100回目のピーカブー

朋藤チルヲ

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「警察、呼びますよ」

 わたしはそう言って、自分の顔の横でスマホを振ってみせた。

 携帯電話という名称にたがわずしっかりと携帯しており、その気になったらいつでも駆使できる、ということを相手に見せつけるためだ。脅しではないぞ、と。

「怒った顔も可愛いですね」

 威嚇してやったつもりなのに、その相手は、隣でのほほんとした笑みを見せる。

 なんだとこのやろう! とでも逆上されたのなら、すぐさま緊急通報のボタンをタップできるというのに、そんな反応では気合いが削がれてしまう。

 自宅からほど近い、児童公園。平日の午前中は、遊ぶ子供たちの姿もなく、ひっそりとしている。

 最近では、遊具が事故に繋がる危険性があるとかで、そういったものを取り払ってしまっている公園が多い。例外ではないこの公園で遊ぶ子供は、曜日や時間帯に限らず、元々少ないのだ。

 遊具がない児童公園なんて、音響設備のない映画館みたいで、なんだかおかしな話のような気がするけど、それも時代なんだろう。

 わたしにとっては、新調されたばかりのベンチを占領して、誰にも邪魔されずゆっくりと読書を楽しめるので、好都合とも言えるけれど。

 そこに、どこからともなくフラリと見ず知らずの男が現れて、隣に座ったのは、五分ほど前のことだ。

 まだ若いその男は、事もあろうに、わたしに向かって「好きになってもらえませんか?」とのたまってきた。

「話が、通じませんね」

 わたしは眉間にシワを寄せつつ、右手に持ったスマホを下ろせないでいた。

 すぐにどうこうしようという気はないのだけども、元あったジーンズのお尻のポケットに収納してしまうことは、まだためらわれる。

「確かに、通じない。僕はあなたのことが好きになったから、あなたにも、僕のことを好きになってもらいたいだけなのに」

 セリフの内容は嘆くものだけど、反して、男の表情は穏やかな笑顔。

 新手のナンパなのだろうか。軽いナンパではなく真剣だって言うのなら、それはそれで恐怖だ。

 だって、出会ってものの数秒で、人を好きになるなんてあり得ない。

 一目惚れ、というものは、確かにあると思う。でも、ほんの一瞬で、素敵! 可愛い! と心を奪われたあとには、心を奪っていった相手の情報を得ようと観察する、ある程度の時間が必要になるものだと、わたしは考えるのだ。

 外見がどストライクだったからって、中身まで自分の理想とピッタリ合致するとは、限らない。パッと見ただけではわからない、想いを貫くためには障害となる事柄が、相手の生活に隠されているかもしれない。

 そうして観察してみて、外見も中身も理想通りだとか、障害がないとか、あったとしても、それは乗り越えられる範囲だと感じた時に、初めて次の行動に移すものだと思う。

 そういう段階を一切踏まずに、衝動だけで相手を手に入れたいと、入れようとする行動は、短絡的だし、ちょっと狂気じみている。

「小説ですか。どんな話なんです?」

 男が、わたしの膝の上に開かれたままの文庫本を見て言った。

 一時いっとき、素直に答えるべきかどうか、逡巡する。

 男の服装は、襟と袖口が白く縁取られた黒地のシャツに、ストレートのデニムパンツ。髪はあまり長くなくて、自然な栗色。一見した限りでは、爽やかな好青年といった雰囲気。

 歳は、自分とさほど変わらないように見える。ということは、社会人だろうか。私服ということは、今日は仕事が休みなのだろうか。

 男のスケジュールなんて、どうでもいい。要は、外から見ただけの印象では、男は常識人に見える、ということが言いたいのである。

「……春が、二階から降ってくる、という話です」

 引き続き会話が成り立たないのではないか、そんな不安が解消されないままに、わたしは冒頭の一節を答えていた。

 答えを良いように解釈され、強引に交際を承諾させられてしまうのでは、なんて恐れまで抱えつつも、とりあえずは男の印象に賭けてみた。

 男は、くしゃりと顔をゆがめて微笑んだ。

「あぁ、知っています。小説は読んだことないのですが、映画化されたのを観ましたよ。残虐な犯行のシーンに優美なBGMが妙にはまっていて、やむを得ず殺人を犯す主人公の悲しみが、より際立っていて感動しました」

 わたしは言葉を失った。

 その映画は、昔わたしも観た。そして、まったく同じ場面で、男が言うまんまの感動を、わたしも感じて涙していたから。

「あれ? 違いました?」

 目をしばたたいてみせながらも、男の表情から笑顔は消えない。自分の発言が間違っていないことを、知っている顔だ。

「いえ……合っています」

 全国ロードショーだった映画だ。男が知っていたって、不思議ではない。感動のポイントも、たまたま同じだったのだろう。

 危ない。強引に、という手法ではないけど、余裕のある素振りは、自分に有利な展開に導いていくための、男の手なのかもしれない。

 騙されてはいけない。とにかく、手は下ろしても、スマホはしまわないでおこう。

「読書は素敵ですが、こんな時期に外でなんて、熱中症になりませんか?」

 そこで、男は初めて表情を変えて、眉根を寄せた。

 わたしは顎を上げた。ベンチの後ろに植わった大きな楠の木からは、太い枝がいつくも分かれ、そのすべてに艶のある緑の葉がたくさん繁っていた。それが重いのか、自分のところへ、しだれ桜のように覆いかぶさってきている。

