雨はやさしく嘘をつく 第二部

黒崎優依音

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第五章 抱く者と切る者

The One Who Cuts

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sideユリカ 



朝の光が、静まり返った聖堂をやさしく包み込んでいた。

崩れた天井はまだ修復途中で、そこから差し込む陽が、

灰の中にきらきらと金色の粒を落としている。



ユリカは、ルアルクと並んで歩いていた。

二人の間には、祈りの沈黙だけがある。



「……ここ、昔は二人でよく来たよね」



ルアルクが、少し後ろからその背を見つめた。

「毎日、ここに通ってくれていたんだね」

「ええ。

 祈るしか、できなかったから」



ユリカが笑う。

けれどその笑みの奥に、長い季節を越えた静かな強さがあった。



「……声が聞こえたよ。何度も。

 呼びかける声。

 僕はその声を頼りに、帰ってこられた。

 シェイさんと研究した精神汚染対策を実行しながら、止められた時の中で何度も意識が途切れそうになるたび、引き戻してくれたのはユリカの声だったんだ」



ユリカは目を伏せたまま、小さく頷いた。

「あなたが帰ってきてくれて、嬉しかった。

 でもね、それ以上に嬉しいのは……

 あなたのおかげでみんなが笑顔になったこと」



「そう、かな」



「あなたの帰還が希望になったの。

 リリと、リシェリア。

 あの子も、今祈りながら戦っていると思うの。

 離れていても、私はそれを祈りで支えたい」



ルアルクの藍の瞳がやわらかく光る。

「きっと、届いてるよ。

 君の祈りも、あの子の祈りも、全部」



ユリカは手を胸にあて、目を閉じた。

二人の間に、静かな鐘の音が響く。

風が吹き抜け、花びらがふわりと舞った。



その光景の中で、

ユリカが小さく笑って呟く。



「……こうして並んで祈るの、久しぶりね」

「そうだね」

ルアルクは少しだけ間を置いて、続けた。

「でも、きっと一度も離れてはいなかったんだと思う」



ユリカはその言葉に目を開け、

かすかに笑みを浮かべた。

「……リシェリア、見てるかしら。

 あなたのお父様、やっぱり詩人ね」



「詩人じゃないよ。ただの聖職者だ」

ルアルクが少し照れくさそうに言うと、

二人の間に小さな笑いが生まれた。



その笑いが、

崩れた聖堂の壁に反響して、

まるで懐かしい祈りの音のように溶けていった。





sideルアルク



祭壇の前、光の届かぬ場所に――まだ灰色のままの人影があった。

リリとリシェリア。



ルアルクは一歩近づき、

祈りの形をしたまま止まっているその姿に、静かに語りかけた。



「……ごめんね。

 長い間、こんな形で閉じ込めてしまって」



掌を胸の前で重ね、ゆっくりと息を吐く。

純白の魔力がわずかに灯り、彼の周囲の空気が澄んでいく。



「でも、もう大丈夫。

 闇は、必ず祓う。

 君たちを、ちゃんと“生きた時間”に連れ戻すから――」



ユリカが隣でそっと目を閉じ、同じ言葉を胸の中で繰り返す。

「……待っていてね」



二人の声は重なり、

白い光が闇の輪郭をやわらかく照らした。



しばらくして、ルアルクはユリカの方を見た。

その瞳には、静かな確信が宿っていた。



「今度こそ、止めない。

 僕の手で、この“終わらない夜”を終わらせる」



ユリカは微笑み、ただ頷いた。

「ええ。……一緒に、ね」



風が祭壇の花を揺らし、

小さな白い花弁が舞い上がる。



それは、

再び動き出した祈りの時間の証のようだった。









丘の上は、秋の香りを含んだやわらかな風に包まれていた。

遠くで虫の声がして、色付いた木々の葉がさらりと鳴る。



ユリカが先に膝をつき、白い花を墓前にそっと供えた。

「……おじいちゃん、聞いて。帰ってきてくれたの」



ルアルクはその隣で手を合わせ、静かに目を閉じる。

「……アルセイドさん。

 長くお待たせしました。

 でも、ようやくここへ戻ってこられました」



風が白い花を揺らし、ユリカの髪をそっと撫でていく。

手首に結ばれたリボンもひらりと翻り、陽を受けて淡く光った。



「あなたの孫は、今日も強く優しく生きています。

 そして――あなたのひ孫たちも。

 この国は、まだ光を失ってはいません」



ユリカが小さく頷き、空を仰ぐ。

「きっと、見ていてくれますね」



ルアルクも穏やかに笑みを返し、墓碑に指を置く。

「……ありがとう。

 あなたの言葉が、今も僕たちを導いてくれています」



風がふたたびやわらかく吹き抜け、

白い花弁が舞い上がる。



それはまるで、

“彼が祝福の言葉を返した”ように――静かに光の中へ溶けていった。





sideセレスタン



秋の名残が薄れて、朝だけ冬の気配が混ざる頃——。

朝の空気は澄んでいて、吐く息が白かった。

庭の草には露が光り、空はもう冬の気配を含んでいる。



マントを整えながら、セレスは小さく息をついた。

「……最近、冷えるようになりましたね」



隣で剣帯を締めていたミスティアスが、

ちらりと彼女を見やって微笑む。

「そうだな。……“寒い”って言うの、セレスらしくないような気もするけどな」



「え?」

「いつもは、我慢して“平気です”って言うくせに」



セレスは少しだけ目を伏せた。

「……我慢しても、寒いものは寒いです」



「……なら、よかった」

「なにが?」

「ちゃんと、寒いって言えるようになったから」



ミスティアスはそう言って、

マントの留め具を直してやりながら、軽く笑った。



少し間があって、

「……今日は、交換しなくてもいいのか?」

と彼が口にしたとき、セレスは一瞬、息を飲んだ。



「……今は平気です。それは戦闘後に、ね」



その言葉は、いつかと違って照れではなく、少しだけ温かい空気を残していた。



sideミスティアス



霧が深い。

西方の森は昼でも薄暗く、木々の合間を黒い瘴気が這っていた。

瘴気の黒は、夜よりも彼の魔力よりも濃い闇色。

――風が止み、鳥の声も消えた。

森そのものが息を潜めているようだった。



前方を歩くセレスの背が、淡く光る。

ストロベリーブロンドの髪が冷気を反射し、ところどころ赤みを帯びている。

魔力の温度が上がっている証拠だ。



「温度、上げすぎですよ」



『おいミス、こりゃ空気が違ぇぞ。

 瘴気が生きてやがる。呼吸浅くしろ』



「……この瘴気、思っていたよりも濃いんです。凍らせなければ広がる」



「だからって無理に張り合わなくていい。ここは――」

剣を振るい、近くに沸いた一体を切れ伏せる。

聖剣の聖力で切り付けられた瘴気はあっさりと霧散して消える。

『ったく、相変わらず真面目くんだな~。女の子の前で張り切って倒れるパターンだぞ?』

「うるさい、黙ってろナーバ」

『はいはい、集中しな。俺まで焦げたくねぇし』



彼女の掌から、赤と青が混じり合うような光が放たれる。

空気が震え、木の根に絡みついた黒が音を立てて砕けた。



息を吐く音。

その瞬間に、彼女の肩が震えるようにかすかに揺れた。



「セレス」

呼びかけると、彼女は短く頷いた。

「……平気です。ただ、少しだけ……冷えただけ」



「温度が逆流してる。手、貸して」

ミスティアスは右手を伸ばし、自分の魔力を流し込む。



『おお、うまくなったじゃねぇかミスティアス。

 手馴れてるぜ。ん? おやおや~?』



「……黙れって言ってるだろ」



『はいはい。もうツッコまねぇよ。今んとこはな。』



赤が戻り、彼女の頬にわずかに血色が差す。



「……助かります」

「今の十倍くらいまでなら余裕で渡せる。

 俺は倒れないから遠慮なく言え」

「頼もしいですね」





ほんの一瞬、戦場の緊張が和らいだ。

けれど次の瞬間、低い唸り声が森の奥から響く。



黒い霧の中から、影がいくつも現れた。

獣の形をしてはいるが、どれも崩れかけている。

生きているというより、魔に動かされている存在だった。



セレスがすぐに前へ出る。

「右をお願いします」

「了解」



息を合わせ、攻撃の流れは滑らかだった。

冷気が敵の動きを止め、黒衣の刃がその隙を裂く。

光と闇、熱と冷の交錯。



(息が合うな……)



そう思った瞬間だった。



『よし、その調子――って、待て、右後方っ!』



背後から吹き荒れた瘴気が一気に逆流し、セレスの髪がふっと浮いた。



「——セレス!」



振り向く間もなく、獣の腕が彼女の背に絡みつく。

長い髪が掴まれ、セレスの身体が勢いよく引き倒された。



『チッ……! 間に合わねぇっ!』



激しく落ち葉が舞い上がる様子が、やたらとゆっくり、一枚一枚の色まで見えるようだった。



時間が一瞬だけ止まったような錯覚。



青と赤の魔力が火花のように散り、彼女の目が、迷いなく細められる。



短剣が抜かれる音。



次の瞬間、ストロベリーブロンドの髪が宙を舞った。



赤でも青でもない、彼女だけの色。

長く保ってきた“彼女としての証”が、風に散った。

切り払われた髪が、赤い光を帯びながらゆっくりと落ちていく。

その光景は、血ではないのに、どうしようもなく痛かった。



『おいミス……息してんのか? 落ち着け、今は――』

『……っ、いや、聞いてねぇな。まったく……』



「セレス……!」

駆け寄りながら、喉の奥が焼ける。

掴まれていた首筋には赤い痕が残り、呼吸が荒い。

叩きつけられた背中側は、布が大きく裂け、じわりと赤く染まっていく。

彼女の掌からこぼれる冷気が、地面の苔を白く凍らせていた。



彼女を傷つけた魔物を一閃に伏す。

油断さえしていなければ、倒すのに手間取る相手ではなかった。



「……大丈夫です」

話す唇が震えている。

その声に、痛みよりも“安堵”の響きがあった。

彼女の口角が笑みを形作るように上がる。



『あー……その声、やばいな。

 気ぃ抜いたら落ちるやつだぞ』



「バカを言うな」

ミスティアスはその肩を支える。

指先に触れた体温が、ひどく冷たかった。



「……俺が、気づかなかった。

 回り込まれるなんて……こんな初歩的なこと」

「油断したのは私。

 あなたのせいじゃない」



『おい、今は自己分析してる場合じゃねぇ。動け。』



「違う。俺がもう少しだけ早く動けていれば――」



言葉の途中で、彼女が小さく首を振った。

切れた髪が、彼女の頬に貼りつく。

「髪なんて、また伸びます。

 ……生きていれば、ね」



笑顔を作って見せたその瞬間が、逆に胸を締めつけた。

生きている。確かに。

けれど、それを守れたのは彼女自身の判断で――

自分はただ見ていただけだ。



彼女の体が傾ぐ。

魔力を使いすぎたのだ。

指先がかすかに震え、光が消えかけている。



「……っ、やめてください。まだ……戦場です」

「戦場だからです」

ミスティアスは彼女を抱き寄せた。

片腕で背を支え、もう一方の手で彼女の頬に触れる。



その肌は氷のように冷たい。

彼女の目がわずかに見開かれた。

「……ミスティアス——」

「黙っていてください」



唇が触れた。

いつもより、長く。

たくさんの魔力を渡せるように。



(――ナーバが、何も言わない。)



剣身が、わずかに震える。

金属が共鳴するように、低い音をひとつだけ残した。



セレスの身体の奥に、黒と青と赤の光が溶け合うようにグラデーションになって流れ込んでいく。

彼の魔力はあまりにも濃く、清く、まっすぐだった。

温かさが、ゆっくりと彼女の肌を満たしていく。



けれどその温かさは、ミスティアス自身の胸を冷やしていく。



——これは、救いじゃない。

——償いだ。



彼女の指が、震えながら彼の胸を押す。

「……もう、十分です」

「まだだ、体温が戻っていない」

「大丈夫です。

 ……あなたの方が、冷たくなってる」



息が触れ合うほどの距離で、彼女の声が震えた。

ミスティアスは視線を逸らせない。

指先がわずかに動くたび、彼の中の魔力が増幅していく。



『……ミスティアス。やめとけ。

 優しさの使い方、間違ってるぞ』



「……ごめん」

それは彼女ではなく、自分自身に向けた言葉だった。

セレスがゆっくりと瞳を閉じ、彼の胸に額を預ける。



「あなた、優しすぎるんです」

「そんなことはない」

「……いいえ。あなたは優しすぎて……痛い」



その声が途切れた瞬間、彼女の体が静かに力を抜いた。

身体がゆっくりと重みを増していく。



ミスティアスは彼女を自分の外套で包むと、抱きしめたまま、動けなかった。

目の前の髪が、彼の胸の上で光を反射する。

短くなった髪の先が、陽に透けて、赤でも青でもない色に染まっていた。



——守るって、難しい。



彼はその髪をそっと撫で、静かに目を閉じた。

冷たさが、少しだけ、痛みに変わっていくのを感じながら。



「ごめん……」



もう一度口にした謝罪は、彼以外の誰の耳にも届かなかった。



『ほんっと不器用だな、お前ら。……でも、嫌いじゃねぇ』



静かに、その声が剣の奥に沈んでいった。









ナーバ家に戻る頃には、夕陽が沈みかけていた。

玄関で出迎えたフィリアが一瞬息を飲むと、スティリオを呼んでくる、と冷静に奥へと引き返した。

スティリオがすぐさま状況を察し、真剣な表情で彼女を観察する。



「……背中だな。すぐ治療室へ」

「お願いします」



彼女をベッドに降ろす手が、少し震えていた。



「……それから、ここで見たことは外では話さないでください。

 彼を守るために」



「医者です。守秘は職務です」



スティリオが処置を始める横で、彼はただ、床に膝をついてその背を見守った。



白布が血に染まるたびに、心のどこかが少しずつ欠けていく気がした。



処置を施した後、スティリオの銀色の魔力が彼女の身体を優しく包み込む。

傷が、痕もなく癒えていった。



「……あなたは平気なんですか?」

治療を終えたスティリオが、ふと問う。

「平気な顔、してませんよ」



彼は答えなかった。

答えようがなかった。



ただ、指先に残る髪の感触を思い出す。

赤でも、金でもない――

彼女だけの色。



(——俺が、守りそこねた。その結果だ)



背中の奥で、小さな痛みが、まだ燻っていた。





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