女批判の男 女として生きる~恋愛 結婚 出産 離婚~

不思議な爺さん

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離婚

女批判の男 女として生きる~離婚

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毎晩、毎晩。

ヒカルが泣く。

少し遅れてミライも泣く。

交代じゃない。

同時。

貴子は右へ左へ。

ケンジも起きる。

「俺やるよ」

ヒカルを抱く。

ミライは貴子。

時計を見る。

午前2時。

寝かしつけて、

やっと静かになったと思ったら――

3時半。

また泣く。

朝。

ケンジは目の下にうっすら影。

ネクタイを締めながら、欠伸をかみ殺す。

貴子
「ごめんね、寝れなかったよね」

ケンジ
「大丈夫」

でも声に少し重さがある。

玄関で靴を履きながら、

ヒカルの泣き声がまた響く。

ケンジ、立ち止まる。

振り返る。

でも時間を見る。

「……行ってくる」

ドアが閉まる。

静かになった玄関。

その静けさが、逆に響く。

夜。

帰宅。

ケンジの足取りが少し重い。

「ただいま」

ヒカルが泣く。

ミライも泣く。

ケンジ、少しだけ眉を寄せる。

ほんの一瞬。

すぐ笑顔に戻す。

「元気だな」

貴子はそれを見ている。

“ほんの一瞬”を。

ケンジはやる。

ちゃんとやる。

ミルクも作る。

オムツも替える。

でも疲れは消えない。

数日。

数週間。

積み重なる。

ある夜。

ヒカルがなかなか寝ない。

ミライも釣られて泣く。

ケンジがぽつり。

「……仕事でミスった」

貴子
「え?」

「集中できなくて」

沈黙。

ヒカルの泣き声。

ミライの泣き声。

貴子の胸が、少しざわつく。

“私のせい?”

