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第八章 やさしい嘘
The Quietest Night
しおりを挟むsideルアルク
静かな午後、家の中に淡い光が満ちていた。
シェイはユリカとルアルクを前に座る。
その表情は、いつもの穏やかさのまま。
(ああ、もしかして――)
ルアルクの胸に、重たくて冷たいものがじわりと広がる。
「――僕の身体、もう長くありません」
ユリカが息を呑む。
ルアルクの指が微かに震えた。
「……そんな、嘘でしょう」
「嘘ではありません。
でも、泣かないでください。
僕が一番怖いのは、あなたが泣くことだから」
ユリカの唇が震える。
涙が落ちそうになった瞬間、シェイはそっと彼女の手を取った。
「これ以上の人生は、望むべくもなかった。
もとより、人の六、七倍は生きているんです。
――この春を迎えられただけで、十分なんです」
沈黙の中、ルアルクが深く頭を下げた。
誰も言葉を選べず、ただ、春の光だけが静かに揺れていた。
◇
sideルアルク
昼下がりの陽が、ナーバ邸の中庭に静かに差し込んでいた。
草の香りと土の匂いが混ざるこの場所は、誰もがよく訪れる小さな休息の場だった。
机の上には、ルアルクとシェイの手による研究資料。
二人が時々じゃれるようにしながら議論を交わす。
その仕草が、今まで通りでもあり、残された時間を惜しむようでもあった。
向かいに座るスティリオが、茶をひと口すする。
エルは近くのベンチに腰を下ろし、イヤーカーフの赤い宝石をそっと指先で撫でていた。
「……これ、どうしても気になるんです」
「イヤーカーフが?」
「はい。とても懐かしい気がして……
触れていると、胸の奥があたたかくなるようで、でも、少し苦しい」
シェイが書類の手を止め、優しく微笑む。
「記憶の封印が反応しているのかもしれませんね。
無理をしないように――」
「大丈夫です。……たぶん、今なら制御できます」
金の瞳が淡く光を帯びる。
春の光に混じって、部屋の空気がわずかに震えた。
「エルさん、やめなさい」
ルアルクが静かに制止する声を出すが、彼女の指はすでに宝石の中心に触れていた。
瞬間、眩い金の光が弾けた。
音が消え、風の流れすら止まる。
「――お兄様……」
彼女の唇から、かすれた声が漏れた。
瞳が焦点を失い、身体が弓なりに反る。
「エルさん!」
ルアルクが立ち上がり、スティリオが駆け寄る。
だがその前に、シェイが一歩踏み出し、彼女の額に手を当てた。
「……深呼吸を。ゆっくり」
その声は驚くほど落ち着いていて、空気に混じる光の粒が少しずつ静まっていく。
「お兄様……だめ……そこは……」
「見なくていい。今はまだ、開かなくていい」
シェイの手のひらから、淡い黒の魔力が、微かに滲む。
金の光と溶け合い、やがてやわらかい煌めきに変わった。
彼女の体がふっと力を抜き、シェイの胸にもたれかかる。
「……眠っています。
発作というより……封印が一瞬、開いたんですね」
スティリオが彼女の脈を取り、安堵の息を漏らした。
ルアルクは言葉を失い、ただその光景を見つめていた。
シェイは、エルを抱き止めながら、ふっと横目でスティリオを見る。
互いに何も言わないけれど、目だけで通じるものがある。
「あなたは、知っているんですね」
「……はい。でも、言うことじゃない」
「……ええ、それでいいです。
あなたが黙っているから、この子は救われている」
シェイは腕の中の少女をそっと寝台に運び、小さく笑う。
「記憶は、いつか自分の手で取り戻せます。
その時に苦しまないよう、少しだけ道を整えておきました」
「……あなたは、自分の体を削ってまで……」
ルアルクの声が震えた。
「ええ。でも、こういうのは性分でして」
シェイは肩をすくめ、指先に残る金の光を見つめる。
「――まだ、救える人がいる。
それだけで、生きている意味は十分ですよ」
窓の外で、風が木々を揺らした。
春の光が、金と黒の魔力を透かしてきらめく。
シェイはもう一度スティリオを見つめ、優しい声音でバトンを渡した。
「あとは……頼みます」
「……ええ。必ず」
その光景を胸に刻みながら、ルアルクは静かに息を吐いた。
