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第1話 婚約破棄、薔薇の庭で
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王宮の薔薇園は、今宵も香り高く咲き誇っていた。白、紅、淡桃。それぞれの花弁が夜露をまとい、月明かりを受けて小さく光を放つ。
その庭の中心、噴水のほとりで、伯爵令嬢アメリア・ローデンは一人立っていた。今宵は王太子主催の夜会――それは、かねてから婚約していた第二王子エドワード殿下との正式な結婚発表のはずだった。けれど、その美しい場に満ちていたのは祝福ではなく、冷たいざわめきだった。
「――アメリア・ローデン令嬢」
エドワードの声が、夜風を割った。低く、聞き慣れた声。それでも今日は何故か響きが違う。胸を締めつける予感が、音となって鼓動を追い越す。
アメリアは微笑んだ。貴族の娘として幼い頃から教えられてきた礼儀の微笑。だがその奥には、僅かな不安が滲む。
「はい、殿下。どうなさいましたか?」
人々の視線が集まる。楽師の奏でる音が途切れ、薄い沈黙が降りた。
エドワードはひと呼吸置いたのち、冷たく言い放った。
「本日をもって、君との婚約を破棄する。」
言葉が耳に届いた瞬間、アメリアは思考を止めた。まるで世界が一瞬、音を失ったようだった。
だがすぐに、社交界の女たちの抑えた笑いと、男たちのわずかな同情の息遣いが戻ってくる。薔薇園を包む気配が変わり、冷たさが肌を撫でた。
「……殿下、それは――どういう、意味でしょうか」
唇が僅かに震えた。だが、彼女は泣かない。ローデン伯爵家の娘として、人前で取り乱す愚行を犯すつもりはない。
「君は王族に相応しくない。最近、侍女や他の貴族から、数々の悪評が届いている。嫉妬深く、陰湿で、他の令嬢を虐げたと。」
淡々と告げられる糾弾。アメリアの背中に視線が突き刺さる。信じられない言葉――いや、信じたくない言葉ばかりだった。
周囲の人々が小声で囁き合う。「噂は本当だったのか」「あの完璧な令嬢が……?」そんな波紋の中に、ひとり浮かぶように彼女は立っていた。
「殿下、そのような事実はございません。私はただ、――皆さまに誤解を与える行動をしたのかもしれませんが」
「言い訳は結構だ。」
冷たく遮られ、胸の奥に小さな音を立てて何かが崩れ落ちる。
エドワードの隣には、見覚えのある顔があった。淡い金髪に、可憐な微笑を浮かべる令嬢。侯爵家の娘リリアナ。彼女がすぐに涙を浮かべて、言った。
「アメリア様……わたくし、本当は信じたくなかったのです。でも……私の侍女が、あなたに脅されたと――」
「脅した? 私が……?」
声が裏返る。思わず笑ってしまいそうだった。そんなこと、存在しない。けれど、リリアナの演技めいた涙が人々の同情を買ってしまう。
エドワードは優しくリリアナの肩に手を置いた。
「もういい、リリアナ。君は十分耐えた。」
優しい声音。アメリアが何よりも欲しかった瞬間。しかし、そのぬくもりは今、別の誰かに向けられている。
「アメリア・ローデン。卿とは籍を入れるわけにはいかない。これ以上、王族の名を汚すな。」
アメリアは唇を噛みしめた。血の味が広がる。それでも気づかれぬように笑みを作る。深々と礼をし、ただ一言だけを返した。
「……承知いたしました、殿下。」
その声は静かで、絹を裂くように柔らかかった。
沈黙。誰もが、彼女の頬を濡らす涙を待っていた。けれど、彼女は泣かなかった。
背筋を伸ばし、白いドレスの裾を翻し、その場を去った。
薔薇の花弁が小さく舞う。その中で、アメリアの瞳だけが凍えるような光を宿していた。
その夜、ローデン伯爵邸は静まり返っていた。両親も侍女も、言葉を選びすぎて何も言えなかった。
