の音。
匂い。
全部、直接感じている。
「女になって、よかった」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
自分への答え。
ケンジの目がまた潤む。
「貴子……」
貴子は小さく笑う。
「ボロボロだけどね」
ケンジが首を振る。
「かっこいいよ」
ヒカルが小さく口を動かす。
ミライがむにゃっと顔をしかめる。
貴子は二人を見つめながら、そっと言う。
「ようこそ」
病室は静か。
外の世界はいつも通り動いている。
でもこの部屋の中だけ、
時間がゆっくり流れている。
男のままだったら。
この重みも。
この痛みも。
この涙も。
知らなかった。
両腕にいる命が、
その答えだった。
ノック。
病室のドアが静かに開く。
綾子がそっと入ってくる。
手には小さな花束。
一瞬、足が止まる。
ベッドの上。
両腕にヒカルとミライ。
貴子の顔はまだ青白い。
でも、目はやわらかい。
綾子はゆっくり近づく。
何も言わない。
ただ、見る。
ヒカル。
ミライ。
そして、貴子。
その瞬間。
綾子の目が潤む。
堪えようとする。
でも無理だった。
「……よく、頑張ったわね」
声が震える。
貴子が少し笑う。
「ありがとうございます、お義母さん」
綾子はヒカルの小さな手を見る。
ミライの小さな鼻を見る。
指先が、そっと震える。
「こんな小さいのに……」
涙がこぼれる。
「ちゃんと生まれてきてくれて……」
貴子も涙を流す。
ケンジは黙っている。
綾子は一歩近づき、貴子の肩に手を置く。
まっすぐ目を見る。
「この感動をね」
一呼吸。
「あなたの両親にも、絶対伝えるのよ」
病室の空気が少し変わる。
逃げていた場所。
向き合っていなかった過去。
でも今、
腕の中にいる。
二人の命。
綾子は続ける。
「こんな奇跡、伝えないなんて、もったいない」
「あなたがどれだけ頑張ったか」
「ちゃんと見せなさい」
貴子の喉が詰まる。
言葉が出ない。
でも、うなずく。
小さく。
ヒカルが少し動く。
ミライも、くしゃっと顔をしかめる。
綾子が涙を拭きながら笑う。
「ほら、聞いてるわよ」
ケンジがぽつりと言う。
「母さんも泣くんだな」
綾子は鼻をすすりながら、
「当たり前でしょ」
そしてヒカルとミライを見つめる。
「ようこそ、うちの家族へ」
病室は静か。
でもその静けさの中に、
強い決意が生まれていた。
逃げない。
この命を抱いて、ちゃんと向き合う。
貴子はヒカルとミライを抱きしめる。
そのぬくもりが、
背中を押していた。
退院の日。
空気が少し違う。
家の匂い。
ドアを開ける。
「ただいま」
ケンジがヒカルを抱いている。
貴子はミライ。
二人ともまだ小さい。
そっと、ベビーベッドへ寝かせる。
ヒカルが少し顔をしかめる。
ミライは小さく息をしている。
貴子
「ケンジ……ちょっとだけ、ヒカルとミライ、お願いね」
ケンジ
「わかった」
何も聞かない。
ただうなずく。
貴子は隣の部屋へ。
ドアを閉める。
静か。
スマホを取り出す。
手が震えている。
深呼吸。
一回。
もう一回。
母の番号。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
「……はい」
懐かしい声。
喉が詰まる。
貴子
「もしもし、たかしだけど……元気?」
間。
母
「……本当に?たかし?」
疑いの声。
「声がちがう気がするけど」
貴子
「本当だよ。母さんの名前は、中山美沙子。旧姓、木村。父さんは中山新一、仕事は薬剤師で」
母
「わかったわ」
少しだけ声が揺れる。
「で?あなた海外転勤って言ってなかった?」
貴子
「そんな事よりさ」
息を整える。
「会って話したい事がある」
沈黙。
貴子
「次の日曜日、予定ない?父さんも」
母
「……お金なら貸さないわよ」
少しだけいつもの母。
「そうじゃないなら父さんにも言っておくわ」
貴子
「お金の話じゃないから」
小さく笑う。
「じゃ、日曜日ね」
通話終了。
スマホを持ったまま、しばらく動けない。
心臓がうるさい。
そのとき。
ヒカルとミライの泣き声。
はっとして立ち上がる。
ドアを開ける。
ケンジが慌てている。
「同時は無理だ!」
貴子はミライを抱き上げる。
