お嬢様、お食べなさい

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第16話 ハヤシライス

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 向晴の舌は、魚を欲していた。
 
 向晴の最近の食事はと言えば、専ら肉だ。
 カツに、カツに、カツ。
 もちろん満足感を得てはいるのだが、一つ満足のハードルを越えれば、次のハードルを求めるのが人間である。
 
 向晴は庭に置かれたガーデンチェアに座りながら、頭の中に魚料理を思い浮かべる。
 そして、ガーデンテーブルの上に置かれたベルを手に取り、チリンと鳴らす。
 
「爺や」
 
「ここに」
 
 ベルが鳴るや否や、兆老はすぐさま駆けつけ、向晴の横に立った。
 向晴はベルの音の余韻に浸りながら、自身の髪をさらりと書き上げて、静かに口を開く。
 
「のび」
 
「お呼びでしょうか、お嬢様」
 
 が、向晴が全てを言い終える前に、ガーデンテーブルの下からのび田が現れた。
 
「っぎゃああああ!?」
 
 ガーデンテーブルの四脚はむき出しで、テーブルクロスなどかけてはいない。
 つまり、円い天板の下に誰かがいれば、気が付いて然るべきである。
 
 だからこそ、誰かが現れるには最も予想外の場所であり、案の定向晴は驚き、無様に悲鳴を上げた。
 椅子ごと後ろにひっくり返り、しりもちをついたまま震える人差し指でのび田を指す。
 
「ど、ど、ど、どこから!?」
 
「テーブルの下からです」
 
「それはわかります! いったい、テーブルの下のどこに隠れるスペースがあったのかと聞いているのです!」
 
「あはははは。面白いことをおっしゃいますね、お嬢様。この小説はコメディですよ? 絶対人が入れなさそうな場所から出て来るなんて、当然じゃないですか」
 
「私はもう、世界観が分からなくなってきたわ」
 
 のび田はテーブルの下から這い出てきた後、胸を張って向晴の前に立った。
 どこか自慢げに話すのび田を見た向晴は、諦めと悟りが混ざった溜息を零した後、ゆっくりと立ち上がった。
 
 そして気を取り直し、のび田を呼び出した当初の目的を伝えるために口を開く。
 
「まあ、どこにいたかはいいわ。貴方を呼び出したのは、次の食事の件です」
 
「ハヤシライスですね」
 
 のび田が、向晴の言葉の最後にかぶせるよう、早口でいる。
 まるで向晴に話の主導権を握らせまいとするのび田の瞳からは、生気が消えていた。
 
 向晴は不思議そうな表情を浮かべ、続きを言おうと口を開く。
 
「え? いえ、ハヤシライスではなく」
 
「ハヤシライスですね」
 
「私は今、とても魚介が食べたくて」
 
「ハヤシライスですね」
 
「キャビアも魚介と言えば魚介なのですが、もっとこう、大衆的な魚介が」
 
「ハヤシライスですね」
 
「クイズです。我が家の隣にあるマンションに住む、外国人留学生の名前は何と言うでしょう?」
 
「ハヤシ・ライスですね」
 
「そうです。正解は林ハヤシさんです。……落ち着きなさい!!」
 
 五銭瞳に力が宿らないのび田の両肩を掴み、向晴は焦ったように前後に揺らす。
 
「どうしたの? ハヤシライスの神様に精神でも乗っ取られたの!?」
 
「いえ、そんなことはありません。しいて言えば、作者にですかね」
 
「作者!?」
 
「なんか、『日本は島国だから、魚介料理は昔からありすぎて発祥がわからないものが多いし、発祥が分かっても高級路線に振っている店が多くて取材と言う名の外食に行くことがお財布事情的にできな』」
 
「わかった! わかったわ! とおってもハヤシライスが食べたくなってきましたわ! 食べたいわー、ハヤシライス!」
 
 ハヤシライス。
 牛肉と玉ねぎをデミグラスソースで煮込み、ライスの上にかける料理である。
 カレーライスがスパイスでライスを味付けしているのに対し、ハヤシライスはデミグラスソースで味付けしているのが大きな違いだ。
 具材についても、カレーライスは肉や野菜や魚介、さまざまなバリエーションにとんでいるが、ハヤシライスは牛肉と玉ねぎである場合が多い。
 世の中では、いつだってハヤシライス派かカレーライス派かの大激論が繰り返されており、たいていの場合は給食に出たハヤシライスを見た小学生の『カレーライスの方が良かった』の一言で終結している。
 
「それはちょうどよかったです、お嬢様! ぼくも丁度、ハヤシライス発祥のお店をご紹介したいと思っていたところです」
 
 いつの間にか、のび田の瞳は元に戻っていた。
 まるで何事もなかったかのようにのび田は向晴を先導し、三人は玄関へと移動した。
 
 
 
 自動車の中で、のび田はいつも通り今後の流れの説明を始める。
 
「さてお嬢様、これからぼくたちは日本橋へと向かいます」
 
「え? 大阪?」
 
「どうして東京生まれ東京育ち自宅引きこものお嬢様から、日本橋イコール大阪という発想が出てくるんですか」
 
「おいこら誰が引きこもりだ」
 
 日本橋。
 東京都中央区に存在する地名であり、読み方はニホンバシである。
 大阪府大阪市中央区・浪速区にも同様の漢字の地名はあり、こちらの読み方はニッポンバシである。
 
 東京都の日本橋は、五街道の起点として江戸時代の交通・物流の根として発展してきた。
 そんな背景から、東京都の中では歴史を持つ地域であり、重要文化財に指定されている建物も珍しくはない。
 歴史を持つということは、発祥の料理が誕生するための条件が整っているということでもある。
 
「ああー、高い建物ばかりで落ち着くわね」
 
 背もたれにゆったりと背を預けた向晴が、窓の外を見ながら呟く。
 新旧のビルが車道を挟んで向かい合わせに並ぶ日本橋と言う地域は、向晴にとって観光名所を眺めるような居心地を感じる場所だ。
 
 のび田は、そんな恍惚とした表情を浮かべる向晴を、苦々しい表情で見つめる。
 
「前々から思ってましたが」
 
「何?」
 
「お嬢様って、高層ビル好きのド変態ですよね」
 
「オブラートに包むって言葉を知ってるかしら!?」
 
「高い建物への執着がすごいというか。人生で初めて見ましたよ、何かにここまで固執する方」
 
「鏡見たことあるかしら!? 借金してまで食に固執するド変態さん!?」
 
 昼から多くの人が歩くざわざわとした日本橋の中を、がやがややかましい車内の自動車が突き進む。
 国道十五号線を北へと進み、近づいてきたのが今回の目的地だ。
 
「お嬢様、間もなく到着です」
 
 兆老の言葉で向晴が窓から外を覗き込む。
 向晴の瞳に映るのは、左右に並ぶ高いビルと、左手のビルに貼りついた大きな看板。
 
「マルゼン?」
 
「はい! 本日の目的地、丸善でございます!」
 
 看板は、ローマ字で『МARUZEN』。
 少し離れたところには、丸に囲まれた『М』の文字。
 
「……本屋さん、よね?」
 
「本屋さんです!」
 
 明治二十四年に設立された、出版社にして商社。
 『丸善 日本橋店』が街に調和し、三人を待っていた。
 
「本屋さんに、ハヤシライス?」
 
「本屋さんに、ハヤシライスです」
 
 脳内をクエスチョンマークで埋め尽くしたまま、向晴は日本橋の地に降り立った。
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