言葉には出さない。

ケンジも出さない。

でも空気が、ほんの少し変わる。

まだ亀裂じゃない。

ただ、

疲れが、

静かに、

積もっていく。

毎晩、ヒカルとミライは泣く。

同時に。

交互に。

どちらかが寝れば、どちらかが起きる。

ケンジは起きる。

ちゃんと起きる。

「俺やるよ」

ちゃんと言う。

でも――

だんだん、言葉が減っていく。

最初は

「ヒカルか?ミライか?」

だった。

次は

「どっち?」

になる。

そのうち

無言で立ち上がる。

哺乳瓶を作る音だけが響く。

夜中の台所。

背中が少し丸い。

朝。

ネクタイを締める。

貴子
「昨日ありがとう」

ケンジ
「うん」

それだけ。

前は

「今日は会議ある」とか
「帰り少し遅いかも」とか
言っていた。

今は

「行ってくる」

だけ。

夜。

帰宅。

「ただいま」

声が小さい。

ヒカルが泣く。

ミライも泣く。

ケンジは抱き上げる。

ちゃんとあやす。

ちゃんとミルクを作る。

でも、

笑わない。

やることはやる。

でも、余裕がない。

ある日。

貴子
「今日ね、ミライが少し笑ったの」

ケンジ
「へぇ」

それだけ。

悪気はない。

ただ、疲れている。

ヒカルがぐずる。

ケンジがぽつり。

「……寝たい」

本音。

すぐに

「ごめん」

と付け足す。

貴子は何も言えない。

責められていない。

怒られていない。

でも、

空気が少しずつ、薄くなる。

夜。

並んで座る。

二人ともスマホも見ていない。

ただ、静か。

ヒカルの寝息。

ミライの寝息。

ケンジの横顔は、少し遠い。

まだ亀裂じゃない。

でも、

口数が、減っている。

笑いが、減っている。

“疲れ”は、言葉を削る。

ある夕方。

インターホン。

「はーい」

綾子が来た。

差し入れの煮物を持って。

「ヒカル~ミライ~、ばーば来たわよ~」

明るい声。

でも部屋に入った瞬間、

ほんの一瞬、止まる。

空気。

ヒカルは泣いている。

ミライもぐずぐず。

貴子は抱っこしながら揺れている。

ケンジはミルクを作っている。

ちゃんと動いている。

ちゃんとやっている。

でも――

会話がない。

綾子はそれを見逃さない。

「ケンジ」

「ん?」

「顔、疲れてるわよ」

ケンジは笑う。

「大丈夫」

その“笑顔”が浅い。

綾子はヒカルを受け取る。

慣れた手つき。

「ほらほら」

ヒカルが少し落ち着く。

綾子はさりげなく言う。

「ちゃんと寝てるの?」

ケンジ
「まあ……」

曖昧。

貴子が小さく言う。

「夜、同時に起きるから」

ケンジはすぐに言う。

「でも大丈夫」

“でも大丈夫”。

綾子は聞く。

その言い方を。

食卓。

煮物を並べる。

綾子はわざと明るく話す。

でも、

ケンジはあまり返さない。

以前なら、

「母さんそれ味濃い」とか
「父さんならこう言う」とか

軽口を挟んだ。

今日は、ない。

綾子が貴子を見る。

一瞬だけ。

貴子は目を逸らす。

食後。

ヒカルとミライがやっと寝る。

綾子は台所で洗い物をしながら、小声で言う。

「……大丈夫?」

貴子は少し黙る。

「うん」

でも声が小さい。

綾子は振り向かない。

背中越しに言う。

「“大丈夫”って言う時が、一番大丈夫じゃないのよ」

沈黙。

リビングではケンジがソファーに座ったまま、目を閉じている。

寝ているわけじゃない。

ただ、動かない。

綾子は小さくため息をつく。

まだ壊れていない。

でも、

空気が、重い。

綾子は静かに決める。

“これは放っておけない”

