100回目のピーカブー

朋藤チルヲ

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「記憶……障害?」




 初めて耳にする言葉ではあったが、なんとなく、その意味することは理解できた。

 彼女の母親は、目に涙をいっぱい溜めて、こちらを見ていた。

 そこは、飲み物の自動販売機がいくつか並んでいるだけで、食堂と呼ぶには名ばかりの四角い部屋。全面ガラス張りの窓から、やたら明るい陽射しが射し込んでいる。老若男女が、パジャマ姿のままくつろいでいた。

征嗣せいじくん、だから、もういいの。あなたはまだ若いんだし、これからいろんな人と出会って、その中にはきっといい人がいると思う」

 そのセリフが何を意味しているのかも、わかった。

 なぜ自分はこんなにも冷静なのだろう、とボンヤリ思う。何が何だかわからないほどに、気が狂ってしまえたのなら、いっそそのほうが楽だ。

「誤解しないで欲しい。わたしたち家族は、あなたを恨んでいないの。事故が、あなたのせいだなんて思っていない。あなただって代償は払ったのだし、とにかく、ゆきは目覚めたのだから」

 あの日。

 バランスを崩したバイクは、車道に倒れ、二人は投げ出された。幸い、対向車線にはみ出すことはなく、後続車もなかった。

 僕は、滑ってきた車体と縁石との間に足を挟まれたけど、足首を骨折しただけで済んだ。

 一緒に乗っていた彼女は、遠くに飛ばされたが、外傷はさほどではなかった。ただ、頭を強く打った。すぐに病院に運ばれたけど、目覚めることはなく、一週間、生死の境をさまよった。

 事故から一週間後、彼女は奇跡的に目覚めた。

 目覚めた彼女に、運動機能や言語障害などの後遺症は残らなかった。だけど、記憶を失くしていた。

「幸は……征嗣くん、あなたと出会った頃からの、数年間の記憶を失ってしまったの。それだけじゃない。記憶障害で、朝目覚めるごとに、記憶がリセットされてしまうのよ。そんな幸のそばにいることは、あなたが辛い」

 彼女の母親は、そう言って、泣けない僕の代わりに涙をこぼした。

 いつもほがらかで、自宅にお邪魔すると、牛乳を温めてカフェオレを作ってくれた。懐かしい味がして、とても好きだった。

 涙を目にしたのは初めてで、誰がいちばん辛いのかなんてことは、深く考えなくても、明らかだ。

 僕は、その時、すでに仕事を辞めていた。事故で免許証は停止処分を食らっていたし、そもそも機動隊員が足を骨折していたら、仕事にならない。

 内勤に異動願いを提出することは、おそらくできた。でも、自分の過失で恋人を意識不明にした警察官が、同僚たちからどんな目で見られるかを考えたら、とてもではないが、勤め続けられる気がしなかった。

 僕には、文字通り、何もなかった。

 まだぎこちないしぐさで松葉杖をつき、一歩踏み出すと、僕は言った。

「……忘れたなら、また始めればいいだけです。最初から、始めたい。だって、幸はここにいるんです。死んでしまったのなら、諦めもつくけど、生きてここにいるんです。好きな小説や、映画の話をしながら、何度でも、何度でも、始めます。だめですか?」

 それを聞いた彼女の母親は、さらに泣いた。

 諦められるわけがない。

 何度でも、何度でも、始めよう。いつか、君が、また僕を好きになってくれるまで。




 あれから、三ヶ月以上の時が過ぎた。松葉杖も、もうとうに外れた。

 幸。君は知らないだろう。

 僕がこうして君に声をかけるのは、実はもう九十九回目だ。最初、片足を包帯でグルグル巻きにした僕に、君はずいぶん訝しむ顔をしていたね。

 だけど、幸。君は、どんな状態になっても、変わらない。

 本当の二人の出会いの時、君は言ったね。わたしを笑わせてくれる人が好きって。あの瞬間から、僕は嘘みたいにポジティブな人間になったんだ。

 だって、それまでみたいにすぐにクヨクヨする人間だったら、いつだって君を笑わせることができないからね。

 巻き戻しの日々を過ごすようになった君が、僕に向かって、百回笑わせてみてってお願いしてきた時には、思わず泣き出しそうになってしまった。

 幸。君は、やっぱりいつも通りだ。僕の好きな、幸のままだ。

 その日から、君は毎日、僕に挑戦状を叩きつけてくる。そして、毎回、僕に負けていることも、君は知らない。

 百回目の今日。記念すべき回数の日と言えるけど、もし何の奇跡も起きなかったとしても、それでいい。僕は落ち込まない。

 だって、そうだろう?

 幸。君が生きて、元気な姿でこの世界にいてくれることが、もう奇跡なんだから。

 だから、明日もまた、僕は君に会いにいく。君を笑わせるために。僕の好きな、その笑顔を見るために。




 僕はお腹にぐっと力を込めて、せり出しそうな涙をこらえ、両手を顔にかぶせた。そして、開く。

「――――いない、いない、ばあ~!!」




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