ヒカルはケンジの腕の中。
二人の泣き声が重なる。
貴子はミライをあやしながら、
さっきの通話を思い出す。
逃げなかった。
切らなかった。
約束した。
日曜日。
その日が来る。
ヒカルとミライの泣き声が、
背中を押している。
ヒカルの泣き声。
続いてミライ。
同時。
ケンジが右往左往している。
「ちょ、どっちからだ?」
貴子はミライを抱き上げる。
「もう、同時にくるのやめてよ~」
ベッドに腰掛ける。
右胸にヒカル。
左胸にミライ。
二人とも必死。
小さな口で、一生懸命吸う。
その感触に、少しだけ顔が歪む。
「……痛っ」
ケンジは横で見ている。
真剣な顔。
でも、どこか感動している。
「すげぇな……」
ヒカルが小さく動く。
ミライも、もぞもぞ。
二人同時に吸う。
貴子は息を整える。
「これ、想像以上に体力持ってかれるんだけど……」
ケンジはぽつり。
「1人なら、俺も吸えたのに……」
沈黙。
貴子の目が、ゆっくりケンジを向く。
「は?」
ケンジ、慌てる。
「いや、冗談、冗談!」
貴子
「もう、こっちは大変なんだからぁ~!」
声は怒ってるけど、半分笑っている。
ヒカルが一瞬止まる。
ミライも止まる。
ケンジ
「ほら、ヒカルもミライも、ママ怒らせるなよ」
貴子
「怒ってない!」
でも、口元は緩んでいる。
二人の吸う音。
部屋は静か。
ケンジはその光景をじっと見る。
「……すごいな」
今度は真面目な声。
貴子は少しだけ目を細める。
「女にならなかったら、これ、できなかったんだよね」
ケンジはうなずく。
「今の貴子だから、できてる」
ヒカルが小さく手を動かす。
ミライが足をばたつかせる。
二人同時。
貴子は笑う。
「双子、ほんと容赦ない」
ケンジも笑う。
でも、その目は少し潤んでいる。
家に、命の音が満ちている。
夜。
ヒカルとミライ、同時授乳。
右にヒカル。
左にミライ。
小さな口で一生懸命。
でも――
ヒカルがぐいっと顔を寄せる。
ミライのほっぺに手が当たる。
むにっ。
「ちょ、ちょっと!」
ヒカルの腕がミライの顔を押す。
ミライが「ふぇっ」と不満そうな声。
貴子
「もう~ヒカル、ミライちゃん飲めないでしょ~」
ヒカル、気にせず吸い続ける。
ケンジが笑う。
「こいつはマザコンになるな」
貴子
「誰かさんみたいに?」
じろっと見る。
ケンジ
「俺はちがう!」
即否定。
ヒカルがまた押す。
ミライが顔をしかめる。
貴子
「ほら見てよ、独り占めしようとしてる」
ケンジは少し身を乗り出す。
「よし、ミライは俺が粉ミルクで飲ませるよ」
ミライをそっと受け取る。
小さな体。
哺乳瓶を準備する。
ヒカルは満足そうに吸い続ける。
ケンジ
「ほらミライ、パパの番だ」
ミライが哺乳瓶をくわえる。
小さく吸う。
ケンジの顔がゆるむ。
「俺の方が優しいだろ~」
貴子
「どうだか」
ヒカルがまた動く。
貴子
「ほんと、性格もう出てる気がする」
ケンジ
「ヒカルは貴子似で強いな」
貴子
「ミライは?」
ケンジ
「俺似で優しい」
貴子
「都合いいなぁ」
でも笑っている。
ヒカルの吸う音。
ミライのごくごくという音。
部屋は静かだけど、賑やか。
双子。
もうすでに、個性がある。
深夜2時。
「ふぇぇぇぇぇぇ」
ヒカル。
0.5秒後。
「ぎゃぁぁぁぁ」
ミライ。
ケンジ
「同時はやめてくれ……」
ベッドから転がるように起きる。
貴子はすでに起きている。
「右ヒカル、左ミライ、どっち?」
「ヒカルいく!」
ケンジ、ヒカルを抱く。
ミライは貴子。
さっき寝たばかり。
目が半分閉じている。
ヒカル、全力。
ケンジ
「よしよしよしよし……」
全然泣き止まない。
ミライも泣く。
貴子
「お腹じゃないよね……さっき飲んだよね……」
ヒカルがケンジの腕の中で暴れる。
ケンジ
「力強すぎる……」
3時。
やっと静かになる。
ベッドへ戻る。
2分後。
「ふぇっ」
「ぎゃぁ」
ケンジ
「マジか……」
貴子
「なんで連動するの……」
4時。
ヒカル抱っこ。
ミライ抱っこ。
交代。
粉ミルク準備。
お湯冷ます。
消毒。
ヒカル寝た。
ミライ泣く。
ミライ寝た。
ヒカル泣く。
ケンジ、目が死んでいる。
5時。
外がうっすら明るい。
ケンジ、ソファーに座ったままヒカルを抱いて寝落ち寸前。
貴子、ミライを胸に抱いたまま壁にもたれている。
ケンジ
「これ……毎日?」
貴子
「毎日……」
静か。
でもヘロヘロ。
ケンジ
「会社……」
時計を見る。
あと1時間で起きる時間。
貴子が小さく言う。
「今日、有給取れば?」
ケンジ、目を閉じたまま。
「……取る」
即答。
ヒカルが小さく鼻を鳴らす。
ミライも寝息。
貴子がぽつり。
「幸せだけど……しんどいね」
ケンジ、かすれ声。
「でもいないともっとしんどい」
二人、顔を見て笑う。
目の下はクマ。
髪はボサボサ。
でも、
腕の中は温かい。
そして日曜日。
貴子の両親に会いに行く日。
綾子
「私も挨拶しないといけないし、ついて行くわ」
貴子
「お義母さん、心強いです」
ケンジの父の運転で隣町へ。
車内は静かだった。
ヒカルとミライはチャイルドシートでスヤスヤ。
家が見えてくる。
貴子の呼吸が浅くなる。
父
「わしは車で待ってるよ」
綾子
「あなたも挨拶行くの!!」
父
「わ、わかったよ」
ケンジ
「貴子、大丈夫だよ」
ヒカルとミライは綾子とケンジに抱かれ、眠ったまま。
インターホン。
ピンポーン。
美沙子
「はーい」
ドアが開く。
目が合う。
一瞬の空白。
貴子
「あ、あの……」
美沙子
「どちら様?」
無理もない。
面影は、ない。
貴子
「たかしです」
美沙子の顔が固まる。
「は?たかしは男です。冗談はやめてください」
声が強くなる。
その瞬間。
ヒカルとミライが泣き出す。
綾子が一歩前に出る。
「信じてもらえないと思いますが、この双子の赤ちゃん、あなたの孫なんです」
美沙子
「……え?」
混乱。
でも赤ちゃんの泣き声に目が向く。
「とにかく赤ちゃん大変そうだから、中に入ってください」
居間。
新一が座っている。
「おい、美沙子、どちらさんだ?」
美沙子
「それがね、この女性がたかしで、あの双子が私たちの孫だって言うのよ」
新一の眉が寄る。
貴子は深呼吸。
「お父さん、お母さん、信じてもらえないかもしれないけど、話を聞いてください」
美沙子
「話聞くだけよ。なんにも買ったりしないわよ」
まだ疑っている。
貴子は、ゆっくり話す。
女は楽だと批判していたこと。
薬で女になったこと。
戻る道があったこと。
それでも女として生きると決めたこと。
結婚したこと。
そして、この二人を授かったこと。
部屋は静まり返る。
綾子
「この子の顔、見てあげてください。嘘ついてる顔に見えませんでしょう?」
ケンジ
「僕も最初は信じられませんでした。でも、女として頑張って生きてる彼女を愛して結婚しました」
ヒカルとミライをあやす貴子。
美沙子が、じっと見る。
「たしかにね……たかしは昔から、母さんは家にいるだけで楽だ、とか言ってたわね」
苦笑する。
「こっちも大変だったのに」
新一がぽつり。
「うーん……たかしが、こんな美人に……」
美沙子
「ちょっとあなた」
ケンジの父
「ね、美人でしょ?」
綾子
「あなたも!」
空気が少し緩む。
貴子がそっと言う。
「ばーばと、じーじに抱っこしてもらいなさい」
美沙子がヒカルを抱く。
震える手。
「可愛い……」
新一がミライを抱く。
「わしらの孫か……」
目が潤む。
貴子
「たかしから、貴子になって、頑張ってます。今日はそれを伝えに来ました。結婚と、孫ができた報告です」
貴子とケンジが頭を下げる。
ヒカルとミライがまた泣く。
美沙子
「あらら、やっぱりばーば、じーじよりママとパパがいいよね~」
赤ちゃんを戻す。
少し間。
美沙子が静かに言う。
「夢みたいな話だけど……息子が消えたんじゃなくて、娘が増えたと思うことにするわ」
新一
「そうだな。たまには孫、見せに来てくれ」
綾子
「うちの息子が娘さんを大事にするよう、言っておきます」
ケンジの父
「よろしくお願いいたします」
美沙子
「こちらこそ」
新一
「娘を頼むよ」
ケンジを見る。
ケンジ
「わかりました」
貴子
「新生児だし、長くはいられないので、そろそろ帰ります」
美沙子
「困ったことあったら連絡しなさい」
新一
「また来い」
家を出る。
玄関のドアが閉まる。
貴子の目から、涙がこぼれる。
でも顔は、笑っていた。
父の車で家まで戻ってきた。