ヒカルとミライが寝たあと。

キッチン。

綾子
「どう?」

貴子
「……」

少し迷う。

「最近、口数が減ってきて」

「前はもっと、くだらないことでも笑ってたのに」

綾子は黙って聞く。

「疲れてるだけ、ですよね」

確認みたいな声。

「でも、なんか……」

指をぎゅっと握る。

「距離、できてる気がして」

綾子
「何か言われたの?」

貴子はすぐ首を振る。

「言われてないです」

間。

「何も」

少し視線を落とす。

「だから余計に、怖いのかも」

静か。

「言葉がある方が、まだ分かるから」

綾子はゆっくり息を吐く。

「あなたは、あの子が何を考えてると思ってるの?」

貴子は考える。

「……疲れてるだけ」

「それは分かってる」

小さく笑う。

「でも、分かってても不安になるんです」


夜。

ヒカルとミライがようやく寝た。

部屋は静か。

ケンジはネクタイをゆるめて、ソファーに沈み込む。

貴子はベビーベッドを見つめたまま、ぽつり。

「最近、なんにも話してくれないね」

ケンジは目を閉じたまま。

「……疲れてるだけだよ」

短い。

それだけ。

貴子は小さく笑う。

「それ、毎日言ってる」

間。

「私、なんかした?」

ケンジは目を開ける。

「してない」

「じゃあ、なんで…」

少しだけ声が震える。

「前はもっと、くだらないことで笑ってたのに」

ケンジは立ち上がる。

「今はそんな余裕ない」

「私と話す余裕もないの?」

空気が変わる。

ケンジの顔が強ばる。

「そういう言い方やめてくれ」

「どういう言い方?」

かぶる。

一瞬の沈黙。

そして。

「うるさいな」

止まらなかった。

「俺は働いてるんだよ」

貴子の指が止まる。

「貴子は昼、少しぐらい寝れるだろ!!」

声が部屋に響く。

ヒカルが小さく動く。

ミライも、もぞもぞする。

ケンジも、はっとする。

でももう遅い。

貴子はゆっくり目を伏せる。

「……そっか」

それだけ。

静寂。

時計の音だけが聞こえる。

ケンジは何か言おうとする。

でも言葉が出ない。

重たい空気のまま、

夜が続く。


次の日の夜。

ヒカルが泣き出す。

続いてミライ。

交互に。

ボリュームが上がる。

ケンジは布団から起き上がる。

「俺やるよ」

抱き上げる。

不器用に揺らす。

泣き声は止まらない。

貴子も起きる。

「貸して」

ヒカルを受け取る。

ミライも抱き直す。

左右であやす。

ケンジは立ったまま。

「向こうの部屋で寝てきていいよ」

ぽつり。

ケンジは眉をひそめる。

「なんでだよ」

「いいから」

「俺も見るって」

その瞬間。

貴子の中で何かが弾ける。

「働いてるんでしょ!」

ケンジが固まる。

「疲れてるんでしょ!」

ヒカルがさらに泣く。

「私は昼間少しぐらい休めるから!」

声が大きくなる。

自分でも止められない。

「だから、向こう行って寝てよ!」

静まり返る。

ヒカルの泣き声だけが響く。

ケンジはゆっくり手を下ろす。

「……そうかよ」

小さく言う。

そのまま、もう一つの部屋へ向かう。

ドアが閉まる音。

貴子はその場に立ったまま。

自分の言葉が胸に刺さる。

さっきの台詞。

昨日、言われた言葉。

同じ。

同じ強さ。

ヒカルを揺らしながら、

ぽろっと涙が落ちる。

泣き声は、まだ続く。


翌日。

昼間。

ヒカルとミライはようやく寝た。

貴子はソファーに座ったまま、ぼーっとしている。

目の下にうっすら影。

そのタイミングでインターホン。

綾子だった。

「どう?体調は――」

玄関を入った瞬間、止まる。

貴子の顔を見る。

じっと見る。

そして、ため息。

「……あら」

靴を脱ぎながら。

「“喧嘩しました”って顔に書いてあるわよ」

貴子、びくっとする。

「え?」

「しかも昨夜ね」

静かに断言。

貴子は目を逸らす。

「そんなに分かります?」

「分かるわよ」

バッグを置く。

「私は何年あの子の母やってると思ってるの」

少し間。

「で?」

優しくもなく、きつくもない声。

ただ、聞く姿勢。

貴子は唇を噛む。

「……私が、言い返しちゃって」

「昨日、ケンジに言われたこと」

喉が詰まる。

「そのまま、返しちゃった」

綾子は何も言わない。

責めない。

「疲れてるんだと思います」

小さな声。

「私も」

静かなキッチン。

時計の音。

綾子はゆっくりお茶を注ぐ。

「夫婦ってね」

湯気が上がる。

「疲れてる時に、正しいことを言い合うと、だいたい喧嘩になるのよ」

貴子、少し顔を上げる。

「どっちが悪いとかじゃない」

「余裕がないだけ」

そして、じっと貴子を見る。

「でもね」

少しだけ声を落とす。

「黙って溜めるのが一番よくない」

部屋は静か。

まだ壊れてはいない。

でも、ひびは入った。


その夜。

玄関の鍵が回る音。

いつもの時間。

でも、

「ただいま」はない。

ドアが閉まる音だけ。

貴子はキッチンで固まる。

ヒカルとミライはベビーベッドで小さく動く。

ケンジは無言で上着を脱ぐ。

テーブルにつく。

「……ごはん、温めるね」

小さな声。

返事はない。

電子レンジの音だけが響く。

皿を置く。

ケンジは黙って食べる。

味わっているのかも分からない。

箸の音だけ。

貴子は向かいに座るけど、

何も言えない。

何を言っても重くなりそうで。

食べ終わると、

「ごちそうさま」もなく、

立ち上がる。

シャワーの音。

水音がやけに長い。

出てきても目を合わせない。

タオルで髪を拭きながら、

そのまま隣の部屋へ。

布団を敷く音。

ドアが閉まる音。

カチッ。

小さな音なのに、

胸に刺さる。

貴子は立ち尽くす。

ヒカルが少しぐずる。

抱き上げる。

「大丈夫」

でも、声が震える。

昨日の言葉。

今日の沈黙。

怒鳴られるより、

無視の方が、きつい。

部屋は静か。

時計の秒針だけが、

やけに大きく聞こえる。


翌日も無言。

その翌日も。

帰ってきても何も言わない。

食べる。

シャワー。

そして隣の部屋へ。

ドアに手をかけた瞬間。

「待ってよ」

声が震える。

ケンジ、止まる。

「こんなの夫婦じゃないじゃない」

振り向く。

「育児って、お互い協力するものでしょ!」

ケンジ、苛立ちを隠さない。

「お前が見るって言ったんだろ!」

その一言。

貴子、固まる。

すぐに涙が溢れる。

「何よ……」

声が崩れる。

ヒカルが泣き出す。

ミライもつられる。

ケンジも感情がこぼれる。

「俺だって働いてるんだよ!」

「毎日ヘトヘトなんだよ!」

「帰ってきてまで責められてさ!」

貴子はもう何も言えない。

ただ泣く。

肩が震える。

その姿を見て、

ケンジが吐き捨てる。

「なんだよ……これだから女は……」

一瞬。

そして、

「あ、元男か……」

自分でも分かっている。

言ってはいけないと。

でも、言った。

空気が凍る。

ヒカルの泣き声だけが響く。

貴子の涙が止まる。

ゆっくり顔を上げる。

今まで見せたことのない目。

「……最低」

小さい声。

でも刺さる。

「もういい」

「あなたの顔なんて見たくない」

睨む。

泣いているのに、冷たい。

ケンジ、言葉が出ない。

ドアが閉まる音。

その音が、

決定的になる。

翌日。

綾子が来る。

貴子
「お義母さん、ヒカルとミライ、少しお願いします」

理由は聞かない。

「わかったわ」

双子を抱きながら、貴子の顔を一瞬見る。

でも何も言わない。

貴子は外に出る。

市役所。

人混みの中で、ケンジがいないか確認する。

窓口で紙を受け取る。

「離婚届です」

淡々とした声。

紙は薄いのに、指先が重い。

帰宅。

ヒカルとミライは眠っている。

貴子
「お義母さん、ありがとうございました」

テーブルに封筒を置く。

中から離婚届を出す。

綾子の視線が止まる。

「……これは?」

貴子、震える声。

「証人欄、記入お願いします」

「え?」

ゆっくり顔を上げる。

「何があったの?」

貴子、涙がこぼれる。

「“これだから女は”って」

喉が詰まる。

「……“あ、元男か”って」

空気が固まる。

綾子は何も言わない。

ただ、目を閉じる。

深く息を吸う。

貴子は続ける。

「もう……愛情が消えました」

小さい声。

でもはっきりしている。

綾子はその場で静かに膝をつく。

土下座ではない。

ただ、座り込む。

「……ごめんなさい」

低い声。

貴子が慌てる。

「顔あげてください」

綾子はゆっくり顔を上げる。

涙が滲んでいる。

離婚届を見る。

ペンを手に取る。

少しだけ止まる。

「本当に、決めたのね」

貴子、うなずく。

迷いはない。

綾子は何も言わず、

証人欄に静かに名前を書く。

佐々木綾子。

書き終えたあと、

ペンをそっと置く。

それだけ。

部屋は静か。

ヒカルとミライは眠っている。

誰も声を荒げない。

でも、終わりの音だけが、確かにある。


玄関の鍵が回る。

ケンジが帰ってくる。

何も言わない。

靴を脱ぐ。

部屋に入る。

空気が重い。

貴子は立ったまま。

「テーブルのやつ、記入しておいて」

声は静か。

ケンジ
「テーブルの?」

視線を落とす。

離婚届。

証人欄には

佐々木綾子。

一瞬、理解が追いつかない。

「……ちょっと、母さん?」

その瞬間。

パシン。

乾いた音。

綾子の手がケンジの頬を打つ。

ケンジ
「何するんだよ!」

綾子、低い声。

「貴子ちゃんの心は、それより痛かったわよ」

静まり返る。

ケンジ、唇を噛む。

「だって俺だって……」

声が荒くなる。

「毎日仕事して頑張って!」

「夜寝れなくて!」

「帰ってきても泣き声で!」

「貴子は昼間寝れるだろ、少しぐらい!」

貴子の目に涙が溜まる。

「それに……」

声が震える。

「元男って、関係ないじゃない……」

静かに刺す。

「あなたとの子供、命かけて産んだのに」

ケンジ、言葉が詰まる。

綾子が続ける。

「それに昼間も寝れないのよ」

「母親はね、ちょっとした音で目が覚めるの」

「寝た気にならないの」

「体もボロボロなの」

ケンジ、初めて貴子を見る。

目の下のクマ。

痩せた顔。

震える手。

部屋にはヒカルとミライの寝息。

テーブルの離婚届。

その紙がやけに白い。

誰も動かない。


「……わかったよ」

低い声。

「書けばいいんだろ」

ケンジはペンを掴む。

自分の名前を書く。

強く、荒く。

書き終えると、

離婚届をテーブルに置く。

「これでいいんだろ」

そのまま上着を掴む。

「……しばらく実家に帰る」

離婚届は置いたまま。

玄関へ向かう。

靴を履く。

ヒカルが小さく声を出す。

ケンジの手が止まる。

振り返らない。

ドアが閉まる。

バタン。

テーブルの上に残る離婚届。

インクがまだ乾いていない。

貴子はゆっくり椅子に座る。

綾子は何も言わない。

紙だけが、

やけに存在感を持っている。


ケンジは実家のドアを開ける。

父がテレビを見ている。

「お、どうした? 貴子さんは?」

ケンジは靴も揃えずに上がる。

「……離婚する」

父の手が止まる。

リモコンを置く。

「は?」

「離婚だよ」

父はしばらく黙る。

怒らない。

驚きも見せない。

ただ、じっと見る。

「お前は昔からな」

ゆっくり口を開く。

「余計な事を言うとこがある」

ケンジは苦く笑う。

「そんなとこだろ」

父は鼻で笑う。

「当たってる顔してるな」

間。

「何言った」

ケンジは目を逸らす。

「……取り返しつかない一言」

父はため息をつく。

「言葉はな」

「刃物より深く刺さるぞ」

静か。

テレビの音だけが小さく流れる。

ケンジはうなずく。

「そうだな……余計な一言が、喧嘩以上になったな」

立ち上がる。

自分の部屋へ向かう。

ドアを閉める。

父は天井を見上げる。

「馬鹿息子が……」

でも、その声はどこか心配そうだった。


翌朝。

ヒカルとミライをベビーカーに乗せる。

綾子は後ろからそっと支える。

市役所。

自動ドアが開く。

あの日と同じ匂い。

あの日と同じ窓口。

名札。

山田。

女性職員。

婚姻届を受理してくれた人。

貴子は一瞬、止まる。

山田が顔を上げる。

「あ……」

覚えている。

双子妊娠で来たときも少し話した。

「今日はどうされましたか?」

優しい声。

貴子は書類を差し出す。

「……離婚届です」

一瞬だけ、

山田のまばたきが止まる。

でもすぐに、職員の顔に戻る。

「確認いたしますね」

紙を開く。

山田の視線が証人欄へ行く。

佐々木綾子。

問題なし。

「不備はありません」

淡々と。

でも声は少し柔らかい。

「本日付で受理となります」

スタンプ。

ポン。

あの日は、

婚姻届に押された音だった。

今日は、

終わりの音。

ヒカルが小さく声を出す。

ミライも動く。

山田がふっと微笑む。

「お子さん、元気そうですね」

それだけ。

余計なことは言わない。

貴子は小さく頷く。

「はい」

窓口を離れる。

外に出る。

空は変わらない。

でも、

名前の横の「妻」は消えた。


市役所 職員食堂。

ケンジは一人で食事している。

向かいにトレーが置かれる。

「ここいいですか?」

「あ、あぁ」

山田が座る。

少しして。

「離婚届……出しにきてましたよ」

「あぁ……うん」

箸が止まる。

山田、ぽつり。

「あんなに幸せそうだったのに……」

ケンジ、苦く笑う。

「幸せだったな」

本音。

山田が顔を上げる。

「何があったんですか、短期間で」

ケンジは視線を落とす。

「ま、まぁ色々と」

山田、無理に聞かない。

「言えないこともありますよね」

それだけ。

山田は食事を続ける。

ケンジは味のしないご飯を口に運ぶ。

“幸せだったな”

自分で言った言葉が、やけに重い。

あの夜。

あの一言。

たった一言で、

崩れるものがあるなんて。

箸を置く。

食堂のざわめきはいつも通り。

でも、

自分の席だけ、妙に静かだった。


市役所から帰った貴子。

玄関を開けると、綾子が立ち上がる。

貴子
「お義母さん……」

綾子は一瞬だけ目を見る。

「出して来たんでしょ?」

貴子、うなずく。

「は、はい」

少し間。

綾子が小さく笑う。

「じゃあ、お義母さんじゃなくて、世話焼きのおばさんね」

軽く言う。

でも、目は優しい。

貴子はすぐ首を振る。

「い、いえ」

ヒカルを抱き上げながら。

「ヒカルとミライと、血がつながってる家族です」

綾子、目を細める。

「それも、そうね」

ミライのほっぺに触れる。

「じゃあ、家族のままでいましょうか」

数日後の日曜日。

チャイムが鳴る。

ピンポーン。

ドアを開ける。

ケンジだった。

少しやつれている。

貴子
「何しに来たの。顔も見たくないって言ったじゃない」

声は冷たい。

ケンジ
「ごめん。本当に、ごめん」

それだけ。

貴子
「謝りに来ただけなら帰って」

ケンジはゆっくり膝をつく。

そのまま、土下座。

「俺、心に余裕なかった」

「自分のことしか考えてなかった」

「貴子の気持ちも、ヒカルとミライのことも、ちゃんと見れてなかった」

貴子は黙って聞く。

表情は動かない。

「もう一度……」

ケンジの声が震える。

「もう一度、貴子と一緒に、ヒカルとミライを育てたい」

貴子の目が揺れる。

でも、首を振る。

「ごめんなさい」

「あなたは、私が一番言ってほしくないことを言ったの」

ケンジ
「わかってる」

「言ってすぐにわかった」

「取り返しのつかないこと言ったって」

貴子
「わかってるなら……帰って」

少し間。

ケンジは立ち上がる。

「わかった……」

振り返らない。

ゆっくり階段を降りていく。

ドアが閉まる。

部屋の中に静寂。

ヒカルが小さく声を出す。

ミライも動く。

貴子はその場に座り込む。

涙は出ない。

もう泣き疲れている。

でも、

心は、まだ揺れている。

しばらくして。

チャイムが鳴る。

綾子だった。

「ヒカルとミライ、元気?」

いつもの声。

貴子は少し迷ってから言う。

「……今日、ケンジ来ました」

綾子の動きが一瞬止まる。

「そう」

驚かない。

怒らない。

ただ、うなずく。

「最近ね」

少し視線を落とす。

「仕事以外、ほとんど家にいるのよ」

「ご飯も部屋で食べて」

「父さんとも、ほとんど話さない」

貴子は黙って聞く。

綾子は続ける。

「今日、久しぶりに外に出たから」

小さく息を吐く。

「もしかして、って思ったけど」

少しだけ笑う。

「やっぱり、ここだったのね」

ヒカルが小さく声を出す。

綾子が抱き上げる。

「馬鹿息子よね」

でも、責める声じゃない。

「謝ることしか出来ないのよ、あの子は今」

貴子は目を伏せる。

「……帰ってもらいました」

綾子はうなずく。

「それでいいわ」

即答。

「今は、それでいい」

静かに言う。

夕方。

ケンジは上着を手に取り、玄関へ向かう。

父が新聞越しに目を上げる。

「……貴子さんのとこに行くのか」

ケンジ、黙ったまま靴を履く。

父が立ち上がる。

「行くな」

低い声。

ケンジ
「なんでだよ」


「まだ早い」

「謝ったんだろ」

ケンジ
「じゃあどうすりゃいいんだよ」

父はゆっくり近づく。

「今行っても、お前が楽になりたいだけだ」

ケンジ
「違う!」


「違わん」

間。

ケンジ
「……わかったよ」

ドアを開ける。


「どこ行くんだ」

ケンジ
「飲みに行くだけだよ」


「やけ酒はするなよ」

ケンジは答えず、ドアを閉める。

玄関に静かな空気。

夜風の中、迷わず歩き出す。

――BARワンダーへ。


BARワンダーに着いたケンジ。

扉を開けようとした瞬間、

中から男が出てきた。

のぶだった。

一瞬だけ目が合う。

のぶは何も言わずに去って行く。

ケンジはそのまま店内に入った。

カラン、とベルが鳴る。

マスター
「いらっしゃい」

社長
「貴子ちゃんは?双子で大変やろ?」

爺さん
「うかない顔をしとるのぅ」

ケンジはカウンターに座る。

「別れ……ました」

空気が少し止まる。

社長
「別れたって離婚かいな…何があってん」

爺さん
「よっぽどの事じゃろう」

ケンジは視線を落とす。

「取り返しのつかない言葉を言ってしまって、元男か、って……」

社長
「そらあかんなぁ……さっきの男もやったけど、まさかケンジくんがなぁ」

爺さん
「貴子ちゃんの地雷を踏んでしまったのぅ」

ケンジ
「マスター、スコッチストレートで」

マスター
「酒に逃げるんじゃない!」

ケンジの肩が震える。

「言ってしまった言葉は、戻らない、謝っても許してもらえない……酒に逃げれない、一体どうしたらいいんだよ…」

ケンジは泣き崩れる。

社長
「1回や、2回、謝ったぐらいで許されへん事をあんたは言ったんや」

マスター
「何回も何回も謝りに行け!!誠心誠意、それでダメなら男なら、キッパリ諦めろ!」

爺さん
「諦めも肝心……しかし、諦めたら最後じゃ」

ケンジは涙を拭き、顔を上げる。

「わかりました……俺、貴子が好きです……ヒカルもミライも愛してます、許して貰えるまで謝ります、ダメなら、そっと影で支えます」

マスター
「あきらめたら、俺が貴子ちゃん奪うからな」

社長
「向こうも選ぶ権利あるで」

爺さん
「そうじゃのぅ」

カウンターにスコッチが置かれる。

ケンジはゆっくりグラスを持つ。

最後は、いつものBARの雰囲気となった。








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