アメリアは自室に戻ると、鏡の前に立ち、自分をじっと見つめた。
そこに映るのは、化粧の崩れていない完璧な笑顔。その仮面を見て、ふと笑みが零れた。
「……馬鹿みたい。」
呟き一つ。やがて彼女はゆっくりと髪飾りを外した。カラン、という音が響く。薔薇を模した紅い宝石。婚約の証だった。
机の上に置かれた便箋には、すでに破棄の証文が届いている。あまりに素早い手配に、笑うほかなかった。
――あの人は、最初から用意していたのだ。
怒りも悲しみも通り越して、空っぽな感情だけが残る。
窓の外では、王都の灯が瞬く。遠くの塔に、王家の紋章が淡く光って見えた。
かつての恋人が眠る城を見上げ、アメリアはそっと囁く。
「これが、終わり……? そう言うには、少し早いかもしれませんね。」
涙はもう出なかった。心が冷えてしまえば、悲しみは凍る。そして、凍ったものは崩れていくしかないのだ。
アメリアの手は、机の上にあった一つの封筒を取った。父の印章が押されたそれには、「領地へ一時帰還せよ」とのみ記されている。
――逃げよ、という意味なのだろう。
退いた方がいい。けれど、このまま沈むのは癪だ。
薄く笑う。感情というより、挑むような微笑だった。
翌日、王都はざわめいていた。社交界の誰もが「完璧令嬢の失脚」を面白い話題にした。
アメリアは馬車の中から、その視線たちを正面から受け止めた。笑う人々の中で、ただ一人、彼女だけが冷静だった。
ガラス窓に映る自分の瞳が、氷のように静かだと思った。
「必ず……わかります。誰が裏切り、誰が糸を引いていたのか。」
彼女の唇が、かすかな決意の形を描く。
馬車が王都の大通りを抜けたとき、一人の青年が石畳の影からこちらを見ていた。漆黒の髪と、夜空を閉じ込めたような青い瞳。
王太子、レオンハルト・アークロイド。
アメリアは気づかないまま、すれ違う。だが、青年は低く呟いた。
「ローデン伯爵令嬢――君の名を、覚えておこう。」
真冬の風が吹いた。薔薇の香りの残る夜気の中で、運命の糸は静かに結ばれ始めていた。
(第1話 終)
その庭の中心、噴水のほとりで、伯爵令嬢アメリア・ローデンは一人立っていた。今宵は王太子主催の夜会――それは、かねてから婚約していた第二王子エドワード殿下との正式な結婚発表のはずだった。けれど、その美しい場に満ちていたのは祝福ではなく、冷たいざわめきだった。
「――アメリア・ローデン令嬢」
エドワードの声が、夜風を割った。低く、聞き慣れた声。それでも今日は何故か響きが違う。胸を締めつける予感が、音となって鼓動を追い越す。
アメリアは微笑んだ。貴族の娘として幼い頃から教えられてきた礼儀の微笑。だがその奥には、僅かな不安が滲む。
「はい、殿下。どうなさいましたか?」
人々の視線が集まる。楽師の奏でる音が途切れ、薄い沈黙が降りた。
エドワードはひと呼吸置いたのち、冷たく言い放った。
「本日をもって、君との婚約を破棄する。」
言葉が耳に届いた瞬間、アメリアは思考を止めた。まるで世界が一瞬、音を失ったようだった。
だがすぐに、社交界の女たちの抑えた笑いと、男たちのわずかな同情の息遣いが戻ってくる。薔薇園を包む気配が変わり、冷たさが肌を撫でた。
「……殿下、それは――どういう、意味でしょうか」
唇が僅かに震えた。だが、彼女は泣かない。ローデン伯爵家の娘として、人前で取り乱す愚行を犯すつもりはない。
「君は王族に相応しくない。最近、侍女や他の貴族から、数々の悪評が届いている。嫉妬深く、陰湿で、他の令嬢を虐げたと。」
淡々と告げられる糾弾。アメリアの背中に視線が突き刺さる。信じられない言葉――いや、信じたくない言葉ばかりだった。
周囲の人々が小声で囁き合う。「噂は本当だったのか」「あの完璧な令嬢が……?」そんな波紋の中に、ひとり浮かぶように彼女は立っていた。
