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1巻
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自分をそんな気持ちにさせる相手が、こんがりと日焼けをして目の前に立っている。
「連絡なしに急に来てごめんな。ちょうど近くを通りかかって」
「もしかして、実家帰り?」
「そ。バスで帰省してて今、戻って来たんだ。そんでさ、これ。また大量にもらっちゃったからさ、お裾分け」
そう言って、伊織くんは肩からかけていた荷物を下ろすと、中からビニール袋に入った野菜を取り出した。
「これって……ミニトマト?」
「当たり! で、こっちがピーマンとパプリカ、あとナスとキュウリとアスパラガス」
「こんなにいいの?」
「俺だけじゃ消費できないのにさ、親があれもこれもって持たせてくるもんだからさ。もらってくれるとありがたい」
「こんな新鮮な野菜を断る理由ないし! 嬉しい。ありがとう」
伊織くんは野菜を私に渡した後、満足そうにいつもの屈託のない笑顔を見せた。胸がギュッと鷲掴みされたようになって一瞬、目の前がチカチカした。
「あの、よかったら、ご飯食べていかない?」
「それが残念だけど、今日はバイトが入っててさ」
「じゃあ、今度お礼させて」
「バイトのシフト確認してから連絡するよ」
「うん。ありがと」
伊織くんはちょっと急ぐから、と家には上がらずに帰ってしまった。その背中を見送りながら、お茶くらい出せばよかったと私は後悔する。……待って、なんでこんなにがっかりしてるの? どうしちゃったの、本当に。
伊織くんは友達だ。そう思う自分と、彼の笑顔や仕草に強く惹かれている自分が、心の中でせめぎあっている。これは、これは、これは。残像を打ち消そうとして、ふるふると首を振っても、なかなか伊織くんの笑顔が頭の中から消えてくれなかった。
夕飯は伊織くんからもらった野菜をふんだんに使って、いわしと夏野菜の南蛮漬けを作った。
「やっぱり、伊織くんに食べてほしかったな……」
そんなことを呟きながら料理を口にすると、その甘酸っぱさがやけに今の気持ちと重なって、いろいろな想いが頭の中をぐるぐると回っているかのようだった。
決して不快ではないその感じは、私を笑顔にする不思議な感覚だった。
「落ち着かないなぁ」
ギュッと心が掴まれて、ドキドキして、むずむずする。落ち着かないけれど嬉しい。甘酸っぱい感覚が何度も私の中を巡って、どんどん大きく膨らんでゆく。
伊織くんのことを考えている時はふわふわと夢見心地なのに、急に恥ずかしくなって冷静に戻る。でも、心は嬉しくて弾んでいるから思わず笑顔になってしまう。
そういえば、おばあちゃんのレシピノートにあるレシピも私を笑顔にする。ひとつひとつが丁寧で繊細で優しい。このノートを見つけ、受け継ぎつつあることが本当に嬉しいし、私にも料理で人を笑顔にできるような気がしてくる。……伊織くんも、伊織くんの笑顔も彼の周りを明るくさせている素敵なものだ。
そう思うと頬が赤くなった。
やっぱり、これは、これは!
「あああっ! どうしよう。とんでもないことに気がついちゃったよ!」
慌て過ぎて、意味もなく大きく音を立てて、立ちがってしまった。
そうだ、これは、この感情は「恋」だ。私はたぶん恋をしてしまったんだ。
恋に落ちることは、それに伴う不安や苦労に関係なく、人生で最も重大で、新鮮な体験の一つだと聞いたことがある。そんな恋に私が落ちるなんて。これから一体自分になにが起きるのか見当もつかない。もちろんそんな私だってこれと同じような気分を味わったことはある。でもそれは幼稚園の頃の初恋の話だ。
「ど、どどど、どうしよう……」
ますます赤くなる頬が熱い。日中の暑さにやられた時以上に熱を持った頬は、食後の烏龍茶くらいでは冷やせそうになかった。立ち上がったまま慌てて飲み干したそれにむせながら、私は一層うろたえた。
一年目 秋
一、秋の夜長と約束
夏休みも終わり、酷暑が嘘だったかのように過ごしやすくなった。特に夜はぐんと気温が下がって、一枚羽織るものが欲しくなる。
「もう秋だなぁ。今年も秋は短そうだけど」
