40 / 43
四章 人魚とおはぎ
人魚とおはぎ-6
しおりを挟む
◆◆◆
与力、犬飼信二郎は鞘の抜かれた鎗を持ち、戸口に立っていた。
陣笠をかぶり、火事羽織に野袴≪のばがかま≫姿である。
二百十日、酉の刻が迫ってきていた。だんだんと日が落ちてくる。
荒れそうな予兆がする黒い雲。しかし、不気味なほどに風がない。
晩夏の熱い空気が煮こごりのようにドロリとしていた。
嵐の前の静けさだ。
誠吾の持ち込んだめくら歴をもとに、岡っ引きたちが元小料理屋『椿』を内偵し、ここが押し込み強盗の根城だと突き止めたのだ。
犬飼信二郎の後ろには、十手を持った同心たちが控えている。
麻の裏の付いた鎖帷子を着こみ、鎖の入ったはちまきを結んでいる。
白木綿の襷を掛け、じんじん端折りをし、股引きを穿いている。
小手と脛当をし、刃挽の長脇差しを一本だけ差していた。
これから、元小料理屋『椿』に討ち入りしようというところである。
誠吾は与力見習いとして、少し距離を置き様子をうかがっていた。
捕り物は同心にとって大切な手柄だ。それを横取りするわけにはいかないのだ。
ヒリついた空気に、緊張感が漂う。
「かかれ!」
犬飼信二郎が命じると、同心たちが戸を破り元屋敷へと押し入る。
ワッと歓声が上がり、ドタバタと逃げ惑う足音が響く。
「てやんでぇ!」
「お縄になれ!」
十手が高い音を立て、抜刀された気配を感じる。
誠吾は咄嗟に剣に手をかけ、一歩踏み出そうとした。
その姿を、養父の信二郎が流し目で見る。
誠吾はその視線に気付き、体を押しとどめた。
与力の仕事は検使だからである。捕り物の主役は同心なのだ。
転げるようにして家から出てきた男はドスを持っていた。犯人一味のひとりなのだろう。
同心のひとりが追う。
刃挽刀でドスを打ち落とそうとした瞬間、同心の背中に鱗文様の手ぬぐいを頬被りした浪人が忍び寄った。
一宮である。
キラリと刀が光る。
誠吾は、スルリと同心の背に回り、その刀を受ける。
刀と刀がぶつかり合う甲高い音が夕焼けに響いた。
誠吾は浪人の刀を打ち返しつつ、呼びかける。
「先生!」
一宮は誠吾を見て、ハッは息を呑んだ。
「誠吾か」
「なんだって、こんな……!」
誠吾が切ない目を向ければ、一宮は濁った視線で返した。
「お前にはわかるまい」
重い一振りが誠吾に向かう。
誠吾は必死にそれを打ち返す。
「止めてください、先生! 今なら……まだ」
「間に合いはしない」
一宮は一刀両断に言い切った。
「すべて終わらせ、しのぶを取り返すのだ。死ね」
「しのぶさんがどうなさったんですか」
「苦海に身を沈めた」
しのぶは一宮の妹だ。彼女は遊女として売られたのだ。その妹を救うため、一宮は割の良い剣客を引き受けた。
誠吾は唇を固く噛む。誠吾でも同じ状況なら、同じ道を選んだかもしれない。
一宮は息つく間もなく、刀を繰り出してくる。
スッと、誠吾の頬を熱い空気が横切った。
ツッと鮮血が流れる。
(クソ)
誠吾は刀を緩く握り直した。
(先生の気持ちはわかる。でも、こうなったら目を瞑るわけにはいかねぇ。それに、手を抜ける相手じゃねぇ!)