「……陽が当たるところでなら、その危険性がありますけど。ここでなら、長い時間いるわけじゃないなら、平気です。今年は、わりと涼しいですし」

 気がつくと、隣の男も同じようにして、宙を見上げていた。

「なるほど。確かに、今年は冷夏だと言われていますしね」

「去年は、暑かったんですよね?」

「猛暑、を超えて酷暑だと言われていましたね。……忘れちゃいました?」

「……いえ。覚えています。ただ、本当にそれが去年のことなのか、曖昧で」

 目覚めた時、頭の中がなんだか不明瞭だ、と感じたのは、今朝のことだ。

 やたらとボーッとして、起きて顔を洗っても、食事をしても、動作の一つ一つがまるで真綿を掴むもののように感じられた。

 眠い、とは違う。言うなれば、自分の周りにだけ淡く白いごく薄い膜が覆っていて、自分はその内側からすべての景色を見て、物に触れているような。

 見えているものにも、触っているものにも、自分の動きにも、間違っていないという強い自信がない、とでも言ったらいいだろうか。

 自分の歯ブラシはピンク色で、マグカップは飲み物を入れて使うものだ、なんてことは、ちゃんと理解できているはずなのに。

 記憶についても、同じことが言えた。輪郭がボンヤリとしている。去年のことはおろか、つい昨日のことですら、鮮明ではない。

 だけど、好きだった小説、お気に入りの場所、かつて自分の肌を焼くようだった強い陽射し。そういったものは、ちゃんと覚えている。

 この違和感は、もしかして何か大きな病気の兆候なんじゃないかと不安になって、母親に相談した。

 母親の口から出たのは、思いがけない事実で、どうやら、わたしは交通事故に遭ったことがあるらしい。その時に、強く頭を打ったことが原因で、今でもたびたび記憶が混濁してしまうのだ、と。

 そのために、わたしは働きに出ることができず、もっぱら本を読んで一日を過ごしている。

 そう言われれば、確かに、わたしはもうずっと、そんな生活を続けている気がしないでもない。

 いつから、だっただろうか。

「少し、僕のこと、好きになってきました?」

 驚くほど目の前で、男の目尻が、人懐こそうに下に向かって垂れた。

「冗談でしょう」

 慌てて顔を背けながら、鼻息を荒くしてそう吐き出したのは、真正面に男の顔を見つめながら、物思いにふけってしまったことが恥ずかしかったから。

 いったいいつのまに、わたしはこの男と向かい合っていたのか。

 しかし、この男のしつこさと楽天家ぶりには参ってしまう。こちらが嫌だ嫌だを繰り返したところで、諦めて退くなんてことはないように思われる。

 通りかかりのたった一瞬で、わたしの何が、そこまで気に入ったっていうんだろう。

 わたしは、ふといい作戦を思いついた。

 本を閉じ、その上にスマホを乗せ、身体ごと男のほうを向く。

「……わかりました」

「お? 僕を好きになってもらえそうです?」

「百回、わたしを笑わせてください」

「え?」

 男はポカンと口を開けた。予想通りの反応。想像もしていなかった展開に違いない。

「今日から、一日一回、わたしを笑わせてください。そうして百回笑わせてくれた時、あなたとのこと、真剣に考えたいと思います」

 思いつきにしては、なかなかいい案だと、我ながら感心した。

 人を笑わせる、ということは簡単ではない。しかも、相手は自分に不信感をたっぷり抱いている、わたしだ。そうそう笑ってやらない自信がある。

 そして、百回という回数は相当に多い。不発の日を含めたら、けっこうな月日がかかることが予想できる。

 それだけの労力と時間をわたしのために費やしてくれる、というのなら、宣言通り、こちらもその気持ちを汲んでやってもいいと思う。それだけの努力を見せつけられたら、本当に少しは心が動かされる可能性は、大いにある。

 見た目は好青年なのだし、わたしはイケメンが嫌いというわけではないのだ。

 でも、どうせからかい半分で声をかけてきたに決まっているのだから、おそらく、男は舌打ちの一つでもして去っていくに違いない。

 わたしの勝ちだ。

「どうします? やりますか? バカらしいと去るなら、今ですよ。百回なんて、今日から始めたら、ヘタしたら桜が咲く頃までかかっちゃいますよねぇ」

 ダメ押しのつもりだった。

 だけど、男は口角を上げて、微笑んだ。

 驚いた。

 そして、その笑顔は、泣き顔と紙一重に見えて、本当に今すぐにでも涙をこぼして、頬を濡らしてしまいそうで。

 わたしは、とても不思議に感じるとともに、どういうわけか、ひどく胸が詰まった。


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