明日までのレポートを仕上げながら、鈴虫の鳴き声に耳をすます。
秋の夜長、とはよくいったものだ。せっかくの長い夜を、有意義に過ごしたいと思うものの、単なる夜更かしになっていた。
最近の私はというと、伊織くんに対する自分の気持ちを自覚してから、どうも挙動不審になりがちだった。
伊織くんと話をしたいのに、その姿を見つけるといたたまれなくて視線をそらしてしまう。それでいて目では彼を追ってしまうし、せっかく向こうから話しかけてくれてもまごまごして上手に話せない。唯一メッセージのやりとりだけは他人の目がないせいか、素直にできていた。でも電話はダメだった……。ふと気づくと正座をしている上に、緊張しすぎて噛みまくってしまう。
夏野菜のお礼を口実にして、自分から誘えばいいのだけれども……それをなかなか言い出せずにいた。
悶々と考えているだけで、レポートはさっぱり進んでいない。これはダメだと気合いを入れ直し、さっさとレポートを終わらせて、せっかくの静かな夜になににも邪魔されず、集中して好きな本でも読もうと思った。お気に入りの銘柄の紅茶を用意して本の世界に浸る。今年の秋は少し背伸びして、大人っぽいことをしてみたかったので、ちょっと贅沢な時間を味わってみよう。
去年の秋は受験勉強の追い込みでゆっくりできなかった。今くらいはゆっくりしてもいいだろう。
「あー、月が膨らんでるなぁ」
明後日は十五夜で「月見」である。窓から見上げた空にはぷっくりとした丸い月が昇っていた。
「そうだ、お月見団子をつくろう」
レポートをなんとか書き上げ、ふと思いついた。
桐箱から、おばあちゃんのレシピノートを取り出して月見団子のレシピを探す。
確か子供の頃、一緒にお月見をした記憶があるから、絶対にお団子のレシピがあるはずだ。
「あった!」
目的のページを探し出して、必要な材料をメモする。上新粉に砂糖と塩。おばあちゃんのレシピは実にシンプルで無駄がない。
下ごしらえがないから、材料は十五夜の当日、大学の帰りに買ってきても大丈夫だろう。メモをお財布にしまいこんでから、台所で紅茶を入れて縁側に行き、読みかけの本を開いた。
翌日、友人に近くに花屋がないか聞いてみると、駅前の花屋さんは種類が豊富で値段もお手頃らしいということを教えてくれた。
あまりその辺りに行かない私は知らなかったのだが、季節の草花のアレンジメントなどが人気なのだそうだ。そこならば秋の七草を取り扱っているかと思い、大学帰りに寄ってみることにした。
「確か、この辺……」
駅前の花屋はこぢんまりとしていて、軒先にも色とりどりの花が咲き誇っていた。
「七草、七草」
欲しかったのは、萩に尾花、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗だ。
「尾花」というのがどんな花かわからない。これは店員さんに聞こう。
「すみません! 秋の七草って置いてませんか?」
「はい! こちらにありま……あれ? 柊木」
「あれ、伊織くん」
振り向いた店員さんは伊織くんだった。
「びっくりした。伊織くん、花屋さんでアルバイトしてたんだ」
「ここ、実は親戚の店でさ」
「そうなんだ。似合うね! そのエプロン」
伊織くんは生成りのパーカーにグリーンのエプロンをつけ、スニーカーを履いて秋桜を抱えていた。その姿があまりにも伊織くんに似合いすぎていて、優しい彼のイメージにぴったりだった。思わず顔が赤くなってしまう。それを誤魔化すため平静を装って微笑んだ。
「そうかな? なんか恥ずかしいな……あっ、ゴメン。なに探してるんだっけ?」
「えっと、秋の七草なんだけど。尾花ってなにかわからなくて」
「ああ、尾花はススキのことだよ」
「なんだぁ、ススキかぁ!」
「柊木って季節の花とか家に飾るの?」
「普段はお仏壇に飾るくらいだけどね。でも、明日ってお月見じゃない。だから鑑賞用に欲しくて」
「あ、じゃあ、このアレンジメントとかどう? 七種類全部入ってる」
「わっ、カワイイ」
勧められたのは、黄色いピンポンマムを満月に見立て、その周りを七草が囲んでいる、お月見のためにデザインされたフラワーアレンジメントだった。