夕方の光が、やわらかく差し込む。
車を降りると、急に静かになる。
ヒカルとミライは、チャイルドシートでぐっすり。
綾子
「大変だったら、泊まってくけど」
少し本気の声。
ケンジの父がぽつり。
「そうだ、母さんいない方が気楽でいいしな」
綾子
「あなた!」
軽く肘でつつく。
貴子は小さく笑う。
「大丈夫です。今日は、お義母さんの援護がなければ、追い返されて終わってました」
本音。
ケンジも頷く。
「そうだな。俺も、あまり言えなかったし」
綾子は貴子の肩に手を置く。
「信じてもらえて良かったわね」
一呼吸。
「じゃあ、何かあったら飛んでいくから、連絡ちょうだいね」
父も頷く。
「今度はゆっくり来い」
エンジンがかかる。
車がゆっくり去っていく。
家の前に、四人だけが残る。
ヒカルが少し動く。
ミライも、もぞもぞ。
貴子は二人を見つめる。
「ちゃんと、伝えられたね」
ケンジが静かに言う。
「うん」
玄関を開ける。
家の匂い。
日常に戻る。
でも、今日は少し違う。
逃げていた場所と向き合った。
“たかし”の両親に、
“貴子”として立った。
ヒカルとミライの寝息が、静かに重なる。
貴子はそっとつぶやく。
「これで、前に進める」
ケンジは何も言わず、
ただ、隣に立っていた。
そして家に入った途端。
「ふぇぇぇぇぇぇぇ」
ヒカル。
0.2秒後。
「ぎゃぁぁぁぁぁ」
ミライ。
貴子
「……うそでしょ」
さっきまで静かに寝てたのに。
ケンジ
「空気読め」
ヒカルの泣き声が一段階上がる。
ミライも負けじと声量アップ。
さっきまでの感動ムード、一瞬で消える。
貴子は急いでミライを抱き上げる。
「はいはいはい、ただいま~」
ケンジもヒカルを抱く。
「どうしたどうした」
でも泣き止まない。
ケンジ
「日曜外出は刺激強かったか……」
貴子
「疲れたんだよね」
ヒカルが暴れる。
ミライも顔を真っ赤にする。
ケンジ
「さっきまで感動してたのに現実戻すの早すぎ」
貴子
「これが現実」
ヒカル、全力。
ミライ、全力。
二重奏。
ケンジ
「今日、両親に認められても、こいつらには通用しないな」
貴子、少し笑う。
「ばーばにもじーじにも抱っこされて興奮したのかも」
ヒカルがさらに泣く。
ケンジ
「ヒカル、お前さっきいい子だっただろ」
ミライも泣く。
貴子
「ミライも、いい子だったのに~」
二人で左右に揺れる。
家に、泣き声が満ちる。
さっきの感動も、
受け入れられた安堵も、
全部まとめて包むように、
現実がそこにある。
ケンジ、ヒカルを抱きながらぽつり。
「……でも、帰ってこれてよかったな」
貴子、ミライを胸に寄せながら。
「うん」
ヒカルの泣き声が少し小さくなる。
ミライも、しゃくりあげるだけになる。
家。
ここが、今の居場所。
泣き声ごと、全部。
ヒカルは右腕の中。
貴子がそっと母乳を飲ませる。
ミライはケンジの腕。
哺乳瓶をくわえて、ごくごく。
さっきまでの大合唱が、少しずつ静かになる。
吸う音だけが部屋に響く。
やがて――
ヒカル、うとうと。
ミライも、まぶたが重くなる。
しばらくして、二人とも静かになった。
寝息。
同じリズム。
貴子が小さく息を吐く。
「……はぁ」
ケンジも、肩を落とす。
貴子
「1年以上のモヤモヤが、やっと解消された~」
天井を見上げる。
本気で言っている。
ケンジ
「良かったな」
静かな声。
貴子
「よ~し、頑張るぞ~!」
両手を少し上げる。
ケンジ
「シッ、声が大きい」
その瞬間。
ヒカル
「ふぇっ」
ミライ
「うぇぇ」
二人、同時。
ケンジ
「ほらぁ~!」
貴子
「ごめんごめんごめん!」
慌てて揺らす。
ケンジ、苦笑。
「頑張るのはいいけど、静かに頑張れ」
ヒカルがまた寝る。
ミライも、もぞもぞして落ち着く。
やっと静寂。
ケンジがぽつり。
「でもさ」
貴子
「ん?」
「今日、行ってよかったな」
貴子はヒカルの寝顔を見る。
「うん」
間。
「逃げなくてよかった」
ケンジはミライの頬をつつく。
「俺も」
部屋は暗くなっていく。
小さな寝息が二つ。
その横で、
二人も、ようやく少し笑う。
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