「殿下、そのような事実はございません。私はただ、――皆さまに誤解を与える行動をしたのかもしれませんが」
「言い訳は結構だ。」
冷たく遮られ、胸の奥に小さな音を立てて何かが崩れ落ちる。
エドワードの隣には、見覚えのある顔があった。淡い金髪に、可憐な微笑を浮かべる令嬢。侯爵家の娘リリアナ。彼女がすぐに涙を浮かべて、言った。
「アメリア様……わたくし、本当は信じたくなかったのです。でも……私の侍女が、あなたに脅されたと――」
「脅した? 私が……?」
声が裏返る。思わず笑ってしまいそうだった。そんなこと、存在しない。けれど、リリアナの演技めいた涙が人々の同情を買ってしまう。
エドワードは優しくリリアナの肩に手を置いた。
「もういい、リリアナ。君は十分耐えた。」
優しい声音。アメリアが何よりも欲しかった瞬間。しかし、そのぬくもりは今、別の誰かに向けられている。
「アメリア・ローデン。卿とは籍を入れるわけにはいかない。これ以上、王族の名を汚すな。」
アメリアは唇を噛みしめた。血の味が広がる。それでも気づかれぬように笑みを作る。深々と礼をし、ただ一言だけを返した。
「……承知いたしました、殿下。」
その声は静かで、絹を裂くように柔らかかった。
沈黙。誰もが、彼女の頬を濡らす涙を待っていた。けれど、彼女は泣かなかった。
背筋を伸ばし、白いドレスの裾を翻し、その場を去った。
薔薇の花弁が小さく舞う。その中で、アメリアの瞳だけが凍えるような光を宿していた。
その夜、ローデン伯爵邸は静まり返っていた。両親も侍女も、言葉を選びすぎて何も言えなかった。
アメリアは自室に戻ると、鏡の前に立ち、自分をじっと見つめた。
そこに映るのは、化粧の崩れていない完璧な笑顔。その仮面を見て、ふと笑みが零れた。
「……馬鹿みたい。」
呟き一つ。やがて彼女はゆっくりと髪飾りを外した。カラン、という音が響く。薔薇を模した紅い宝石。婚約の証だった。
机の上に置かれた便箋には、すでに破棄の証文が届いている。あまりに素早い手配に、笑うほかなかった。
――あの人は、最初から用意していたのだ。
怒りも悲しみも通り越して、空っぽな感情だけが残る。
窓の外では、王都の灯が瞬く。遠くの塔に、王家の紋章が淡く光って見えた。
かつての恋人が眠る城を見上げ、アメリアはそっと囁く。
「これが、終わり……? そう言うには、少し早いかもしれませんね。」
涙はもう出なかった。心が冷えてしまえば、悲しみは凍る。そして、凍ったものは崩れていくしかないのだ。
アメリアの手は、机の上にあった一つの封筒を取った。父の印章が押されたそれには、「領地へ一時帰還せよ」とのみ記されている。
――逃げよ、という意味なのだろう。
退いた方がいい。けれど、このまま沈むのは癪だ。
薄く笑う。感情というより、挑むような微笑だった。
翌日、王都はざわめいていた。社交界の誰もが「完璧令嬢の失脚」を面白い話題にした。
アメリアは馬車の中から、その視線たちを正面から受け止めた。笑う人々の中で、ただ一人、彼女だけが冷静だった。
ガラス窓に映る自分の瞳が、氷のように静かだと思った。
「必ず……わかります。誰が裏切り、誰が糸を引いていたのか。」
彼女の唇が、かすかな決意の形を描く。
馬車が王都の大通りを抜けたとき、一人の青年が石畳の影からこちらを見ていた。漆黒の髪と、夜空を閉じ込めたような青い瞳。
王太子、レオンハルト・アークロイド。
アメリアは気づかないまま、すれ違う。だが、青年は低く呟いた。
「ローデン伯爵令嬢――君の名を、覚えておこう。」
真冬の風が吹いた。薔薇の香りの残る夜気の中で、運命の糸は静かに結ばれ始めていた。
(第1話 終)
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