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5.惑い
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しおりを挟むホテルを出た時には、お腹が一杯で晩ご飯は食べられないと思ったのに、家に着く頃にはお腹が空き始めていた。
最寄り駅に着き、スマホを見る。着信もメッセージもない。ショップのメールが二通、届いていただけ。
スーパーの前で立ち止まり、けれど、中には入らなかった。
カップ麺、あったっけ……。
明日の朝食べるパンやシリアルがあることはわかっていた。
私は真っ直ぐ家に帰った。
マンションのエレベーターを降りると、部屋の前に影が見えて、少し怖くなった。大きなごみ袋が置かれているような、影。薄明りの中で目を凝らすと、影が動いたのがわかった。
「お帰り」
影が言葉を発し、縦に大きく伸びた。
「何してるの?」
「お前を待ってたに決まてるだろ」
影――比呂が、手に持っている紙袋を少し持ち上げて見せた。
「冷麺、食おうぜ」
本物だ、と思った。
いつも、来ても私がいなかったら、電話かメッセージで知らせてくる。今日はそれがなかった。
だから、一瞬、会いたいと願う気持ちが見せた幻覚かと思った。
もちろん、そんなことは教えてやらないけど。
「食べて来なかったの?」と聞きながら、私は鍵を開けた。
「奥さんと」
「お前が奥さんなら、一緒に食ったろうな」
耳元で囁かれ、ドキッとした。
けれど、私はその言葉を無視した。
「キムチ、あったっけ……」
「一緒に入ってる」
袋を受け取って中を見ると、箱に入った冷麺の他に、小さな保冷バッグも入っていた。中にはキムチときゅうり。
「この鍋でいいか?」
比呂がシンク下の引き出しを開け、両手鍋を取り出す。
「比呂?」
「俺だって、麺を茹でるくらいできる」
私の部屋に来るようになって、比呂がキッチンに立つのは初めて。私が立ち入らせないようにしていたせいもあるけれど。
昨夜の電話といい、久し振りに会った奥さんと何かあったのかもしれない。
だとしても、私からそれを聞くつもりはない。
私は食器棚からラーメン丼を二つ、カウンターの上に置いた。それから、きゅうりを切る。
比呂は箱から麺やタレを出している。
こんなの、なんだか――。
「夫婦みたい、だな?」
私が思うより先に、比呂が言葉にした。
同じことを考えたことが、無性に恥ずかしい。
「そ? 夫婦がどんなものか知らないから、わからない」
私は目も合わせず、切ったきゅうりを皿にのせた。
「お前の両親は?」
「さあ?」
「は?」
「ほら! お湯、噴いてる」
比呂が火を止め、私が用意したザルに麺を移す。冷水で洗って、タレと冷水を入れておいた丼に盛る。
キムチときゅうりをのせて、完成。と思ったら、冷麺のセットの中に、真空パックの焼き豚が六枚、入っていた。それものせる。
「いただきます」
一人寂しくカップ麺を食べるはずが、冷麺にありつけた。比呂も一緒に。
奥さんのところから、私の元へと帰って来てくれた。
嬉しかった。
会いたかった。
認めたくはないけれど。
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