この人は、最期の瞬間まで“生きる”のだ――と。
sideミスティアス
庭の隅で、古くなった木箱を修理していた。
手のひらに残る木屑の感触が、心を落ち着かせる。
風はやわらかく、木々の影が足元で揺れていた。
「……手際がいいですね」
背後から聞こえた穏やかな声に、ミスティアスは振り返った。
シェイが、いつもの黒衣のまま、木箱の縁に腰を下ろす。
「見てたのかよ」
「ええ。少し。
……最近、セレスさんと一緒にいることが多いようですね」
ミスティアスは、途端に顔をしかめた。
「……別に、そんなつもりじゃ」
「そうですか? 魔力の交換が、ずいぶん自然でしたが」
カン、と小さな音を立てて、釘がずれる。
ミスティアスは思わず目を逸らした。
「……見てたのか」
「偶然ですよ。
……若いっていいですね」
「からかうなよ。
いくら好きでも、相手は王族だぞ。
ほいほい“好き”とか言えるかよ」
シェイは笑って、膝に肘をつき、陽光の中で少し眩しそうに目を細めた。
「おや、王族くらいには対抗できるくらいのものを、君には残しているはずですが?」
「……足りないのは?」
「覚悟、かな」
穏やかで、どこか遠い声だった。
ミスティアスは息を呑んで、手を止めた。
シェイはしばらく黙って、手のひらで木の欠片を弄びながら小さく笑う。
「でもね、僕は君、フィリアを選ぶと思っていました」
「……振られてんだよ、大分前に。傷抉るな」
「そうなんですか? ふふ……
ルーくんの娘に僕の息子が振られるなんて、因果応報ですかね」
「笑いごとじゃねぇよ」
「いいえ、笑いごとですよ。
君が本当に“誰かを選んだ”ってことなんですから」
ミスティアスは頬をかきながら、
少しだけ目を伏せた。
「……選んだ、か」
「ええ。
君の恋は、きっと世界を変えますよ」
そう言って、シェイは立ち上がる。
木漏れ日の中で、黒い髪がやわらかく揺れた。
その背中を見送りながら、
ミスティアスは胸の奥が、ほんの少し熱くなるのを感じていた。
sideユリカ
― 四月二十九日、ユリカの誕生日 ―
昼下がりの光がカーテン越しに部屋を満たしていた。
テーブルの上には、ひと束の花が置かれている。
淡い白と薄紫。
春の野に咲く、飾り気のない花ばかり。
「……まあ、どうしたの、これ」
ユリカが振り向くと、
シェイが少しだけ照れたように笑っていた。
「お誕生日おめでとうございます。
もう、贈り物らしいものは思いつかなくて……」
「そんなこと。これがいちばん嬉しいわ」
ユリカは花束を受け取り、そっと頬を寄せた。
香りが、春そのもののようにやさしく鼻をくすぐる。
「あなたの選ぶ花は、いつも優しいわね」
「あなたが、優しい人だからですよ」
一瞬、言葉が胸の奥に沁みた。
ユリカは小さく微笑んで、花瓶に水を満たす。
その背中を、シェイは静かに見つめていた。
◇
夜になった。
月が白く差し込み、部屋の灯が小さく揺れる。
ユリカは花束を枕元に置いたまま、寝支度を整えていた。
そのとき――
シェイが、少し迷うような声で口を開いた。
「……ユリカさん」
「なあに?」
「最後に、ひとつだけ、わがままを言わせてください」
彼の声は、風よりも静かで、少しだけ震えていた。
「……あなたを、抱きしめたい」
ユリカは目を伏せ、しばらく何も言わずに立っていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
花束をそっとベッドの脇に置き、彼の腕の中に身を預ける。
ふたりの呼吸が、重なる。
鼓動の音が、ひとつに溶けていく。
「……この温もりを、忘れたくないんです」
「ええ。私も」
言葉はそれだけだった。
見つめ合う。
彼のスカイブルーの瞳に映るユリカの表情はとても穏やかな微笑みを浮かべていた。
ゆっくりと重なる唇から、温かい体温が伝わってくる。
もう、何度も、数えきれないくらいキスを交わしてきたのに、まるで初めてするキスのように心が揺さぶられる。
愛しさと、この人を連れて行かないでという切実な願いが、混ざり合う。
互いの手のひらが、そっと、存在を確かめ合うように動く。
指先のぬくもりが、どちらのものか分からなくなっていった。
「ユリカさん」
呼ばれる名前の響きの中に、”愛している”が溢れていた。
愛しているという言葉を使ったら、これが最後になることを認めてしまうみたいで、二人ともその言葉を使わなかった。
ただ、名前の中に気持ちのすべてを込めるように、何度も名前を呼ぶ。
「……ユリカ」
熱のこもった、掠れるような彼の声が耳元で落とされる。
ぎゅっと彼の背中に腕を回し、強く抱きしめた。
「……シェイ」
隙間がないように、しっかりと抱きしめる腕からは、離れたくないという想いだけが溢れる。
ランプの灯りに照らされる、壁に映る二人の影が、そっと一つに重なった。
本当に、一つになってしまえたらいいのに。
愛している、の言葉を飲み込んで、ただただ彼の名前を吐息と共に吐き出す。
上がる息とともに、涙が一粒零れた。
優しく、目じりに口付けられ、涙ごと浚われる。
「……ユリカさん、僕、どうしようもないくらい、今、”生きています”」
優しい、笑みを浮かべて。
本当に愛しそうに彼女を見つめて、シェイが囁きを零した。
返事の代わりに、腕を彼の首に回して引き寄せ、唇を重ねた。
言えない言葉の代わりに、全身で愛してるを伝え合う。
(朝なんて、来なければいいのに)
鼓動を、温もりを、体に刻み付けるように。
決して忘れたくない。
――あなたが今、生きているこの奇跡を。
風が窓を揺らして、花束の香りがふたりを包んだ。
それは、春の終わりに訪れた、世界でいちばん静かな夜だった。
次の朝、
花はまだ咲いていた。
sideユリカ
六月の朝は、まるで嘘みたいに晴れていた。
昨日まで降り続いていた雨が嘘のように止み、澄みきった青が、窓の向こうに広がっている。
(どうして……こんな日に、)
ユリカは小さく笑った。
泣くことを選ばなかったのは、彼のためだった。
もう、彼の前では泣かないと決めていた。
窓際のベッドに横たわるシェイは、穏やかな寝息を立てている。
白いシーツに包まれた手が、まだ少しだけ温もりを残していた。
ミスティアスとリシェリアが両脇に座り、泣き腫らした目で父を見つめている。
フィリアもセレスも静かに祈りを捧げ、リリは窓を開け放って、新しい風を部屋に入れた。
やわらかな光が、カーテン越しに揺れる。
その光の中で、シェイがゆっくりとまぶたを開いた。
淡い微笑みが浮かぶ。
「……いい空だね」
「ええ、とても」
ユリカがそっと微笑み返す。
その声には、もう涙の気配がなかった。
「……ユリカさん」
「なあに?」
「僕ね、あなたに会えてよかった。
みんなに会えて、生まれてきて……本当によかった」
その言葉が風に溶けて、静かに消えた。
次の瞬間、彼の胸の上下が止まる。
ユリカは、微笑んだまま手を握りしめた。
「……おやすみなさい、シェイさん」
そして、ゆっくりと彼の唇にキスを落とす。
まだ彼の体温の残る、やさしくて悲しい最後のキスだった。
外の空は、驚くほど青かった。
雲ひとつない空を見上げながら、ユリカの頬を、風だけが優しく撫でていった。
静かな午後だった。
空は晴れているのに、どこか遠い色をしていた。
丘の上に掘られた浅い墓穴には、白い花がひとつ、ふたつ、風に落ちていく。
祈りの言葉は短く、誰の声もすぐに風にさらわれた。
ミスティアスが唇を噛み、リシェリアが泣きじゃくる。
フィリアは声を詰まらせて小さな手で姉の背をさすっていた。
ルアルクはただ、子どもたちを抱き寄せていた。
彼らが安心して思い切り泣けるように、何度も背を撫でる。
その手は震えているのに、なぜか彼自身は、涙は出てこない。
(大丈夫だ。大丈夫だから)
自分にそう言い聞かせるように。
けれど胸の奥では、何かが空っぽになっていく音がしていた。
風が止まり、あまりに静かだった。
ユリカはその沈黙の中で、立ち尽くしていた。
視界の中で、土がひとすくい、またひとすくいと落とされていく。
そのたびに、何かが削れていくようだった。
誰かが声をかけようとした瞬間、彼女の足が、ふいに力を失った。
「どうして……どうして行っちゃうの……!」
土の上に膝をつき、両手で顔を覆う。
押し殺していたものが、一気に溢れ出した。
もう誰のためでもなく、母でも妻でもなく、ただ一人の女として、心の底から泣き叫んだ。
「嘘つき……約束したのに……!
ずっと一緒にって言ったのに……!」
声が掠れて、空気を震わせる。
その叫びに、リシェリアもフィリアもまた泣き出した。
誰も止めようとはしなかった。
雨は降らなかった。だからこそ、誰の涙も隠れなかった。
ルアルクは子どもたちを強く抱きしめたまま、その光景を見つめていた。
悲しいのに、胸の奥が痛いのに、涙が出ない。
どこを探しても、泣くという感覚が見つからなかった。
(泣いてはいけない)
(僕が泣いたら、みんなが崩れる)
そう思って、ただ腕の力を強くする。
抱いた子どもたちの温もりだけが、現実だった。
ユリカはなおも地面を掴んでいた。
指先に冷たい土の感触が伝わる。
そこに“彼”がいないことを、身体で理解してしまう瞬間だった。
そんな彼女の肩を、後ろから包む腕があった。
リリだった。
「泣いていいのよ」
その声は低く、優しいのに、震えていた。
ユリカは顔を上げることもできず、ただその胸にすがりつく。
「やだよ……リリ、やだよ……!」
「いいの、いいの。今はそれでいいの。
泣けるうちは、ちゃんと生きてる証拠よ」
リリの指先がユリカの髪を撫でる。
昔、彼女が泣いていた子どもたちを慰めていたように。
風がふたたび吹いて、花びらが一枚、墓の上に落ちた。
ユリカの嗚咽が、丘の静けさに溶けていった。
リリはその肩を抱いたまま、
空を見上げて、小さく息を吐いた。
「……あの人、ちゃんと見てるわよ。
ほら、あんたがこんなに泣いてるから、困ってる顔してる」
ユリカはその言葉に、かすかに笑って、また泣いた。
リリの肩に額を預けながら、途切れ途切れに、名前を呼び続けた。
夕陽が傾き、丘の影が長く伸びていく。
子どもたちの泣き声も、ユリカの嗚咽も、やがて風に溶けた。
ルアルクは腕の中の温もりを確かめながら、それでも彼は、自分が泣けないことに、まだ気づいていなかった。
ただ、風が頬を撫でる感触だけが、現実だった。
sideリリ
ランプの光が、机の上の封筒を照らしていた。
リリは書類を指で押さえ、ペンを差し出す。
「ルー、離婚ね」
ルアルクが手を止めて、顔を上げる。
「……え?」
「いいから。ほら、さっさと書いて。
共犯関係は今日で終わり」
ルアルクは一瞬だけ彼女を見つめ、何も言わずにサインをした。
紙の上でペン先がかすれる音が、やけに大きく響く。
リリはその手を見ながら、心の中で静かに呟く。
(ほら、もうこの人はどこか壊れている。)
(これ以上、壊したくない。この人も、ユリカも。)
風がカーテンを揺らし、紙の端がわずかに震えた。
それが、始めた当初の想定よりもずっと長かった、共犯の終わりの合図のようだった。
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