「手入れも隙間から水をあげるだけだから簡単で日持ちもするんだ。しばらくは楽しめるからオススメ」
「かご入りだから、お月見が終わったらそのまま玄関とかに飾れるね」
「なぁ、もしかしてお月見って、団子作るの?」
「うん。せっかく月見ができる縁側もあるし、予報だと晴れるって言ってたから」
「へぇ……いいなぁ」
伊織くんは少し考えてから、私に唐突なお願いをしてきた。
「それ、俺もお邪魔しちゃダメ?」
「……え? ダメじゃないけど」
「じゃ、コレ俺からの手土産ってことで」
「えっ、ちゃんと買うよ!」
「でも、手土産ってなにも思いつかないし。これで前払い!」
伊織くんは、秋の七草のアレンジメントを丁寧に手提げ袋に入れる。
「ダメだよ! まだこの間の野菜のお礼もしてないし! 売り物でしょ?」
「柊木にもらってほしいんだ」
結局私はそれを受け取りながら、伊織くんの目を見ると、瞳が真剣で逸らせなかった。ドキンと胸が鳴る。
「ありがとう……じゃあ! じゃあ、お礼にお夕飯も食べて……くれないかな?」
「え? いいの? 急に、なんか悪いな。でも、すげぇ楽しみ!」
屈托のない笑顔でそう言う伊織くんが眩しくて、頬が赤くなるのがわかる。
帰り道、よほど私は舞い上がっていたのだろう。浮足立ってふらふらと歩き電柱にぶつかりそうになった。
「で、でも! さっき普通に話せてた! 大丈夫!」
ひとり言すら大声になってしまい、はっとして周りを見回したが、誰も気にしている様子はなくてホッとする。
伊織くんと二人でお月見。
急な話で本当にびっくりだけど、これは純粋に嬉しかった。だって気になっている――恋をしている相手に、お願いされたのだから、断れるわけがない。
「ああっ! でも、だ、団子の他はなにを作ろう」
これは本格的におばあちゃんのレシピノートの出番だ!
急いで家に帰って、慌ててレシピノートを開き、団子に合うメニューを探す。冷蔵庫の中身を確認し、材料の用意を当日にしていたら間に合いそうにないと思い直して、メモを片手にスーパーに走ったのだった。
二、お月見と月灯り
お月見当日、私は大学から真っ直ぐ家に帰った。昨日、用意した材料で作るのは、悩みに悩んで決めたメニューの里芋のコロッケだ。
これは前に一度作ったことがあるので、勝手がわかる上にガツンとした食べ応えもあっていい。
流水で丁寧に米を研ぎながら、頭の中で段取りを考える。料理はたいてい、先にお米を炊くと効率よく進むことに最近になって気がついた。
芋は洗い、一個ずつラップをして耐熱容器に並べ、電子レンジで三分。裏返してさらに三分。竹串がすっと通るくらいまで加熱する。
ラップを外して冷ましたあと皮を剥き、すりこぎやフォークで潰す。フォークだとざっくりと潰せるので、食感を残したい時にはフォークを使ったほうがいい。
潰した里芋に醤油、桜海老、青ねぎのみじん切りを混ぜて、食べやすい大きさにまとめる。
小麦粉、卵、パン粉の順に衣をつけ、百八十度の油で三~四分ほど揚げれば出来上がりだ。
それから味噌汁を作り、食事の準備は完了。
そして、これからが本番。お月見団子を作る。
上新粉三百グラムに対し、熱湯二百二十㏄程度を加え、耳たぶ位のやわらかさになるまでよくこねる。
おばあちゃんのレシピによると、上新粉に砂糖をあらかじめ加えてこねるのだが、これはお好みで入れても入れなくてもいいと書いてあった。今回はそんなに甘さを出さないように大さじ一だけ加えた。
こねた後、十六等分ほどに分け、ひとつずつ丸める。
鍋に水をたっぷり入れ、沸騰させておき、そのお湯で三~四分茹でる。
茹ですぎると固くなるので、団子がぷかりと浮いてきたら順にすくい上げ、冷水に入れてよく冷やす。その後、団子を少し風に当てておくと、てりが出て見栄えよく仕上がる。
戸棚の奥にある飾り盆を取り出して綺麗に拭き、和紙を敷いた。その上に山になるように団子を綺麗に盛りつけてゆく。
「綺麗に盛れた……」
料理を作っている時から、ずっと胸がドキドキしっぱなしだった。
お月見団子を作り終えても、それは治まるどころかどんどん強くなる。
こんなにも待ち遠しいなんて。
月のよく見える縁側に台を出し、伊織くんにもらった秋の七草のアレンジメントとお月見団子を並べて準備を終える。ドキドキが加速して心臓が飛び出してしまいそうだ。
心のほうの準備が整わないまま、部屋の中をうろうろしていると玄関のチャイムが来客を知らせる。
「き、来ちゃった……頑張れ私!」
気合いを入れて玄関で伊織くんを迎えると、彼は満面の笑みで、おじゃまします、と家に上がった。
「ほんと、急にゴメンな」
「ううん、大丈夫。考えてみたら一人でお月見って寂しいだけだったよ!」
「じゃ、遠慮なく参加させてもらう」
伊織くんを居間に通して、開け放してある縁側に案内する。
「こんな感じに飾りました!」
「お! 本格的、里芋とサツマイモまである」
「子供の頃、そういえば飾ったなって思い出して」
「そうそう。うちは里芋をきぬかつぎにして飾ってて、つまみ食いして叱られたっけなー」
「きぬかつぎ、は食べたことないや」
「うち、祭りごとが大好きで、風習とかしきたりとか、わりと守る家でさ。だから柊木がお月見するって聞いて、便乗させてもらいたくなったんだ」
「なんか、伊織くんらしいなぁ……私は大歓迎だよ」
まずは夕飯をと、居間に戻り伊織くんを座らせて、台所から料理を運んだ。
里芋のコロッケ、ご飯、お味噌汁、それに加えてちょっとした酢の物を出した。これは落ち着かなさすぎて、もう一品作ってしまったやつだ。
「おー! きつね色のコロッケ」
「どうぞ、召し上がれ」
二人で揃って、いただきます、と声に出す。まず同時に手を伸ばしたのはコロッケだった。
外側はカリッと香ばしく揚がっていて、中の里芋はホクホクと上品な粘りもあってたまらない。下味がついているのでそのままでも美味しいが、ゴマ入りの中濃ソースや七味唐辛子を少しかけると、より風味が引き立った。
「柊木、本当に料理上手いなぁ」
「いやいや、ぜんぜん! 私の料理って、おばあちゃんのレシピノートを見て作ってるものなの。おばあちゃんがね、とても料理上手でたくさんのレシピを残してくれてて。それを私が譲ってもらったわけ。まだまだ未熟」
「へぇ。そうだったんだ」
「夏にもらった野菜もね、おばあちゃんのレシピのおかげで全部美味しく食べちゃった」
伊織くんはそれを聞いて思い出したかのように呟く。
「なんで親って、食べきれない量の野菜とか持たせたがるんだろうな?」
「うーん? 心配だから? でも、もらう側としてはダメにしちゃうともったいなくて、罪悪感持っちゃうよね」
「それな。わかる」
伊織くんと食べ物談義に花が咲く。夕食を食べ終わる頃には、二人とも笑いながらお互いの子供の頃の好き嫌いのことまでも話していて、以前の意識しすぎのぎこちなさが嘘のようになっていた。
「あ、お茶淹れるね。縁側でお団子食べようよ」
「ありがとう」
縁側に移動してお茶を出す。団子に合わせてほうじ茶にしてみた。ほうじ茶のいいところは苦みと渋みがないこと。まろやかな甘みもあって、私の作ったシンプルなお団子には最適だった。
湯呑みのほうじ茶に月を映り込ませてから一口飲み、その香ばしい香りに癒される。
「おー、ちゃんとした月見団子!」
伊織くんがそう言ったのは、まん丸には作っていないからだろう。まん丸にしてしまうと、亡くなった人の枕元に供える「枕団子」を連想させてしまうため、上から少し押して潰しておくのがいいらしいと知って、そうしてみたのだ。
やっぱり伊織くんは、そういう知識をちゃんと持っている人なんだ。
「一応、はちみつは用意してあるから甘さが足りなかったら言ってね」
「ん、うまい。ほのかに甘くて、すっげぇ好み」
「よかった」
私も、一つ口に入れる。
もっちり弾力のある食感、それでいて舌の上をつるりとすべり、とろけるような喉越しは大成功と言ってもいい。また一つ、また一つと食後であるにもかかわらず、二人であっという間に食べきってしまいそうだ。
「うちの婆ちゃんの団子もこんな感じでさ。ほのかに甘くて、懐かしい味がする」
月に負けないくらいの明るい笑顔で伊織くんは言った。
ああ、やっぱりこの笑顔だ。この笑顔が私は好きなんだ。改めて自覚してまた鼓動が速くなる。加速していく。
「あのさ……」
「な、なにっ?」
ドキドキしすぎて返事を噛んだ。恥ずかしくて思わず下を向くと、ほうじ茶にまあるい月が映り込んで揺らめいていた。
「ベタ、なんだけど……さ。月が」
「月が?」
「連絡なしに急に来てごめんな。ちょうど近くを通りかかって」
「もしかして、実家帰り?」
「そ。バスで帰省してて今、戻って来たんだ。そんでさ、これ。また大量にもらっちゃったからさ、お裾分け」
そう言って、伊織くんは肩からかけていた荷物を下ろすと、中からビニール袋に入った野菜を取り出した。
「これって……ミニトマト?」
「当たり! で、こっちがピーマンとパプリカ、あとナスとキュウリとアスパラガス」
「こんなにいいの?」
「俺だけじゃ消費できないのにさ、親があれもこれもって持たせてくるもんだからさ。もらってくれるとありがたい」
「こんな新鮮な野菜を断る理由ないし! 嬉しい。ありがとう」
伊織くんは野菜を私に渡した後、満足そうにいつもの屈託のない笑顔を見せた。胸がギュッと鷲掴みされたようになって一瞬、目の前がチカチカした。
「あの、よかったら、ご飯食べていかない?」
「それが残念だけど、今日はバイトが入っててさ」
「じゃあ、今度お礼させて」
「バイトのシフト確認してから連絡するよ」
「うん。ありがと」
伊織くんはちょっと急ぐから、と家には上がらずに帰ってしまった。その背中を見送りながら、お茶くらい出せばよかったと私は後悔する。……待って、なんでこんなにがっかりしてるの? どうしちゃったの、本当に。
伊織くんは友達だ。そう思う自分と、彼の笑顔や仕草に強く惹かれている自分が、心の中でせめぎあっている。これは、これは、これは。残像を打ち消そうとして、ふるふると首を振っても、なかなか伊織くんの笑顔が頭の中から消えてくれなかった。
夕飯は伊織くんからもらった野菜をふんだんに使って、いわしと夏野菜の南蛮漬けを作った。
「やっぱり、伊織くんに食べてほしかったな……」
そんなことを呟きながら料理を口にすると、その甘酸っぱさがやけに今の気持ちと重なって、いろいろな想いが頭の中をぐるぐると回っているかのようだった。
決して不快ではないその感じは、私を笑顔にする不思議な感覚だった。
「落ち着かないなぁ」
ギュッと心が掴まれて、ドキドキして、むずむずする。落ち着かないけれど嬉しい。甘酸っぱい感覚が何度も私の中を巡って、どんどん大きく膨らんでゆく。
伊織くんのことを考えている時はふわふわと夢見心地なのに、急に恥ずかしくなって冷静に戻る。でも、心は嬉しくて弾んでいるから思わず笑顔になってしまう。
そういえば、おばあちゃんのレシピノートにあるレシピも私を笑顔にする。ひとつひとつが丁寧で繊細で優しい。このノートを見つけ、受け継ぎつつあることが本当に嬉しいし、私にも料理で人を笑顔にできるような気がしてくる。……伊織くんも、伊織くんの笑顔も彼の周りを明るくさせている素敵なものだ。
そう思うと頬が赤くなった。
やっぱり、これは、これは!
「あああっ! どうしよう。とんでもないことに気がついちゃったよ!」
慌て過ぎて、意味もなく大きく音を立てて、立ちがってしまった。
そうだ、これは、この感情は「恋」だ。私はたぶん恋をしてしまったんだ。
恋に落ちることは、それに伴う不安や苦労に関係なく、人生で最も重大で、新鮮な体験の一つだと聞いたことがある。そんな恋に私が落ちるなんて。これから一体自分になにが起きるのか見当もつかない。もちろんそんな私だってこれと同じような気分を味わったことはある。でもそれは幼稚園の頃の初恋の話だ。
「ど、どどど、どうしよう……」
ますます赤くなる頬が熱い。日中の暑さにやられた時以上に熱を持った頬は、食後の烏龍茶くらいでは冷やせそうになかった。立ち上がったまま慌てて飲み干したそれにむせながら、私は一層うろたえた。
一年目 秋
一、秋の夜長と約束
夏休みも終わり、酷暑が嘘だったかのように過ごしやすくなった。特に夜はぐんと気温が下がって、一枚羽織るものが欲しくなる。
「もう秋だなぁ。今年も秋は短そうだけど」
明日までのレポートを仕上げながら、鈴虫の鳴き声に耳をすます。
秋の夜長、とはよくいったものだ。せっかくの長い夜を、有意義に過ごしたいと思うものの、単なる夜更かしになっていた。
最近の私はというと、伊織くんに対する自分の気持ちを自覚してから、どうも挙動不審になりがちだった。
伊織くんと話をしたいのに、その姿を見つけるといたたまれなくて視線をそらしてしまう。それでいて目では彼を追ってしまうし、せっかく向こうから話しかけてくれてもまごまごして上手に話せない。唯一メッセージのやりとりだけは他人の目がないせいか、素直にできていた。でも電話はダメだった……。ふと気づくと正座をしている上に、緊張しすぎて噛みまくってしまう。
夏野菜のお礼を口実にして、自分から誘えばいいのだけれども……それをなかなか言い出せずにいた。
悶々と考えているだけで、レポートはさっぱり進んでいない。これはダメだと気合いを入れ直し、さっさとレポートを終わらせて、せっかくの静かな夜になににも邪魔されず、集中して好きな本でも読もうと思った。お気に入りの銘柄の紅茶を用意して本の世界に浸る。今年の秋は少し背伸びして、大人っぽいことをしてみたかったので、ちょっと贅沢な時間を味わってみよう。
去年の秋は受験勉強の追い込みでゆっくりできなかった。今くらいはゆっくりしてもいいだろう。
「あー、月が膨らんでるなぁ」
明後日は十五夜で「月見」である。窓から見上げた空にはぷっくりとした丸い月が昇っていた。
「そうだ、お月見団子をつくろう」
レポートをなんとか書き上げ、ふと思いついた。
桐箱から、おばあちゃんのレシピノートを取り出して月見団子のレシピを探す。
確か子供の頃、一緒にお月見をした記憶があるから、絶対にお団子のレシピがあるはずだ。
「あった!」
目的のページを探し出して、必要な材料をメモする。上新粉に砂糖と塩。おばあちゃんのレシピは実にシンプルで無駄がない。
下ごしらえがないから、材料は十五夜の当日、大学の帰りに買ってきても大丈夫だろう。メモをお財布にしまいこんでから、台所で紅茶を入れて縁側に行き、読みかけの本を開いた。
翌日、友人に近くに花屋がないか聞いてみると、駅前の花屋さんは種類が豊富で値段もお手頃らしいということを教えてくれた。
あまりその辺りに行かない私は知らなかったのだが、季節の草花のアレンジメントなどが人気なのだそうだ。そこならば秋の七草を取り扱っているかと思い、大学帰りに寄ってみることにした。
「確か、この辺……」
駅前の花屋はこぢんまりとしていて、軒先にも色とりどりの花が咲き誇っていた。
「七草、七草」
欲しかったのは、萩に尾花、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗だ。
「尾花」というのがどんな花かわからない。これは店員さんに聞こう。
「すみません! 秋の七草って置いてませんか?」
「はい! こちらにありま……あれ? 柊木」
「あれ、伊織くん」
振り向いた店員さんは伊織くんだった。
「びっくりした。伊織くん、花屋さんでアルバイトしてたんだ」
「ここ、実は親戚の店でさ」
「そうなんだ。似合うね! そのエプロン」
伊織くんは生成りのパーカーにグリーンのエプロンをつけ、スニーカーを履いて秋桜を抱えていた。その姿があまりにも伊織くんに似合いすぎていて、優しい彼のイメージにぴったりだった。思わず顔が赤くなってしまう。それを誤魔化すため平静を装って微笑んだ。
「そうかな? なんか恥ずかしいな……あっ、ゴメン。なに探してるんだっけ?」
「えっと、秋の七草なんだけど。尾花ってなにかわからなくて」
「ああ、尾花はススキのことだよ」
「なんだぁ、ススキかぁ!」
「柊木って季節の花とか家に飾るの?」
「普段はお仏壇に飾るくらいだけどね。でも、明日ってお月見じゃない。だから鑑賞用に欲しくて」
「あ、じゃあ、このアレンジメントとかどう? 七種類全部入ってる」
「わっ、カワイイ」
勧められたのは、黄色いピンポンマムを満月に見立て、その周りを七草が囲んでいる、お月見のためにデザインされたフラワーアレンジメントだった。
「手入れも隙間から水をあげるだけだから簡単で日持ちもするんだ。しばらくは楽しめるからオススメ」
「かご入りだから、お月見が終わったらそのまま玄関とかに飾れるね」
「なぁ、もしかしてお月見って、団子作るの?」
「うん。せっかく月見ができる縁側もあるし、予報だと晴れるって言ってたから」
「へぇ……いいなぁ」
伊織くんは少し考えてから、私に唐突なお願いをしてきた。
「それ、俺もお邪魔しちゃダメ?」
「……え? ダメじゃないけど」
「じゃ、コレ俺からの手土産ってことで」
「えっ、ちゃんと買うよ!」
「でも、手土産ってなにも思いつかないし。これで前払い!」
伊織くんは、秋の七草のアレンジメントを丁寧に手提げ袋に入れる。
「ダメだよ! まだこの間の野菜のお礼もしてないし! 売り物でしょ?」
「柊木にもらってほしいんだ」
結局私はそれを受け取りながら、伊織くんの目を見ると、瞳が真剣で逸らせなかった。ドキンと胸が鳴る。
「ありがとう……じゃあ! じゃあ、お礼にお夕飯も食べて……くれないかな?」
「え? いいの? 急に、なんか悪いな。でも、すげぇ楽しみ!」
屈托のない笑顔でそう言う伊織くんが眩しくて、頬が赤くなるのがわかる。
帰り道、よほど私は舞い上がっていたのだろう。浮足立ってふらふらと歩き電柱にぶつかりそうになった。
「で、でも! さっき普通に話せてた! 大丈夫!」
ひとり言すら大声になってしまい、はっとして周りを見回したが、誰も気にしている様子はなくてホッとする。
伊織くんと二人でお月見。
急な話で本当にびっくりだけど、これは純粋に嬉しかった。だって気になっている――恋をしている相手に、お願いされたのだから、断れるわけがない。
「ああっ! でも、だ、団子の他はなにを作ろう」
これは本格的におばあちゃんのレシピノートの出番だ!
急いで家に帰って、慌ててレシピノートを開き、団子に合うメニューを探す。冷蔵庫の中身を確認し、材料の用意を当日にしていたら間に合いそうにないと思い直して、メモを片手にスーパーに走ったのだった。
二、お月見と月灯り
お月見当日、私は大学から真っ直ぐ家に帰った。昨日、用意した材料で作るのは、悩みに悩んで決めたメニューの里芋のコロッケだ。
これは前に一度作ったことがあるので、勝手がわかる上にガツンとした食べ応えもあっていい。
流水で丁寧に米を研ぎながら、頭の中で段取りを考える。料理はたいてい、先にお米を炊くと効率よく進むことに最近になって気がついた。
芋は洗い、一個ずつラップをして耐熱容器に並べ、電子レンジで三分。裏返してさらに三分。竹串がすっと通るくらいまで加熱する。
ラップを外して冷ましたあと皮を剥き、すりこぎやフォークで潰す。フォークだとざっくりと潰せるので、食感を残したい時にはフォークを使ったほうがいい。
潰した里芋に醤油、桜海老、青ねぎのみじん切りを混ぜて、食べやすい大きさにまとめる。
小麦粉、卵、パン粉の順に衣をつけ、百八十度の油で三~四分ほど揚げれば出来上がりだ。
それから味噌汁を作り、食事の準備は完了。
そして、これからが本番。お月見団子を作る。
上新粉三百グラムに対し、熱湯二百二十㏄程度を加え、耳たぶ位のやわらかさになるまでよくこねる。
おばあちゃんのレシピによると、上新粉に砂糖をあらかじめ加えてこねるのだが、これはお好みで入れても入れなくてもいいと書いてあった。今回はそんなに甘さを出さないように大さじ一だけ加えた。
こねた後、十六等分ほどに分け、ひとつずつ丸める。
鍋に水をたっぷり入れ、沸騰させておき、そのお湯で三~四分茹でる。
茹ですぎると固くなるので、団子がぷかりと浮いてきたら順にすくい上げ、冷水に入れてよく冷やす。その後、団子を少し風に当てておくと、てりが出て見栄えよく仕上がる。
戸棚の奥にある飾り盆を取り出して綺麗に拭き、和紙を敷いた。その上に山になるように団子を綺麗に盛りつけてゆく。
「綺麗に盛れた……」
料理を作っている時から、ずっと胸がドキドキしっぱなしだった。
お月見団子を作り終えても、それは治まるどころかどんどん強くなる。
こんなにも待ち遠しいなんて。
月のよく見える縁側に台を出し、伊織くんにもらった秋の七草のアレンジメントとお月見団子を並べて準備を終える。ドキドキが加速して心臓が飛び出してしまいそうだ。
心のほうの準備が整わないまま、部屋の中をうろうろしていると玄関のチャイムが来客を知らせる。
「き、来ちゃった……頑張れ私!」
気合いを入れて玄関で伊織くんを迎えると、彼は満面の笑みで、おじゃまします、と家に上がった。
「ほんと、急にゴメンな」
「ううん、大丈夫。考えてみたら一人でお月見って寂しいだけだったよ!」
「じゃ、遠慮なく参加させてもらう」
伊織くんを居間に通して、開け放してある縁側に案内する。
「こんな感じに飾りました!」
「お! 本格的、里芋とサツマイモまである」
「子供の頃、そういえば飾ったなって思い出して」
「そうそう。うちは里芋をきぬかつぎにして飾ってて、つまみ食いして叱られたっけなー」
「きぬかつぎ、は食べたことないや」
「うち、祭りごとが大好きで、風習とかしきたりとか、わりと守る家でさ。だから柊木がお月見するって聞いて、便乗させてもらいたくなったんだ」
「なんか、伊織くんらしいなぁ……私は大歓迎だよ」
まずは夕飯をと、居間に戻り伊織くんを座らせて、台所から料理を運んだ。
里芋のコロッケ、ご飯、お味噌汁、それに加えてちょっとした酢の物を出した。これは落ち着かなさすぎて、もう一品作ってしまったやつだ。
「おー! きつね色のコロッケ」
「どうぞ、召し上がれ」
二人で揃って、いただきます、と声に出す。まず同時に手を伸ばしたのはコロッケだった。
外側はカリッと香ばしく揚がっていて、中の里芋はホクホクと上品な粘りもあってたまらない。下味がついているのでそのままでも美味しいが、ゴマ入りの中濃ソースや七味唐辛子を少しかけると、より風味が引き立った。
「柊木、本当に料理上手いなぁ」
「いやいや、ぜんぜん! 私の料理って、おばあちゃんのレシピノートを見て作ってるものなの。おばあちゃんがね、とても料理上手でたくさんのレシピを残してくれてて。それを私が譲ってもらったわけ。まだまだ未熟」
「へぇ。そうだったんだ」
「夏にもらった野菜もね、おばあちゃんのレシピのおかげで全部美味しく食べちゃった」
伊織くんはそれを聞いて思い出したかのように呟く。
「なんで親って、食べきれない量の野菜とか持たせたがるんだろうな?」
「うーん? 心配だから? でも、もらう側としてはダメにしちゃうともったいなくて、罪悪感持っちゃうよね」
「それな。わかる」
伊織くんと食べ物談義に花が咲く。夕食を食べ終わる頃には、二人とも笑いながらお互いの子供の頃の好き嫌いのことまでも話していて、以前の意識しすぎのぎこちなさが嘘のようになっていた。
「あ、お茶淹れるね。縁側でお団子食べようよ」
「ありがとう」
縁側に移動してお茶を出す。団子に合わせてほうじ茶にしてみた。ほうじ茶のいいところは苦みと渋みがないこと。まろやかな甘みもあって、私の作ったシンプルなお団子には最適だった。
湯呑みのほうじ茶に月を映り込ませてから一口飲み、その香ばしい香りに癒される。
「おー、ちゃんとした月見団子!」
伊織くんがそう言ったのは、まん丸には作っていないからだろう。まん丸にしてしまうと、亡くなった人の枕元に供える「枕団子」を連想させてしまうため、上から少し押して潰しておくのがいいらしいと知って、そうしてみたのだ。
やっぱり伊織くんは、そういう知識をちゃんと持っている人なんだ。
「一応、はちみつは用意してあるから甘さが足りなかったら言ってね」
「ん、うまい。ほのかに甘くて、すっげぇ好み」
「よかった」
私も、一つ口に入れる。
もっちり弾力のある食感、それでいて舌の上をつるりとすべり、とろけるような喉越しは大成功と言ってもいい。また一つ、また一つと食後であるにもかかわらず、二人であっという間に食べきってしまいそうだ。
「うちの婆ちゃんの団子もこんな感じでさ。ほのかに甘くて、懐かしい味がする」
月に負けないくらいの明るい笑顔で伊織くんは言った。
ああ、やっぱりこの笑顔だ。この笑顔が私は好きなんだ。改めて自覚してまた鼓動が速くなる。加速していく。
「あのさ……」
「な、なにっ?」
ドキドキしすぎて返事を噛んだ。恥ずかしくて思わず下を向くと、ほうじ茶にまあるい月が映り込んで揺らめいていた。
「ベタ、なんだけど……さ。月が」
「月が?」
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