本気を出さなければ、死ぬのは自分だ。
一歩踏み込み、一宮の鍔元近くを狙い刀を巻き落とす。
カラリと一宮の刀が落ちた瞬間、胴を峰打ちした。
一宮は嘔吐いて、その場に倒れ込む。
「なぜ切らぬ!」
一宮は吠えた。
それを同心が取り押さえる。
次々と犯人たちが同心や小者たちに召し捕られていく。
「……先生……」
「情けは無用ぞ!」
誠吾はビリビリとするような声に気圧された。
「情けなどかけたつもりはございませぬ。……先生は騙され、巻き込まれただけだ。そうですよね?」
犬飼信二郎が、苦い顔で誠吾を見た。
そこで、誠吾はハッとした。
与力見習いの自分が出過ぎた真似をしたと気がついた。
討ち入りの手柄は同心のものであるべきなのだ。
誠吾はペコリと会釈して、逃げるようにしてその場を離れた。
与力、犬飼信二郎は鞘の抜かれた鎗を持ち、戸口に立っていた。
陣笠をかぶり、火事羽織に野袴≪のばがかま≫姿である。
二百十日、酉の刻が迫ってきていた。だんだんと日が落ちてくる。
荒れそうな予兆がする黒い雲。しかし、不気味なほどに風がない。
晩夏の熱い空気が煮こごりのようにドロリとしていた。
嵐の前の静けさだ。
誠吾の持ち込んだめくら歴をもとに、岡っ引きたちが元小料理屋『椿』を内偵し、ここが押し込み強盗の根城だと突き止めたのだ。
犬飼信二郎の後ろには、十手を持った同心たちが控えている。
麻の裏の付いた鎖帷子を着こみ、鎖の入ったはちまきを結んでいる。
白木綿の襷を掛け、じんじん端折りをし、股引きを穿いている。
小手と脛当をし、刃挽の長脇差しを一本だけ差していた。
これから、元小料理屋『椿』に討ち入りしようというところである。
誠吾は与力見習いとして、少し距離を置き様子をうかがっていた。
捕り物は同心にとって大切な手柄だ。それを横取りするわけにはいかないのだ。
ヒリついた空気に、緊張感が漂う。
「かかれ!」
犬飼信二郎が命じると、同心たちが戸を破り元屋敷へと押し入る。
ワッと歓声が上がり、ドタバタと逃げ惑う足音が響く。
「てやんでぇ!」
「お縄になれ!」
十手が高い音を立て、抜刀された気配を感じる。
誠吾は咄嗟に剣に手をかけ、一歩踏み出そうとした。
その姿を、養父の信二郎が流し目で見る。
誠吾はその視線に気付き、体を押しとどめた。
与力の仕事は検使だからである。捕り物の主役は同心なのだ。
転げるようにして家から出てきた男はドスを持っていた。犯人一味のひとりなのだろう。
同心のひとりが追う。
刃挽刀でドスを打ち落とそうとした瞬間、同心の背中に鱗文様の手ぬぐいを頬被りした浪人が忍び寄った。
一宮である。
キラリと刀が光る。
誠吾は、スルリと同心の背に回り、その刀を受ける。
刀と刀がぶつかり合う甲高い音が夕焼けに響いた。
誠吾は浪人の刀を打ち返しつつ、呼びかける。
「先生!」
一宮は誠吾を見て、ハッは息を呑んだ。
「誠吾か」
「なんだって、こんな……!」
誠吾が切ない目を向ければ、一宮は濁った視線で返した。
「お前にはわかるまい」
重い一振りが誠吾に向かう。
誠吾は必死にそれを打ち返す。
「止めてください、先生! 今なら……まだ」
「間に合いはしない」
一宮は一刀両断に言い切った。
「すべて終わらせ、しのぶを取り返すのだ。死ね」
「しのぶさんがどうなさったんですか」
「苦海に身を沈めた」
しのぶは一宮の妹だ。彼女は遊女として売られたのだ。その妹を救うため、一宮は割の良い剣客を引き受けた。
誠吾は唇を固く噛む。誠吾でも同じ状況なら、同じ道を選んだかもしれない。
一宮は息つく間もなく、刀を繰り出してくる。
スッと、誠吾の頬を熱い空気が横切った。
ツッと鮮血が流れる。
(クソ)
誠吾は刀を緩く握り直した。
(先生の気持ちはわかる。でも、こうなったら目を瞑るわけにはいかねぇ。それに、手を抜ける相手じゃねぇ!)
本気を出さなければ、死ぬのは自分だ。
一歩踏み込み、一宮の鍔元近くを狙い刀を巻き落とす。
カラリと一宮の刀が落ちた瞬間、胴を峰打ちした。
一宮は嘔吐いて、その場に倒れ込む。
「なぜ切らぬ!」
一宮は吠えた。
それを同心が取り押さえる。
次々と犯人たちが同心や小者たちに召し捕られていく。
「……先生……」
「情けは無用ぞ!」
誠吾はビリビリとするような声に気圧された。
「情けなどかけたつもりはございませぬ。……先生は騙され、巻き込まれただけだ。そうですよね?」
犬飼信二郎が、苦い顔で誠吾を見た。
そこで、誠吾はハッとした。
与力見習いの自分が出過ぎた真似をしたと気がついた。
討ち入りの手柄は同心のものであるべきなのだ。
誠吾はペコリと会釈して、逃げるようにしてその場を離れた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
90
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる